北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

チェーザレ・ボルジアという思想

2006-06-09 23:57:34 | Weblog
 朝から強い雨です。よさこいソーラン祭りがテレビで放映されていますが、みんな雨の中を一生懸命踊っています。
 風邪を引かなければよいけれど。
 
【チェーザレ・ボルジア】
 今やイタリアを舞台とした一番の売れっ子小説家と言えば、「ローマ人の物語」シリーズでお馴染みの塩野七生さんです。

 そして以前から読んでみたかった彼女の出世作「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」(新潮文庫)を読みました。

 チェーザレ・ボルジアという人物については日本ではあまり馴染みがありませんが、彼は15世紀末から16世紀にかけて都市国家に分かれていた今のイタリアを自分の手で統一しようと政治力と軍事力を駆使して生き抜いた一人の若者です。

 現代のイタリア共和国は、15世紀末にあっては、ローマを中心とする法王領のほかにヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ジェノヴァ共和国、ナポリ王国、シチリア王国などの他に、いくつもの公爵領があるという都市国家に分裂をしていたのでした。

 主人公のチェーザレ・ボルジアは法王アレッサンドロ6世の長男として1475年に生まれたものの、聖職者には結婚が許されていなかったためにあくまでも嫡子ではなく庶子としてこの世に生を受けたのでした。

 彼は法王の庇護の下で聖職者として枢機卿まで登り詰めながらも、その身分に我慢が出来ず聖職者としての身分を返上し、還俗したのちに法王の資産と政治力によって軍事力を手にするや、冷酷な領主としてイタリア半島を駆け巡り権謀術数の限りを尽くして都市国家を自分一人の手にしようと全身全霊を傾けたのでした。

 このときにチェーザレの包囲網にあわてふためいて対策に奔走したフィレンツェ共和国がチェーザレに送り込んだ特使の一人がフィレンツェ共和国政府書記官ニコロ・マキャベッリでした。

 後に自国に武力を持たない政府の無力と悲哀を見つめ続け、君主論を著した稀代の戦略家と言われ、後にマキャベリズムという言葉まで生み出した彼はまさにこのチェーザレと言葉を交わし、この恐るべき相手からいかにフィレンツェを守るかという事に奔走をしたのでした。

 マキャベッリが驚いたのはチェーザレが15世紀末という時期に、ある戦乱に勝利したときに「私の、そしてあなた方にとっても敵である彼らを滅ぼす事が出来て喜ばしい」と言い、そしてその後に「イタリアの災いを滅ぼしたのだ」とつぶやいた事でした。

 このときまで当時のイタリアにはフィレンツェ人やミラノ人はいてもイタリア人はいなかったのです。

 この十年後にマキャベッリは君主論のなかで明らかにチェーザレに触れた一文を書き添えて彼に対する最大の共感を表しています。マキャベッリは彼の中に「良い政治とは何か」という冷徹な何かを見出しています。

 チェーザレは1507年にわずか33歳で志半ばにして非業の死を遂げます。日本ではさながらその後約一世紀遅れて登場した織田信長の姿をそこに見るようです。

 「私役も公益に合致すればそれでよい」

 塩野七生さんに言わせれば「人は死んでもその人の考えた事と、それを実行に移したやり方は残る」「チェーザレ・ボルジアは、歴史上の人物から理論上の象徴になったのだ」ということなのでしょう。

 マキャベッリの「君主論」は、塩野七生さんの「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅な冷酷」を読むことでその味わいが倍加するのです。


    *   *   *   * 

 なお、チェーザレ・ボルジアはその絶頂期に置いてあの天才レオナルド・ダ・ヴィンチの訪問を受け、レオナルドのためにチェーザレの両国内において「あらゆる地域の自由通行と、彼に対する好意的応対を命ずる」という布告を発しています。そしてこの後一年間にわたりレオナルドはチェーザレ領国内の建築技術総監督として都市作りに励んだのでした。

 まさに天才と天才の出会いがここにあったのです。

 中世イタリアもなかなかに面白い
コメント
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