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ベルリン・フィルの指揮者であるサイモン・ラトルによる「教育プロジェクト」は、
2003年に始まった。
サイモンはベルリン・フィルの指揮者に就任したのは前年の9月だった。
ベルリン・フィルと共演するのはベルリン在住の26カ国の生徒や学生250名。
カメラはもっとも厳しい環境の学生たちをフォーカスする。
ダンスを知らない、クラシック音楽も知らない子どもたちだった。
教師も生徒たちの可能性に限界を見ていた。
経験豊富なイギリス人の振付師ロイストンとスザンナがやってくる。
これから取り組む楽曲は、ストラビンスキーの「春の祭典」だ。
指揮者のサイモン・ラトルが、初めて劇場で聴いた音楽だった。
彼の目指すものがここにあった。
指揮者の手先から電流が流れ奏者に届いて、曲が生まれていた。
彼は決断する。
「私は指揮者になる」
これが彼が教育プログラムにこの曲に選んだ理由だ。
「春の祭典」は大地の曲とも言える。
ロシアの大地に春が来るとは、日本のチェリーブロッサムとは違う。
大地が爆発するように春が来るという。
再び春が来るように、春の神に、いけにえを捧げる。
それがこの「春の祭典」の中心にある。
サイモンやロイストン、スザンナが求めているのは、若者たちが強くなることだ。
困難な21世紀を生き抜いていく強さだ。
ロイストンとスザンナは多くのことを若者に求める。
集中力、忍耐、協調、持続、体力.....
どれをとってもここの若者には備わっていないように見える。
私語、笑い、諦め、無気力、恐怖、自信のなさ...。
残念ながら、学校の教師には対応できない困難さだ。
しかし、ダンスの振付師のアプローチは異なった。
身体とはどういうものか。
身体がしめすものは何か。
振付師は心のありようはすべて身体に現れると説く。
手先に、目に、顎に、パワーのありようが現れるという。
そしてダンスはあなたの人生を変えるという。
それでも、ことは簡単ではない。
百戦錬磨の振付師にも不安な時間があった。
この子たちは乗り越えられるのかと。
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一人のナイジェリアから来た16歳の少年をカメラが追う。
内戦で両親や親族をなくし、一人だけになってドイツにやってきた。
「私の国では白人はほとんどいない。ここは白人ばかりだ。しかも英語が話せない。
言葉が通じないこの国で生きていくことができるだろうか」
「ここの人を見ていると文化が低い。私の国の方が文化が高い」
彼が話す「文化」とは何だろうか。
ここはとても重要なことだ。
特に今の日本人にとっては。
この映画の原題は、リズム・イズ・イット。
クラシック音楽とリズム。
結びつきにくいと考えられないか。
しかし、20世紀のクラシック音楽を眺めると、「リズム」が重要な要素となっていることがわかる。
その発端が「春の祭典」といえるかもしれない。
リズムは譜面の枠から自由になったようにも思える。
サイモン・ラトルはこの20世紀の音楽の解釈において多くのことを教える。
ダンスにおいても同様だ。
クラシックバレエとコンテンポラリーバレエを見ればすぐにわかる。
身体の理解、解釈が、古典とは異なるように思える。
音楽とダンスは切り離せない関係だ。
5週間の集中練習をこなしていく中で、ある時点から子どもたちは私語をしなくなり、集中することができるようになった。
学校の教師は、もうこの子たちには限界だと言う。
しかし、子どもたちは、これは限界ではないと言い放つ。
教師の限界を生徒が乗り越えた瞬間だ。
そして、若者はダンスの持つ力を支えとして成長することが可能となった。
この「教育プログラム」は、この年の成功により毎年連続して行われるようになった。
継続することで、プログラムの効果は倍増することになった。
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