ちょいと固い話になりますが、「鯨とイルカの文化政治学」(三浦淳著 洋泉社)を読みました。
以前東京晴海にある日本鯨類研究所(通称「鯨研」)へ挨拶に行った際に、南氷洋で捕鯨調査船に妨害を繰り返すシーシェパードのことが話題となり、その際に、「何か参考になる書物はありますか?」と尋ねたところ返ってきた答えが、「それなら三浦淳さんの『鯨と…』が良いですよ」と教えられ、購入しておいたのです。
著者の三浦淳さんはドイツ文学を専攻された新潟大学教授という肩書き。やや異色の立場ですが、「反日本人論」という本を著したアメリカ人、ロビン・ギル氏に「面白いが、反捕鯨に関する記述には納得しかねる」という手紙を出したことで、数度のやりとりがあったことが鯨と関わるようになったきっかけだったと書いています。
その上で、興味を持って捕鯨と反捕鯨の主張に関して勉強を進めるうちに、いろいろな現実が見えてきたと言います。
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著書の中では、1986年に「中央公論」誌上で行われた、小松錬平とロビン・ギルとの間での論争について触れていますが、この1986年時点で、とりあえず双方が認識を同じくしている点は、
①捕鯨モラトリアム(暫定的中断)がIWC(国際捕鯨委員会)で決議されたのは、英米の政治工作のせいであること。
②捕鯨モラトリアムをしなくてはならないほど、に全ての鯨種が減っているわけではないこと。
しかし、その他の論点では意見はかみ合いません。
③反捕鯨は日本に対する人種差別ではないか、という点。
④他国の食文化と生態系の問題。
⑤クジラは知能が高いから殺すべきではない、という主張、などなど。
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著者は、欧米で捕鯨反対運動が始まった頃の事情として、アメリカがベトナム戦争への避難の矛先を変えるために捕鯨反対を持ち出したと解き明かします。
それは科学的なアプローチによる特定の種類の鯨の減少という事実ではありません。
なぜならIWCに対して捕鯨モラトリアムが訴えられた時に、IWCではそれを科学小委員会に諮るルールとなっていて、「その必要がある鯨種についてはすでに対策が取られている」として、小委員会では却下されています。
それを敢えて総会で押し通したことは既に科学的な態度ではなく、この決定に対してはFAO(国連食糧機構)も批判をしていると言います。
その後IWCには、米英の政治的工作により捕鯨をしない国が加盟国として加わり、捕鯨反対の票を投じてIWCの決定を左右しています。
反捕鯨団体の主張は、全ての鯨は減っているという調査による現実とは異なる非科学的な主張であり、それが通じないと見るや、「クジラはコミュニケーションが図れる可能性のあるくらい、高度な頭脳を持った生物であり、従って殺すべきではない」という、ほぼ信仰に近い言説に依っています。
現代の研究によれば、クジラの知能は牛くらいではないか、というのが定説のようで、それを神格化して大衆を扇動するのは、もはや科学とは言えない世界での力学です。
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著者は、元ワシントン条約事務局長で現在は国際野生生物管理連盟(IWMC)会長であるユージン・ラポワント氏の言葉を借りて、「欧米が捕鯨に反対するのは植民地時代への贖罪なのではないか」と言います。
かつて欧米諸国の植民地になったことのないノルウェーや日本の捕鯨に対しては反対をし、植民地となった後の先住民族であるイヌイットやアボリジニーがいて、彼らの捕鯨に対しては何も言わないという事実から見えることは、植民地となった先住民族に対しては贖罪の念があり、そうではないところと差別を同じこと。
ラポワントはそれを「価値観の植民地化が進んでいる」と看破していて、警鐘を鳴らしています。
しかしこうした現実政治の前に、どちらかというと日本政府は力が弱く、じりじりと後退しているように見え、反転攻勢をかけるような大きな戦略は描けていないように見えることは残念です。
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日本国内にも、反日的な言説に基づいた捕鯨反対論を掲げる論者は多い、と著者は指摘しています。
もはや捕鯨問題は化学から政治へと舞台を移しており、そうであるからこそ、我々は日本人として、ナショナリズムの発動としてではなく、事実と歴史をしっかりと学んだうえで、自分たちの文化は自分たちが守るという国際間の付き合い方の常識を主張してゆくしかないように思われます。
経済が弱くとも国は滅びませんが、歴史を学ばない国は滅ぶ。
その恐怖が頭をよぎります。