瀬戸内寂聴と井上光晴とその妻の三角関係を描いた井上荒野の小説の映画化。
井上荒野は井上光晴の娘なのだから、父親の不倫を描いているわけで、画面には井上の娘たちも写っているのだからどうも凄い話。
ドキュメンタリー「全身小説家」でも捉えられていたが、とにかく井上は文学の私塾に集まっている弟子の女性たちに競ってちやほやされていて、瀬戸内寂聴以外にも手をつけてる女は数知れずという感じで呆れてしまう。
瀬戸内寂聴の説法会に集まってくる人たちの雰囲気に通じるものがある気がする。
本妻の広末涼子が呆れかえった夫に対して能面のような無表情のようで微妙な感情が揺れている顔を見せて絶妙。
井上の妻が実は自分でも小説を書いているというくだりは実際は証拠はないらしいがありそうな話。
ドストエフスキーの妻アンナが夫の聞き書きや秘書的な役割だけでなく女性の言葉遣いや習慣の考証さらにはキャラクターの造形など創作の内実にも関わっていたのではないかとか、小説ではないがバッハの妻のアンナ=マグダレーナが結婚前の楽譜に筆跡を残していて、やはり影響はあるのではないかといった説はある。おそらくそういった埋もれた妻の創作というのはもっとあるのではないか。
2022年12月時点で廣木隆一監督の三本の新作が同時に公開されていて、この一年だと全部で5本、他にドラマシリーズもあるのだから凄い。
ここでは引いたサイズの移動を交えた長回しに超アップをぱっと繋ぐ、といったかなり見慣れた同監督のスタイルがはっきり出ている。
正直先日見た「母性」にはそういったスタイル感覚が乏しく首をひねったのだが、この違いはどこから来たのだろう。
あと「母性」でも70年代の左翼活動について触れているところがあるけれど、こちらではたとえばバーに機動隊に追われて転がりこんできた学生運動家男女二人にヒロインがカンパしたり(あさま山荘以前は一般市民にも学生運動にシンパシーを持つことは珍しくなかったらしい)、テレビで東大闘争や三島由紀夫の割腹を伝えるニュースが流れたり、井上の三島に対する反感丸出しの文章の引用が朗読されたりと、かなり細かく左翼周辺の空気を書き込んでいる。
脚本が荒井晴彦ということがやはり大きいか。