北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

見える遺産と見えない遺産

2007-02-23 23:38:53 | Weblog
 今日は日中雨と吹雪。天気予報ではもっと荒れそうでしたが、ほどほどでおさまったよう。でも道路は滑ります。

【苗穂まちづくり講演会】
 今夜は苗穂地区のまちづくり協議会からお招きをいただいて、まちづくりのお話をしてきました。

 苗穂地区のまちづくり協議会は、もう17年もの間地区の人たちが集まって、自分たちのまちはどうあるべきか、ということを考える会で、最近では札幌駅の東側で大型ショッピングセンターが作られる際にも地元の話し合いの受け皿として活動をし、地域と折り合いのついたショッピングセンターができあがりました。

 苗穂地区はJR鉄道を挟んで東区と中央区に分断された形になっていますが、良く連携が取れていて、言いたいことを言い合う一方で、最後には折り合いがつけられるという大人の対応のできる皆さんが集まっています。

 今夜は「近代遺産を活かしたまちづくり」というタイトルにして、副題を「見える遺産、見えない遺産」としました。

 会場はJRの研修センターで、早めに行って様子を見ていたところ、受付にお年を召した協議会のメンバーが続々と集まってきます。

 会が始まる頃には会場が狭いこともあって、約百名くらいの方達が集まって、ぎゅうぎゅう詰めになりました。会場の熱気も、まるで掛川のまちづくりを見ているようです。

 都会と思っていた札幌でこんなに地域に力を尽くす人たちがいるとは驚きです。

    *   *   *   * 

 さて、今夜のお話は東区にゆかりのある大友亀太郎と彼の手による大友堀からです。

 彼の生涯と北海道の関わり、大友堀の果たした役割、そして彼がそれだけ情熱を持って開拓に当たるようになったことの縁として二宮尊徳の報徳の教えについて一時間にわたってお話をしました。

 至誠、勤労、分度、推譲という四つの実践徳目によって、どんなに窮乏した村々も救えるのだ、という二宮尊徳の報徳仕法は、明治期から昭和にかけては全国の多くの土地で受け入れられました。

 明治24年に幸田露伴が「二宮尊徳翁」という著書を著しましたが、そのなかで初めて薪を背負いながら読書をする金次郎少年の挿絵が登場し、これが後々の幼い金次郎の姿を印象づけたのです。

 報徳運動は明治政府の農業振興策と共に政治とも結びついて全国に広まりましたが、お国のためという価値観はやがて大東亜戦争につながり、そのことから敗戦によって道徳基盤を喪失し、また報徳社という組織も満鉄の株券が紙切れになったことで財政的にも大打撃を受けました。

 北海道などでは戦後の混乱期を報徳運動で乗り切ろうという機運が一時盛り上がりましたが、昭和30年を過ぎる頃にはそれも下火になって行きました。

 その最大の原因は社会の成熟であろうと思います。

 かつての日本は、村という単位で一人一人が勤勉で、助け合ってゆかなくては生きて行けなかった農村国家でした。それが、経済の発展と共に社会制度が充実し、社会の制度として国民を守ってくれるシステムができあがった都市国家に変貌してきたのです。

 農業の生産効率も飛躍的に上がりましたし、お金を出しあって助けた「報徳講」という金融制度は信用金庫や銀行などの業務として成立して行きました。

 人々は経済の拡大と共に、報徳に寄らなくても生活が向上する実感を得られたのだと思います。

 しかし今日、その結果として分度を忘れた国家や地方の財政が苦しくなろうとしているとき、これらの分度・推譲の価値が再認識されるべきだろうと思います。

 まちづくりにおいても、祖先の徳によって育まれ残された財産は今の自分たちが自由に使ってしまうのではなく、これを良く保ち子孫に推譲をするというのが正しい道ではないでしょうか。

 今日のものを明日へ、今年の物を来年へ、私たちの世代のものを子孫へと推譲することがまちづくりに取っても重要なのだと思うのです。

 そして、こういうまちづくりの会議に集まることこそ、自分の時間を推譲しているということなんですよ。

 報徳の精神は明治の先人が私たちに残してくれた見えない遺産なのです。
コメント (4)
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