初めの方で、ベン・ヘクト(風と共に去りぬの最終稿をノンクレジットで書いた)、チャールズ・マッカーサー(ヘクトと共作したのが四度にわたり映画化された「フロント・ページ」)などといった脚本家たちがスタンバーグやセルズニックに向かってまだ一行も書いてないシナリオの内容をキャッチボールするようにピッチ(プレゼン)して何だかもう完成したみたいに思わせるあたり、昔の日本の具流八郎(鈴木清順、田中陽造、曽根中生ほか)、ジェームズ槇(三木ではない、三木の方がパロディーとしてペンネームにした、小津安二郎、池田忠雄ほか)などの共同作業としてのシナリオ作成を思わせる。
誰が「市民ケーン」のシナリオを書いたのかというポーリーン・ケールの「スキャンダルの祝祭」以来論争を一種無効化するようでもある。
オーソン・ウェルズはここではのちの映画作家としての監督というより、マーキュリー劇団の座長としての権力と仕切りを見せている感じ。
もともとヌーヴェル・ヴァーグで映画作家として祭り上げられたのを、映画は共同作業による創作だという持論において批判したのがケールという図になる。
映像メディアを徹底的に利用した政治権力者であるヒトラーの名前がちらっと背後に聞こえるのがこの頃がまさにメディアと政治が分かちがたく結び付いた時期なのがわかる。
メディアと政治というのが分かち難く結びつき、建前としての公平と金の力によるショーアップによる知名度による権力の合法的な権力の再生産と強化という実態の対比がひとつのモチーフになって、そのメディアの担い手のひとりであるハリウッドの脚本家であるハーマン・マンキヴィッツが、自分自身にも責任のある立場ながらドン・キホーテとして挑む、その背景にはケーンのモデルであるランドルフ・ハーストの愛人マリオン・デイヴィスに対する敬意がある。
この「マンク」「市民ケーン」そのものでは大根役者として描かれたマリオンの名誉回復の感もある。
メディアと政治は今ではこの当時とは比べ物にならないくらい発達して、トランプという鬼っ子すら産んだ。
ゲイリー・オールドマンは現在62歳だから40代のマンクを演じるのにデジタルメイクを使ったのだろうな。
マンクがアルコール依存演技(オールドマン自身依存症の治療を受けたわけだが)を照れ隠しのようにてこにした、強大な権力者に言いたいこと、言うべきことを言う長いシーンは見事。
デジタルカメラで撮られているだろうに、ところどころフィルムチェンジを示すマークが現れるのが細かい。