蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

久々ぶりに動いた

2025-02-14 | 日々のこと
どうも今日の記事は全くの駄作。
(いつもと同じ。どこが違うの?と声なき声あり?)
時間を割いて読んでいただくには、こころ苦しすぎるため、、、冒頭から最後まで、全スクロールをお願いします。

・・・・・

新しい写真がないなら、ストック写真、使いましょう。
旅行が駆け足で、使う余裕はなかった。
というか、その旅行前日に、タイトなスケジュールを組んでいた。
もう、あんなスケジュールは2度と組まない、、、と、コリゴリの経験。
それはそれで、結構、意味があった。
話せば長いので、、、話さない、書かない。
いずれ、書きたい時が来たら書く?
そんな時は来ないだろう。
認知機能低下と、諸々、低下によって。

今が一番幸せだと思う。
人生の中で。
これでいい。
確か、21〜22歳の頃もそう思った。
40歳代の時も。
でも、やはり今が一番なのではないかと。
なぜか?
考え方が変わった。
1日1日は完結するが、それでおしまい。
次を期待しない。
毎日毎日が、最高。
明日のために少し取っておいても、取っておかなくても、どっちでもいい。

引きこもりの毎日でも?
そう。
引きこもりでも、今日が楽しいと感じるのなら、よい。
毎日は完結するが、ストーリーは続く。
ドラマや映画でいうと、「ある1日」の描写。
どこかに続く途中の、ある1日。
1日は終わるが、話が終わってしまうのではない。通過点。
布で言うと、フェルト生地のような、切りっぱなし。
未知の未来に続く、とりあえず今日が終わる。
どういう風に続くかはわからないが、続くことは確か。
確実で決定された、ハッキリした未来より、ぼんやり、ほんわり柔らかい明るさがあればよい。
曖昧さが残る、余白。
写真やツールで仕上げたものより、手描きフリーハンドの図面のほうが味がある。
変化、更新を含む、固定されてない動きや、まだまだ広がる可能性を感じられる楽しみが残されている。

しかし、、、
意外なことを発見した。
この引きこもり9日間、振り返ってみると、何をしていたかほとんど覚えていない。
ウィキペディア検索ぐらいか。
空白時間は、脳の空洞。
ぼーーっとしていた時間は、無かったのと同じだった。
これは、時間がもったいないのか、はたまた幸せなのか、はたまた「無」なのか。
自分の捉えようによって、これからの時間の使い方に影響を与える。
どう感じるか?
自分は、どうしたいか?

全く何もしない引きこもり体験は、それなりの意味があった。


ちなみに。 
話は変わるが。
3年前に知り合った人。顔を知ったのは4年前。
この人は、同じ話ばかりする。
別に認知症ではないのだが、認知症にありがちな性質をお持ちだ。
老化による認知機能の低下なのか、元々の性質なのか、両方が混ざりドッキングしているのか、定かではないが、、、。
この人の若い頃を知らないので、過去との推移を比較出来ない。

で、わたしが自分事として捉えることは、、、
家族であろうが、親友であろうが、同じ話は何度も何度もしないようにしよう、、、と肝に銘じている。
が、そのかわりといってはナンだが、自分のブログには同じ話を延々と繰り返し書いている。
幾つものバリエーションがある人生を送っているわけではないので、同じ出来事がベース。
捏造や創作はしないため、ひたすら、書いた時に感じたままを書いている。
ただ、勘違いや思い間違いはある。
自分で時を経てから読むと面白かったりする。
蝶ブログは、自分自身、わたしが最大の読者である。
まさに自分のために書いているのだと、後になって変に腑に落ちる。

と、それはまあいいとして。
視点を変えると、、、
同じことを手を変え品を変え、何度も何度も言うことは、ある意味、効果がある。
聞かされる側は、脳に染み込む。刻まれる。
良くないのは、一度聞いたらもう十分で、興味が尽きる内容、説明もワンパターンで、わたしのリアクションを全く見ないし聞いていなくて、自分だけが楽しかったシーンを思い浮かべて話している場合。
「はいはい、良かったですね、また同じようにやればいいんじゃないですか」
と紋切り型コメントをわたしはしているが、いつも全く聞いていない。
わたしは、なんのために、この人の話を遮りもせず聞いているのだろう、と自問する。
恩があるわけでも、親しみを感じているわけでも、今後、共に歩むわけでも、同志でもない。
たんなる傾聴ボランティア。
運動の後、一人で喉の渇きを潤し、休息するよりはまあいいか、と、二人で帰りに立ち寄るお店。
わたしも、ペラペラ好きなことを延々と話しているので、お互い、相手は人間の形さえしていれば良いのかも。
カカシ相手でもいい。人間型AIロボットでもいい。
お互いのニーズが一致して、時を共にしていると言える、、、が、どうも虚しい。
とは言え、人生の自分の持ち時間、満ち足りることばかりではない。
電車移動するにも待ち時間が必要なように、コアな時間だけを使えるわけではない。 
ご飯を炊くのにも炊飯器がやってくれて手間はかからないが、ある程度、炊けるまで時間はかかる。
洗濯も洗濯機がやってくれるが、干さなければならない。
目的だけを満たすのは難しい。
(コインランドリーなら干さなくてもいいが、わたしは天然日照力で乾かしたい派なので、乾燥機は使いたくない)

何かをしたければ、それに付随する何かをしたり待ったりしなければならない。
それがしたくなければ、好きなことを想像だけして過ごせばよい。
実際に行う時間はほんの少しで、前後に準備したり片付けたり、人に手助けしてもらったり、の手間暇、労力、時間がある。
20分間だけの欲求や用事のために、1ヶ月を費やすこともある。
ほんの短時間のために、一生を費やすことも、、、。
細く長く絶やさず続けるパターンもある。
一生の中には、色んなパターンが組み合わされている。

脳内と実際、実践、リアルの対比。
一瞬の出来事でも、一生、忘れないこともある。
同じ事も続けると、意図しない展開がある。
ある時、一瞬でガラガラ崩れ落ちることもあるし、逆もある。

長々長々相変わらずの長文。
延々と、着地できない。

※写真は、昨日に引き続き、旧山形師範学校本館。

写真

2025-02-13 | わたし
ほぼ引きこもりのわたしの日常を綴っても、共感は得られないだろう。
共通を見出すようなことはないと思われる。
自分の世界だけに(ぬくぬく)生きている。

時間を持て余し、うんざりしながら、ここ10年ほどの写真を引っ張り出して見た。
棚の中に置かれた、これらの写真は、紙焼き(プリント)されたもの。
誰か関係者が撮って、後にわたしに郵送してくれたり渡されたりしたのだが、今なら、LINE送信。
この10年で、劇的に変わった。

まあそれはよいとして。
10年。
遡る時間が10年もあれば、わたしはその分、若かった。
当たり前だけど。
今はすっかり若さをどこかに置いて来た感がある。
時と共に消費した?
しばらくして、思いが沈澱し落ち着くと、また活気が出てくるとは思うが。
とりあえず、一度、内にあるものを吐き出す。
ポケットも裏返して、埃もろとも、中身を出す。
中身の点検、チェック。
こころの断捨離。
モノを断捨離すると、こころも着いてきて、同時に断捨離されるらしいが、世の中で広く浸透していることはまあそれとして、、、
(禅の精神に通じるとか)
わたしはわたし流で、断捨離を行う。
人がおススメする近道を選ばない、自分なりに納得する方法を試行錯誤する、へそ曲がり、である。あまのじゃく。
なぜか、こだわりが強い。

ススメられてやってみたら、あら、かんたん、びっくり、すんなり、、、のことも多々あると思うが、それはそれ。
今までの闘いは何だったの?目からウロコ、、、時間と気力の無駄遣いだったの?
と思う日も来るかも知れないが、今は、時間と気力があるうちに、自分がしたいようにする。 
もがく、あがく、自分が未知のものを発見してみたい、ただそれだけ。
もがくにも、暴れるだけの気力、体力が要る。
他人から見ると、実にどうでもよい、時間潰しである、、、が。

話を戻す。
写真の内容は、家族写真、結婚式出席時の写真、趣味シーンの写真、同窓会写真、友人との写真、、、
中には、ポラロイドカメラで撮ったものも何枚かあり、面白い。
色がはげ落ちている。
その一方で、プロが撮影したデータをプリントしたものは、さすがにピントがピタっと合い素晴らしい。
旅の写真は一枚もない。(集合写真はあるものの)
旅に関しては、かなりの枚数があるが、全てデジカメやスマホ撮影のため、プリントアウトしていない。
(スマホ前は、大量のデジカメデータはUSBやCD保存)
2015年にスマホにしてからは、しばらくは旅だけはデジカメとスマホ、両方で使い分けて撮っていたが、やがて全ての写真はスマホだけに。
便利この上ない。

2015年に団体旅行でご一緒した女性が、スマホで撮影する際に、一瞬の手順でシャッターを切っておられるのを見て、気になった。
なぜなら、わたしは、いちいち最初のスマホ画面から幾度かの操作を経て、写真撮影モードに辿り着いていた、、、
その人は、ひゅっと人差し指一滑りで、撮影モードになっていた。
やり方を聞いてから、手間いらずカンタンの撮影に感嘆、感激し、それ以来、写真は増える一方。
なので、データ大容量スマホに、機種を変えるまでに至った。
どんどん便利になる。

さらに、パソコンは極端なほどに一切利用しなくなり、銀行や登録や申し込みも、今はスマホ一本槍。
もちろん、ブログ更新や、拝読もスマホ。
支払いも、カードも、大切なことも、スマホに凝縮されている。
落としたら、めんどくさいを通り越して、生活が立ち行かなくなる。
一つのツールに頼りすぎるとリスキーなので、それを意識して危機管理は必要だと実感する。

※写真は、去年秋に訪れた、旧山形師範学校本館。1901年(明治34年)建築。
現在は、江戸時代から現代の教育に関する資料を展示公開。
当時の教室が活用され、昭和初期の教室現場を垣間見ることができる。




何もない日常

2025-02-12 | 暮らし
完全引きこもりライフ。
定着すると、これも悪くない。
わたしのように極端に内向的な性質の人間には、かえって快適だったりする。

外出することもある。
徒歩でスーパーに行き、食材を購入。
これは、近所にあったスーパーが撤退し、老人ホームに変わったため、好むと好まざるによらず、とことこ徒歩。
典型的、買い物難民である。
その一方で、宅配を利用している。
手書きからWEB注文に変更したのはよいが、、、
宅配時間までに紙の注文書を提出しなくてよいことと、32時間、〆切、提出時間に猶予が生まれるため、のんびりできる。
が、安心しすぎて、〆切時間が意識から飛び、注文し忘れる。
しかも、毎週、宅配されても、されなくても、宅配料が自動的に課金されるため、何度も続くと痛いヘマドジに泣く。

ご近所では、宅配弁当を頼んでおられるお宅もちらほら見られる。
地域も高齢化の波が押し寄せているのを実感する。

古い家は、更地にされ、売りに出ているところも、ちらほら。
新しい住民によって、どんな家が建つのか楽しみでもある。
スーパーに行く道すがら、住宅街の中を通って行くと、移り変わりがあるようだ。
新旧入れ替わり、新陳代謝なら結構なことだ。

、、、と、散歩がてらに買い物も、決して悪くない。
必要不可欠な用事を残しておかないと、一歩も外に出ない。
もっと歳を取れば、気力も体力も無くなることだろう。
自分の活力を自分で味わい、楽しむ。

買い物の行き、または、帰りに、娘宅の前を通る。
先々週末は寒いのに、窓という窓を全開にしていた。
換気のためだとか。極寒の家。
わたしは、家の中には入らない。
運良くタイミングが合えば、孫たちがパパと家の前で運動して遊んでいる。
キャッチボールだったり、バスケットボールだったり、自転車乗りだったり、縄跳びだったり。
先々週末は5番目孫も加わり、家の前の道路が運動場のようになっていた。
孫たちの活発な姿を見ると、楽しく、のどかな光景に幸せを噛み締める。
しばらく眺めて、買い物に向かうか、自宅に戻る。

何もない日常。
わたしにとっては、最高の贅沢な時間だ。


※写真は、去年、秋の山形県。
どこも同じように、静かな日常。

と、ここで、思い出したことを追記。
ここからは、蛇足。
(スクロールおすすめ、スタート地点。一気に最後までザザザーっと)

この山形県を含む東北団体旅行。 
写真の場所近く駐車場に、バスが停められた。
参加者の一人の高齢女性が、見学の後、集合時間になっても現れない。
時間はどんどん過ぎていく。
帰りの新幹線の時間が決まっているため、添乗員さんは、ハラハラ。
わたしたち、参加者もドキドキ。
添乗員さんは、探しに出掛けるが、なかなか帰って来ない。
このまま見つからなければ、どうするんだろう?と、ヤキモキしていた。
旅行会社本部に連絡して、助っ人を求めるのか?
現れない人を残して、二手に分かれて、バスで先に新幹線乗車駅に向かうのか?
ギリギリに参加者のその方はどうにか現れた、、、のは良いのだが、
我々は、お土産を買う時間や、その他の予定を割愛された。
彼女がバスに戻って来た時、添乗員さんが息切れ状態であったにもかかわらず、ご本人は、しれっと涼しい知らん顔。
無事だったことは良かったものの、皆んなに迷惑をかけた、一言のお詫びもなかった。
「すみません」、、、という、たった5文字の言葉は、彼女の口から発せられることはなかった。
代わりに、添乗員さんが平謝り。

それでわたしは強く思ったのは、、、
迷子になるのは、まあわかる、、、認知機能の低下のせい。
初めて行くところだし。
わたしも、いつも、道に迷うし。同じようなことはよくやる。
ただ、団体旅行に参加している限り、自分が周りにどう影響を与えているかという、認知力は最低限、必要だと感じた。
足腰や方向感覚だけではなく、心情的な想像力、推測力も。
一人で参加するのであれば、常識をわきまえ、ある程度、自立していなければ、皆んなの足を引っ張る。
が、失敗は誰にでもある。
ミスして迷って遅れるのは本人がワザとしたわけではないし、よくあることで仕方ないとしても、自分がしでかしたことをまるでわかっていない、あるいは、迷惑を掛けても、ものともしない性格の場合は、笑い事では済まされないと思った。

集合時間に、2〜3分遅れただけでも、平謝りの高年男性もいるのに、、、。
確かにあの時は、工程的にも地理的にも時間的にも難易度が少々高く、(わたしを含む)高齢のおひとり様にはキツかったかも知れない。
他の団体旅行でも、こういうことはよくある。
添乗員さんが、迷惑をかけたお客さんの代わりに、迷惑を被ったお客さん一人一人に、お詫びの品を持って謝りに来られたこともある。
余裕を持って行動するか、あるいは、皆さんにちゃんとしっかり謝るか、どちらかをしたほうが良いと、人のフリみて我がフリ直す、自分への戒めにした。

また別のグループ登山では、参加を断られた人もいる。
足を引っ張るどころか、全員の人命にかかわるからだ。

わたしなら失敗が度重なり自信をなくしても、更にまた行きたいと感じたら、、、
失敗を糧にして、予防線を張る。
誰かサポートしてくれる人と一緒に参加するか、あるいは、極力、無理をしないコースを選ぶか、はたまた、団体旅行には距離を置くか、対策を考え、舵を切る。

助け合いの精神は大事、不可欠だ。
が、性格によって、様々なことがある。




絆の大安売り

2025-02-10 | 人生
さて。
今日は快晴。

最近、外に出ないこともあり、写真がなくなり、前回の蝶ブログにアップした写真と同じ場所の写真を連続採用。
昨年、秋に訪れた、駆け足、東北、団体ツアー。
参加メンバーは、ほとんど高齢女性のおひとり様。
ちょこっとご夫婦も混じっている程度で、男性の存在感は至って弱い。
奥さんに引っ張って来られた感、あり。
海外旅行も夫婦別々に、別々の国を訪れる人たちのケースをいくつも実際に知っている。
同じ嗜好でなければ、渋々同行するよりも、各人、好きなように行動する。
かかる費用も各々1人分で済むし。
夫婦だから当然一緒に、と、決めつけられることがあるが、何も仲が悪いわけではない。
相手に着いていくより、自分が行きたいところに行くだけだ。
着いて来ないのは俺に不満があるからか、嫌われているのか、と、不安、不満に思う人もいるようだが。
一緒に行動してくれるのが、愛の証だと確信しておられるように思われるが、、、。
絆は、べったり行動?

思いやりや愛情は、何も一緒に旅行しなくても表したり感じたり出来る。
定年後に夫婦二人で旅行に行くことが夢、楽しみで、家族のために辛い仕事をこなしてきたのに、、、
が、頑張っている真っ最中に、頑張りを夫婦間で共有出来ているかどうか。
思っているだけで口に出さなくても、わかってもらえるはず、、、と、黙々と働いて来たことは、わかる。賞賛に値する。
傍で見ていれば、わかる。
お互い、思いやりがあり、持ちつ持たれつ、助け合い、やっていく、、、
と思っていたのに、蓋を開けると、そうではなかった。
定年と同時に、お疲れ様、夫婦も定年、卒婚。
妻に現実を突き付けられる。

「何でもっと早く言ってくれなかったんだ?」
「言ったわよ、何度も。
あなたが聞く耳をもたなかったんじゃないの。
わたしがSOSを出した時は、いつもあなたは不在」
「え?そんなこと、あったのか?
全然知らなかった、、、」

なんて、ひと昔のドラマにありそう。
夫婦間だけでなく、親子の会話にも。
やはり、コミュニケーションは必要。
話さなくてもわかる、、、はず、、、は希望であって、話さなければ、わからない。
わかってると思ってた、、、は、何を論拠に?何を証拠に?
ボタンのかけ違いは、途中段階では目に見えない。

と、ここからモクモクと黒煙が立ち上り、悪魔のハラワタ、黒い怪物が登場し、ああだ、こうだと書き綴ったが、、、
さすがに、わたしが理想とする「わたし像」と掛け離れるため、削除した。
ああよかった、、、怪物はちょっと顔を出しただけで、すぐに退場、引っ込んだ。
理想イメージは、自分で掲げて自分で守らなけば。
地に落ちた自分は、自分を救わない。
何でもかんでも書けばいいというものではない。
ぐっと堪えて抱え込む部分が、リスクヘッジの芯になる。
起き上がる際の杖になる。
自分を騙して、美しい虚飾の自分を作り上げようとしているわけではない。
誰にでも人類全ての人に、プラスマイナス、長所短所はある。
それは、捉え方の違い。
どっちの方面から見るかで、評価がゴロリと変わる。
かといって、いつもご都合主義、詭弁で、嫌なことに向き合わず逃げ回っていては情けない。
ちっぽけな人間だ。

何が自分には大事か。
その最重要課題のみ納得できれば、それで良し。
あとは目をつぶる。
とかなんとか、、、最近は視力も更に衰えていて、見たくてもちゃんと見えない、、、

お恥ずかしい、、、悪酔い

2025-02-10 | 日々のこと
赤ワインを調子に乗って飲みすぎた。
しかもメニューは、チーズフォンデュ。
更に悪いことに、ちゃんと昼食を食べていなかった。

久々ぶりに、悪酔いした。
皆んなで2本空けただけなのに。
ダウン。
20歳の時にデパートのワイン試飲で倒れたことがある。
わたしは、ワインにかなり弱いということは嫌というほど知っているのに。
自宅だったが、先に夫がいつものようにダウン。
わたしは絶対に大丈夫なのに、今回はアウトだった。初めてのこと。
娘一家が夕食に我が家に訪れていた。
その夕食、最後のデザートあたりの時間に、気分が悪くなり、記憶が一瞬、飛んだ。
だが、もうほとんど後片付けも終わっていたから、まあよい。
ではあるものの、丸スツールにちょこんと座っていたのに、不調で持ち堪えられず、椅子に座り続けられず、床暖房フロアに崩れ座り込んだよう。
朦朧としたなか、娘にメガネを外してもらったり、娘婿に水を飲ませてもらったり、、、介抱してもらった。
酔っ払いのお世話。すみません。
わたしの不具合のせいで、15分ほど皆んな早めに引き上げた。
けれど、皆んなが帰った後、すぐにすっかり持ち直したが。
21時からのTVドラマ「御上先生」には間に合った。
滑り込みセーフ。

しかしまあなんと、、、お恥ずかしや。
随分久しぶりとは言え、お酒の失態は、たとえ自宅でも、娘一家の前で、恥ずかしいものだ。
みっともない。

ちなみに、今朝、先ほどLINEで長女にお詫びとお礼を(端的に)伝えたところ、、、
3番目孫I(小1女児)が、「Iは、お酒のまへん」と、こころに誓っていたそう。
身近な出来事は、子供の成長期、勉強になる(はず)。
あくまでもポジティブ。タフなマインド。

※写真は記事とは関係ありません。
唐突ですが、適当な写真がなくなり、、、ストックから。
昨年、秋に訪れた、重要文化財・山形県旧済生館本館。
明治 11 年(1878)に竣工した擬洋風建築の病院。


まさに、独り言

2025-02-08 | 読む人々には興味ない話
明け方、夢を見た。
夢に出てきたのは、義姉(兄嫁)と母。
義姉の行動に抗議、阻止しようと、必死で母に訴えているわたし。
周りの他人が、いったい何ごとかと怪訝に思うようなほど、声を大にして、すごい剣幕で、何故わからないの?と母に迫る。
だが、いくら頑張っても、母の答えは引き出せない。
夢の中には父も兄も姉もいなかった。
義姉は、引っ越し作業の最中。

わたしは人の目にはどう映るか、客観的に見ている自分がいるのだろう。
心象風景。
夢は気になっていること、こころに引っ掛かっていることが現れるらしい。
潜在意識。

ちなみに。
毎日、豪雪のニュース。
5時間もぶっ続けで雪かきをして腰を痛めた高年男性がニュースに出ていた。
マッサージ、整体師の男性が、カチカチに固まった身体を揉みほぐす施術も一筋縄ではいかない、ものすごく重労働をしていた、
ある意味、二次災害だ。

今週は引き篭もった。
雪かきがないだけ、幸運だ。
自然に対峙しなければ生きて行けない。
そんな中で、怠惰に暮らしている。

またまたChatGPT のお世話になった。
質問をたくさんした。
そのうちの一つ。
「わたしは認知機能の低下を認識して受け入れ、認めていますが、それは認知機能を低下させますか?」
ChatGPT は、優しく答えてくれた。
認知機能低下は、別に構わないって。
もし気にするなら、コレコレアレアレをしたらいかがですか?
というアドバイスが5つほど書かれていた。
そのうち、4つは普通に今やっていること。
そうか、、、続けたらいいのか。

無理して頑張ると、負荷がかかり、かえってストレスになるので逆効果だそう。
楽しく出来ることが肝らしい。

アドバイスの中に、一つ実践していない、欠けていることがある。
それは、新しい何かに挑戦すること。
だがしかし、今やっていることを疎かにしてまで、新しいことに着手するのは、どうかと思う。
(たんに腰が重いだけか)

脳を活性化させるのは、、、
脳を使うこと。(当たり前か)
外に出て刺激を受けるだけでもいいそうな。
なにもクリエイティブなこと、創造、創作、、、でなくても。
だが、料理はクリエイティブだと思う。
家事も工夫したり、楽しんだり。

わたしは、とことんやることがなくなり、退屈の極致に達すると、仕方なく、無理やり、嫌々、渋々、家事をする。
本当は一番先にやるべきことを済ませて、残り時間で遊ぶのが正しい順序だと思うが。
雪かきは、生きていくには欠かせないが、他の家事は、やらなくても死なない。
ゴミダメの中でも部屋があれば生きていけるし、料理しなくても冷凍食品やインスタント食品、フリーズドライ、、、なんでもある。
ではあるが、電気水道ガスがストップすると、どうしようもない。
原始人や無人島生活、サバイバルの達人ではないので。
では江戸時代の暮らしに戻ればよいのか?
ではあるが、地球温暖化で地球環境が変化しているので、過去には戻れない。

日本は食糧自給率が著しく低い。
自立できない。
労働力も自国だけでは補い切れない。
時代の変化に対応出来ないと、それこそ生きて行けない。
では、、、
日本ならではの、豊富な観光資源を活かす道に、かかっているのでは?
観光立国に?
自治体、行政公共サービスも低下を余儀なくされ、快適な暮らしは当たり前ではなくなりつつある。
活路を見出さなければ、日本の未来は明るくない。

と、家事をしない話から、なぜか、こんな流れになってしまった。
危機感をもって対応していかなければならない。
認知機能低下を嘆いている場合ではない。





のびのび発表会

2025-02-07 | 日々のこと
3番目孫I(小1女児)が、まるで発表会のような正装で我が家に現れた。
ピアノコンサート?スピーチ?表彰式?子供国際会議?
何の演目?
と、オフィシャルな雰囲気のIの服装、出で立ちを見て、本人に尋ねてみた。

「今日は、何かの発表会?」
すると、案の定、
「うん」
と答える彼女。 
「何の発表?」
と聞くと、なんと、「縄跳び!」
え?縄跳び?
体育会系?
この格好で?

疑問は解決されず、そのままにしていたが、写真共有アプリに長女がアップしていた写真と動画を見て、納得した。

確かに、縄跳びを発表していた。
同級生女児4人と小さな小学校講堂の舞台に上がり、縄跳びを披露していた。
一人ずつ、「◯◯飛び、◯回します」と宣言して、ビュンビュンビュン。
おもしろい〜。
確かに、発表会だ。
胸に花のコサージュでも付けて発表しそうなそのフォーマルな服装、、、よく見ると、下部分はスタイリッシュなキュロットスカートに黒短スパッツ、、、縄跳びとのミスマッチを微妙に調和させていた。
他の子がふーふーいいながら、頑張って飛んでいたが、3番目孫Iは、全く姿勢を崩さずブレずクールに、すごいスピードで宣言した種目、回数の縄跳びを飛び終わり、他の子が飛び終わるのを静かに待っていた。
ダンスも走りもそうだが、スポーツは体幹、姿勢が肝だと再認識した。

同じく、写真アプリを見ると、2番目孫(小4男児)もピアノのある小学校教室での学習発表会があったようだ。
将来、なりたいものは何ですか?
のような質問に答えるかんじの流れだった。

「将来は、プロ野球選手になりたいです」
という答えに、わたしは驚いた。
長女がススメようとしていた職業とは方向性が全く違っていたからだ。
長女も、その答えに、自分の思いが反映されていないことを知った。
「今日の気分なんじゃない?」とわたしは長女に言った。
親が思っているような職業を(まだ小学生4年なのに)希望するなんて甘い。

「ケーキ屋さんになりたい」
「電車の運転手になりたい」
「アイドルになりたい」
のノリだと思うが、小4にしてはプロ野球選手はまるで就学前児童の持つ希望のようで、夢がある。
なぜなら、2番目孫は、スポーツはキャッチボールをするぐらいで、兄の背中を追って、、、などということはまるでなく、周りにスポーツ関係者は皆無で全く本格的にはやっていない。
が、日頃、テレビや野球盤ゲームなどで身近に目や耳で感じたものが、野球だったのだろうと想像する。
せっかくマインドコントロールしようとしたのに、全然無理でほど遠く、かえって微笑ましい。
わたしの子育て時は、ギュウギュウやらせすぎた。
親の圧力なんか、元気よく跳ね飛ばしたらいい。
とは言え、年齢が上ると、また違う方向に行くかも知れない。
自然な興味の発露や嗜好ならいざ知らず、親に進む道を強制されたとしたら、教育虐待にあたる。
悲惨な宗教二世のごとく。
好きなことを自由にのびのびやってほしい。
将来、大人になって自立してくれたら、それでよい。
プロ野球選手は無理だけれど、週末・草野球で汗を流すのは大いに結構。

しかしながら、わたしは、その頃、アタマは大丈夫だろうかしらん、、、?




実家への思い

2025-02-06 | 
目玉焼きを作っていて、卵が半熟になり、半熟より8分目ぐらいがいいなあ、、、どうしたらよいものかと、、、ふと自分の若い頃を思い出す。
実家で、グラタン皿にハム、卵、チーズ、ケチャップを入れて、電子レンジでチン!
卵はほどよく固まる。
そのグラタン皿、まだ今もウチで使っている。
現役で、結構、キレイ。

実家にも同じグラタン皿&ソーサーがある。
ウチには3セットある。
ということは、2セットか3セット、置いてきたのだろうか。
実家の日の当たるダイニング、南窓側の食器棚に入っていた。
食器棚は、造り付けなので、建物解体と同時に、今はもうない。

わたしは、実家の記憶が鮮明だ。
生まれ育った幼少期の田舎の家。
(大正時代に建てられた日本家屋だが、幾度かリフォーム、メンテナンスが重ねられ、今もしっかり現役)
玄関を入ると、目線より少し上のところに風景画(油絵?)が、掛かっていた。
次は、(祖母を田舎の家に残し)小学校4年頃に軸足を移した、街にある家。
戦前の建物、2階建て一軒家。
こじんまりしていたが、前庭、坪庭、1階にも2階にも床の間があった。
だが、両親は超多忙で寝るだけに帰っていたため、風情はなく各部屋、実用化されていた。
そこから100メートルの場所にある、父の仕事場。
やがて父の仕事場を建て替え、そこに移る。
22歳の時。ピカピカの新築。
そして、3年後、結婚して家を出る。
それから父の仕事場の建物は老朽化し、築41年で解体された。
更地になった姿をちらと目にした時は、感無量だった。
父と母の夢と汗と涙が詰まったものが、消えた。
わたしがそこに住んだのは3年間だったが、
祖母も田舎から新築と同時に身を移し、最期もそこで迎えた。
(葬儀は田舎の家で執り行われた)
結婚後も、何度かわたしは行き来したり滞在した。
兄夫婦も後半、そこに住んだ。

父の一生が、あの仕事場に凝縮されていた。
栄枯衰退の舞台をわたしは共にした。
役者は幕引きの後、消えて行った。
一コマ一コマが、目に浮かぶ。

涙が出るのは何故だろう?
懐かしんでいるわけではない。
無くなったものに対する惜別の情でもない。
涙は、洗い流す、浄化する作用があるように感じる。
同じ時間を共にしてきた人は、もう姉しかいない。
母もいるが、脳内時間を共有できない。

と、このあと、ツラツラ実家への思いを書いていたが、削除した。
もう実家を出てから43年も経つのに、まだ実家愛が消えない。

実家にお嫁さんが来た時は、わたしは実は喜んだ。
実家での生活がつらくキツくて、やっとわたしの身代わり、肩代わりしてくれる人が現れた、、、と、肩の荷が降りた思い。
あとは、よろしく〜と、後ろも振り返らず脱兎のごとく逃げた。
が、状況は時を経るにつれ変わった。
今のようなことになろうとは、全く予想していなかった。
想定外。

好きだが、精神的には辛いハードな実家。
良い面と悪い面、両面がある。プラスとマイナス。
涙と喜びが同居する。
実家から離れるべきなのに、状況が変わったこともあり、固執している。
わたしの家族メンバーは、なぜわたしが実家に固執しているのか理解に苦しんでいるようだ。
家族メンバーは、嫁ぎ先である夫側の実家にしか、ほとんど足を運ばなかったし、行動を共にしなかったことが大きいと思う。
父は、子供でも女の子は嫁に行けばサヨナラ、それで終わりだから可愛がっても無駄だと、よく言っていた。
今、思えば、父は自分に言い聞かせていたのだろう。

いろんな思いが交錯している。

※写真は昨年、11月の地中海村。
記事と関係ありません。





こころ弾まない

2025-02-05 | 日々のこと
筆の進みが鈍い。
だらだら文字でおしゃべりするのが、何よりも、こころの発露、ストレス解消なのに、寡黙になってしまった。
どんより。

さて。
今日は、お昼頃、雪がちらついた。
大雪のニュースを見ると、大阪とは比べものにはならない。すごい。
雪国で暮らすのは本当に大変だ。

ちなみに。
WEB口座の残高などを知らせる紙の報告書が1年に2回、郵送されていた。
が、書類の郵送は、今年、終了するので、それ以後はインターネットバンキングでチェックしてください、というハガキが届いた。
銀行が郵送費をケチったようだ。経費削減。
インターネットバンキングはずいぶん前、WEB口座を作った時に、開いていたが、長年、まったく利用していなかった。
焦って、パスワードや口座番号を調べて、ログインしようとしたものの、、、
一昨日、何度やっても、どうしてもログイン出来ず、放置していた。
とは言うものの、気になり、気が進まなかったが、背に腹はかえられず、昨日、電話相談した。
電話の向こうの人の指示通りにスマホ操作するのだが、のろのろ、とろとろ、まあ遅いこと。わたし。亀のごとく。
担当者はかなりイライラしていることだろう。
ではあるが、電話で相談してくる人は、大概わたしみたいに、動作がトロいと想像する。
わたし、スマホに弱い高齢者なので。
どうにか、こうにか、相談制限時間(17:00)いっぱいの16:56には解決した。
やれやれ。
インターネットバンキングなど、すいすい対応出来ていたのに、10年経つと、すっかりダメになっている。
浦島太郎。
メモノートには、各パスワードやIDなど、あちこちのログイン情報をずらずら記入しているのに、先が思いやられる。
金融機関やカード会社も、日に日にセキュリティが強化され、どんどん操作が変わってくる。
なかなか時代の流れに着いて行きにくい手応えを感じる。
ああ、情けなや。

ところで。
今日は一日中、愛新覚羅溥儀について、詳しく知りたい思いが押し寄せ、Wikipediaにかじりついた。
一昨日、NHK TV番組「映像の世紀バタフライエフェクト」で、特集されていて、とても興味を持った。
時代に翻弄されたラストエンペラー、流転と孤独の数奇な人生。
日本の軍部が取った行動を改めて復習した。
溥儀の妻、弟、弟の妻、姪、、、関係者、、、次々どんどん数珠繋ぎに調べていった。
映画にもなったが、波瀾万丈、流転とはこういうことを言うのか。
それにしても、溥儀の正妃(正妻)である婉容の最期が憐れすぎる。
事実は小説より奇なり。
戦争は大勢の人々を叩きのめし悲劇に巻き込む。
無茶苦茶だ。

・・・・・

今日のブログ、、、熱量が低い。
書くことは、わたしを救わなくなった。

※写真は、今日の、ちら雪。


忖度ブログ

2025-02-04 | ブログ
蝶ブログ、書いても、書いても、ボツ。
非公開。お蔵入り。
これで、3記事目。
なんでだろう?
たぶん、、、自分の言っていること、思っていることは、皆さんの共感が得られない、どころか、反対感情がムクムク、、、だと想像するので。
わざわざ、反感を買うようなことを述べても、自分にも皆さんにも、得るものはない。
なので、引っ込めることにした。
自分の胸のうちだけで、こころの中で思うことにしよう。
が、ワサビ抜き、カラシ抜き、スパイス抜きで面白くない。
忖度ブログ。
すっかり弱っている、わたし。

ちなみに、、、
趣味関係の女性に、気に入られた。
わたしより5〜10歳ぐらい上?
彼女もわたしも、おばあさん。
わたしが大人しそうで、わたしの顔を見たら落ち着くんだそう。
かんじいい、らしい。
不思議。
ヘタにしゃべれなくなった。
大人しそうなのに、一旦口を開くと、、、変人、、、これでは、せっかくのイメージが崩れる。
大人しく見える、、、良いような、良くないような、、、。