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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

村上龍全エッセイ1982-1986

2015-09-09 19:02:10 | 読んだ本
村上龍 1991年 講談社文庫
ぢゃあ昨日のつづきということで、こちらは村上龍のエッセイ集。
エッセイとはいうものの、短いものだけぢゃなく、1982年に「写楽」という媒体で毎月連載してたらしい「コックサッカー・ブルース」なんて、文庫で90ページもある長いルポもある。
これは国内でSM撮影の現場に立ち会うだけぢゃなくて、ニューヨークまで行ってゲイとか乱交とかクスリとかがあふれてるクラブに入ってったりする。
そういうとこを見て回って、著者は、
>男達は疲れている。この取材を始めてから、多くの男達に会った。カメラマン、編集者、助手、モデルの手配師、縄師……みな一様に疲れている印象を受けた。(略)社会全体が疲れているのだ。それも、男性的部分、父性的部分が極度に披露している。それは、いいことでも悪いことでもなく、事実なのだ。(略)(p.75)
>女は違う。いきいきとしている。エネルギーが余っている。多勢のモデルに会ったが、暗い女は一人もいなかった。(略)(p.76)
という観察をしている。ふーむ、30年前からそうだったんだ。
>「男性の疲弊」の原因ははっきりしている。家畜化である。
>私たちは、生きのびるために、いつからか、家畜化の道を選んだのだ。(略)いいことでも悪いことでもない。事実なのだ。(p.77)
って結論を持ってるのが、ただ漠然と眺めた感想を言ってるだけぢゃないんで、たいしたものである。
1984年の「ロス・オリンピック」の章では、日本の水泳や陸上が弱くなったことについて、
>(略)昔の栄光とは、欧米のスイマーが楽しんで泳いでいた間隙を盗んで、ヒステリックな練習の末に勝ったものだから、比べようがないのである。(p.206)
と言って、次のような独自の日本論も披露している。
>日本は同じサイクルを歩んでいる。欧米からの新しいテクノロジー(イデオロギーを含む)の導入、日本的平準化によるノウハウの習得、ヒステリックな猛練習、つかの間の勝利、ミッドウェイでの決断力不足による致命的敗北、大玉砕、そしてまたテクノロジーの導入……こういうサイクルだ。(p.206)
著者のスポーツを観戦してのいろいろな感想はおもしろく、同じ1984年の「全仏オープンテニス」のとこでは、かの有名な一節(と思ってるのは私だけ?)、
>コナーズはアニマル、ボルグはマシン、と称される。と来ると、ここで、当然、アーティストが登場する。それが、ジョン・パトリック・マッケンロー・ジュニアである。(略)
>(略)当然後に続くのは、ロボットであるが、これがチェコスロヴァキアが生んだ怪物イワン・レンドルだ。(p.195)
ってやつが出てくる。
ちなみに、著者のテニス論は
>(略)テニスこそはおぞましく文化的なスポーツなのである。退屈しないために、貴族が考えたものなのだ。首狩り族の遊びから発生したスポーツとは違う。(略)原っぱや運動場での獲得形質が役に立たない。(略)
というものである。
もうひとつ、1984年のとこにある「水に遊ぶ 水に学ぶ」というのも95ページにわたる長編。「サムアップ」という媒体に84年4月号から翌年6月号まで掲載されてたらしい。
ここでハンターの斎藤令介氏と出会って、いっしょにカナダを旅したりする。なので、このなかには『愛と幻想のファシズム』で炸裂する、ハンターというか生態系というかの論理があちこちに現れる。
ズバズバ断言していく、いろんなフレーズが読んでて、きもちいい。
>だが私はとんでもない強運の持ち主なので最初にやった釣り、ハワイのトローリングで220ポンドのブラックマリンをあげた。(略)強運を得るコツは、絶対にあきらめないこと、それだけだ。(p.224)
とか、
>本当にいい思いを味わった人間は、もう一度それを得るために努力するのだ。生まれてから一度もいい思いをしたことがない、かわいそうな人間は、結局、「現実」と「記憶」のギャップにも気づかず、努力もせずに、つまらない一生を終えるのである。(p.228)
とか、
>例えば山を見るとする。大人はすぐに、その名前を知りたがる。山についての知識が情報だと考えているからだ。幼児は違う。知識などではなく、全知覚を山に集中する。その結果は明白である。山に関する深い情報を得るのは幼児の方だ。(略)知識が情報だと思っている人が多い。そんな人は絶対に出世しない。(p.235)
とか、
>(略)一攫千金の夢を持つ青年の顔はいつの時代にも明るいのだ。保障を与えられて毎日同じことを地道にやり続けなければならない青年の顔は、見るも無残に暗い。(p.237)
とか、
>(略)苦労が人間を磨くというのは大嘘だ。大成・出世した人だけが、そういう台詞を吐く。苦労だけの人間は、かわいそうな顔になって、みじめにさよならするだけなのである。(p.243)
とか、
>(略)遊んでばかりの奴は、後できっとだめになる、苦しくてもせっせとお勉強すれば後できっといいことがある、そういうことだが、これは嘘だ。これは資本主義の発想だ。私は社会主義者じゃないから、誤解を避けるために言うと、農耕民的発想なのだ。ものごとはもっとリアルだ。残酷だが、しようがない。だめな奴はアリになってもだめで、だめじゃないやつはキリギリスでも大丈夫というのが本当である。(p.261)
とか、
>そんなものは考えてもわからない。自分でやってみるしかない。何だって同じだ。実際にやった人間だけが快楽と情報を得ることができる。カタログや、他人の話から、快楽と情報を望むのは、奴隷への第一歩である。(p.286)
とか、枚挙にいとまがない。ちょっと若いサラリーマンへの苦言めいた匂いがするのは、そういう読者層をターゲットにもつ雑誌だったからぢゃなかろうか、そりゃしかたない、編集の意向もあるだろうさ。
どうでもいいけど、もうひとつ、このなかに私にえらく影響を与えた一節があったのを再発見した。
>もうひとつ、忘れられない言葉がある。アメリカのミステリー、たぶん「ペリー・メイスン」シリーズだったと思うが、タイトルもストーリーもまったく思い出せないが、その一節だけは憶えている。
>「自分が欲しいものがなにかわかっていない奴は、欲しいものを手に入れることができない」というものである。(p.279)
ってやつ、これは私も好きで、原典を見つけるべくメイスンのシリーズをぜんぶ読むはめになった。
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ジェイムス・ジョイスを読んだ猫

2015-09-08 17:43:36 | 読んだ本
高橋源一郎 1990年 講談社文庫版
この夏の平日の通勤電車のなかで読み返してみた。
オリジナルは1987年らしい。あとがきにいわく、
>ぼくがここ二年ほどの間に書いたものの中から、本に関するものはかなり、マンガやテレビやアカハナグマに関するものは少しだけ、選んで入れてあります
というエッセイ集。
そういうことなので、第一部には「旅日記(のようなもの)」なんて紀行文を思わせるタイトルがついてるけど、なかみは読んだ本のことばっかりだったりする。
クアラルンプールに出かけてったようだけど、成田空港のロビーでも、飛行機のなかでも、現地についてからはホテルのベッドでも海辺でも、とにかく本を読むのだ、みたいなことが並べてある。
だから、第二部の「ブックインタヴュー」は当然読書のことばっかりである。
と思いきや、テレビのこととか、そのなかでもコマーシャルで使われるコピーについても、けっこう割いている。そうだなあ、あのころコピーなるものが急に脚光を浴びるようになったような気がするしねえ。
そんななかでも、「中曽根康弘句集」をとりあげた一章があるんだけど、私にとっては、あーこれこの本に入ってたんだっけーと、長く忘れてたのを思い出させられたもの。
昭和六十年に首相だったときに詠んだ句「言うべしと ボタン押す指汗ばめり」についての解説がおもしろくて。
>我が家で来客がある度にこの句を読ませたところ、ひとりのこらず意味をとりちがえた。クイズ番組の解答者が詠んだ句だ、というのである。どいつもこいつも風流心に欠けた奴ばかりだ。これはもちろん、ボンの先進国首脳会議(サミット)に出席した作者が、発言するためにボタンを押そうとしたところ、レーガンに「ヤス、このボタンの中の一つは核発射ボタンだぜ」と耳うちされた時の句である。季語は「ボタン」、季節は「世界の終わり」。
「A子ちゃんの小説論」という文庫のわずか3ページの章もおもしろい。
>A子ちゃんは、いま流行りの女子大生です。(略)何とその上に、小説を書き賞を獲りベスト・セラーになってしまったのです。
で始まるこのエッセイでは、作家である「私」がA子ちゃんに議論を挑むんだけど、A子ちゃんの発言がおもしろい。
>(略)読者のことなんか全然考えてないのは、おじさんの方よ。(略)作家は誰でも、自分の中に読者をもちながら小説を書くでしょ。(略)まあ、こういっても、おじさんには『現実』に本を買ってくれる読者しか想像できないでしょ。作家はね、自分が想像しうる読者の読める作品しか書けないのよ
なんていうA子ちゃんなんだけど、実は本名ウンベルト・エーコさんのことだっていうオチがついてるが。
あと、「村上龍『だいじょうぶマイ・フレンド』を読む」では、
>『だいじょうぶマイ・フレンド』の解説を書くことになったので、久々に村上龍の作品を読みかえすことにした。(略)どうにも止まらなくなって、(略)この「村上龍再読運動」には、ぼくだけでなく妻も参加してしまったのでおよそ三日の間、我が家の家事は停止してしまったのである。
で始まって、村上龍の解説をしてくれてるのが、最近読み返してる私にとってもおもしろい。私は『だいじょうぶマイ・フレンド』は読んだことないけど。
著者は、
>現代文学のアンソロジーを編むとして、一つの作品じゃなく全作品を選びたい作家がいるとしたらやっぱり村上龍だけのような気がする。
という高評価である。
第三部は、「'60年代のおもちゃ箱」ってタイトルで、ウォーホルとかカポーティとかストーンズとかいろいろ書かれてる。
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三度目でようやくまともに乗れる

2015-09-07 18:36:31 | 馬が好き
乗馬にいく。
雨がときどき降るけど、暑くないから、まあいいや。

きょうの馬は、リッヒーライアン。過去二回乗ったけど、なんか全然動かせなかったと思う。動いたかと思うとバトルになったような記憶が。
先週のメイショウダイクンにヒントをもらったんだけど、なんか私がうまく乗れない馬って、私が安定してないからダメってケースが多いと思う。
よって、今日のテーマは安定、安定ってのはジーッとするんぢゃなくて、身体は重心を一致させるべく動いてって、拳を自由にすることを指す。
それはそうと、どうでもいいけど、芦毛のリッヒーライアン、すごい毛が抜けるな、短い白い毛。
馬が身体ブルブルって震わすだけで、あたりに飛ぶよ、馬装してるだけで、あっという間に私のキュロットは毛だらけ。これ洗濯する前に、カーペット掃除するコロコロで取んなきゃ。
(ほんとは馬体にもコロコロをダイレクトにやってみたいんだが。)

馬場に入ったら手綱伸ばしたまま、アブミはかないで、常歩。
ポンと蹴って、前にクンと出たらホメる、無視されたらソーッとムチを脚の後ろに近づける。そんなことやってると、ようやくとりあえずこっちの意図がわかってくれてるようにみえてくる。
しかし、馬上体操してグラグラしてたら、ときどき止まろうとする。とても敏感、ジャマすると動いてくれない、今日のテーマは安定。
さて人馬もそろったようなので、部班の開始。自然にグルグルまわってたら、二番手に位置することができた、気楽なポジション。
速歩スタート、軽速歩。あ、動く! なんか以前に乗ったときに比べて、軽快な気がする。手を変に使って馬のジャマしないようにする、遅れないように前に前に乗ってくつもりの軽速歩の立ち方する。
長からず短からずの手綱にしようと心掛ける、なんかリズムいいぞ、今日。アタマ振られたり、前のほうにハミ引っ張ってたりしない。脚に反応したらホメる、動いてるかぎりはなるべく余計なこと何もしないようにする。
隅角で内向けてとか意識してると、すぐ先頭の馬に遅れをとる。二番手が距離守んないと後ろはもっと困るだろうから、とにかく距離保つようにする。
ときどき手前替え、ときどき輪乗り。軽速歩と正反撞の移行を繰り返す、リズム変えないように、ってんだけど、正反撞のときスピードが落ちるのは人情というものです。

んぢゃ、駈歩。わりとスッと出る、でもまだ勢いが物足りないので、脚つかって何歩か前に出すことに専念する。
そのとき手を引っ張ると前に出たいのにジャマされて馬がイラっとするだろうから、そこのコンタクトに気をつける。同時に人間が遅れると馬動きにくいから、そこんとこも気をつける。うん、いい駈歩ぢゃない?
駈歩してるうちに、だんだん強くなっちゃわなかったっけ、この馬?と、ちょっと心配する。
強くなるように感じるのは、私のはたらきかけがわるいからでもあるんで、拳つかってみて馬の口がこっち来たの感じたら、すぐかえすように意識する。なんもしないで軽快な駈歩を続けてくれるんで、ホメる。
輪乗りの手前替わるよ、右手前。あ、なんかこっちのほうが内方姿勢ちょっとやりにくそう。顔が外向いて、肩から内に入ってきちゃいそうなので、ジワジワ直そうとするんだけど、あまりうまくいかない。
輪乗りから蹄跡に出て駈歩、長蹄跡で歩度を伸ばせ、って、いつのまにか駈歩が左手前になっちゃってるぞ。速歩にして、駈歩出し直す。せっかく出し直したのに、もう一回逆の手前になっちゃったんで、またやり直し。馬あきらかに左手前のほうが得意そう。

部班、おしまい。二鞍目のひとがいないんで、まだもうすこし各個で乗ってていいというので、しばし休憩のあと、輪乗りで速歩する。
歩度を伸ばすとき軽速歩、正反撞にして詰める、そんなのの繰りかえしする。なんか動きがとてもいいような気がする。
三度目にして、やっとこの馬にまともに乗れたと思う。伸ばしたときのコンタクトが、フワーっとなっちゃってるのは、直せない私のヘタなとこだけど。
駈歩まではやらなかったけど、そこそこうまく動かせたと思うので、大満足。

手入れしてると、また毛が抜けてキリがなくて困っちゃうけど、まあ適当なとこで終わりにして、リンゴやる。
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日本文学の大地

2015-09-03 21:37:17 | 中沢新一
中沢新一 2015年2月 角川学芸出版
書店に積まれてたのを買ったのは、3月だったかな。買って安心してしまってしばらく置いといたんで、読んだのはもう二,三か月あとだったか。
収められているものの大部分が、書かれたのは1995年から97年だという、月イチの連載。
なぜか書籍化されずに原稿が眠っていたそうだが、こういうものの発掘はうれしいかぎり。
(ちなみに連載してたのは小学館、今回の出版は角川。なぜ? いずれにしてもKADOKAWA、グッジョブ!)
内容は、日本の古典の解説なんだが、編集者のリクエストが、「いままでの国文学の先生がたのぜったいに書かないような斬新な解説」でということだったらしい。言う方も言うほうだが、応えてちゃんと書くほうもさすがだ。
古典文学を生み出してきた、日本人の心的な空間の構造をあきらかにしようと試みたものだというのだが、そんな難しいコンセプトの意味わかろうとしなくても、読んでみりゃそれでおもしろい。
はじめて読んだときは、文学の方法とかそういうことよりも、
>(略)奈良朝時代以来の日本の国家というものが、もともと奇妙な二重構造として(略)国家というものが生まれる以前からあった、部族社会の仕組みが、新時代に見事に適応しながら、相変わらずの生命をまっというしていたのである。
>(略)大地に根ざした部族社会的なものと、天の超越にささえられた律令の国家とは、あんまりうまくかみ合っていない。(略)意識の底では「家」思考にしばられていながら、理想は超越の国家という、今も昔も変わらぬ分裂である。(p162「大鏡」)
とか、
>(略)『日本書紀』の作者たちがとりくまなければならなかったのは、大王ないし天皇を中心にしてつくられた政治体制を、いかにして普遍性をそなえた国家として、解釈していったらよいのか、という問題だったのだ。(p190「日本書紀」)
>(略)小国家の間に演じられる、国際的な政治ゲームに参画することによって、日本はむしろ自分が、そういう国際的なゲームに参加資格を持った、立派な国家であることを、内外に確認しようとしていたように、思えるのだ。(p192「日本書紀」)
とかって、現在にもつながる、というか全然変わってない、解決されてない、政治的なことの指摘が印象に残った。
コンテンツは以下のとおり。とりあげた古典と、実にビシッと本質を撃ち抜くかのような著者の文章のタイトル。
1源氏物語 権力のポルノグラフィー
2万葉集 I背中の後ろを流れる霊/II越境するポイエーシス/IIIある「終わり」をめぐる歌
3新古今和歌集 幽玄の神秘主義
4歎異抄 大地に知を棄てる
5東海道中膝栗毛 驚異的な軽薄
6松尾芭蕉 人間の底を踏み抜く
7栄花物語 女が歴史を書くということ
8日本霊異記 国家を超えるカルマの法則
9蜻蛉日記 リビドーの裏地に描かれた女性文学
10雨月物語 「婬」の自然思想
11太平記 Iイデオロギーとテクノロジーのカオス/IIカタストロフィの予兆
12井原西鶴 I恋する換喩/II恋愛の純粋構造/III崩れゆく可能世界
13大鏡 道長、擬制の成功
14宇治拾遺物語 打ち棄てられ、地を這う「餓鬼」と「聖」
15夜の寝覚 精神分析としての物語
16日本書紀 老獪なる国家建設の書
17近松門左衛門 人形、悲劇の化身
18禅竹 中世的思考の花
19謡曲江口 菩薩としての遊女

…実に美しい装丁の本。
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魍魎の女王

2015-09-02 20:00:27 | 読んだ本
夢枕獏 昭和62年 祥伝社ノン・ノベル・上下巻
サイコダイバー・シリーズの第八弾と第九弾、持ってるのは上巻が昭和63年の14刷なんだけど、下巻が平成5年の17刷、どうなってんだ、俺いつ読んだんだろう、片っぽだけが古本というわけではなさそうだし、同じ書店のカバーかかってるから同時に買ったっぽいんだけど。
最初に読んだのがいつかは忘れてるけど、順番に押し入れのなかから探し出してきては読み返してみた、このシリーズ。
本作では、最初のシリーズで主役級だった、文成さんという大男が復帰します、ほとんど浮浪者状態だったみたいだけど。
で、何作目かで主役だった毒島さんが、冴子さんという美女から、鬼奈村典子さんという女性へのサイコダイビングを依頼されます。が、その肝心のターゲットは逃走。
文成は、誰から逃げてんのか何で逃げてんのかわかんない典子と、バッタリ会ったところで、こいつを助けて守ってやろうと思い立ちます。
冴子が手に入れたい典子の秘密というのは、魏志倭人伝に卑弥呼の能力として描写のある“鬼道”だっていうんだけど、それはなんだかわかんない。
で、新たな悪役とか黒幕とか出てきて登場人物は増えてくるし、バトルロイヤルになることが予想されるんだけど、それはまた今後に続く、と。
毒島は、自分のカネを持ち逃げしたホステスを追ってるうちに、岳っていう180キロはあろうかという男に会うんだが、これがたしか金剛拳とかいうのを現代に伝えてる一族の末裔。
下巻の最後には、前の巻の主人公であった無痛症の美空もちょろっと顔を出す。
それと、飛狗法っていう、これまた空海の密教的殺人方法のひとつとされているもの、それを現に所持しているらしい老僧も出てくる。
そうそう、それと最初のシリーズで空海の即身仏に潜る仕事をした、九門さんというサイコダイバーも再登場する。
というわけで、ここまでの何冊かは、これらのひとたちが一堂に会する新たな話の前フリでしたあ、というところで終わる。なので、この2冊のサブタイトルは「新・魔獣狩り序曲」となっている。
私が持っているこのシリーズは、ここまで。
すごいひさしぶりに読み返してみたけど、最初に読んだときと同様、この先に進む気はあまりしてこない、いまんとこ。
だいたい飽きるポイントは同じってことで、あまり成長というか変化はみられない、私という人間、って再確認したようなものだ。
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