公共の福祉、それに関わる説の変遷と比較衡量論をQ君とA先生のやりとりで見ていきます。
人権と公共の福祉
Q君 人権がすべて許されるわけではなく、制約される場合があります。
どのような場合ですか?
A先生 人権の限界の問題です。
人権が制約される局面として、3つの場合が想定されます。
1)権利行使が他者に害を与える場合。
2)権利行使が他者の正当な権利ないしは利益と衝突する場合。
3)権利行使が社会全体の利益にとってマイナスになる場合。
Q君 それぞれの場合を説明してください。
A先生
1)権利行使が他者に害を与える場合。
政治団体の街宣車がフルボリュームで、音楽を流すことは、彼らの表現の自由の行使ではありますが、市街地の平穏を乱し、市民に不快感を与えていることから、他者に害を与えています。
人権は、まず、他者に迷惑をかけてはならない、という制約があります。
2)権利行使が他者の正当な権利ないしは利益と衝突する場合。
マスコミが、有名人のプライバシーや名誉を傷つける報道を行う場合は、マスコミの表現の自由(報道の自由)と有名人のプライバシーが衝突しています。
表現の自由もプライバシーもともに、極めて重要な人権です。
3)権利行使が社会全体の利益にとってマイナスになる場合。
空港や高速道路を建設する際には、その用地を買収しなければならないところ、地権者が用地買収に協力してくれない場合は、建設が遅れ、社会全体に大きな不利益を与える場合があります。
Q君 憲法の条文の中にも、公共の福祉による人権の制限がついている条文がありますね。
A先生
12条・13条・22条・29条です。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
Q君 公共の福祉による人権の制約で、「一元的外在的制約説」というものがありますが、どういう説ですか?
A先生
人権に内在する制約ではなく、公共の福祉という、「社会全体の利益や要請」を理由にして人権の制約を正当化する説です。
いわば、人権を制約する側の公権力が、国民に有無を言わせずに、公共の福祉を人権制約の「ジョーカー(切り札)」として用いることを可能にする説であります。
切り札としての人権の逆であると考えるとわかりやすいです。
この考え方をとると、容易に人権制約が正当化される恐れがあります。
ゆえに、「ひいては、明治憲法における「法律の留保」のついた人権保障と同じことになってしまわないか」とも考えられます。
すなわち、法律の留保は、法律に根拠がある限り人権をかなりの程度、制約することができますが、この一元的外在的制約説でも、公共の福祉という言葉を根拠にすれば、人権を制約することができることを意味します。
Q君 次に、「内在・外在二元的制約説」とは何ですか。
A先生
第一に、12・13条は訓示的規定で裁判規範にならないとします。
第二に、22・29条と社会権は公共の福祉による制限(外在的制約)を受けると考えます。
そして、第三に、上記以外の人権は、内在的制約のみを受けるとする説です。
人権を外在的制約を受けるものと、内在的制約を受けるものに、二元的に考えます。
Q君
では、「一元的内在的制約説」とは何ですか。
A先生
公共の福祉とは、人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると考える説です。
公共の福祉は、すべての人権に内在すると考えます。
この考え方によると、
自由権を各人に公平に保障するために人権制約を根拠づけるときは、必要最小限の規制を認めます。
社会権を保障するために、自由権を規制するときは、必要な限度の規制を認めます。
比較衡量論
Q君 比較衡量論は、公共の福祉を考える場合にどのように用いるのですか?
A先生
比較衡量論は、人権相互の矛盾衝突の調節という公共の福祉原理を具体化し、人権の限界を明確にするために存在します。
Q君
具体的には?
A先生
A「それ(ある自由)を制限されることによって得られる利益」とB「それを制限しない場合に維持される利益」を比較考量するということです。
博多駅事件の場合について説明します。
判決が認定した利益で考えると、
Aの「制限されることによって得られる利益」は、公正な刑事裁判の実現であります。
Bのそれを制限しない場合に維持される利益は、「報道の自由であり、ひいては、「将来の取材の自由が妨げられるおそれ」であります。
*判例は、報道の自由そのもの妨げられるとは述べていない。
Q君
比較衡量論の問題点は、どういうところにありますか?
A先生
比較の基準が明確ではなく、また、何を利益として拾い上げるかが、裁判所の裁量にゆだねられている点にあります。
たとえば、前述の博多駅事件で、Bの利益を判例は、将来の取材活動が妨げられるおそれとしているが、報道の自由そのものとか、取材活動ができなくなるという不利益というように重くとることもできるはずであるが、上述のとおり、狭くとっているわけです。
さらに、言えば、国の利益が重く認定される可能性があります。
そうすると、結局は、法律の留保論=一元的外在制約説と、実質的に変わらない論理構成になってしまうわけです。
以上
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