1882年(明治15)、十次は岡山に医学の志を持って旅立つ
わけであるが、では、それまでどのように過ごしていたのか.
17歳にはなるまでにどのような教育を受けていたのだろうか。
このことに触れておく必要がある。
十次は、1865年(慶応元)に下級士族の長男として生まれた。
5歳にして寺子屋に入る。
7歳高鍋島田学校に入学。
9歳、宮崎学校に転校(下宿したと思われる)
13歳、自宅に戻り、再び高鍋島田学校に入学。
14歳、高鍋学校卒業、晩翠学舎に入学。
15歳、東京芝攻玉社(今もある)入学。
16歳、脚気のため、帰郷。
(すでに足かけ12年、教育を受けているということは、医学校に
行く前に教育は一通り終了していると思っていい)
結構、細かく転校もしている。明治の1桁年は、学校制度も
未整備だった(内実は寺子屋流用)ので、著名な先生を探して
転校を重ねたのかもしれない。
宮崎学校入学では、高鍋から宮崎は通えないので下宿している。
これは相当優秀だったのだろう。
4年後、高鍋の戻るが、これは西南の役が影響している。
1887年(明治10)に起きた西南の役は、近隣の士族に、
自由民権派も加わり西郷軍に参加しているし、宮崎も戦場に
なっている。十次は自由民権運動にシンパシーを感じていたと
思われる。
さて、東京から宮崎に戻った十次に禍が襲う。
昭和9年に石井記念協会が発行した「石井十次傅」の記述に
驚いた。
「帰郷した年(1880年=明治13)5月岩倉右府暗殺の嫌疑にて
捕捉さる。7月無罪放免」
これはどういうことなのか。この時期、不平士族が政府要人を
暗殺することも多く、例えば、大久保利通は、1878年
(明治11年)に西郷隆盛の心酔者に暗殺されている。
では岩倉具視は、いつ暗殺されたのか。
実は、岩倉具視は1883年(明治16)に病死している。
暗殺されてはいない。ただ、1874年(明治7)に赤坂にて
不平士族に襲われている。
十次が50日間、拘束されていたことは間違いない。しかし
何の容疑か明らかでなかったので、このような風評が流れて
いたのだろう。
東京から、攻玉社を中退して戻ったことも影響していたと
思う。
「友達との議論で政府批判が高じ、警察に50日間勾留の
憂き目もみる」※ということだったかもしれない、
しかし、「友達との議論で政府批判が高じ」ただけで、
50日間勾留というのもなかなか納得できない。
反政府的思想を持っていたと嫌疑をかけられ熱を冷ます
ための勾留だったのかもしれない。
確かに若き十次は、政治に熱くなっていたと思われる。
時は、西南の役の後、各地で不平士族が反乱を起こしていた。
(まさにラストサムライの世界である)
また、自由民権運動も高まりを見せていた。
聡明だった十次に、政治への関心がないはずがない。
十次は、放免された後、小学校の教壇に数ヶ月たった後、
宮崎警察署に雇われる。これはどういうことなのだろう。
小学校を短期間で辞めるのも不自然だし、警察署に雇われる
ものおかしい。
警察の嫌疑は晴れていなかったと考えれば納得できる。
「教育」などしてもらっては困る事情があったのだろうか。
これでは、十次は地元にいることができないと思うのは
当然である。
敬愛する両親や家族に迷惑をかけられないのである。
十次の岡山行きは、実は宮崎からの逃亡だったのだ。
同い年のまだ幼さの残る新妻品子を郷里において。
(日記には品子のことはほとんど書いていない)
※岡山孤児院物語 山陽新聞刊
わけであるが、では、それまでどのように過ごしていたのか.
17歳にはなるまでにどのような教育を受けていたのだろうか。
このことに触れておく必要がある。
十次は、1865年(慶応元)に下級士族の長男として生まれた。
5歳にして寺子屋に入る。
7歳高鍋島田学校に入学。
9歳、宮崎学校に転校(下宿したと思われる)
13歳、自宅に戻り、再び高鍋島田学校に入学。
14歳、高鍋学校卒業、晩翠学舎に入学。
15歳、東京芝攻玉社(今もある)入学。
16歳、脚気のため、帰郷。
(すでに足かけ12年、教育を受けているということは、医学校に
行く前に教育は一通り終了していると思っていい)
結構、細かく転校もしている。明治の1桁年は、学校制度も
未整備だった(内実は寺子屋流用)ので、著名な先生を探して
転校を重ねたのかもしれない。
宮崎学校入学では、高鍋から宮崎は通えないので下宿している。
これは相当優秀だったのだろう。
4年後、高鍋の戻るが、これは西南の役が影響している。
1887年(明治10)に起きた西南の役は、近隣の士族に、
自由民権派も加わり西郷軍に参加しているし、宮崎も戦場に
なっている。十次は自由民権運動にシンパシーを感じていたと
思われる。
さて、東京から宮崎に戻った十次に禍が襲う。
昭和9年に石井記念協会が発行した「石井十次傅」の記述に
驚いた。
「帰郷した年(1880年=明治13)5月岩倉右府暗殺の嫌疑にて
捕捉さる。7月無罪放免」
これはどういうことなのか。この時期、不平士族が政府要人を
暗殺することも多く、例えば、大久保利通は、1878年
(明治11年)に西郷隆盛の心酔者に暗殺されている。
では岩倉具視は、いつ暗殺されたのか。
実は、岩倉具視は1883年(明治16)に病死している。
暗殺されてはいない。ただ、1874年(明治7)に赤坂にて
不平士族に襲われている。
十次が50日間、拘束されていたことは間違いない。しかし
何の容疑か明らかでなかったので、このような風評が流れて
いたのだろう。
東京から、攻玉社を中退して戻ったことも影響していたと
思う。
「友達との議論で政府批判が高じ、警察に50日間勾留の
憂き目もみる」※ということだったかもしれない、
しかし、「友達との議論で政府批判が高じ」ただけで、
50日間勾留というのもなかなか納得できない。
反政府的思想を持っていたと嫌疑をかけられ熱を冷ます
ための勾留だったのかもしれない。
確かに若き十次は、政治に熱くなっていたと思われる。
時は、西南の役の後、各地で不平士族が反乱を起こしていた。
(まさにラストサムライの世界である)
また、自由民権運動も高まりを見せていた。
聡明だった十次に、政治への関心がないはずがない。
十次は、放免された後、小学校の教壇に数ヶ月たった後、
宮崎警察署に雇われる。これはどういうことなのだろう。
小学校を短期間で辞めるのも不自然だし、警察署に雇われる
ものおかしい。
警察の嫌疑は晴れていなかったと考えれば納得できる。
「教育」などしてもらっては困る事情があったのだろうか。
これでは、十次は地元にいることができないと思うのは
当然である。
敬愛する両親や家族に迷惑をかけられないのである。
十次の岡山行きは、実は宮崎からの逃亡だったのだ。
同い年のまだ幼さの残る新妻品子を郷里において。
(日記には品子のことはほとんど書いていない)
※岡山孤児院物語 山陽新聞刊