丸谷才一 2006年 講談社文庫版
これは去年のいまごろ古本まつりで買ったとおもう、一年ちかく放っておいて最近読んだ。
単行本は2000年の刊行らしいが、タイトルのとおり、夏目漱石論である、三章から成っていて、
「忘れられない小説のために」 は、『坊つちやん』
「三四郎と東京と富士山」 は、『三四郎』
「あの有名な名前のない猫」 は、『吾輩は猫である』
をそれぞれとりあげている、どれも読んだことあるので知らない話ぢゃなくてよかった。
でも、『坊つちやん』は、フィールディングの『トム・ジョーンズ』の影響下に書かれたのではないか、とか言われると、そっちは読んでないので、はあ、そーゆーものか、と説を承るだけなんだけど。
>つまり『坊つちやん』はイギリス十八世紀文学のことを考へつづけるかたはらに想を構へ、筆を執つた小説であつた。(略)念のために言ひ添へて置くならば、一般に文学作品は単なる個人の才能によつて出来あがるものではなく、まして個人の体験のみによつて成るものでなく、伝統の力による所が大きい。しかもそれが自国の文学の伝統と限らないことは言ふまでもないでせう。(p.23)
というのを読んだりすると、文学における伝統の力って、これまでも何度か丸谷さんの持論として出てきたことあったなあって気がする。
坊つちやんが、「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの……」って罵り言葉を並べ立てるところは、日本文学の古来からの伝統で、枕草子をはじめとする「物尽くし」の技法だっていうんだけど。
海外文学にも列記とか列挙って呼んで、ちゃんとそういうレトリックはあったんだけど、十九世紀ころにはすっかり衰えてしまって、
>この原因もおそらく複合的なもので、(略)散文の発達と写実性の重視にともなつて位置を失つたせいもあるでせう。科学の影響を受けて、文学が真実の追求を主眼とするものとなり、祝祭的な性格が薄れたことも大きい。とにかく文学的趣味が大きく移り変つたせいで、エヌメラチオは往時のやうにかなり高い位置を占めるレトリック技法ではなくなつたのでした。(p.76)
ということらしいんだけど、二十世紀文学は十九世紀文学への反抗として、こういう伝統的なものを新しい色調でよみがえらせた、漱石もそういうモダニズム文学を書いたひとなんだって論を張ります。
>(略)こんなことを言ふと眉をひそめられるかもしれないが、漱石、特に初期の彼はモダニズムの小説家だつたし、とりわけその色調の強いのがあの都市小説『三四郎』であつた。一九二〇年代の末、横光利一や川端康成や伊藤整によつて日本のモダニズム小説がはじまつたと見るのは誤りなので、わが文学最初のモダニストは世紀初頭の漱石であつた。そして彼の栄光と悲劇のかなりの部分は、こんなふうに二十年も世にさきがけてゐたことにあると、わたしはかねがね思つてゐた。(p.119)
というように『三四郎』論のとこでも述べています、文学史とかそこでの位置づけとか、よう知らんからわからんけど、ふつうとは違った意見なんだそうで。
『三四郎』については、十九世紀なかばに「英国の状態小説」っていう文学が始まったそうなんだが、1910年の「英国の状態」小説の代表といえるフォースターの『ハワーズ・エンド』と比較して、
>(略)心のなかでじつと見くらべてゐると、『三四郎』には「日本の状態」小説とも呼ぶべき局面ないし性格があることに気がつくだらう。
>たとへば汽車のなかで、職工の妻の語る話を聞いて爺さんがする戦争批判と信心が大事だといふ説。同じく汽車のなかで髭の男が三四郎にする、西洋人は美しく、そして富士山しか自慢するもののない日本人はかはいさうだといふ説。日本は亡ぶといふ説。それらが彼らの立居振舞の描写をまじへて示されるとき、わたしたちはおのづから日本の全体を思ひ、その運命について考へることへと促される。(略)それをわたしは「日本の状態」小説への志と見るのだが、考へてみれば、彼がこんなふうに社会全体を展望しようといふ気持を見せたことは、これ以前にも以後にもなかつたのだ。その点で『三四郎』は例外的な作品であつた。(p.143-144)
というように論じています、ふーむ。
漱石がイギリス留学したころの、イギリスぢゃあ社会から小説が生まれ育つもんだっつーことについて、
>小説と社会との関係についてに日本人の認識は、今でもかなりその傾向があるが、戦前はもつと貧しいものだつた。一つにはロマンチックで個人主義的な文学観のせいで、小説はもつぱら個人の才能によつて書かれるとか、あるいはもつと極端に魂の叫びだとか、赤裸々な告白だとか思ひ込んでゐたし、それに加ふるに、もともと市民社会といふ概念が薄ぼんやりしてゐるから、市民社会のせいで小説が生れ、成長したといふ意識がなかつた。(略)さう言へばわたしは、これはもちろん戦後のことだが、イギリス小説について勉強をはじめたころ、「社会批評」(social criticism)が小説の大事な機能である、ただしこれはイデオロギー的政治批判のことではなく喜劇小説のことを意味する、とイギリスの批評家が淡々と書いてゐるのを読んで、ここまで言ひ切るのかと軽い衝撃を受けたことがあつた。(p.170)
というように書いてます。
小説ってのは、個人主義的な文学とか作者の自己表現とかってだけぢゃなくて、共同体の表現のようなことをするとか、文学はもっとカーニバル的なものであっていいのだとか、前にもなんかで読んだなと思ったんだけど、たぶん『ゴシップ的日本語論』でした。
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