途中までなぜ絶交を言い渡したのか説明されるのかなと思っていたが、ある程度展開したところでこれはそういう理由付けはしないなと見極めがついたし、実際その通りになる。
ブレンダン・グリーソンの家には日本の能面やアフリカかどこかの民芸品が飾ってある、それと蓄音機がぎりぎりの「文化的」アイテムで、あと時間をつぶすとすれば酒を呑んでおしゃべりするだけということになる。あるいは島の外の世界がわずかに顔を覗かせているとも言える。
粥みたいなのとか煮込みみたいなのとか、食事も美味そうではない。
風景は素晴らしく美しいが、一方で不毛でもある。
少し話がそれるが、1934年つまりこの映画の時代設定より少し後に地質学者で探検家でもあった記録映画作家ロバート・フラハティがこのあたりの住人たちが海藻をえんえんと積んでいって土にする作業などを記録した「アラン」が世界ドキュメンタリー映画史の嚆矢になっているわけで、それこそ文化果つるところ扱いだったわけだ。
「ピアノ・レッスン」での指は性的なメタファーという指摘があったが、そう狭い意味ではなくても音楽(=生への志向)を断ち切るような意図があるのかなと思ったりする。
精霊といっても、はっきりした老女の姿をしたのははっきり生きた人間なのだし、妹が島を出る時にピンボケした人影として現れる、その表現自体のボカシ方が珍しい。アイルランド映画の体質として象徴的だったり現実と幻想の両方に足をかけていそうなのだが、そうはしていない。
ふたりの対立がアイルランド本土で行われている内戦のメタファーであることは確かだが、その他の表現のどれがどういうメタファーなのかといったことはあからさまに示していない。このあたりの匙加減が一筋縄ではいかぬところ。
芸術の理解にメタファーの表わすものを見出すというのはあるのも確かだが、裏を読むばかりでなく表に出たものそのものをまず受け止めるのも大事だろう。
これだけ当惑するくらいわからんところだらけなのだが、演技者の実力や役の表現に間違いや過不足があるとは思わせないのだから不思議なもの。