チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

鮮蝦雲呑(センハーワンタン)香港

2017年01月21日 | 香港

曇り、14度、70%

 香港は麺類の数が限りなくあります。インスタントラーメンを食べさせる店からお祝いの席に出てくる豪華な伊勢海老の麺まで材料と麺との組み合わせでよりどりみどり。スープの麺、炒めた麺、茹でただけで具材が載っている麺。その中でも、地元の人にも、観光客にもポピュラーな麺といえば、やはり、「鮮蝦雲呑麺」であることに異議がある人はいないと思います。

 この「鮮蝦雲呑麺」だけでミッシュランをとった店もあります。小さな麺だけを扱う店は朝早くから夜遅くまで店を開けています。ちょっとお腹が空いた時ふっと入っていけるお店です。お昼時はもちろん一日中お客でいっぱいです。この「鮮蝦雲呑麺」は、固めに茹でた細い麺に澄んだ蝦のスープと雲呑がついてきます。雲呑もいろいろありますが香港の雲呑は丸のままのプリプリとした蝦がたくさん入っているのが特徴です。生の蝦と少しの豚のミンチを雲呑の皮で包みます。この豚のミンチの割合、脂身の具合が美味しさを決めます。

 私はお店に食べに行ってもこの「鮮蝦雲呑」だけを頼みます。お腹の空いてる時は「鮮蝦雲呑麺」を頼みます。「鮮蝦雲呑麺」を頼むとお店によっては麺の下の雲呑を隠して出してくるので、「あら?雲呑がない。」と思うことがありますが、麺を返すと雲呑登場です。薬味は黄色いニラです。そして、時々「鮮蝦雲呑」だけをお店で買ってきます。寒くなってお鍋の季節には、香港人も生のままの「鮮蝦雲呑」を買っていきます。大抵の麺屋さんでレジの人に「鮮蝦雲呑、一打。」といえば発泡スチロールの容れ物に入れてくれます。一打、とは一ダースのことです。つまり12個です。

 先日は、この「鮮蝦雲呑」とお豆腐、えのきのスープを作りました。出汁はこの雲呑のエビから出てきます。 直径が4、5センチもある雲呑です。それがゴロゴロ入っているのはなんとも贅沢な気分になります。

 豪華な値段の高い中華もそれはそれで美味しいのですが、庶民のお腹と舌を満足させ続けてきた「鮮蝦雲呑麺」などこそ香港の食べ物の美味しさを素直に伝えてくれます。日本に帰ったら、一番恋しく思う味になると思います。

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さくらまもり 浅間神社

2017年01月20日 | 日々のこと

 

曇り、17度、76%

 主人は20数年、毎年、お鏡の頃に日本に出張に行きます。会社の幹部会です。長い時は10日ほども香港を空けます。毎年日曜日を挟みます。福岡の両親を訪ねることもありますが、今年は息子家族と主人に欠かせない初詣、靖国神社に行きました。いつもは一人で詣でるのに今年は小さな孫娘も一緒です。

 元旦に息子家族から年賀の電話をもらった折、「父さん、母さんにお守りを送るから。」と言っていました。主人に会うついでができたので、息子たちはそのお守りを主人に託しました。香港に帰ってきた主人の荷物にはたくさんのお守りが入っていました。その一つが「さくらまもり」です。

 息子たちが三が日に詣でたのは、地元の多摩川「浅間神社」です。孫娘のお宮参りもここでした。多摩川を見下ろす高台にあるこの神社、お正月の空気が晴れ渡る日には、遠く富士山を眺めることができます。すぐ下を私鉄が鉄橋を渡る音を聞きながら、川下に目をやれば新幹線が多摩川を渡るのが見えます。この景色は私や主人にも懐かしい数十年変わらぬ眺めです。やはり私たち家族もこの「浅間神社」に初詣しました。

 息子たちはここで主人、私、そしてモモさんにお守りを揃えてくれました。モモさんにもらったのが「さくらまもり」です。花の季節になると多摩川台公園から続くこの「浅間神社」一帯が桜色に染まります。桜を下から眺めるのもいいものですが、横浜から私鉄に乗って帰ってくる時、見上げるこの一帯の桜色に煙って見える様子は格別です。この「さくらまもり」に書かれていることを読んで初めて浅間神社の御紋が桜だと知りました。

 モモさんあと2週間で初めて飛行機に乗ります。何分にも13歳というお歳です。しかもお鼻の短いパグです。元気で日本に着いてくれるか心配です。息子一家もそのことを気にかけてくれています。ありがたいことにモモさんたくさんのお守りを頂戴しています。そのお守りも一緒に当日は飛行機に乗ります。くださった方達の気持ちと共にモモさんが日本に無事着くことを信じています。

 モモさん、今年は桜を初めて見ることができますよ。

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車も日本に向けて出て行きました。

2017年01月19日 | 日々のこと

曇り、18度、92%

 家財道具の荷物を日本に出して、お次は、車です。2003年型、BMWZ4です。つまり初代Z4、ドイツではなくアメリカのサウスカロライナで造られた車です。私のこの車、ちょっと面白い経歴を持っています。アメリカで造られて、実は日本で販売された車で、日本で買われた西欧人の方が香港に持ってきて乗っていたそうです。中古で買うときに、ディーラーがその話をしてくれました。私が2代目の所有者です。確かに車の説明書は日本語でした。でも、まさかこの車を日本に持って帰るとは思っていませんでした。言い出したのは主人です。輸送費よりも香港で私が走った車です。思い出のためです。

 この車、日本に帰ることになりました。車の輸送はその道の人に頼みます。車が日本で売れれたものであることを話すと、車体ナンバーから陸運局へ問い合わせたそうです。はい、確かに登録記録が残っていたのだそうです。初めての輸入ではない車ということで、若干税金が安くなると聞きました。日本で中古車も新車も値段を調べてみました。輸送費、関税、登録、そんなにお安いわけではありません。でも、主人の気持ちをいただいて連れて帰ることにしました。

 香港から日本に向かう車のコンテナ船の数が減っているとかで、当初より日数がかかると言われました、まして、中華圏もうすぐ旧正月、春節です。昨日、我が家を出て行った車が福岡の家に着くのはひと月後でしょうか。日本に着いて、検査、登録を横浜で済ませ、福岡まで運ばれます。福岡の家の前庭にこの車の姿を想像します。主人に感謝です。

 家財道具の申請書類、車の輸出申請書類、本当にたくさんの書類と向かい合ってきました。そして、一つ一つ、送り出してはホッとため息をつきます。ため息をついて思います、今度は受け取りでまた書類です。お次は、一番大事なモモさんの最終健康診断と香港政府からのモモさんの輸出許可書をもらうことです。あと2週間、モモさんの健康維持とともにまだまだやらなくてはならないことが残っています。

 私が車に今度会うのは福岡、そして、その時はこの車、新しい日本のナンバープレートをつけています。「お帰りなさい、日本に。」

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燕三条のご飯釜

2017年01月18日 | 日々のこと

曇り、17度、85%

 日本に向けての荷物を出しました。主人は香港でまだまだお仕事です。以前、バーレンに単身赴任したときはホテル内でしたので、身の回りの日常は自分でする必要がありませんでした。つまり、御歳60歳にして自炊生活をなさいます。簡単な料理でしたら作れます。でも、普段は台所に入りません。いえ、入らせません。主人が台所を使った後は物が飛び散る、物が溢れたままです。さて、どのお鍋を置いていこうか、フライパンはどれを置いていこうか、ここ数ヶ月考えました。私だって使い慣れたものは持って帰りたい、数置いていっても使い切れないとも思います。

 結局、フライパン2つ、お鍋が3つ、包丁一つ、あと細々。私が使っていたお鍋は片手鍋の大小を残しました。一つ、主人が取引先の方からいただいたお鍋がありました。2合炊きのご飯釜です。あの鋳物で有名な新潟県の燕三条で作られた鉄のお釜です。箱から出してきて、あら可愛い。蓋の白と取っ手の赤がアクセント。出張に出る前の日曜日、主人が自分でご飯を炊くと言い出しました。練習です。主人は、学生時代山岳部ですから飯盒やお鍋でご飯を炊くのは慣れたもの、最後に水加減だけ私が確認、火加減も自分なりに調整しています。美味しいご飯が炊けました。

 このお釜、もちろん煮炊きに使えます。ihにも対応しています。無水釜やダッチオーブンのようにケーキも焼けるそうです。火の当たりがまろやかなお釜です。いい物作りを目指す燕三条ならではのお釜です。荷物に鍋釜を詰めた後からはずっとこのお鍋で煮物を作っています。つまり、ここ数日、私も片手鍋2つにこのご飯釜で調理をしています。物が少なくたって十分生活できると、何やら送り出した荷物の多さを顧みます。日本にいた頃は家族でよくキャンプに行きました。今の私、一山の服に2冊の本に少ない調理器具、少ないお皿とお椀で生活です。久々のキャンプ生活です。

 食器も多すぎても持て余すだろうしと数少なく残しました。ナイフやフォーク、 主人においていくのは、エアーフランスでもらったものです。まだテロなどという前、ちゃんとステレンレスで出来ていました。スチュワーデスのお姉さんに「これください。」と言うと新しいのを2組持ってきてくれました。私が戻った時のために2組揃えて置いて行きます。

 モモと私がいなくなった後の主人の生活を考えると心配ですが、きっと自分の時間を自分だけのために楽しんでくれると思います。さて、今晩、いよいよ出張からお戻りの主人です。玄関のドアーを開けたら、声がこだまするのに驚くことと思います。

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モモさん、13歳を迎えました。

2017年01月17日 | もも

曇り、16度、79%

 おかげさまで、モモさん13歳を迎えることができました。ありがとうございます。

 ペットショップで9ヶ月になるまでいたモモさんを見るに見かねて我が家に連れてきました。まだ、日本にいる両親たちも元気でした。それでも主人は「親たちが病気の時はどうするつもりか?」と聞きました。その親たちも今では義母のみが健在です。この13年間、そうして私の身辺の変化もありました。そして、いつもモモさんがそばにいてくれました。

 ここ数日、おそらく私にとっては過去にないほど大きな引越しの荷物を作りました。モモさんが我が家に来て初めての引越しです。家に4日、こもって荷造りをしました。ずっとモモさんと一緒です。ところがこの私、朝から寝るまでコマネズミのように動き回っています。ご飯をとっていても、急に立ち上がり片付け物をしたり、落ち着きません。モモさん、さすがに何か起こりそうな気配を感じたようです。奥の部屋のチェストを空っぽにしてリビングまで運んだ時のことです。 モモさんがうちに来て以来ずっと同じ場所にあった大きなものが動かされたのですから、無理もありません。私が床に座って食器を包んでいると、本棚の向こうからガサゴソ音がします。見ると、 小さなダンボールに無理無理入ろうとしています。「小さすぎるわよ。」座ろうと中にある新聞を踏んづけるモモさんですが、座れません。私に不安を訴えているのでしょう、そう思い横に座ってしばらく抱いてやりました。

 引越しの荷物を出す当日、昨日ですが、やはり朝から私について回ります。モモさんのクレートとキャリーバックはチェストがあった一番奥の部屋に移動させられました。最後の荷造りの間、モモさんは奥の部屋で一人でいてもらいます。荷造りの人が来る前に、奥の部屋でモモさんに話しました。「この荷物が全部出て行ったら、しばらくゆっくりしようね。そして、モモさんも飛行機に乗って、日本に行くんだよ。」そう言ってしばらく抱きました。かれこれ3時間強、書類作りがありますから、この間一度もモモさんがいる奥の部屋のドアを開けることができませんでした。荷物が出て行って、まずドアを開けたら、モモさんクレートで寝ていました。大きな音がする中、不安でもクレートで寝ていました。起こして、さあお昼ご飯ですよ。

 13歳、人間で言えば70歳を超していると思われます。モモさん、大きな変化がある年になりました。初めての飛行機、初めての新幹線、初めての家、初めての土地。主人は香港に残ります。私一人が頼みのモモさんです。きっと乗り越えてくれると信じています。いつも側にいるからね、時々ぎゅっと抱いてあげるからね。モモさん、ありがとう。

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日本に向けて荷物を出します。

2017年01月16日 | 日々のこと

雨、15度、83%

 丸々4日間、家に籠って荷造りをしました。幸に主人が長い出張です。主人がいれば、朝から「真奈、真奈。」と連呼します。ご飯の用意だって大変です。私とモモだけですから、早朝から仕事ができます。おまけに雨が続いて走りにだって出かけません。

 30年住んだ香港、この家には17年住みました。荷物を三回に分けて出したのは正解だったと思います。今回は食器、台所用具が主です。本ばかりの時は楽でした。箱に本を放り込むだけ、ところが食器はそうはいきません。新聞紙などより張りのある梱包用の紙がどっさり届きました。それに一つ一つ包みます。食器の数はあるとは認識していましたが、ありますあります。洋食器はこちらで揃えたものが多いのですが、和食器に至っては日本から持ってきたものに加えて、帰国の度に私がトランクで持ち帰ったものも多くあります。働き蜂のように、セッセと家に物を持って帰ってきていたのです。

 本は重いとの思い込みが吹っ飛ぶくらい食器も重い荷物です。その上、鍋が鉄製と来ています。小ぶりな3サイズを蓋とも箱に入れただけでこれまた重い。運ぶ人のご苦労を思いますが、皆さんいつもひょいと2箱ぐらい持ってくださいます。

 日本に行く荷物、帰る荷物様々です。一番長く私と一緒に旅してくれているのは、鏡です。小学5年の時父が買ってくれました。以来ずっと一緒です。最後に壁に残ったのはこの鏡。もうすぐこの鏡も壁から下ろします。チェストも食器棚も日本に帰ります。 引き出しひとつハッチひとつ残ったものがないか確かめます。調子が出たのでどんどん箱に詰めていました。気が付くと梱包用のパッキンがもうなくなっています。食器棚の上の洋食器や不揃いな大皿、 重い電気製品は業者の方に梱包を頼むことにして昨晩は休みました。

  現在箱の数にして30。これに額50枚を新たに梱包してもらいます。大きな世界地図も額に入れたまま持って帰ります。一体箱数がいくつになるのやら。

 朝起きてまずしたことは、私とももさんの枕を箱に入れることです。 ももさん13年ずっとこの枕です。しばらくこの枕とお別れですよ。

 主人に残していくものは全部棚に収めました。私が帰国時に必要なものも別の場所になおしました。と思っていてもきっと、あっ、あれも入れてしまった。というものが出てくるような気がします。あと数時間後にはこの家の中はすっきりと物がなくなります。

 ここにきて、やっと本当に日本に帰るのだと踏ん切りがついています。無事に荷物を日本で受け取ることができますようにと祈る気持ちでいっぱいです。

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叔母からの賀状

2017年01月15日 | 日々のこと

雨、15度、81%

 昨日、叔母から賀状が届きました。父の妹です。亡くなった父よりひとまわり年下、私よりふたまわり年上のこの叔母は今年84歳、年女です。実はこの叔母のことをよく知りません。子供の頃からしても会ったのはほんの数回です。父は私が12歳の時に逝きました。以後母の口から出てくるこの叔母の話は一つもいいことがありません。お酒もタバコも随分と行ける口、私がやはりお酒もタバコも吸っていた頃は、事あるごとに嫌な顔をして母は言いました。「東京の叔母に似ているわ。」叔母にも会わないのですから、当然、従兄弟たちにも会いません。兄弟もいない私は、ますます親戚とも縁が薄くなりました。

 母が亡くなったことは、手紙で知らせました。その年が明けて、東京に帰った折、何の連絡もしないまま叔母を訪ねました。住所をあてに探します。8歳の頃一度この叔母の家に泊まった記憶があります。でも道など覚えてはいません。記憶にある家構えとは違います。もう半世紀も経っています。当たり前です。インターホンに向かって、「真奈です。ご無沙汰いたしております。」と頭を下げました。

 急な訪問です。玄関に出てきた叔母は、寝間着の上にカーディガンを羽織った姿でした。お体の具合が悪いのかもしれないと一瞬感じます。背も高く顔の作りも派手な叔母でした。少し小柄に見えますが、華やかな顔は変わりません。私を見るなり、「一郎兄さんにそっくりになったね。」と手を取ってくれました。少し寒い応接間で、叔母は自分の身体のこと、私の父と母が結婚して以来の祖母と叔母との関係などを淡々と話してくれました。実は祖母は私の実家のお墓ではなくこの叔母の家のお墓に入っています。その経緯なども含めて話してくれました。私が母から聞いていることとはいささか食い違います。母は叔母のことを好きではありませんでしたから、母の口から聞いたことが真実だとは思っていませんでした。叔母の体調も思わしくないので、その日は2時間ほどで叔母の家を後にしました。「また参ります。」と叔母の手を握りました。

 駅までの道々、叔母に会えたことの嬉しさと胸につっかえていた蟠りが消えて行くのがわかりました。母が亡くなった後まで、母と関わりのある方にお会いするとお詫びをしなくてはなりません。そんな母を持ったことを恨めしく思います。

 この日以来、叔母をまだ訪ねてはいません。一年に2度の挨拶のハガキと叔母の故郷の博多に帰った時、ちょっとしたものを送ります。叔母は必ず賀状をよこしてくれます。今年の賀状を見て叔母の字が今までと違って力なく感じます。今年の私の賀状には、2月には主人を残し私だけ福岡の家に帰る旨書きました。叔母からは、引越しの苦労をねぎらう言葉が添えられています。私の身体を心配してくれる身内の人がいてくれる、そう思うとたまらなく嬉しくなりました。

 今年は必ず叔母を訪ねようと思っています。体も字も細くなってしまった叔母に会えるのももう僅かなような気がします。そうそう、2年前にお会いした時、体つきも顔つきも私と叔母とは全く違うのですが、お酒を飲むこと、タバコを吸っていたことなどを話すと、「似てるわね。」と大笑いしました。年女同士、叔母の手を握れる日を楽しみにしています。

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考えてみれば、2度目の犬を連れての引越しです。

2017年01月14日 | 日々のこと

雨、14度、91%

 我が家のモモさん13歳にして、初めて飛行機に乗って日本に行きます。モモさんはパグ、短頭種ですので、エアーラインによっては乗せてもらえません。命の危険があるからです。しかも海外ですからモモさんは輸入という形で入ります。そのため検疫所とのたくさんの書類の交換が必要です。香港を出るのにも書類を作ります。そんなこんなで頭がいっぱい、私は犬を連れての引越しが2度目だということをすっかり忘れていました。

 主人がバーレンに単身赴任したのは、30数年前です。当時は東京に住んでいました。私たちが主人と合流するまでの間、福岡の実家に帰ることにしました。息子が小学の2年になる前の話です。息子が幼稚園の時に保健所に追われている犬を我が家に迎えました。「テツ」です。保健所に追われる前から、夕方には我が家にやって来てご飯を食べていました。推定年齢6歳でした。雑種の中型犬、多摩川を泳いで川崎まで行って戻ってくるぐらいの犬です。多摩川の土手を散歩するときは曳き綱を放します。それでも必ず戻って来て、私たちの近くにいました。何度かの伊豆のキャンプにもいつも一緒でした。

 主人がバーレンに飛び立った後、引越しの荷物を出し、息子と「テツ」を連れて羽田に向かいました。昔の羽田の空港です。車を降りて、ロビーに入ると「テツ」が後ろ足を踏ん張って動きません。リノリュームの床です。曳き綱をうんと引っ張ると、首輪からすっぽり抜けてしまいました。「テツ」は一目散に逃げます。羽田空港のロービーを私は「テツ」の後を追って走ります。まあどうにか捕まえて、「テツ」と私たちは同じ飛行機で福岡に戻りました。国内ですから、書類なんて必要ありません。エアーラインに誓約書など出さずに乗ったと記憶しています。まだ元気な「テツ」です。気圧の差など気にもせず、私は今回と違い呑気でした。福岡で受け取った時の「テツ」の心細い目を思い出します。

 まさかこんなに香港に長居するつもりではありませんでした。この「テツ」ともう一匹拾った「ケン」とを母に預けて香港に来ました。いつかは「テツ」「ケン」とまた一緒に暮らすつもりでした。「テツ」は私とモモが帰る家の庭に今も寝ています。「テツ」が亡くなったのは息子が高校の頃でした。亡くなった後、母が言いました。「いつかテツの骨を庭から出して、多摩川に撒いてやって欲しいわ。テツの故郷は、多摩川だからね。」「テツ」が埋まっている場所を聞いてはいたのですが、忘れています。我が家の庭には「テツ」ばかりか代々の犬が埋まっています。母の言葉をまだ果たせぬまま、思います。いつか、私はモモの骨を香港に持ち帰る時が来るだろうと。香港はモモさんの故郷です。

 一日家から出るのはモモさんの朝晩の散歩だけ、荷物を作り続けます。結婚して何度目の引越しかなと指を折りました。ちょうど10回目です。我が家のことです、これで最後ではないかもしれません。

 

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「捨てられません。」

2017年01月13日 | 日々のこと

曇り、15度、79%

 5年ほど前、実家の整理を始めました。母は掃除はしない、整理整頓ができない、衣服は畳まない人でした。埃まみれ、蜘蛛の巣を払いながらの整理でした。そんな母親の血が流れていることが恥ずかしいと思いながらの整理でした。息子たちにはこんな思いをさせたくないと思いながらの整理でした。

 いよいよ昨日から一番大きな引越しの荷物を作り始めました。頭の中では、入れるものの手順が整っていたつもりです。開ける時のことを考えて、台所のものはひとまとめ、衣服はひとまとめと箱に詰めていきます。これで3回目の荷物出しです。本も捨てました。DVD、CDも捨てました。衣服ももう着ないなあと思うものはブランドのものでも捨てました。ここで、問題が一つ、外出着は捨てれるのに普段着のTシャツが捨てれないのです。シミも付いています。白ではなくて黄ばんでいます。それでも捨てれない。主人など「もういい加減に捨てなさい。」と仰います。捨てれない。

 もう20年も前、よく香港の山に入りました。週に一度、暑かろうが寒かろうが主人と二人でテクテクと歩きます。九龍サイドの山の中、時には誰一人すれ違うことなく歩きました。そんな山中の小川で拾った3つの石、以来ずっと洗面所に3つ並んでいます。石なんて箱の隅っこに放り入れればいいのですが、考えればただの石です。じっとその小さな石を見つめて、捨てれない。

 台所の荷造りは最後にと思っています。整理は粗方ついたと思っていました。このふた月ほどで、お茶や香辛料を使い切っています。その空き缶、空き瓶があります。 ほんの一部です。クラブトリーの缶や瓶はもう30年、このころのラベルのデザインが好きです。30年、ジャムを食べた後、香辛料が入っていました。空き瓶や空き缶を持って帰るなんてねえ、と思うのですが、捨てれない。軽くてそんなに場所を取ることもないだろうに、荷物の箱に「空き缶」なんて書くのも憚られます。それでも捨てれません。

 人から見ればガラクタです。そのガラクタを抱え込むか、捨てきるか。数年前、母のことを心の中で罵りながら実家の整理をした自分が可笑しくなりました。私だって、いっぱいガラクタを後生大事にしています。ああ、困ったものです。

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海外からの引越し

2017年01月12日 | 日々のこと

曇り、18度、85%

 私の本帰国に向けての荷物の準備が始まります。何分にも30年という時間香港に生活しました。荷物は増え続けました。こんなに長居するとは思っていなかったのに、来る時も家具を持ってきました。小学生の息子の荷物もありました。今は夫婦二人の荷物だけです。それでも、今回で3回目の荷物出しです。主人は仕事でまだ香港に残りますから、まだ先の話ですが、最終的には4回香港から荷物を送り出すことになります。

 本と家具を改築を終えたばかりの日本の家に返したのが2年前、昨年は、これまた本と鍋などの生活用品を戻しました。今回は、メインは食器です。食器ばかりか残すものは主人の身の回りのものだけとなります。昨日、私が予め詰める分だけの段ボールが届きました。 やっと、さあ始めなくてはと気持ちが固まります。

 大事な食器は業者の人にお願いします。国内の引越しと違って、まず税関への中身の申請、保険の申請といちいち箱の中身を書き留めて凡その金額まで出さなくてはなりません。3回目で慣れたとは言っても厄介な書類作業です。残すものより運び出すものの方が多くなります。間違って荷詰しても困ります。私が当日持って帰る物はごく僅かですが、モモさんが一緒ですので大事な書類があります。送り返すもの、当日持って帰るもの、残す物、3分類から始めました。日本の荷物の検閲は厳しいと聞きます。DVDの海賊版が見つかると全部の箱を開けられることもあるそうです。音楽CD 、DVDはおそらく300枚近く捨てました。PCに取り込んだものもあります。

 以前は外国産のお米は許されていましたが、現在は厳しく取り上げられるそうです。タイ米、バスマティライスが好きな私は残念に思います。種や根のついた植物もダメ、大事に育ててきた植物たちは主人に託します。出張の多い主人なので、水遣りができないだろうと半ば諦めています。

 実家の整理をした時に、よくもまあこんなに物があるものだと母に呆れた私ですが、今回はこの狭いマンション生活ですらよくここまでものを溜め込んだものだとわが身に振り返って思います。生活のスケールダウンは歳と共に必要なことだと実感する有様です。

 モモさんの飛行機に乗れる年齢制限、体力制限いっぱいでの帰国です。一人暮らしなどしたことのない主人を置いていくのも心掛、日本の生活に慣れるのは大変ですよとアドバイスを頂きますが、自分のことなどかまっている暇などありません。まあ、日本語が話せますからどうにかなるでしょう。

 ありがたいことに主人が長い出張に出ます。今日から家の中は、日に日に箱だらけになるはずです。荷物を出し終えてさらに半月、ガランとした家で過ごします。「声が木霊するかもね。」と、主人と話しています。

 モモさんのお供たちもカゴに入れられ一足先に日本に向けて出て行きます。荷物を受け取るのは2月の初旬です。気持ちも体も張り詰めてこの大仕事を乗り越えます。

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