北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

豊平川の物語~志村鐵一と吉田茂八

2007-02-26 23:29:47 | Weblog
 穏やかだけど気温の低い一日でした。道路の氷も融けずにツルツル状態が続いています。

【豊平川ものがたり】
 週末の観光講演のために、豊平川物語を改めて勉強中。1時間話をしようと思うと、知識だけでは3時間くらい話すだけの分量が最低必要なのです。

 3時間の分量を身につけるにはさらにその数倍の時間を要するのですが、付け焼き刃で終わらせないためには、歴史という背骨が通っていないといけません。

 江戸末期から明治、大正、そして昭和にいたる歴史を川を眺めながらもう一度勉強しているようなものです。

    *   *   *   * 

 改めて札幌の歴史をひもといていると、札幌に初めて住み着いた和人として志村鐵一(鐵市とも言われる)という名前が出てきました。

 幕府は安政4(1857)年に、松浦武四郎などの献策を入れて、銭函から札幌~島松~千歳に至る札幌越新道を開削することにしました。もっとも実際の施工はアイヌの人たちとの商売を一手引き受けしていた場所請負人と呼ばれた商人達の私費によったものでしたが。

 そうなると一番の難所は当時はまだ暴れ川であった豊平川をどう渡るか、ということで、幕府は今の国道36号線に当たるところで川の渡し守として志村鐵一に通行屋の役目を申しつけたのでした。

 この札幌越新道が開削されたことで、日本海から太平洋への道が通じ、連絡と物流の流れができたことは北海道開拓にとっても重要な出来事と言えるでしょう。

 そしてここで志村鐵一は、豊平川の右岸に住み、対岸までコクワの蔓を渡し丸木船で旅人を渡す仕事をしたのです。

 やがて対岸の左岸側には吉田茂八という人物がやはり渡し守として任命を受け、この二人で豊平川の守をすることになりました。

 志村鐵一は信州生まれの剣客だったようで、泊まり客の中には泊まり賃を踏み倒そうという不埒な者もいたなかで、刀をふりかざす乱暴者に対して薪を手にして戦って勝った、という逸話も伝えられています。

 吉田茂八の方は、猟師でもありその後大友亀太郎が元村に入ったときにはこの道案内をし、やがてその地に入植したとも伝えられています。

 札幌の歴史を語る上では、アイヌの人たちが住んでいた土地に初めて定住した和人として志村鐵一と吉田茂八の名前を忘れることはできないでしょう。

 志村鐵一の碑は豊平川の下流に今も残っているそうです。一度行ってみなくては。

 これもまた、新たな出会いになるでしょうか。
コメント
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