岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「すべり台社会」

2008-12-16 22:00:57 | 国民と国会と政治

この言葉は、反貧困ネットワークの湯浅誠さんの造語だそうです。

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠著 岩波新書については、
社会福祉学何でもありさんのブログに詳しく書かれています。
カテゴリー「福祉の背景・基盤」をお読みください。たとえば、この記事です。
私は不勉強にもこの本を未だ読んでいません。
後手後手ですね。

ところで、『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』は、このたびの第8回大佛次郎論壇賞を
受賞しました。
反貧困が論壇? 何かおかしな感じですね。
これはご本人のコメントにもあります。
「大変光栄ですが、私は論壇の人間ではありません.....」
ところで、選考委員のことばも?でした。

まず貧困についての理解がない。
もちろん、実感もないはずです。
職を失う恐怖感も経験ないでしょう。
わたしは、テレビの番組や新聞の記事を読んでいても、自らは安全(定職、住居がある)環境に
居ながら取材をしている。
その取材の限界を感じてしまいます。
これは戦場の取材と近いものがあります。

先ごろ、賀川豊彦の神戸の貧民窟を舞台にした「死線を越えて」を読みました。
賀川は、「どん底」の生活の中に入り込むのですが、すごいことですが
やはりインテリの眼で住民をみています。

という私自身、失職や非正規労働を経験していますが、「すべり台」を滑ってはいません。
私は失職や非正規労働をしても当面は住まいや食費は賄うことができる境遇でした。
ですから、私は「すべり台」は未経験なのです。
これはやはり決定的なことなのです。
このことは、高齢者支援についても当てはまります。

老いや病の厳しさや苦しさを知らないものが支援をするという難しさがあります。
もちろん、そのこと自体が問題である以上に自覚がないことが問題とは思います。

当事者にできない、いやできにくいこと、
たとえば政策立案や権利擁護をすることの価値はとても大きいと思います。
昨夜のNHKの番組も同様に重要なことだと思います。
ただ、心のありようを間違えてはならないと思うのです。
わたしはどうしても、ここにこだわってしまいます。


湯浅誠さんが、貧困に関して「貧困は『彼らはかわいそうだから、何かをして上げましょう』と
いう問題ではなくて、私たちの社会をどうしていきたいか、という問題なのです」
と話されています(朝日新聞12月14日)。

『彼らはかわいそうだから、何かをして上げましょう』という心のありようは、
元来、人間が持っている感情です。
ゆえに「かわいそう」的な心情はなくなることはありえません。
間違えてはならないのは、「かわいそう」的な心情は、「社会福祉学的?」にみて
低いレベルの考えということではありません。
念のため。

「強い社会をつくろう」(強いとは誰にも人間らしい労働と生活を保障できる
という意味=湯浅さん)という主張とは次元が異なるだけです。
「かわいそう」という感情ではだめだという共通認識が社会福祉に関わっている人々は
あると思います。
しかし、私はこの感情は否定されるべきものではないと考えています。
そして「かわいそう」という感情をどのように現場活動に活かせるか。
このことを考えてもよいと思います。

いっぽう、「私たちの社会をどうしていきたいか」は、感情ではありません。
意志や理性だと思います。
そして、つくるべき社会のかたちこそ、「理念」だと思います。
私たちの先輩は、戦後の一時期、この「理念」を日本国憲法の中に見たと思っています。
私は、湯浅さんのいう「強い社会をつくろう」は、日本国憲法の理念でもあると思っています。
その意味では、「この国の理念や原理」は日本国憲法を読めばわかります。
いまや、ボロボロになった旗ですが、この旗を掲げていくことはこの意味でも重要なことだと思います。

そのためにも、やはり17世紀以降の西欧思想を少しは学ばなくてはと思っています。

※はれの国の雲もあやしげです。

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