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アメリカのAmazonに頼んだつもりのイギリスの女性陶芸家ルーシーリーの本がイギリスから届きました。自伝を書いた唯一の本だというので頼んだのですが、届いた本は大型のグラビア本です。 沢山の作品が写真で収められています。この2週間、この大型の重たい本をベットでひっくり返って読み続けました。
20世紀初頭にウィーンの裕福な家庭に産まれたルーシです。ウィーンで陶芸技術を学びヨーロッパ大陸では名前が知られ始めた頃に、ナチの弾圧を逃れるためにイギリスに渡ります。ウィーン時代、ハンスリーと結婚して住んだ家にも陶作の作業場を設けていました。戦時下ということもあり、イギリスに渡ってすぐには陶作を始められなかったようです。アメリカに渡ると言う夫と離婚して、イギリスに残り陶作をはじめます。この結婚生活は13年続いたと言います。以後、結婚をしていません。子供もありません。この夫であったハンスリーとは、その後も生涯交流があったようです。
日本の民芸運動で有名なイギリス人のバーナードリーチと交流が始まります。常々、リーチから日本的な焼き物の何らかの影響をルーシーは受けていたのではないかと、私は思っていました。確かに、戦後イギリスを訪れた柳宗悦、濱田庄司に会っており、濱田庄司はルーシーの工房を訪ねています。ところが、日本的な陶作を聞き知ってはいても、それを自分に引き込むことは無かったようです。私が日本的なと思ったのは、ルーシーの作品の形よりよく彼女が使っていた書き落としの技術でした。書き落としをルーシーが始めたのはギリシャの焼き物の影響のようです。絵付けを施さなかったルーシーは、釉薬と形作り書き落としのような技法で作品を作り続けます。
ハンスクーパーという同じような境遇のユダヤ系のルーシーより遥かに若い男性が、工房で一緒に働くようになります。ハンスはルーシーとともにイギリスのひとつの陶芸の時代を作り上げた人です。また、ウィーン時代からの友人で建築家のプリシュケやガラス作家のランプルという男性達とも長く交遊を繋いでいます。
こうして戦後、ルーシーの名前は世に広く知られるようになります。日本に紹介されたのは1989年、三宅一生が中心となった東京、大阪での展示です。この時の会場内の設計は安藤忠雄だったと聞きます。この翌年、88歳のルーシーは能卒中で倒れます。それ以後93歳で亡くなるまで、作陶から遠のいて行きます。最初の能卒中の後に作られた書き落としの作品は、あの緻密な線が彫られずに残っていたそうです。後年は、「私は充分なポットを作ったかしら?」と言葉も不自由な中尋ねたと書かれています。
私生活では独身を通し、お菓子を焼いたり、マーマレードを作るのを楽しみにしていたそうです。好き嫌いのはっきりしたルーシーは、人の好みもうるさかったようです。何事にも最後は自分を貫いた人だから出来たあの作品達ではないでしょうか。
この本を読みながら、ルーシーが残したというメモを元に2度目のルーシーのチョコレートケーキを焼きました。最初は作り方も全く同じにしましたが、今回は配合は同じ作り方をやや変えました。卵液に次々足して行くやり方ではなく、卵白を泡立てて最後に加えました。ルーシーオリジナルより軽くなります。卵白が立っている分、嵩が少し持ち上がっています。重いチョコレートケーキがお好きな人はオリジナルの方がいいと思います。このケーキ「ルーシーのチョコレートケーキ」として我が家の作り続けるお菓子となりました。