中央区立某中学校 裁判員裁判制度を学ぶ公開授業で白熱講義『刑事弁護のロマンを語る』
A先生は、弁護士で、刑事弁護の第一人者。
Q君らは、中央区立某中学校の生徒のみなさん。
********************************************
Q君:刑事弁護って、難しいと聞きますが、どのような点が難しいのですか?
A先生:ひとことで言うと、「刑事弁護に正解は、ない。」ということです。
教科書や、マニュアル本があって、条件を当てはめていくと、その犯行の罪責が自動的に出るなどということは、ないのです。
Q君:犯罪事件で、何が起きたか、真実は、だれも見つけることができないから、なのですか?
A先生:その通りです。
例えば、現行犯だから、その人が犯人だと真実が言えそうですよね。
Q君:犯行の現場を押さえているのだから、そうではないでしょうか?
A先生:いいえ。そうではありません。
現行犯であっても、その犯人を捕らえた人の思い違いが入っていることがありえます。
例えば、その被疑者が、その犯行を行っている場面が、ビデオに捉えられていたら、そのビデオが真実を映しているといえそうですよね。
Q君:ビデオは、間違いなく、真実をとらえていませんか?
A先生:ビデオが間違いなく、被疑者が犯行をしている場面をとらえていたとしても、ビデオには当然に限界があります。その被疑者の心の内面までは映していません。
犯人の主観的部分が、刑法では大いに意味を持ちます。
殺意の有無という犯人の主観が、殺人罪の成立に重要な位置を占めます。
しかし、ビデオは、犯人の主観まで、映しえません。
その被疑者が、絶対にうそを言っていないとして、自白したとしましょう。どうですか?
Q君:その被疑者がやったというのだから、やったということが真実でしょう?
A先生:いいえ。うそを言ってはいないと言うその被疑者自身が、思い違いをしていることもあります。
Q君:現行犯、ビデオの証拠、被疑者の自白等をもってしても、真実は発見できないことがわかりました。
A先生:それら証拠には、限界があるということです。
犯行現場の状況を、時間を巻き戻して、再生することは、不可能なのであって、真実は、わかりません。
Q君:では、どうやって、真実を発見すればよいのですか?
A先生:日本の裁判所では、「検察側に、その被疑者が犯罪をやったとした場合の仮説ストーリーを立てさせ、弁護人がその仮説ストーリーに対して徹底的に検察の揚げ足をとり、それでも仮説ストーリーが耐えうるのであれば、検察の仮説ストーリーを真実と考えてよかろうとするシステム」を採用しています。
ただし、この日本の裁判所のシステムが機能するには、最低3つの条件が整うことが必要です。
Q君:どんな条件が整うことが必要なのですか?
A先生:ひとつは、証拠を検察側と弁護側で公平に共有できるということです。
そしてこのことは、特に、検察側に特に言えることです。
弁護側が収集できる力には、国の力で収集する検察に比べ限界があり、圧倒的な差が生じています。
そして往々にして、 検察側にとって、自らの仮説ストーリーに都合が悪い証拠は敢えて出さないと思うのが、人の嵯峨というものです。
二つ目は、弁護人側のことですが、弁護人側の資質やモチベーション。
こんな事件はどうしようもないと思いあきらめてしまう弁護人、頭を柔軟にして証拠と向き合うことができない弁護人は、検察側との真向勝負ができず、検察側の仮説ストリーに流される結果となりがちです。
そして、最後の条件は、「刑事裁判のルール」が守られて裁判されるという裁判所側のことです。
Q君:裁判所側のこととなると、裁判員裁判制度が始まり、私達も裁判員になる可能性があり、「刑事裁判のルール」を理解しておく必要があるということですね?
A先生:そういうことです。
「証明責任」と「証明の程度」に関連する次の三つが、大事な「刑事裁判のルール」です。
一つは、「証拠」に基づいて、認定をするということです。
裁判員自ら、ネットを検索するなどして、その情報をもとに判断しては、なりません。
二つ目は、犯人であるという「立証責任」は、検察側にあります。
その検察側の仮説ストーリーが崩れれば、その被疑者は、どんなに疑わしくとも無罪です。
三つ目は、不確かな状態では、絶対にその被疑者を犯人にしてはいけないということです。
「証明の程度」すなわち、「間違いない」と言えないと犯人にはできません。
Q君:三つ目のルールの下では、もしかして、真犯人を逃がしてしまうことに繋がりませんか?
A先生:「真犯人を逃がさないこと」と、「冤罪をつくらないこと」とどちらかを私達は選択せねばなりません。
「真犯人を逃がさないこと」をやり、同時に「冤罪をつくらないこと」をやることは、不可能に等しいことです。
そこで、私達日本の裁判所は、「冤罪をつくらないこと」を選択したのです。
言い過ぎかもしれませんが、「たとえ10人の真犯罪人を逃がしたとしても、1人の冤罪を生まないこと」を目指したのです。
Q君:日本の刑事裁判での、真実の発見する構造がわかりました。
日々、刑事弁護する中で、弁護士の先生方は、どのようなことで、ご苦労されているのでしょうか?
A先生:苦悩と言ってよいほどの、「迷い」の苦労があると言います。
Q君:どのような点ででしょうか?
A先生:自分がなす判断への迷いです。
争う(否認する)べきか、争わない(情状を求める)べきか。
しゃべる(供述する)べきか、しゃべらない(黙秘)べきか。
そして、どうやって、勝つべきか。
ひとの人生がかかった依頼にこたえるのですから、迷いは大きいです。
プロがプロたるゆえんは、自らが判断し、その判断の責任を自らが負うところにあるのです。
以上が、刑事弁護の現場のお話です。
何か、質問はありませんか?
R君:依頼人の被疑者にウソをつかれることはありませんか?
A先生:何度も犯罪を繰り返すひとがいるのも事実です。やりがいを見出しがたい事件もあるでしょう。
依頼人にウソをつかれることもあるでしょう。依頼者にとっては、必死であり、ウソをつかれるそのことに腹を立てていてばかりいては、ことはすすみません。
ウソをつかれるのは、そこまでの弁護人であるということです。
依頼者の言っていることを、論理立てていくと、ウソの場合は、矛盾が生じます。その矛盾が、法廷の場で出てもよいのかと依頼者に聞き直し、方向性を模索していきます。
S君:PC遠隔操作事件では、依頼者が、無実を争っていたが、実は、犯人であったということが後に判明しました。
A先生:「犯人じゃない。」が、依頼者に覆されて「犯人です。」は、まだ、よいです。
「犯人じゃない」を言い続けられ、しかし、犯罪が確定していくことが、実は、つらい話です。
繰り返しますが、冤罪は、絶対に生んではなりません。
無実であるにもかかわらず、刑を課せられたひとが、その周囲のひとも含め、とても不幸です。
そして、なによりも当該犯罪の被害者のご遺族にとっても、何十年とたってから再審で冤罪であったして判決が覆るとなると、その時に、あらためて、真犯人を探そうとしても、犯罪は迷宮入りしてしまいます。ご遺族の怒りのやり場がなくなってしまいます。筆舌し難い不幸が生じます。
やりがいと責任は、正比例します。
刑事弁護の責任は、並大抵でない大きなものですが、その分やりがいも大きいものです。
正解のない事件について、孤立無援の依頼者のために、国に対しても挑戦していくのが刑事弁護であり、なにものにも代えがたいやりがいのある職です。
皆様も、誰か、法律学を勉強して、弁護士そして、検察、裁判官を目指して下さい。
本日は、ご清聴、そして活発な質疑を、ありがとうございました。
Q君ら:ありがとうございました。
以上
A先生は、弁護士で、刑事弁護の第一人者。
Q君らは、中央区立某中学校の生徒のみなさん。
********************************************
Q君:刑事弁護って、難しいと聞きますが、どのような点が難しいのですか?
A先生:ひとことで言うと、「刑事弁護に正解は、ない。」ということです。
教科書や、マニュアル本があって、条件を当てはめていくと、その犯行の罪責が自動的に出るなどということは、ないのです。
Q君:犯罪事件で、何が起きたか、真実は、だれも見つけることができないから、なのですか?
A先生:その通りです。
例えば、現行犯だから、その人が犯人だと真実が言えそうですよね。
Q君:犯行の現場を押さえているのだから、そうではないでしょうか?
A先生:いいえ。そうではありません。
現行犯であっても、その犯人を捕らえた人の思い違いが入っていることがありえます。
例えば、その被疑者が、その犯行を行っている場面が、ビデオに捉えられていたら、そのビデオが真実を映しているといえそうですよね。
Q君:ビデオは、間違いなく、真実をとらえていませんか?
A先生:ビデオが間違いなく、被疑者が犯行をしている場面をとらえていたとしても、ビデオには当然に限界があります。その被疑者の心の内面までは映していません。
犯人の主観的部分が、刑法では大いに意味を持ちます。
殺意の有無という犯人の主観が、殺人罪の成立に重要な位置を占めます。
しかし、ビデオは、犯人の主観まで、映しえません。
その被疑者が、絶対にうそを言っていないとして、自白したとしましょう。どうですか?
Q君:その被疑者がやったというのだから、やったということが真実でしょう?
A先生:いいえ。うそを言ってはいないと言うその被疑者自身が、思い違いをしていることもあります。
Q君:現行犯、ビデオの証拠、被疑者の自白等をもってしても、真実は発見できないことがわかりました。
A先生:それら証拠には、限界があるということです。
犯行現場の状況を、時間を巻き戻して、再生することは、不可能なのであって、真実は、わかりません。
Q君:では、どうやって、真実を発見すればよいのですか?
A先生:日本の裁判所では、「検察側に、その被疑者が犯罪をやったとした場合の仮説ストーリーを立てさせ、弁護人がその仮説ストーリーに対して徹底的に検察の揚げ足をとり、それでも仮説ストーリーが耐えうるのであれば、検察の仮説ストーリーを真実と考えてよかろうとするシステム」を採用しています。
ただし、この日本の裁判所のシステムが機能するには、最低3つの条件が整うことが必要です。
Q君:どんな条件が整うことが必要なのですか?
A先生:ひとつは、証拠を検察側と弁護側で公平に共有できるということです。
そしてこのことは、特に、検察側に特に言えることです。
弁護側が収集できる力には、国の力で収集する検察に比べ限界があり、圧倒的な差が生じています。
そして往々にして、 検察側にとって、自らの仮説ストーリーに都合が悪い証拠は敢えて出さないと思うのが、人の嵯峨というものです。
二つ目は、弁護人側のことですが、弁護人側の資質やモチベーション。
こんな事件はどうしようもないと思いあきらめてしまう弁護人、頭を柔軟にして証拠と向き合うことができない弁護人は、検察側との真向勝負ができず、検察側の仮説ストリーに流される結果となりがちです。
そして、最後の条件は、「刑事裁判のルール」が守られて裁判されるという裁判所側のことです。
Q君:裁判所側のこととなると、裁判員裁判制度が始まり、私達も裁判員になる可能性があり、「刑事裁判のルール」を理解しておく必要があるということですね?
A先生:そういうことです。
「証明責任」と「証明の程度」に関連する次の三つが、大事な「刑事裁判のルール」です。
一つは、「証拠」に基づいて、認定をするということです。
裁判員自ら、ネットを検索するなどして、その情報をもとに判断しては、なりません。
二つ目は、犯人であるという「立証責任」は、検察側にあります。
その検察側の仮説ストーリーが崩れれば、その被疑者は、どんなに疑わしくとも無罪です。
三つ目は、不確かな状態では、絶対にその被疑者を犯人にしてはいけないということです。
「証明の程度」すなわち、「間違いない」と言えないと犯人にはできません。
Q君:三つ目のルールの下では、もしかして、真犯人を逃がしてしまうことに繋がりませんか?
A先生:「真犯人を逃がさないこと」と、「冤罪をつくらないこと」とどちらかを私達は選択せねばなりません。
「真犯人を逃がさないこと」をやり、同時に「冤罪をつくらないこと」をやることは、不可能に等しいことです。
そこで、私達日本の裁判所は、「冤罪をつくらないこと」を選択したのです。
言い過ぎかもしれませんが、「たとえ10人の真犯罪人を逃がしたとしても、1人の冤罪を生まないこと」を目指したのです。
Q君:日本の刑事裁判での、真実の発見する構造がわかりました。
日々、刑事弁護する中で、弁護士の先生方は、どのようなことで、ご苦労されているのでしょうか?
A先生:苦悩と言ってよいほどの、「迷い」の苦労があると言います。
Q君:どのような点ででしょうか?
A先生:自分がなす判断への迷いです。
争う(否認する)べきか、争わない(情状を求める)べきか。
しゃべる(供述する)べきか、しゃべらない(黙秘)べきか。
そして、どうやって、勝つべきか。
ひとの人生がかかった依頼にこたえるのですから、迷いは大きいです。
プロがプロたるゆえんは、自らが判断し、その判断の責任を自らが負うところにあるのです。
以上が、刑事弁護の現場のお話です。
何か、質問はありませんか?
R君:依頼人の被疑者にウソをつかれることはありませんか?
A先生:何度も犯罪を繰り返すひとがいるのも事実です。やりがいを見出しがたい事件もあるでしょう。
依頼人にウソをつかれることもあるでしょう。依頼者にとっては、必死であり、ウソをつかれるそのことに腹を立てていてばかりいては、ことはすすみません。
ウソをつかれるのは、そこまでの弁護人であるということです。
依頼者の言っていることを、論理立てていくと、ウソの場合は、矛盾が生じます。その矛盾が、法廷の場で出てもよいのかと依頼者に聞き直し、方向性を模索していきます。
S君:PC遠隔操作事件では、依頼者が、無実を争っていたが、実は、犯人であったということが後に判明しました。
A先生:「犯人じゃない。」が、依頼者に覆されて「犯人です。」は、まだ、よいです。
「犯人じゃない」を言い続けられ、しかし、犯罪が確定していくことが、実は、つらい話です。
繰り返しますが、冤罪は、絶対に生んではなりません。
無実であるにもかかわらず、刑を課せられたひとが、その周囲のひとも含め、とても不幸です。
そして、なによりも当該犯罪の被害者のご遺族にとっても、何十年とたってから再審で冤罪であったして判決が覆るとなると、その時に、あらためて、真犯人を探そうとしても、犯罪は迷宮入りしてしまいます。ご遺族の怒りのやり場がなくなってしまいます。筆舌し難い不幸が生じます。
やりがいと責任は、正比例します。
刑事弁護の責任は、並大抵でない大きなものですが、その分やりがいも大きいものです。
正解のない事件について、孤立無援の依頼者のために、国に対しても挑戦していくのが刑事弁護であり、なにものにも代えがたいやりがいのある職です。
皆様も、誰か、法律学を勉強して、弁護士そして、検察、裁判官を目指して下さい。
本日は、ご清聴、そして活発な質疑を、ありがとうございました。
Q君ら:ありがとうございました。
以上