昔学生だった頃に、「鉄砲」の歴史を調べていたことがあって、そのときから「てつはう」とある爆裂弾の絵が、「蒙古襲来絵詞」にあって、鉄砲の初見であるとされていました。
蒙古襲来絵詞は、竹崎季長という武士が文永の役で蒙古軍に立ち向かった様子を書き記したもので、蒙古軍の抵抗にあって乗っていた馬に矢が刺さり血が噴き出しながら戦う図として印象的なものでした。
この絵巻は、季長が一番駆けの武功にありながら恩賞が出なかったことを不服として鎌倉へ赴き、直談判で恩賞を得るという一連の物語になっていて、当時の武士の活躍記録としてよく日本史の教科書などにも載っている有名なものです。
ところがこの一番有名な場面が、後世に改ざんされたものではないか、という説があると聞いて驚きました。
カラーの絵をよく見ると、なるほど右から左へと蒙古軍を追いかける季長と馬に対して、薄い色の蒙古兵は逃げているのに対して、色の濃い三人の蒙古兵が季長に対して弓を射かけています。
色の感じが明らかにこの三人だけは違っていて、もともとの絵にはなかったことが伺えます。
しかしいつ書き加えられたかについてはいくつかの節があってまだ確実なことが分かっているとは言えないとも言われています。
誰がいったい何のために…と考えると、なにやら歴史のミステリーのようでもありますね。
【ウィキメディアコモンズより】
【蒙古襲来絵詞】 http://bit.ly/wLhrve
竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵
※ ※ ※ ※ ※
源頼朝が打ち立てた鎌倉幕府は、武士の武力による統治という新しい構想の政権でしたが、頼朝の厳しい身内への粛清のために、源氏の血筋は三代で絶え、北条氏による執権政治へと移り変わります。
なかでも元寇に対抗するためだけに天がこの時代の日本に遣わしたのではないか、というくらい天下に尽くしたのは北条時宗でした。
蒙古襲来のときにまだ二十歳だった時宗は若くしてリーダーの資質を遺憾なく発揮して、御家人たちを招集して九州の守りを固め、襲来に抵抗しました。
文永・弘安の二度の襲来にいずれも神風が吹いたのは、鎌倉武士団が何か月にもわたって抵抗をつづけ、蒙古軍を洋上の船から降ろさせなかったためで、そういう状態で夏を迎えれば、季節になると大抵台風がこの地域を襲うという気象現象であった、とも言えるでしょう。
時宗の晩年は、三度目の蒙古襲来に備えたり、御家人たちに対する恩賞問題に忙殺されるなど難題を抱え、わずか三十四歳で他界しています。
まさに蒙古への備えだけが彼の一生と言っても良いでしょう。
※ ※ ※ ※ ※
生前の彼に対しては神風ばかりが評価されて、朝廷から贈られた位階は正五位下という低いものでした。
しかし明治時代に日露戦争を迎えて、明治天皇は改めて外敵を防ぐことに功をとげた時宗の苦労を慮り、明治34(1904)年に、彼の眠る円覚寺の墓まで勅使を送り、従一位を追贈され今日に至っています。
源頼朝から北条氏にいたる為政者には立派な人物が輩出されました。
なかでも「神皇正統記」を著した北畠親房は、(あのときに比べて今の時代は…)という南北朝への恨み節もあったのかもしれませんが、「頼朝、泰時、時頼などがいなかったらあの時代はどうなっていただろうか」とこの時代の為政者たちを高く評価しています。
上智大学名誉教授の渡部昇一さんは、このころの北条氏が民の暮らしを重要視する優れた為政者であった背景に、頼朝の側近であった大江広元を通じて、唐の二代皇帝太宗による「貞観政要」が伝わっていたからではないか、と言います。
為政者たるものの在り方についてこれほど良く書かれた指南書はないともいえる教科書です。
人物そのものを鍛えるということが忘れられかけている今日ですが、歴史に学ぶという姿勢を忘れたくはないものです。
蒙古襲来絵詞は、竹崎季長という武士が文永の役で蒙古軍に立ち向かった様子を書き記したもので、蒙古軍の抵抗にあって乗っていた馬に矢が刺さり血が噴き出しながら戦う図として印象的なものでした。
この絵巻は、季長が一番駆けの武功にありながら恩賞が出なかったことを不服として鎌倉へ赴き、直談判で恩賞を得るという一連の物語になっていて、当時の武士の活躍記録としてよく日本史の教科書などにも載っている有名なものです。
ところがこの一番有名な場面が、後世に改ざんされたものではないか、という説があると聞いて驚きました。
カラーの絵をよく見ると、なるほど右から左へと蒙古軍を追いかける季長と馬に対して、薄い色の蒙古兵は逃げているのに対して、色の濃い三人の蒙古兵が季長に対して弓を射かけています。
色の感じが明らかにこの三人だけは違っていて、もともとの絵にはなかったことが伺えます。
しかしいつ書き加えられたかについてはいくつかの節があってまだ確実なことが分かっているとは言えないとも言われています。
誰がいったい何のために…と考えると、なにやら歴史のミステリーのようでもありますね。
【ウィキメディアコモンズより】
【蒙古襲来絵詞】 http://bit.ly/wLhrve
竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵
※ ※ ※ ※ ※
源頼朝が打ち立てた鎌倉幕府は、武士の武力による統治という新しい構想の政権でしたが、頼朝の厳しい身内への粛清のために、源氏の血筋は三代で絶え、北条氏による執権政治へと移り変わります。
なかでも元寇に対抗するためだけに天がこの時代の日本に遣わしたのではないか、というくらい天下に尽くしたのは北条時宗でした。
蒙古襲来のときにまだ二十歳だった時宗は若くしてリーダーの資質を遺憾なく発揮して、御家人たちを招集して九州の守りを固め、襲来に抵抗しました。
文永・弘安の二度の襲来にいずれも神風が吹いたのは、鎌倉武士団が何か月にもわたって抵抗をつづけ、蒙古軍を洋上の船から降ろさせなかったためで、そういう状態で夏を迎えれば、季節になると大抵台風がこの地域を襲うという気象現象であった、とも言えるでしょう。
時宗の晩年は、三度目の蒙古襲来に備えたり、御家人たちに対する恩賞問題に忙殺されるなど難題を抱え、わずか三十四歳で他界しています。
まさに蒙古への備えだけが彼の一生と言っても良いでしょう。
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生前の彼に対しては神風ばかりが評価されて、朝廷から贈られた位階は正五位下という低いものでした。
しかし明治時代に日露戦争を迎えて、明治天皇は改めて外敵を防ぐことに功をとげた時宗の苦労を慮り、明治34(1904)年に、彼の眠る円覚寺の墓まで勅使を送り、従一位を追贈され今日に至っています。
源頼朝から北条氏にいたる為政者には立派な人物が輩出されました。
なかでも「神皇正統記」を著した北畠親房は、(あのときに比べて今の時代は…)という南北朝への恨み節もあったのかもしれませんが、「頼朝、泰時、時頼などがいなかったらあの時代はどうなっていただろうか」とこの時代の為政者たちを高く評価しています。
上智大学名誉教授の渡部昇一さんは、このころの北条氏が民の暮らしを重要視する優れた為政者であった背景に、頼朝の側近であった大江広元を通じて、唐の二代皇帝太宗による「貞観政要」が伝わっていたからではないか、と言います。
為政者たるものの在り方についてこれほど良く書かれた指南書はないともいえる教科書です。
人物そのものを鍛えるということが忘れられかけている今日ですが、歴史に学ぶという姿勢を忘れたくはないものです。