<登場人物>
木口真理子
木口正一
管理人
公園の若い母親
公園の赤ん坊
妊娠中の女性・真理子。夫の正一は忙しくてほとんど家には寝に帰ってくるだけの状態でほっぽり放しの状態。
「赤ちゃんが欲しくないの」と問い詰めるが、言を左右にしてはっきり答えない。
そんな日々が続くうち、隣から子供の泣き声が聞こえてくる。その泣きように何か異様な感じを受けた真理子は、虐待でもしているのか何とかしないといけないのではないかと、と正一に相談するが、正一はろくすっぽ耳を貸さずにさっさと寝てしまう。
管理人に訴えると、隣には誰も住んでいないという。管理人立会いのもとで確認するが、確かに隣室はがらんとして人が住んでいる形跡はない。
しかし、再び部屋で一人でいると、隣の子供の声はやはり聞こえてくる。
耐えかねて隣のドアのチャイムを鳴らしてみると、返事があって中から鍵が開けられる。しかし、ドアチェーンがかけられて、鍵を開けた人間の姿はほとんど見ることができないが、髪の長い女であることはわかる。
真理子は女に何をしているのか問い糺すが、ぶつぶつ意味不明の言葉が聞こえるだけで、まともな受け答えにならない。
いらだちかけたところで、女は唐突に「私の赤ちゃんを見てください」と言い出す。
真理子はむげに断ることもないので、室内に入る。
中に入ってみると、椅子がひっくり返っていたり、床の上にポケモン柄の食器がほこりにまみれて出しっぱなしになっていたりしていたり、ひどく乱雑だ。
どこからか生臭い匂いがする。どうもバスルームから匂ってくるらしい。そこでそっとドアを開けて見ると、洗い流した血がこびりついて残っている跡が見つかる。いったい、バスルームで何が行われたのか。ぞっとする真理子。
どこかから、また子供の泣き声が聞こえる。しかし、見渡しても子供の姿が見えない。
哺乳瓶がそのあたりに放り出されているが、長いこと使われた形跡がない。
「お子さんはどこでしょう」
「そこにいるじゃないですか」相変わらず顔の見えない女は答え、ベビーベッドを示す。
しかし、ベビーべッドを覗いて毛布をめくってみると、そこにいるのは赤ん坊の人形だけだった。そうっと人形を抱き上げてみる真理子。
「何をするんですっ」女の鋭い声がとぶ。
真理子は怯えた拍子に人形を取り落としてしまう。しかし、人形のはずなのに泣き声が響き渡る。混乱する真理子。
泣き声はさらに激しくなった。真理子はそれ以上耐え切れず、部屋から逃げ出そうとする。
女が追ってくる。逃げる真理子。ドアから飛び出せた、と思った瞬間、髪をつかまれる。真理子はなんとか振りほどき、そのまま廊下を駆け抜けてアパートから逃げ出す。
しばらく自分の部屋に戻る気がせず、やむなく真理子はぶらぶらする。
夫に電話をして、いつ帰るのか聞くが、埒が開かない。「声だけで姿が見えない赤ん坊ってどういうことだ。そんなのいるわけないだろう」と、にべもない返事が返ってくるばかりだ。
公園にベンチに座っていると、本物の赤ん坊連れの母親の姿が目に入る。ちょっと微妙な気持ちで見る真理子。
ベンチに座ってしばらく自分の大きなおなかを抱えていると、赤ちゃんの泣き声がする。
微妙に嫌な顔をしてそちらを見ると、さっきの母親が子供をあやしている。
それから真理子は携帯でゲームをしたりして時間をつぶして過ごす。と、また泣き声が聞こえるので、何気なくさっきの方を見てみると、誰もいない。公園には、真理子以外誰もいない。
え、となる真理子の耳に、また泣き声が聞こえてくる。どこから? すぐそばからだ。しかし誰の姿も見えない。
真理子はベンチから腰を浮かせかける。
そこに突然、顔の見えない女が後ろから覆いかぶさるように組み付いてくる。
真理子の絶叫に、赤ん坊の泣き声が大きくかぶさって…。
真理子が気がつくと、自分の部屋にいた。「いつのまに…」さっきあった出来事は夢か何かだったのだろうか。
すでに夜になっている。正一に電話するが、「おかけになった携帯は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないのでかかりません」といっこうに出ない。
ドアのチャイムが鳴る。びくっとする真理子。なおもチャイムは鳴り続ける。そっと玄関ドアに近づき、外を覗く。正一がいた。
「なんで自分の家に入るのにチャイムを鳴らすのよ」と真理子はドアを開ける。
「何を騒いでいるんだ」と正一はにべもない態度でいる。
「変な女がついてきているのよ」と懸命に訴えるが、正一はほとんど興味を示さない。姿を見せない赤ん坊の話をしても、「そんな赤ん坊がいるものか」と取り合わない。
真理子は激昂し「欲しくないからそういうことを言うのよ」と正一に殴りかかる。と、正一は真理子のブラウスの中に手を突っ込もうとしてくる。
真理子は激しく拒否し、バスルームに閉じこもってしまう。
と、そこは一面血みどろで、出刃包丁やノコギリも血にそまって転がっている。
「いったい、これは…」呆然とする真理子。
外から思い切り蹴飛ばしてくる音が響く。しばらくドアの外であらん限りの罵りを浴びせる正一。
真理子は、ときおりおなかに手をやって、「安心して。あなたは必ずあたしが守ってあげるから」とおなかの中の子供に語りかける。
そこにいきなり声が響く。「何が赤ちゃんだ。赤ん坊なんていない。みんなおまえの思い込みだ」バスタブに血だらけになって横たわっている、そんなところにいるはずのない正一は語りかける。
真理子はあとずさって、洗面所の鏡の前に来る。
ふと見ると、そこに顔の見えない女が写っている。凍りつく真理子。だが、鏡の中の女が髪をおおわれた顔を上げると、現れたのは真理子自身の顔だった。
真理子はバスルームを飛び出す。
そこには、まだ血にまみれていない正一が待っている。「いつまで妄想にふけっているんだ。赤ん坊なんていない。おまえは妊娠などしていない。見ろ」
と、むんずと真理子の膨らんだ腹を鷲づかみにする。と、しゅうっと空気が抜けた風船のようにみるみる膨らんでいた腹がしぼんでしまう。
「想像妊娠だよ」
泣いていたのは真理子の子供ほしさから来た想像妊娠から生まれた、現実には存在しない赤ん坊だった。
だがそれを知った、というより思いだした真理子は逆上して、正一を殴り、刺し、首を絞めて殺す。決して正一がつきつける事実を認めようとはしない。
「赤ちゃんはいる。あんたがいくら認めなくても、いるものはいる」
そして、正一の体をバスルームでばらばらにして、小分けにしてあちこちに捨ててまわる。
ベビーベッドを買い込み、準備万端整える。しかし、肝腎の赤ん坊が生まれることは、もちろんない。
だが、ベッドには代わりに人形が寝かされている。真理子の耳には、赤ん坊の泣き声が響き続いている。しかし、以前のように神経をいらただたせることなく、うっとりと耳について離れない赤ん坊の泣き声に聞き入っているのだった。
<終>
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