星のひとかけ

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Winterreise『冬の旅』:第十四章「霜雪の頭」Der greise Kopf

2019-02-15 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


昨日書けなかった 『冬の旅』のつづきを…

第14曲の「霜雪の頭」は すこし分かりにくい歌です。 曲調も 詩も。

前の曲の「郵便馬車」の駆け抜けていく タッタタッタタッタ… というリズムがすとん、と終わって…
とたんに歩みが遅くなったように 悲嘆にくれた伴奏がとぼとぼと…。 
疾風のように消えていった郵便馬車はもう影も形も見えなくなって、 旅人はまた独り、 凍った山道に取り残されている、、 その急に静まり返った路上の自分に気づき、、 はーぁ…と溜息をついたかのように歌がはじまります。

最初に 分かりにくい、と書いたのは ボストリッジさんも同様に文中で触れていますが、 この主人公は自分の頭が霜で真っ白になったことをどうやって《客観化》できたのか… 山道や森の中という 鏡もない場所で…
そして 自分の頭が真っ白の老人になったように見えたとして それが「うれしかった」と他人事のように歌うこと… これも自嘲的な《客観化》のひとつ。。

でも、 その頭は単に霜がついていただけで 実際は黒髪のままでした。。 そのことに対しても旅人は、 (老人になったのではなかったなら)「棺に入るまでにはまだどれくらいあるのか」 と自らの《若さ》をよそ眼で客観視している。。 一夜のうちに白髪にならなかったことが 彼は嬉しいのか、嬉しくないのか、、 死に急ぎたいのか、 そうではないのか、、

終わりの詩連での、 「一夜のうちに白髪になる人も多いというが (誰が信じようか)私がこの旅の間にそうはならなかったことを」 、、という分かりにくい独白は どんな気持ちを表しているのだろうか… 




ボストリッジさんは譜面に基づいて専門的に音楽面でのこの歌の解釈をなさっていますが、、 そちらのほうは私には難しいので、 ボストリッジさんが全然書いていないこと、、 単純に 私が想像したことを書いてみます。

ボストリッジさんも この旅人が自分の頭が霜で真っ白になったその姿を どうやって《客観視》できたのか、と書かれていますが… 私、思ったんです。。 前の曲で 旅人の横を郵便馬車が通り抜けて行きました。 郵便馬車には小さなガラス窓があるはずです。 そして馬車の車体はたいがい艶やかな黒塗りかと思われます。 [mail coach] で画像検索をすると ほとんどどれも似たような郵便馬車の画像がたくさん見られると思います。

旅人は、 横を通り過ぎた郵便馬車に映った自分の姿を見たのではないかしら…。 ちらと映った姿は 疲れ切って年老いたような自分の姿で、、 走り抜けていく郵便馬車の風で屋根から、 あるいは周りの樹々から 雪が舞い落ちて旅人に降りかかり、 一瞬 彼の頭は白く見えたのかもしれません。。 その郵便馬車が遠く去っていって、 静まり返った道に一人、 旅人は残される… 脳裡に残像のように さきほど見た自分の姿が残っている…

その姿… 郵便馬車に映った自分の姿は まるで白髪の老人のようだった、、 ならば死も近いということだ… それもいいだろう… 
、、「郵便馬車」の前は「孤独」の歌でした。 強い孤独を感じながら歩いていた旅人は 自嘲的に死へのやすらぎを感じてしまったのかもしれません。 でも…

… 頭に降りかかった霜はすぐに溶けて 髪に手をやって見てみれば昨日と変わっていない黒髪、、

一夜のうちに白髪に変わってしまうような恐ろしいほどの精神の打撃も 結局自分はまだ受けていないのか…  自分の若さは墓に入るまでにまだまだ長い時間があるようだ、、 自分のこの旅の苦しみは、 自分を憐れんで悲嘆したほどには実のところ まださほど己を苛んではいないということか…

己の試練は まだこの程度か… と。。 そんなふうに旅人は今の自分を《客観視》してみたのではないかしら…

だからまだ旅はつづくのです、、 まだ何も変わってはいない…


 ***



きょうはとても寒い日でしたね。 、、空も寒そうだけれど美しい冬の空でした。 「喜びは分けあえる、 愛もそうだ」 というロバート・ネイサンの言葉を 以前ここに書きましたけれど… 、、生きるという旅の中では 一人で味わう厳しさや 孤独のなかでしか得られない美しさも また あると思うのです。。


一週間おつかれさま…

あたたかい週末をお過ごしください…