藤本一司さんには今回も学ばせていただきました。
タイトル通り「老いから学ぶ哲学」であり,また「介護から学ぶ哲学」ですね。
親を介護をしている中で、どうしても陥る「被害者意識」があります。
私自身の時間(そのようなものがあるとしたら)への関わりが強くなることで、「もう勘弁してよ」となってしまいます。
認知症の症状が進行することで、それまでの介護の仕方が通用しなくなり悩み直し、方法を見つける。
それが本人に受け入れられるものか試行錯誤する。
私は手すり設置や部屋のレイアウト変更は自分でできることは行なっている。
介護保険の利用も考えられるが、細かな対応は無理。
自らすることがベストと思う。
父は多くのこと語りはしない。話してもなかなか意味を理解できないことが多い。
ここに手すりが欲しいとは言わない。
最近も転倒する事態が数度あった。
夜半だった。
人の目はない。
どのように対処するか、考えた。
追加の手すりさえあれば転倒しなくてすんだと思う。
もちろん、介護する側が注意深く行動を見守っていれば手すりの必要性を把握できていたはずである。
この点は不明を恥じて陳謝するしかない。
いくらか弁明させてもらえるならば、その時まではその場所で転倒することはなかった。
本人もまさか転ぶとは思わなかったようだ。
しかし、確実に足の筋力は低下していた。想定できたはずだ。
介護をさせられているという「被害者意識」では、事故を未然に防ぐという本人の身体に寄り添った介護はできない。
食事時間に関しても反省することがある。
父は食事をするということが今までとちがった感覚になっているように感じる。
どのように食べればいいのかわからなくなってきている。
今までと同じように料理を出していても本人にとって、その都度新しい料理なのかもしれない。
こちらから提案しなければ手を出さない。
食べてみれば、味覚が喚起されるのだろう。食が進む。
時間的にも夕食を2時間かけるようになっていた。
その食事時間に付き合っていく。
この本に書かれているように、認知症の本人が真っ先に未知の世界に踏み出している。
そして、私が後からフォロワーとしてついていく。
フォロワーには細心の注意が必要だ。
もし「被害者意識」など持っていたならばたちまち置いて行かれる。
そのことを藤本さんの本から気付かされた。
まことに有難い本であります。
※京都の自宅から見た夕日。六甲山に沈みます。
岩清水さんが、そばで寄り添っておられる姿が、
夕日に沈む京都の街並みとともに、
心温かく思い浮かび上がります。
食事時間を十分確保するということは先生からの介護からヒントをいただきました。
私は父のこころが読めていなかったのです。
夫婦と息子の3人の関係というのは、かなり複雑ですね。
この複雑さは実はブログやFACEBOOKでは書いていません。
ということは核心部分は文章化していないということです。
メモさえないです。
これはいけないと思っています。
なんらかの形で残しておくことが必要だと感じています。
これが私の課題です。
ありがとうございました
これは多くの人々の心の中にあることだと思いますが。