北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

スローライフのまちづくり

2008-02-19 23:35:46 | Weblog
 夜の飛行機で札幌入り。明日は札幌市内で「スローライフのまちづくり」というお題でちょっとしたお話をする予定なのです。

 考えてみると、掛川を離れてからもう3年になるのですが、あまり時間が経ったような気がしていません。ときどき掛川に遊びに行くと、なんだかいろんなことがつい昨日のことだったようにも思えます。だからスローライフについて話を聞かせてほしい、と言われても、あまり苦労せずに思い出せるのかもしれません。

 スローライフも一時は多くの人の興味を引きましたが、最近はなんと言ってもCO2削減が主流になってしまい、環境問題に全て取り込まれた感があります。

 しかし、環境問題やCO2削減とは別なところで、スローライフの意味が輝くシーンもまだまだあると思っています。

 その代表的な部分は『家族の役割』です。

 いわゆる経済学や財政学と呼ばれる学問が登場して以来、経済システムと政治システムと社会システムというこの三つについて様々な理論が語られてきました。

 かつてはこれらの三つのシステムが未分化で、優れた王様やリーダーが出てくれば上手に国の統治ができていたのですが、社会が発達してくると、それらが次第に分化してくるようになり、次第に国民や住民をまとめてゆく、統治してゆくということが次第に難しくなってきました。

 特に大きいのが現代の「市場の発達」です。

 経済が効率化してくると様々な財やサービスが安価に市場で手にはいるようになります。かつての未分化な状態では、家庭内のお年寄りや専業主婦が自ら料理をしたり服を繕ったり、子育てなどのように無償の労働奉仕によってしか手に入らなかったものやサービスが、市場を経由することで安価に手にはいるようになってきました。

 その結果、無償の労働奉仕で財やサービスを提供するよりは、自分の労働を市場に提供して貨幣を手に入れる方が安価で質の高いサービスや財を手にいられれることになってきたのです。

 そのため、専業主婦でいるよりは社会に出て働く方が価値が高くなり、女性の社会進出が必然的に起こってきました。しかしその結果として、家庭内で無償の労働を提供する人が少なくなり、地域の清掃や町内会、世話焼きなど、社会を無償で支えていた労働力が激減してきました。

 日常の食べ物も、パック入りのものを市場で選んで調達した方がより美味しかったりすることもあるかもしれませんし、なにより時間を取られなくてすむということが利点なのでしょう。

 しかしこれこそまさに、早く、安く、便利で効率的なfastな社会にほかなりません。何も考えないままに市場に寄りかかって過ごしてしまったのでは、いざというときの危機管理も出来ず、手業もなくなってしまうことでしょう。

 農薬の入った餃子が出回ったことも、食生活に対する安直な考えの末路といえないこともありません。

 そこで、「スローライフ」という合い言葉を聞いたときくらい、「ゆっくり、ゆったり、豊かな心」を思い出して、普段の日常で追い求めている便利だけの生活や生き方を見直してはどうか、と思うのです。

 市場化の波は止まらないとしても、昭和30年代生まれの私くらいはまだ不便な時代の記憶があるために、便利と不便だけど我慢することのより分けが出来ているような気がするのですが、すでに便利だけの社会で生まれ育ったこれからの時代を生きる若者たちがどのような生き方をするのかは、やはり心配になってしまいます。

 そして生き方を反省したとしても、日常からすでに自分を鍛え上げるような技やスキルは失われてしまっているのかもしれません。

 ご飯を釜で炊く、薪に火をつける、ボタンを付ける、漬け物を漬ける・・・。

 たまにそんな手業を思い出して、日頃の生き方を反省してみるきっかけにしつつ、家族の紐帯(ちゅうたい)を確認する。そんなこともまちづくりや地域づくりの基礎として大事なことなのではないでしょうか。

  *    *    *    *    *

 明日の講演の内容を少し書きすぎたかもしれません。

 スローライフなんて、一週遅れで前を走っているような単語でも良いかもしれませんね。

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする