昔一緒にある情報系プロジェクトを実施したTさんが訪ねてきてくれて、お懐かしい限りです。
今度は昔の情報通信系の人たちと一杯飲みながら情報交換とまいりましょう。
【関係力】
私の朝の通勤はバスに乗って終点の札幌駅バスターミナルまで行きます。
今日乗ったバスでは終点のターミナルに着いて列の最後におりようとしたところ、バスの中程で眠りこけている乗客が一人いました。こんなとき皆さんならどうするでしょうか。
①声を掛けて起こしてあげる
②どうせ運転手さんが起こすだろうから自分は知らぬ顔をして降りてしまう
私の取った行動は、②で迷いながらも最後は①で、「もしもし終点ですよ」と声を掛けて起こしてあげました。起こされた人も別にお礼を言うわけでもなく、はっとしてそのまま私の後に続いておりました。
たったそれだけのことなのですが、一瞬迷った事は事実です。仮に運転手さんが気付かないまま車庫に行ったとしても、どうせ自分には関係ないのです。
しかしなんとかそういう弱気を克服して声を掛ける事が出来ました。私は寝ていた人に声を掛けたのではなく、寝たままで人が困るかも知れない社会に声をかけたのです。
もし自分がバスで眠ってしまったときに起こしてくれるのは、見知らぬ誰かさんという個人ではなく、そこに親切な人がいる社会なのだと思うのです。
私たちのコミュニケーション能力が低下しているといわれています。人に話しかけられない、人と会話が出来ない、他人と意思疎通を図ることが苦手…などなど。
私たちは「知らない人から声を掛けられたら答えては行けない」と教わり、「人を見たら泥棒と思え」と習います。荷物を座席に置いて席を離れると置き引きに遭うと教えられます。
確かにそういう被害にあうことも多いのでしょうけれど、私の実感は、席にカバンを置いたまま電車の外で静岡茶のペットボトルを買っても、置き引きには遭わない期待の方が大きいでしょう。
「人を見たら泥棒と思え」と教えられる事で社会から遠く離れ、隔絶して行く人は、社会に関係しようとはしないでしょう。
人は悪い事に会うリスクを恐れて消極的になることで、却って社会のリスクを増しているようにも思います。
人を信じなさい、となぜ教えられないのでしょうか。もしも一度でも他人に騙されてひどい目にあってしまったら、そんな人もいるであろう社会を信じる事は出来ないのでしょうか。
私は、「他人から信じられる人になること」も確かに大事ですが、「人が信じられる社会の一員として振る舞うこと」の方がずっと大事な事のように思うのです。もしかしたらほんの少しだけ勇気の要る事なのかも知れないのですが…。
* * * *
仕事の関係で、札幌とその周辺市町村を対象にしてパーソントリップ調査という、人がどのような目的や手段で移動したかというデータを公的なアンケートで収集する準備を進めています。
このアンケートの回収率が低い事が予想されていて、関係者一同頭を抱えています。
アンケートに答える事で個人情報が悪用されたり、ひどい事に関わるのではないかという恐れをいだいたり、関係ないから答えないという人が多いからです。
公的な目的のアンケートに答えてくださる事は、健全な社会づくりのために貢献する崇高な行動ですが、そうは思わない人が多いという事でもあるのでしょう。
ここでも社会に関わる力が問われます。社会から遠ざかれば社会の健全性が失われることになるのだという因果関係の実感がわかないし、直接的な利害も理解出来ないからでしょう。
このような多くの「社会との関わり方」についての価値観が薄れているようです。社会に関わって行く力の必要性とその価値観を親は子に、大人は若い人たちに伝えなくてはならないと思うのです。
ほんの少しの勇気を持って…。
今度は昔の情報通信系の人たちと一杯飲みながら情報交換とまいりましょう。
【関係力】
私の朝の通勤はバスに乗って終点の札幌駅バスターミナルまで行きます。
今日乗ったバスでは終点のターミナルに着いて列の最後におりようとしたところ、バスの中程で眠りこけている乗客が一人いました。こんなとき皆さんならどうするでしょうか。
①声を掛けて起こしてあげる
②どうせ運転手さんが起こすだろうから自分は知らぬ顔をして降りてしまう
私の取った行動は、②で迷いながらも最後は①で、「もしもし終点ですよ」と声を掛けて起こしてあげました。起こされた人も別にお礼を言うわけでもなく、はっとしてそのまま私の後に続いておりました。
たったそれだけのことなのですが、一瞬迷った事は事実です。仮に運転手さんが気付かないまま車庫に行ったとしても、どうせ自分には関係ないのです。
しかしなんとかそういう弱気を克服して声を掛ける事が出来ました。私は寝ていた人に声を掛けたのではなく、寝たままで人が困るかも知れない社会に声をかけたのです。
もし自分がバスで眠ってしまったときに起こしてくれるのは、見知らぬ誰かさんという個人ではなく、そこに親切な人がいる社会なのだと思うのです。
私たちのコミュニケーション能力が低下しているといわれています。人に話しかけられない、人と会話が出来ない、他人と意思疎通を図ることが苦手…などなど。
私たちは「知らない人から声を掛けられたら答えては行けない」と教わり、「人を見たら泥棒と思え」と習います。荷物を座席に置いて席を離れると置き引きに遭うと教えられます。
確かにそういう被害にあうことも多いのでしょうけれど、私の実感は、席にカバンを置いたまま電車の外で静岡茶のペットボトルを買っても、置き引きには遭わない期待の方が大きいでしょう。
「人を見たら泥棒と思え」と教えられる事で社会から遠く離れ、隔絶して行く人は、社会に関係しようとはしないでしょう。
人は悪い事に会うリスクを恐れて消極的になることで、却って社会のリスクを増しているようにも思います。
人を信じなさい、となぜ教えられないのでしょうか。もしも一度でも他人に騙されてひどい目にあってしまったら、そんな人もいるであろう社会を信じる事は出来ないのでしょうか。
私は、「他人から信じられる人になること」も確かに大事ですが、「人が信じられる社会の一員として振る舞うこと」の方がずっと大事な事のように思うのです。もしかしたらほんの少しだけ勇気の要る事なのかも知れないのですが…。
* * * *
仕事の関係で、札幌とその周辺市町村を対象にしてパーソントリップ調査という、人がどのような目的や手段で移動したかというデータを公的なアンケートで収集する準備を進めています。
このアンケートの回収率が低い事が予想されていて、関係者一同頭を抱えています。
アンケートに答える事で個人情報が悪用されたり、ひどい事に関わるのではないかという恐れをいだいたり、関係ないから答えないという人が多いからです。
公的な目的のアンケートに答えてくださる事は、健全な社会づくりのために貢献する崇高な行動ですが、そうは思わない人が多いという事でもあるのでしょう。
ここでも社会に関わる力が問われます。社会から遠ざかれば社会の健全性が失われることになるのだという因果関係の実感がわかないし、直接的な利害も理解出来ないからでしょう。
このような多くの「社会との関わり方」についての価値観が薄れているようです。社会に関わって行く力の必要性とその価値観を親は子に、大人は若い人たちに伝えなくてはならないと思うのです。
ほんの少しの勇気を持って…。
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“人は悪い事に会うリスクを恐れて消極的になることで、却って社会のリスクを増している・・・”
“「他人から信じられる人になること」も大事ですが、「人が信じられる社会の一員として振る舞うこと」の方がずっと大事・・・”
昨晩(というか早朝)この文面を読んで頭が冴え渡ってしまい、眠ることができませんでした。あー、今日は小松blogで眠い眠い。
> 寝たままで人が困るかも知れない社会に声をかけた
いい表現ですね。納得です。
同じような経験をしたことがあり、おおいに迷いました。
第三者から見れば小さな「勇気」なのですが本人にとっては意外と大きな決断なのかも。
相手が「社会」なんですから。
いけないことをしている見ず知らずの子供に注意をするときもそんな気がします。
眠りこけて車両入れ替えの車庫の中まで入ったのだろう。車掌も運転手も気がつかなかったようだ。{昨日はどこに泊まったの}
やはり①であって欲しい。良い世の中にしょうぜ。