女川の中心部から398号線を北に向かいます。
海岸から離れ標高の高いところを走ります。
※NHK東日本大震災アーカイブスより
浸水している場所が低地であり、人々はそこに住んでいます。
内陸部は白図のようになっています。
道も集落もほとんどないのでしょう。
東に島があります。
出島(いずじま)です。
1台残った衛星電話で救助要請、3月12日に全島民400名余りが自衛隊のペリコプターで救助され離島します。現在約100名の方が帰島しています。島にあった小中学校も閉校になりました。
女川町と雄勝町の間では車に出会うことはあまりありません。
ダンプカーも通りません。
女川町からは西へ石巻市へ、
雄勝町からは北回りで石巻市街へと、
行くことができます。
この二つの町の交流はあまりないように感じました。
このあたりではコンビニもありません。
復興支援車両が行きかうところにはコンビニがある場合が多いのですが。
最前線で作業にあたっている人々のためということもあるように思います。
女川町から雄勝町へに道は石巻市~女川町間のように痛んでいません。
地震での被害も残っています。
桐ケ崎、東北大学院付属プラズマ大気汚染研究所、竹浦、尾浦と回ります。
村々に行くためには398号線から細い道を浜辺に下る必要があります。
注意して車で降りていきました。
雄勝町に入ってからは道路は海岸近くを走ります。
波坂、分浜、水浜と続きます。
最後の写真は雄勝町水浜です。
高架になっているのが398号線です。
すでに雄勝湾の奥に入ってきています。
女川湾のすぐ北に雄勝湾があります。
お気づきでしょうが、三陸海岸に入ってからは津波の浸水域が海岸近くに帯状にになっています。
仙台市の海岸部に見られる浸水域の幅広さとは様相が異なります。
平野部とリアス式海岸の違いです。
リアス式海岸の場合は平地の幅が少なくすぐに標高が高くなります。
狭い平地にあるのが漁港と集落です。
津波の高さは平野部より高く20mを超えることも稀ではありません。
そこで人々は生活をしています
被害が甚大になる理由です。
海岸から離れ標高の高いところを走ります。
※NHK東日本大震災アーカイブスより
浸水している場所が低地であり、人々はそこに住んでいます。
内陸部は白図のようになっています。
道も集落もほとんどないのでしょう。
東に島があります。
出島(いずじま)です。
1台残った衛星電話で救助要請、3月12日に全島民400名余りが自衛隊のペリコプターで救助され離島します。現在約100名の方が帰島しています。島にあった小中学校も閉校になりました。
女川町と雄勝町の間では車に出会うことはあまりありません。
ダンプカーも通りません。
女川町からは西へ石巻市へ、
雄勝町からは北回りで石巻市街へと、
行くことができます。
この二つの町の交流はあまりないように感じました。
このあたりではコンビニもありません。
復興支援車両が行きかうところにはコンビニがある場合が多いのですが。
最前線で作業にあたっている人々のためということもあるように思います。
女川町から雄勝町へに道は石巻市~女川町間のように痛んでいません。
地震での被害も残っています。
桐ケ崎、東北大学院付属プラズマ大気汚染研究所、竹浦、尾浦と回ります。
村々に行くためには398号線から細い道を浜辺に下る必要があります。
注意して車で降りていきました。
雄勝町に入ってからは道路は海岸近くを走ります。
波坂、分浜、水浜と続きます。
最後の写真は雄勝町水浜です。
高架になっているのが398号線です。
すでに雄勝湾の奥に入ってきています。
女川湾のすぐ北に雄勝湾があります。
お気づきでしょうが、三陸海岸に入ってからは津波の浸水域が海岸近くに帯状にになっています。
仙台市の海岸部に見られる浸水域の幅広さとは様相が異なります。
平野部とリアス式海岸の違いです。
リアス式海岸の場合は平地の幅が少なくすぐに標高が高くなります。
狭い平地にあるのが漁港と集落です。
津波の高さは平野部より高く20mを超えることも稀ではありません。
そこで人々は生活をしています
被害が甚大になる理由です。
コメントありがとうございます。
こころのケアはとても大切ですね。
ある人は、支援もありがたいけど、とにかく「忘れないでほしい」と話されました。
「忘れる」、「見ようとしない」ということだけは絶対してはいけないことだと思うます。
そのあとも、声かけをして物資を送ったりしたものです。(冬物はあるということで、夏物をメインにサイズごとに組み合わせて送ったのを覚えてます。)
まだまだ表面的な復興もできてないということは、震災に合われた方々の心のケアも、充分に行き渡ってないのでしょう。
目に見える復興だけでなく、心のケアも必要に感じました。
この震災のその後を見て、これから先できることを模索していきたいと思いました。
教科書だけでなない学び方を知ってほしいと貴ブログを紹介しています。
次週冒頭に、再コメントを紹介します。
お忙しい中をありがとうございました。
書き漏れはないとは思うのですが…
この「東北の旅」へのコメントは今まで皆無でした。
読んでいただいている方がいっらしゃるのはデータでわかるのですが、読んでもらえる内容なのか不安なところがありました。
皆さんのコメントを読ませていただき、少しほっとしました。このまま続けていくことができそうです。
ありがとうございました。
「海の見える病院」へのコメントありがとうございます。
この本の著者はとても細かな取材をされています。
そして登場人物一人一人に愛情を注いで書いています。
このような本はそうそうあるものではありません。
私は涙が止まらずなんども中断してしまいました。
病院の方々もよく取材に応じていただいたと感謝しています。
読まれたらお友達に薦めてくださいね。
テレビや新聞の報道も、3.11前後は報道の量も増えますが以後は少なくなっています。
地道に取材し放送し続けることは大変なことだとは思います。しかしそれをするのが報道機関の使命ですね。
最後に頼るのは自分の目です。
百聞は一見にしかず。
その通りです。
事件は現場で起こっているのです。
ぜひ現場に行ってください。
実は高台の一階まで津波が押し寄せたというのは帰ってから知りました。本当にびっくりしました。
浜辺では鉄筋コンクリートの家が倒れたまま今でもあります。
このような風景は他では見ることはなかったです。
女川町の動画はとても少ないのですが、この高台から写した動画があります。あまりお勧めできませんが。
女川町の復興を見届けてくださいね。
パールさん。私もショックでした。
更地になった空間が次から次のあらわれてくるのです。
後から思い出そうにも、どの町だったかどの浜辺だったかわからないのです。
撮影した画像を見て、地図を見てやっと思い出しました。
ぜひ、学生時代に東北旅行をしてください。
かならず行くことができます。
被災地の人々も待っていますよ!
ふたつの原発が明暗を分けたのはさまざまな要因が複合的に関わっての結果でしょうが、例えば福島第一原発があと5m標高が高かったら、あのような悲惨なことにはならなかったと思います。
建設当時には津波のことはほとんど配慮されていませんでしたね。
このようなことは二度と起こしてはなりませんから再稼働については厳しい目で見ていかなくてはなりません。
四畳半さんもチェックしてくださいよ。
読み込んでいただき重ねてありがとう。
現場に行ってわかったことは、女川原発が重大事故にならなかったのは偶然や幸運に恵まれたからです。
福島第一原発と同じ事態になってもまったくおかしくなかったのです。
そのことも忘れてはなりませんね。
被災地が「一秒でも」はやく復興してほしい。
本当にそう思います。
おっしゃる通り、女川町の情報は本当に少ないですね。
隣の雄勝町も同様です。
なぜでしょう。
いろいろ理由があると思います。
しかしもっとも甚大な被害にあった地域が報道されないということはあってはならないことです。
私たちが情報に接するときに、その情報はすでに選別されているということも知らなくてはなりません。
P坊の気づきを大切にしてください。
そうでしたね。テレビやインターネットに釘づけになりました。その頃のことをよく思い出します。
そして、なにもできない焦りもありました。
ほとんどの人はそうだったと思います。
心優しい音楽家は演奏できなくなりました、心ある小説家は文章が書けなくなりました。
あのような悲劇に接して平常心でいられるものではありませんから。
学生に間に、東北旅行を計画されてはいかがですか。必ず行くことができますよ。
私たち、被災に遭わなかったものは、心に深い傷も負わず、生活も変わらなかったですよね。
でも世界中の人が心から東北の人々のことを心配し支援したことも事実です。
時が経つに従いその気持ちが薄れては行きましたが、折に触れ思い出すはずです。
祈りも大切です。それはいつも心の中に東北のことがあることになるからです。
祈りがなんらかの行動につながれはそれも素晴らしいことですね。
その通りです。
東北はまだまだ大変です。
実際、お話を聞くとますます厳しくなっているとのことです。
将来に対して見通しが立たないというのが一番つらいとのことです。
狭い仮設生活の厳しさも聞きました。
まずは、「東北のことを忘れない」ということですね。
なにかできることがあればやりたいという前向きな姿勢は素晴らしいです。
震災から2年経過しました。
被災しなかった私たちは震災への思いが薄れていきます。
なにかしなくてはという気持ちもどこかに忘れてくるようです。
でも、被災地の人々に寄り添う必要があるのは本当は今からだと思います。
被災された方の厳しい道はこれからも続きます。
いやこれからが大変な時だと思っています。
頼りにしていますよ。
柴又の寅さんではないのですね。
2月に岩手県山田町の漁師さんが岡山に来てくださいました。震災発生時、船で津波を乗り越えて生還した方です。
災害の少ない岡山は防災意識が低いとおっしゃっていました。
そして、災害に無縁な場所はないとも。
お互い肝に銘じなくてはなりませんね。
地震の被害の大きさを知ることができるのは、実は福島の少し内陸部ですね。
津波は来なかったのですが、放射能で汚染され帰宅できない人々の家は震災当時のままです。
一時帰宅している映像が流れましたが、ほとんど家が半壊状態でした。
地震に放射能汚染という最悪の事態におかれています。
私たちには想像できませんね。
東日本大震災の地震について書いてみます。
震源地:三陸沖130km、深さ24km。
長さ500km、幅200kmの震源域。
3分間におよぶ震度7の激震です。
沿岸部は地震による大被害を受けていたのですが、その被災地を津波が襲い被害の実態は分からなくなってしまったのですね。
海岸の岸壁沿いの道などは通行禁止のところが今も多多くあります。
これは地震で土砂崩れが起きたためです。
私たちが知ることができる地震の被害はごく一部ということになるのでしょうね。
大震災は私たちにとって、確かに「だいぶ前」ですよね。
ある写真集に、
「3.11以来、日本はふたつに引き裂かれている。津波を見た人たちと見なかった人たち」
その通りだと思います。
津波を見なかった私たちは、津波を見た人たちをなかなか理解できません。
でも、どうにかしてつながらなくてはなりません。
それが、見なかったものの使命だと思っています。
東日本大震災の被害の大きさは想像を絶しますね。
私は主に三陸海岸沿いを見ました。
400km近い海岸線です。
それでも被災地域の何分の一でしかありません。
復興にはこれから長い時間がかかるでしょう。
過疎化の問題は深刻です。
なくなった方や避難された方で町の人口が2~3割程度減少しています。
高校を卒業しても地元には就職先がない(特に震災後)ので出ていかなくてならなりません。
私たちに何ができるのか、本当に悩みます。
コメント確かにいただきました。
これから読ませていただき再コメントさせていただきたいと思います。
ありがとうございました。
コメント場所が適切なのか不明の記事もあるようですが、鹿児島にいても貴記事によって詳しい現状を知ったということはいえます。
ありがとうございました。
遥か遠くの九州では被災地の現状を生で把握することが出来ませんでした。
しかし、ブログなどによって被災地の状況をより深く知ることができ、大変勉強になりました。
私も被災地の早期復興に少しでも協力できたらいいと思いました。
東日本大震災のとき、自分はいつも通りの生活をしていたので、その時にそんなことが起こっているなんて信じられませんでした。
早く復興が終わってみんなが安心して元と同じような生活が送れることを願っています。
自分には祈ることしかできないのが、つらいです・・・。
GANTZです。
こうして写真を拝見すると震災の被害の大きさを改めて実感しました。
一刻も早い復興をお祈りし、少しでも私にできることがあれば進んでやっていきたいと思います。
鹿児島から初めてコメントさせていただきます。
2年以上経っても震災の傷跡は深く残っているのですね
。
今までは東日本大震災は津波の被害が大きかった
というイメージが強かったのですが、
私の住むような海から遠い地域でも他人事ではないように感じました。
ニュースで報道されたよりとてもすごい地震だったんだなというのが改めてわかりました
道路の悲惨な状況をみて、あれだけテレビなどで政治家たちが復興と呪文のように言っているのに、まだまだなんだと実感しました。
きっとこれも、たった一部で探せばもっともっとたくさんの場所が復興が済んでいないんだと思います。
復興が進むとともに、過疎化している地域の発展にもつながってほしいです。
簡単な感想のようなものになりますね。
全体としてのコメントをいただければ、次週に紹介します。