気ままに

大船での気ままな生活日誌

古代ギリシャ展/時空を超えた旅(3)

2016-07-01 10:39:12 | Weblog

古代ギリシャ展の感想もとびとびになってしまっている(汗)。そろそろ締めなければ。

第6章古代オリンピックについては、ちらりと、ケンブリッジ飛鳥が日本陸上100メートルで優勝し、リオ五輪を決めた記事の中でも紹介しているが、リニューアルして再登場。

BC766年、オリンピアのゼウス神域の前で、4年に一度の競技祭が始まったが、何と、1100年も続き、最後のオリンピックは269回大会、AD393年のことだった。それから時が流れ、クーベルタンの提案により近代オリンピックが再開したのは1896年である。まだ、古代オリンピックの1/10しか経過していない。

最初は、祭事としての色彩が強く、たくましい身体と技を神さまおみせするということで、みな全裸での徒競走(170m)だけだった。その後、5種競技や格闘技、競馬や戦車競走など種目数も増え、全ギリシャ(数百に及ぶポリス)から選手が集う大競技祭に発展した。数万から数十万に及ぶ観衆が押しかけたという。戦争中でもオリンピックの期間だけは休戦し、優勝者は神に近いような名誉を得て、その彫像が神域に奉納された。本展では競技種目が描かれた陶器、競技者像、神域に奉納された競技道具などが展示されている。

古赤像式パナテナイア小型アンフォラ ボクシング↑
BC500年頃代ギリシャのボクシングの試合。どちらかが倒れるか降参するまで殴り合う。

競技者像(前2世紀後半)↑ 各種目の優勝者の姿は銅像として神域に奉納される。この大理石像はクラシック時代の有名な競技者像に基づいた、ヘレニズム時代のコピー。

第7章マケドニア王国 

マケドニア王国は、紀元前7世紀頃、ギリシャ北方にドリス系のギリシャ人により建国された。古代オリンピックにも都市国家(ポリス)と共に、早くから参加していた。かいつまんで歴史を。BC359年フィリッポス2世が即位してから強国化。BC338年、アテネとデバイ連合軍を破る。BC336年、アレクサンドロス大王が20歳で即位。BC330年アケメネス朝ペルシャを滅亡に追い込む。BC323年、アレクサンドロス大王病死。

この地は金が豊富に産出し、王国の成立以前から、権力者の墓にはたくさんの黄金の品々が副葬された。本展では、新石器時代からBC4世紀末のアレクサンドロス時代、さらにヘレニズム時代までの、冠や宝飾品が展示されている。またアテネのアクロポリスで見つかったアレクサンドロスの肖像(頭部)は、彼の20歳頃の王子時代にアテネを訪ねたときのもので、非常に貴重なものとされる。

 
ギンバイカの金冠(BC4世紀後半)マケドニアのテッサロニキ近郊にあるデルヴェニ墓地からの出土。女性の死者のためと思われている。
 
アレクサンドロス頭部(BC340~330年)↑フィリッポス2世はBC338年にギリシャ連合軍を破った後、オリンピアに円堂を建てて自分の家族の肖像を奉納した。

第8章 ヘレニズムとローマ(BS323~
アレクサンドロス大王の死後、その後継者たちが建てた諸王国が互いに争ったヘレニズム時代に、ギリシャ美術は広い世界へと広まり、多様性を獲得しました。その中でも、驚くほどリアルな肖像彫刻と、官能的で繊細優美な女性像は特筆すべきものでしょう。BC31年に、女王クレオパトラがローマに敗れた後、地中海はローマの内海となります。しかし征服者であるローマ人たちは逆に、ギリシャの美術や文化の魅力に捕われました。ローマ時代の肖像彫刻やモザイクは、ギリシャ美術がその後も長く生き続けたことを教えてくれます。(サイトより)

 
君主頭部(前3世紀/ドデカネス諸島)↑君主像だが、恰好をつけず、マケドニアの帽子をかぶり、リアルな表情の顔。

アルテミス像(BC100)デロス島↑ ヘレニズム後期の、優美なほっそりした女性像。ミロのヴィーナスも、同じ頃に、同じキュクラデス諸島でつくられた。

ギリシャはローマに征服されたが、粗野なローマを文化で征服した、と云われたそうだ。ヘレニズム文化は東西世界に伝わり、西方ではローマ文化を介して西欧文明に、東方ではインド、中国を経て日本文化まで影響を与えた。
 
では、最後に、本展には参加されておられませんが、キュクラデス諸島のひとつミロス島のミロのビーナスで締めましょうか。


(ルーブル博物館にて、2012年4月)

古代ギリシャ展(完)

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建長寺の山百合

2016-07-01 09:19:33 | Weblog

おはようございます。

北鎌倉の山百合があちこちで見頃を迎えている。八幡さまの茅の輪をくぐったあと、建長寺へ向かった。あそこでも山百合をみた記憶がある。

山門をくぐると、樹齢700年を超す柏槇(ビャクシン)が迎えてくれる。

柏槇を横にみて進み、方丈前の華やかな唐門と蓮の花をみる。いくつかの花が開いていた。

そこから、少し歩みを進めると、6月4日(ムシの日)に紹介したイワタバコが群生する石垣がある。その石垣のてっぺんに山百合があったはず。石段を登ると、今年もそこに咲いていた。


これで一安心。そして、ふと、向かいの高台に目を向けると、立派な山百合が!そうか、ここにもあったっけ。

二本の茎からこんなにたくさんの花。すごい、15はある。長寿寺のにまけないぞ。それに、見頃だ。

すばらしい山百合を二か所みて、さらに養老孟司さんの虫塚の方まで歩いたが、山百合はみつからず、ただ懐かしい煙に出会っただけだった。

とぼとぼ、イワタバコの群生地でもある石垣のところまで戻ってきたときに、ハタと気付いた。この時期にイワタバコの花が!6月も終わろうとしているときに、目にするのは初めて。前日、東慶寺の岸壁でも調べてきたがゼロだった。山百合とイワタバコを同日に見た人は、おそらく、日本中でぼくひとりだろう。えへんえへんと、(八幡さまで)大祓いのあとの(建長寺で)咳払い。

これで、大満足。よし、帰ろうと山門前まできて、どうも気になる禅道場への紫陽花の道。ここにもひょっとして・・・山百合の気配を感じる。

 

紫陽花の道(牡丹もある)を進むと、

突き当りが禅堂で、その裏山をみると!な、ななんと、山百合の山だった。十数株は咲いている。見事な眺めだ。ただ、その山には登れない。遠くから眺めるだけ。こうゆうのを高峯の花というのだろう。

 

大大満足で、建長寺を離れた。そして、途中、一昨日、みたばかりの長寿寺の門前の山百合もみてきた。遠目ではいいが、近くでみると、少し傷んでいた。でも、ぼくの見た範囲では、これが、鎌倉一の山百合ですね。そして、建長寺が二位、三位が八幡さまとしておきましょう。


(長寿寺の山百合)

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

コメント (2)
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