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昨夜10時発の急行に乗って函館に到着。今日は一日函館出張記です。
さて今日は、
■道南の縄文文化 の1本です。
【道南の縄文文化】
夜の十時発の急行で函館へ向かうと、函館到着は夜中の2時40分。
ひたすら長いホームを歩いて出口へと向かう風景は、かつての青函連絡船時代の名残をまだとどめていて、修学旅行のワンシーンがフラッシュバックする。
もっともこちらは汽車に揺られたのと飲み過ぎでふらふらしながらホテルへ向かい、部屋でバタンキュー。もう若くはないのだ。
朝に現地の函館開発建設部の方に迎えに来ていただき、まずは南茅部の縄文遺跡を案内していただいた。この南茅部は今は函館市と合併してしまい南茅部という地名はなくなっているのだそうだ。ちょっと寂しいなあ。
実は道南の内浦湾一帯には縄文時代の中期から後期に掛けての遺跡群が続出していて、青森の三内丸山などの北東北と道南とは一体の縄文文化圏を作っていたと考えられているのだそうだ。
縄文時代は、約1万3千年から1万年前に始まり、紀元前10世紀または紀元前3世紀頃まで続いたと考えられている。
案内していただいたのは函館市教育委員会の阿部さんと、ここの発掘のために作られたNPOの函館市埋蔵文化財事業団の坪井さんのお二人。
まず今盛んに発掘調査が行われている(仮称)臼尻小学校遺跡だ。ここでは開発局の道路事業に先立つ調査で大きな縄文中期~後期の住居跡が発見されている。
遺跡の調査は積もった土の色や性質の違いで、元からあった地盤かそれとも後から土が流れ込んだのかを判断するのだが、色だけでは素人目にはほとんど分からない。
坪井さんは「色だけでもある程度分かりますが、実際に発掘をするときは土の硬さでも分かります。親指で押してみると堅いところと少しだけ柔らかいところがあるのですよ」と説明してくださるが、やはり素人にはそこまでの眼力はない。
数多くの住居跡を歩きながら説明を受けていると、数人が固まって作業しているところから「出ましたよ!」と声が上がる。何事かと言ってみると、まさに今発掘されたばかりの新しい土器が土から顔を出している。
数千年ぶりに地上に顔を出した土器と巡り会うとはなかなかの感動ものである。
「縄文時代は今よりも年平均で1~2℃ほど気温が高かったということが調査研究の結果分かっていて、そのため北東北から道南地域にかけては豊かな実りの地域が広がっていたと推察されるのです」とは、阿部さんからの説明。
「住居の中には石で囲んだ囲炉裏が見受けられるのですが、最初は小さいんです。つまりそれほど大きな囲炉裏が要らないくらい暖かかったんです。それが年代が下ると囲炉裏が大きくなってきます。寒くなってきた証拠です。そしてさらに下ると今度は家が小さくなるんですねえ。寒さがより厳しくなってきたのでしょうね」
* * * *
私が「これは受け売りですが、アイヌ文化を語る上では今のアイヌの人たちばかりに注目するのではなく、北海道に残された世界的な縄文文化から語り始めて、直接ではないかも知れないけれどその文化的系譜を受け継ぐ意味でのアイヌ文化という風に視野を広げるべきだ、と考えているのですがいかがですか」とと質問してみると、阿部さんは「まさにそのとおりです。縄文文化の後には続縄文文化が続き、さらに続く擦文文化を経てアイヌ文化に繋がってきていると考えられています。今のアイヌの人たちばかりに注目するだけでなく、広い視野が必要だと思いますよ」と手放しの喜びよう。
我々はその後で今度は国指定遺跡となった大船遺跡を案内していただいたが、ここには出土したものをわかりやすい説明付きで展示している。
重要文化財でいずれ国宝にもなるのではないかと言われ「縄文のビーナス」とも呼ばれている中空土偶や世界最古の漆塗り土器も展示されていて、縄文時代の人たちの感性が偲ばれる。
北海道遺産にも指定されているこの内浦湾沿いの縄文遺跡群は、そういう大きな歴史的系譜の中でとらえて、北海道の自慢と誇りの種にしたいものだ。我が郷土の歴史を大きな目で見てみよう。
* * * *
続いての視察は新幹線新駅予定地となっている渡島大野駅周辺を見て歩き、最後は函館港の函館どっく跡地を視察。
現在ここは函館市で水産海洋施設構想が進められていて、市では海洋関係の研究拠点にしたいと構想をふくらませている。
観光地函館と古い函館、そしてこれからの函館を一度に見ることが出来て、充実した一日でした。
しかしこの縄文遺跡群は、道民なら一度は見て欲しいなあ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_please.gif)
さて今日は、
■道南の縄文文化 の1本です。
【道南の縄文文化】
夜の十時発の急行で函館へ向かうと、函館到着は夜中の2時40分。
ひたすら長いホームを歩いて出口へと向かう風景は、かつての青函連絡船時代の名残をまだとどめていて、修学旅行のワンシーンがフラッシュバックする。
もっともこちらは汽車に揺られたのと飲み過ぎでふらふらしながらホテルへ向かい、部屋でバタンキュー。もう若くはないのだ。
朝に現地の函館開発建設部の方に迎えに来ていただき、まずは南茅部の縄文遺跡を案内していただいた。この南茅部は今は函館市と合併してしまい南茅部という地名はなくなっているのだそうだ。ちょっと寂しいなあ。
実は道南の内浦湾一帯には縄文時代の中期から後期に掛けての遺跡群が続出していて、青森の三内丸山などの北東北と道南とは一体の縄文文化圏を作っていたと考えられているのだそうだ。
縄文時代は、約1万3千年から1万年前に始まり、紀元前10世紀または紀元前3世紀頃まで続いたと考えられている。
案内していただいたのは函館市教育委員会の阿部さんと、ここの発掘のために作られたNPOの函館市埋蔵文化財事業団の坪井さんのお二人。
まず今盛んに発掘調査が行われている(仮称)臼尻小学校遺跡だ。ここでは開発局の道路事業に先立つ調査で大きな縄文中期~後期の住居跡が発見されている。
遺跡の調査は積もった土の色や性質の違いで、元からあった地盤かそれとも後から土が流れ込んだのかを判断するのだが、色だけでは素人目にはほとんど分からない。
坪井さんは「色だけでもある程度分かりますが、実際に発掘をするときは土の硬さでも分かります。親指で押してみると堅いところと少しだけ柔らかいところがあるのですよ」と説明してくださるが、やはり素人にはそこまでの眼力はない。
数多くの住居跡を歩きながら説明を受けていると、数人が固まって作業しているところから「出ましたよ!」と声が上がる。何事かと言ってみると、まさに今発掘されたばかりの新しい土器が土から顔を出している。
数千年ぶりに地上に顔を出した土器と巡り会うとはなかなかの感動ものである。
「縄文時代は今よりも年平均で1~2℃ほど気温が高かったということが調査研究の結果分かっていて、そのため北東北から道南地域にかけては豊かな実りの地域が広がっていたと推察されるのです」とは、阿部さんからの説明。
「住居の中には石で囲んだ囲炉裏が見受けられるのですが、最初は小さいんです。つまりそれほど大きな囲炉裏が要らないくらい暖かかったんです。それが年代が下ると囲炉裏が大きくなってきます。寒くなってきた証拠です。そしてさらに下ると今度は家が小さくなるんですねえ。寒さがより厳しくなってきたのでしょうね」
* * * *
私が「これは受け売りですが、アイヌ文化を語る上では今のアイヌの人たちばかりに注目するのではなく、北海道に残された世界的な縄文文化から語り始めて、直接ではないかも知れないけれどその文化的系譜を受け継ぐ意味でのアイヌ文化という風に視野を広げるべきだ、と考えているのですがいかがですか」とと質問してみると、阿部さんは「まさにそのとおりです。縄文文化の後には続縄文文化が続き、さらに続く擦文文化を経てアイヌ文化に繋がってきていると考えられています。今のアイヌの人たちばかりに注目するだけでなく、広い視野が必要だと思いますよ」と手放しの喜びよう。
我々はその後で今度は国指定遺跡となった大船遺跡を案内していただいたが、ここには出土したものをわかりやすい説明付きで展示している。
重要文化財でいずれ国宝にもなるのではないかと言われ「縄文のビーナス」とも呼ばれている中空土偶や世界最古の漆塗り土器も展示されていて、縄文時代の人たちの感性が偲ばれる。
北海道遺産にも指定されているこの内浦湾沿いの縄文遺跡群は、そういう大きな歴史的系譜の中でとらえて、北海道の自慢と誇りの種にしたいものだ。我が郷土の歴史を大きな目で見てみよう。
* * * *
続いての視察は新幹線新駅予定地となっている渡島大野駅周辺を見て歩き、最後は函館港の函館どっく跡地を視察。
現在ここは函館市で水産海洋施設構想が進められていて、市では海洋関係の研究拠点にしたいと構想をふくらませている。
観光地函館と古い函館、そしてこれからの函館を一度に見ることが出来て、充実した一日でした。
しかしこの縄文遺跡群は、道民なら一度は見て欲しいなあ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_please.gif)
弥生時代の来なかった北海道独特の先史文化もアイヌ文化も立派な北海道遺産だと思います。遺産としてうまく活用できればと思います。
特に縄文文化は、これを系譜として受け継いだアイヌ文化と関連して語ることでさらに深みが増すものと思います。
いろいろとがんばってみたいと思いますので、東京目指して北と南から攻め上りましょう!