蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

こころを病むのは避けたい

2024-12-28 | わたし
ぐだぐだ1日が過ぎた。

87歳の左手だけのピアニストの日常がTVで紹介されていた。
音楽と共に生きる、、、生き甲斐によって生かされている、、、
病気にも見舞われたが、音楽の力で蘇生する、理想的な人生。
とは言え、音楽もあまりピンとこない、凡人のわたしには、他人事として素通りしてしまった。
だが、笑顔は素晴らしかった。

同じ時間帯のTV番組で、動物園にいる双子の虎の一生を観ただけで涙が流れた。
元々、三つ子で仮死状態で産まれたところ、1頭は蘇生せず、2頭が生き残った。
2頭とも生まれつき骨の病気で、ちゃんと歩けなかったが、双子で元気に遊んでいたから、運動量が満たされ、成長することが出来た。
しかし、満2歳を一緒に迎えることなく、一方は喉に食物を詰まらせ、亡くなってしまった。
その後は、1頭だけで、高齢になった今も頑張って生きている。
なぜかそれが、わたしの琴線に触れて、涙が溢れる。
対象は、人間ではなく動物なのに、、、。
動物園での生活そのものを見て、野生の動物の人生を、人間と重ねた。

が、やはり野生は野生か。野獣。
飼育員が噛みつかれて死亡した例もある。
それはそれ。
動物には、哲学なんかない。
自分の人生を自分で決めている、、、と言えるか、言えないか。
生まれながらの特性をそのまま生きるしかない。
ああだこうだと考えたりするのではなく、命を護ることを本能的に学び、実践する。
弱肉強食。子孫を残したり、残さなかったり。
淘汰される。
思考したり、選択したりしていない。
生まれたままの特性に加えて、本能と直感で生きる。
足に障害を持って産まれたなら、厳しい自然界では生き残れないだろう。
が、動物園で生まれ育った、虎。
外の世界を一生、知らない。
とても複雑な心境になる。 
そして、なぜか、考えただけで涙が頬を伝う。
この涙の意味が自分でもよくわからない。


ちなみに、話はころっと変わる。
今日は踊り納めのパーティがあるが、どうしようか迷ったが参加しなかった。
賑やかで雑多なパーティより、自分と向き合う時間を選んだ。
それにしても、虎を書いていた涙はなかなか止まらない。
鼻水も。
風邪、引いた??
また喜劇に転換。
その瞬間瞬間は悲劇でも、俯瞰的に見ると、人生は、喜劇なんだそうだ。
と、チャップリンの名言を、知り合いがわたしに教えてくれた。

話がまたまた変わるが、、、
一昨日、見た夢。
蝶ブログに直後に書きたかったのだが、、、
夢のタイプとしては初めてといっていい、、、悪夢。
今までも、勉強せず、課題だらけの状態で、テスト本番を迎える夢はよく見た。
空を飛ぶ夢や、快感の夢も見たことがある。
が、今回は、人生初の、悪い方向の夢だった。
具体的ストーリーはほとんど覚えていないが、体調が悪い時のような感覚で、身体ではなく精神的不調、不具合。
頭痛、悪寒、吐き気、痛み、倦怠感、めまい、浮腫、痒み、、、のような身体的感覚ではなく、、、
初めてなので何と表現していいのかわからないのだが、、、
漆黒の闇に陥るような気分の悪さ。
出血が止まらない感じの、どろっとした、ぐらっとした不快、不安。
崩れ落ちるような、立て直せないような、芯を見失った崩壊。
身体、内臓や、骨、筋肉、血管などではなく、脳、神経から来るもの?
だが、身体のパーツの一つに、脳もある。
(生物の知識、乏しいことが露呈している、わたし)
脳が身体の活動を指令している。
身体はどうもないのに、脳の影響で気持ち、精神的なものが揺れているようだ。
具体的には原因として、別に思い浮かぶものはない。
激しい喪失感とか、ない。
が、、、ひょっとして、、、直近の行動を振り返ってみると、、、
行動を共にした相手の行動の中に、理解出来ないことにいくつか直面して、解明出来ず、モヤモヤを通り越して、体内に仕舞い込んでしまった、、、カプセル錠剤を飲み込んだような感じかも知れない。
相手に直接、聞くわけにもいかず、家に持ち帰って、ChatGPT に相談した。
さらっと、さらさら回答を読んだが、正解だろうけれど、心や頭に引っかかるものはなかった。
わたしが推定していた範囲内の答えだったので、キーン、パキパキっとハッキリ解決には至らなかった。

こんな精神状態は初めて経験したので、未知のものは怖いと感じた。
対応に、慣れてない。
新しい局面のわたしなのだろう。
老化の一面だと捉えた。
が、その面は助長しないよう、食い止めるようにしたいと思った。
またそういう精神状態が出て来るようなことがないよう、事前にシグナルをキャッチしたい。
一種の発作という扱い。
ニトログリセリン的な急場を凌げる安心薬をこころの中に用意すればよいのだが、、、
原因がよくわからない。 
ただ、感情の悪寒のような、マイナスの良くないもの。
不愉快、とか、そういうものでもない、初めて感じた、こころを蝕む一種の病気のようなもの。
その症状を誘発するような状況を避けることが、主治医(わたし本人、一人二役)の診断と処方。

わからないものは、あまり深く探索、探求しないに限る。
歴史や科学、芸術なら深追いして研究すると暇つぶしにはピッタリだが、答えの曖昧な精神世界は、ほどほどにしないと、コントロールできなくなる。
そう感じた。

だが、いたって軽症。
軽いうちに対策を練る。
近寄らないこと、深追いしないこと。
自身を護り、心身の健康を維持するには、曖昧ファジーが良さそうだ。
鈍感力が活きる。

※写真は、今週の銀座、歌舞伎座。




つらつらメモ日記

2024-12-27 | 日々のこと
今日、迎春準備、買い物をした。
夫の実家の近くのスーパーに出向き、やたらたくさん、年末年始分、一度に買った。
そこのスーパーのカゴ、2個、満タン。
夫の実家の冷蔵庫に、詰め込んで、我が家にUターンして帰って来た。 
後は、買い忘れたものを年内、夫の実家に向かう途中で買い足して、夫の実家に行く。

大晦日、お正月は、夫の実家で過ごす。
長女一家と息子が1月2日に来て泊まる予定。
息子は1年ぶりに顔を見る。
ちゃんと帰ってくるのかわからないが。
LINEで日時を最終確認をしているのに返事はなし。

さてと。
とりあえず、イベントの谷間で明日から30日の午後まで、自宅で死んだように何もせず過ごす。

友人の一人、Aさんは、「誰も住んでいない実家に正月に帰る必要は全くない」と語気を強める、、、が、Aさんの考え方を取り入れる気はなく、行く。
行こうか、行かないでおこうか迷ったのだが、家族は皆んな、わたしの行動に合わせる、従うという。
別に行かなくてもいいのだが、行くことにした。
いつもの、夫の実家での年末年始になる。
とは言え、年末は夫が不在、元旦は仕事のため、少しイレギュラーではあるが。

まるっきり、小学生日記になっている。
脳ミソがツルツル、ツルン。

※写真は、今週の東京。築地。

イベントに対応しきれない

2024-12-24 | お出かけ
ちょっと関所を越えて東京へ。 
大きなイベントは過ぎ、ほっとした。
やれやれ。
安堵の気持ち。

このせいで、迎春準備をする余裕がなかった。 
皆んな集まるのに、既製品を買いそこねている。
お節料理、毎年買っている大手百貨店のオンライン注文していない。
いくらなんでもこう年末になると受け付けは締め切られていた。
Amazonあたりで、ギリギリセーフ御節料理を買えるか?
手に入らなかったら、手作りお節料理をしなければならない。 
いつもは、手作りにプラス、既製品を足している。
手作りお節だけでは、とてももたない。
ああ、憂鬱がまたまたやってきた。

ここのところ、憂鬱ばかりだ。
イベントよりも憂鬱のほうが大きい。
これは、イベント計画に問題があるようだ。
自分を鼓舞、叱咤激励を通り越して、イベント対応能力の限界を超えているということ。
自分の力量が衰えていることを自覚する時期に来ているようだ。
見直しを図ったほうが、良さげだ。

イベント心労より、何も予定がない退屈のほうが、まだマシ。
林住期の考え方をわたしに伝え、影響を大いにわたしが受けた人物が、とっとと先に林住期を終了して遊行期(自分を終えて消滅する時期)に移ってしまった。
後をついて行ったわたしは、ハシゴをはずされた思い。
先輩は、発言や啓蒙啓発には、最後まで責任を持っていただきたいものだ。


嵐の前の憂鬱

2024-12-21 | 日々のこと
忙しくなってきた。
暇な週と忙しい週が、ランダムにやって来る。
が、さすがに年末になると、忙しい週ばかり。

この行事を乗り越えたら後は楽になる、何にもない、頑張ろう、、、なのだが、立て続けにあったり、イベントがわたしには負担気味だったりすると、頭に乗っかって気になって気が重い。
例えそのイベントが趣味お遊びの、自主的なものだったとしても。
お尻の重さは半端ない。
滑り出せばそんなことはないのだが、それまでが気分が優れない。
旅行の前のブルーと同じ。
勇気を出して、第一歩を踏み出すのだが、第二歩目は第一歩と同じぐらい重い。
電動アシスト自転車が欲しいぐらいだ。
自分で漕ぐ機能が著しく低下、錆びついている。
バッテリー容量の不足とか、そういう枝葉の類のものではなく、本体機能そのものに問題がある。
エネルギー源を新しいものに取り替えるか、天然資源に切り替えるか。
朝日が昇ると共に起き、沈むと寝る。

だが、今、冬の最大のお楽しみである電気敷毛布、、、
これのおかげで、布団に入った瞬間の至福さ、脳が全力で喜んでいる、、、
布団から出る時の辛さ、悲しさ、名残惜しさ、、、2つのオン、オフ、切り替え時に、明暗が分かれる。
いつまでも布団に入っていたい、、、
だが、今日は生牡蠣が届く。
9時にはスタンバイしなければ。
次女母娘も12時には来る。
その後、次女婿は手作りの、鶏の丸焼きと牛テール赤ワイン煮を持って来てくれるらしい。
(グルメ分野は次女婿に丸投げ、わたしは誰でも作れる単純明快、簡単、便利、手間要らず、安価、キッズ担当、ワンパターン、マカロニサラダ)
更に長女一家、、、次々とやって来て、次女母娘はお泊まり。
明日はまた全員で写真館へ。
その翌日はまたまたビッグイベントが連日控えている。
楽しい賑やかな行事が続くのではあるが、、、
なにしろ、ずしっと気が重いのはなぜ?
サボり体質?
精神のアップダウン、起伏?
動き出すとそんなことはないのだが。
動き始めるまでの憂鬱タイム。
で、ブログ更新は出来そうもないので、今、焦ってやっている。
じつに本末転倒っぽい記事内容だ。

何もすることがなくて死ぬほど退屈なのと、行事が立て込んで憂鬱なのと、どっちがマシ?
何を贅沢なことを言っている!!と、ブログ閲覧数はウナギ下がり、間違いなし。
自業自得。

余計なモノだらけのキッチン、ホコリだらけのリビング、あちこちに置かれたわたしの電気暖房座マットや膝掛け、筋トレ用具などが目障り、洗面所、トイレ、、、その他、今からザザザザーっと大まかに掃除しよう。
(前々から今日の集まりは、わかっているのに、気持ちだけ、頭に漬物石、、、)

間に合う?
いや、気合い、以前の問題。

夏休みが終わってから、始業式に夏休みの宿題に取り掛かる、超劣等生。
そりゃあ出来も悪かろう。



黒い闇の怪物

2024-12-19 | わたし
虐げられ、弱い者は、メソメソ泣くだけではなく逆襲の機会を狙っている。
藁人形や五寸釘を用意して、呪ったりするのは、非科学的。
生き霊で枕元に立つなんていうことになると、、、しかしこれはこれで、少し面白いかも。
霊ではなく、ホンモノ、本人が枕元に、、、。
昼間より闇夜のほうが霊が際立つ。
家族なら「あら、こんな時間にまたトイレ?」なんてことにもなるかも知れないが、家族でないなら、不法侵入。
警察のお世話になるのは不本意である。
生き霊&本人、枕元作戦はやめたほうが良さそう。

では、、、爆発物を隠し持つ。
いつ爆発させるか?
タイミングを計る。
一生、爆発させないで、脅すだけ、という手もある。
が、爆発させようとしても、湿気ていて火が付かなかったりして。

相手を幸せにさせるか、不幸にさせるかは、
こちらの手の中にある。
選択スイッチボタンを握りしめる。

人を幸せにさせるというのが、人として、理想である。
だが、自分の幸せを差し出し、自分の不幸と引き換えに、人が幸せになる、、、となると、、、
崇高な宗教家は、そうなんだろう。
賄賂とか、貰わないんだろう。
権力や欲のため、癒着とかしないんだろう。
歴史的に見ると、そうでもなさそうだが。

まあ一個人なので、よほど凶悪犯でもない限り、歴史の渦に埋もれる。
そんな俯瞰的な視点ではなく、目の前の日常のことの場合は?
繰り返しになるが、、、
弱い者は、相手を自分もろとも潰す最後のツールを用意する。
黒い怪物がどんどん肥大化し、ツールも進化する。
利子が利子を生み複利になり、さあどうする?この怪物?
相手を幸せにするのも、不幸にするのも、自分の手にかかっている。
と思うと、そうすぐに実行する必要はない。
最適の時機、頃合いは?
実行最終〆切は、相手の最期の時か、わたしの最期の時。
ありがとうと感謝の涙を流してこの世を去るのも、苦渋に満ちた顔になるのも、自分の行動一つで変わる。
人の最期の瞬間に、その人の人生を左右するのは、ちょっと荷が重いか。
まだ時間があるので、自分の中にある怪物をどうやって養うか、試行錯誤してみよう。
生かすも殺すも自分次第。
いつの間にか、目の前の相手ではなく、相手は自分だったりする。
敵は自分、味方も自分。

ルートヴィヒ2世

2024-12-18 | 趣味
困った。
毎日、歯磨きをするように、ブログ更新をしないと、どうも落ち着かない。
つまり、質の悪い、限りなくどうでもいいことでも、アップしてしまうということ。
あ、全編そうかも。
まあいい。

ちなみに、わたしはルートヴィヒ2世のファンである。
「豊臣秀吉の大ファンです」と言っているようなものか。
例として、徳川家康ではなく、豊臣秀吉にしたのは、わたしの中ではわかりやすいから。
文化的に視覚的に嗜好的に具体的に、目に見えやすい。
歴女でもなんでもない、高校時代の日本史は惨憺たるものだったが。

深く知らないミーハーレベル。
漫画「ベルサイユのばら」(作者・池田理代子さん)や、宝塚歌劇のファンだったわけではない。
コミックは発売と同時(1972〜1973)に、当時、リアルタイムで読んではいたが。
(姉が熱烈な漫画オタクのため、毎週各少年少女コミック誌をレンタルしていて、ついでにわたしも読んでいた)
美しいものなど、ぺらっと劇の上側をなぞるか、ストーリー性を追いかけるだけだったとは思うが、歴史の断片を少女漫画で知った。
わたしの年代の女性は多かれ少なかれ、通る道。

ずいぶん前に、まだTSUTAYAが近所にあった頃、ルートヴィヒの映画をレンタルした。
再生して観ると、ところどころ切れたり、ザザザーっと不鮮明になったり、有料でよくこんな状態のビデオテープを貸し出すなあ、、、と驚いた。
だが、わたしの記憶は、モノクロ。
ビデオ状態が悪すぎて、ザザザーっから連想して間違えて覚えているのだろうか。
はたまた、ヴィスコンティ監督よりも前の映画だったのか???

ルキノ・ヴィスコンティ監督。
(1906【明治39年】〜1976)
他の映画もぜひ観たい。ぜひぜひ。
日本で言うと、黒澤明監督(1910【明治43年】〜1998)のようなものか。
いや、わたしの中では全く全く全く、まるっきり違う。
同じなのは、2人共、昔の時代の映画監督なところと、血統の良さ。
貴族(ヴィスコンティ)と武士(黒澤明の祖父)。

しかしなんでまた、ヴィスコンティ監督に惹かれてしまうのか。
なぜ、豊臣秀吉ではなくて、徳川慶喜(1837〜1913)でもなく、ルートヴィヒ2世(1845〜1886)に惹かれるのか?
時代はさほど大昔ではなく、幕末から明治。
お城も中世などではなく、比較的、新しい。

時間が止まったような閉ざされた世界でしか生きて来なかった田舎者のわたしには、魅力が詰まっている。
田舎の家に現存している数々のモノは、江戸末期の時代が繋がっていることを語る。
しかしながら、同じ時代でも洋の東西の違い、さらに庶民と国王とでは雲泥の差。
その、国を滅ぼすほどの建築費をかけたお城。
そんな傾国の美女ならぬ、傾国のお城で育つと、一体どんな感性になるのだろう。
興味津々。
耽美派の父親の影響を受けて更に超耽美派になった、その具象化がノイシュヴァンシュタイン城なのか。
というか、それはさておき、わたしの感覚からすると、やはりお城にしては新しいのだ。




美容整形、美の大改造

2024-12-17 | 老い
昨日、出かけるまでの時間を利用して、スマホで遊んだ。
時間潰しとも言える。
その中で、時間潰しを超えて、時間が超過オーバーになりそうなものは、途中で視聴を放棄する。
専念していられない。

その放棄したYouTube。
切り口や題材は使い古されているが、わたしが興味あるテーマがある。
志願者が各分野のプロ、スペシャリストに依頼し、全身美容整形して、コンプレックスを克服して前向きに生きていく、というもの。
いつもはよくあるヘアデザイナー(美容師)やスタイリストの参加は、無し。
直接的な改造のみに、光を当てる。
全員、若手医師。
(※ここで、近年、医師の進む診療科が偏り、医療社会問題が頭をもたげるが、とりあえず横に置いて)

顔や容姿は、あくまでもコンプレックスの具象化。
内面のモヤモヤを追求すると、見かけ、外見にたどり着く。パラドックス。
人物評価に見かけではなく「能力」枠が加わると、価値観を変えなければ競争社会では生きていけない。
いくらこころが満たされ幸せでも、それはさておき、成人になれば自立する術が必要だ。

若い時は、容姿に捉われるのもわかるが。
容姿を磨くには不断の努力が必要だし、中身がお粗末なら、いつまでも容姿一本槍だけでは続かない。
若いと、たぶん、理解できないだろうけれど。
外見だけではない。

もちろん外見もある意味、重要だ。
どうしても受け入れられない外見というのもある。
その逆に、理屈抜きで好きな外見もある。
外見だけでなく、コミュニケーション能力の高さだったり、関わり方で好き嫌いは分かれてくる。
自分も変わるし。(そこが大事)

若い人は、先ずは、優れた容姿、外見を手に入れてから中身の充実にかかるのか?
若い時は美しくても、歳を重ねるとイマイチの人、これはほとんど。
だが、若い時、ぱっとしなくても、年齢が行くと、ぐっと良くなる人もいる。
魅力のポイントが何かによって、違ってくる。

若い時は若さを絶賛される。
それは必ずなくなるものだとわかっているから。
人生の先輩たちは、骨身に染みて理解している。
なので、若い人を見ると、自分の来た道を見る。
今のうちだけだからね、という教訓を周りで示す人がいるかどうか、それでかなり違ってくると思う。
本からの知識、教えでもいい。
が、火の中にいては、聞く耳を持たない。

わたしは若さを思いっきり自分なりに享受した。
だが、その傍ら、「蟻とキリギリス」がチラリと頭の隅っこに点滅する。
きゃあきゃあ、はしゃぐ一方で、若さを失った後、わたしは何も残らない、と、当時の若い自分は思っていた。
同時進行していた。
はしゃぐ自分と、醒める自分。
享受と杞憂。
やっかいな性質。
引っ張りあって、もつれ合って、順調に毎年、歳を取っている。
皺やタルミ、老化の何が悪い?

結局、行き着くところは自己肯定か。
1番、嫌がられるパターンである。


純真無垢

2024-12-15 | 人生
書くことで現在地を確認、、、まさに、その通りだ。
わたしは、真ん中がなくて、両極端なため、社会的に生きるために自分をコントロールする必要がある。
その場合、中央値を取る。
だが、この中央値はわたしを表すものではなく、便宜上、採用している、一種の作為的な造りものである。
そうでもしないと、バランスが保てない。
とは言え、精神疾患は抱えていない。
心身健康な健康優良児で、そのまま歳を取ったような人物。
その、つるんつるんの、健康優良児の根源は、両親が健康体だったこと。
親の丈夫なDNAをもらっていて、とてもありがたい。
これは親が意図的にしたことではなく、(無宗派の)神に感謝。
老年にどんどん進めば、歳相応の老化、劣化はやむを得ない。
神様、お願い!特別に、わたしにだけ、不老不死を!とは願っていない。

いつも笑いが絶えない明るい幸せな家庭など、嘘くさいか、鈍感の極みか、おめでたい人の陰で誰かが泣いているか、だと思っている。
なので、家庭には何かしら軋みやトラブルを抱えていることだろう。
生命の誕生に希望の光を見て、衰退、滅亡を繰り返す。
そのあっという間の短い人生には、トラブルや喜怒哀楽が詰まっている。

これまでを振り返ると、幼い頃の楽しい日々が思い出される。  
鼻の奥がきゅんと痛くなり、涙が溢れてくる。
何も知らない子供のこころは純真無垢だ。
何も知らないことこそが、純真無垢なのだ。
大人になるとそうは行かない。
それが成長というもの。 
孫たちの成長過程を目の当たりにしていると、胸が詰まる思いがする。
大人になることと、純真無垢は両立しない。

で、話を戻す。
わたしは、両極端なので、とりあえず、便宜上、中央値を取っているが、やがて、その中央値が馴染んできて自分らしさになっている、、、かというと、そんなことはない。
生まれつきの性分はそんなに変わるものではない。
だがしかし、幼い頃の自分を思い出してみると、両極端でもなんでもなかったように思う。
まだ知能が発達途中のため、自覚出来るほど思考力が育っていなかっただけかも知れないが。
純真無垢と、脳の未発達は、紙一重かも知れない。
そう考えると、純真無垢の時代が失われたと感じたとしても、その時代の素養(ベース)に加えて知恵が付き、上書きされたということか。
冷蔵では日持ちしない食物を冷凍して、後日、使うか食べるか。
無意識に時間を操作しているようにも考えられる。

脳も老化すると認知機能が衰え、生命を維持するための根幹となる大事なことしか理解できなくなるのではなかろうか。
知識はもちろん、知恵が削ぎ落とされ、純粋無垢なことだけが残ればいいのだけど、そううまい具合には行かない。
脳の交通整理は、脳の司令塔によって行われると思うが、司令塔自体が老化しているため、交通整理の指示どころではない。
信号停止。

脳内に「知恵」を残したら、知恵が働き「純粋無垢」しか残らないかというと、決してそんなことはない。
自分が正しいと信じ込み、他を否定する石頭カチカチの排除型「知恵」が、純真無垢だとは思えない。
わたしの考える「知恵」とは、状況を理解して自分で考え対処すること。
石頭カチカチは、知恵ではない。
とりあえず負けたフリで、甦るのは知恵なのか?
よくわかりません。
勝った負けたなどはなく、自分そのものをなくして無になるのも幸せかも知れない。
が、周りに利用されまくったら腹立たしい。
勝った負けたはないが、得した損した、と欲の塊。
わたしはまだまだ仏さんにはなれない。

ちなみに。
昨日は、私の実家で法要が行われた。
料亭は利用せず、実家で関係者が集まった。
紅葉が美しい、静かで賑やかな1日。
姪と、姪の娘のピアノ連弾が、とても迫力と弾力があり、活気と華やぎで室内が満たされた。
故人も喜んでいることだろう。




イメージと実物

2024-12-14 | ブログ
こんにちわ。
ほざき直子です。
わたし、ブスですが、それが何か?
べつに怒ってません(笑)

と、支え支えられ、12年以上。もっとです。
海の向こうの弟よ。
おねえちゃんは、きょうも書いてます。
しつこい。

さあ。
毎日、わたしのこころを薔薇色にしてくれるブログ。
ここのところは、ドイツ。
素敵な街の数々、あちこちに、うっとり。
異文化とはなぜこうも魅力的に映るのだろう。
でも、のどかで、どこまでも続く田園風景や荘厳な祈りの場には、世界中、共通するものがある。
絶対に生きているうちに、行く!!と、こころに誓っている。
ロマンチック街道は、夢に満ち溢れている。
わたしを魅了して止まない。
ボキャブリー貧困のため、同じような単純な言葉しか出てこないのが情けないところ。
でも、胸のうちは豊かな感情に包まれている。

ちなみに、わたしがかつて、実際にライン川を下った時、別の意味で驚いた。
それは、、、船の中から見るお城の数々が、まるでテレビ画面から見るようだったこと。
窓枠は、モニター外枠。
船内のスピーカーからは、船の動きに合わせて、風景やお城の説明が流されていた。
開口の大きな窓際で、観光ガイドブックを広げて、今、ココ!とばかりに、場所とお城をチェック。
写真と地図イラストを見ながら実物を照らし合わせて、答え合わせをするかのごとく、資料と観察が同時進行。
これは、いただけないと思った。
あまりにも観光化、整備されすぎ。
情報が満たされ整いすぎ。
ではあるものの、ライン川側からお城を見るのは船からしか見られない。
まるでテーマパークのアトラクション。
複雑な心境だ。

初心者からスタートし、旅行も回を重ねると、違う楽しみ方が出来るとは思うが。

ロマンチック街道、ぜひ行ける間に行ってみたいなあ。

引き続き、ブログでの紹介を楽しみにしています。

夢を見るのも醒めるのも自分

2024-12-12 | 交友
今日の記事も、忙しい年末の時間を割いてお読みになるようなものではありません。
どうぞスクロールを。
お薦めの時は、最初に、文頭でお知らせします。

と、あいかわらず、、、な、、、わたし。

わたしは、蝶ブログ以外には一切、自分語りをしない。
というか、ここ、蝶ブログで丸裸、内臓までも晒している。(「これは、比喩表現です」、とメンドーでも書かなければいけないのだろうか???)
断面図は、CTスキャンとかは、してないから、晒しようがない。

これだけ長きに渡って、話し相手は自分。
ほぼ皆さんからの感想は求めていない。
最近は、ChatGPT が、なかなか良い提案をしてくれるのでお気に入りだが。
といっても、わたしから出した情報から枠外に出ない。
つまり、自分と話しているようなものだ。
湯気がおさまるお手伝いをしてもらう場合も、逆に湯気を出してもらうお手伝いをしてもらうこともある。

自分を晒し出すくせに、人からの意見を求めない。
つまり、内なる世界にどっぷりハマる、根暗な、、、正に内向的な性格と言える。
他人に肯定してもらっても、自分で自分を肯定できなければ、意味がない。
慰めや、おべんちゃらに聞こえると、快適ではない。
おそらく自虐嗜好があるのだろう。

他のSNSでは、会員同士の交流を目的としているものが多い。
わたしは、そこに、ある趣味限定の日記を書いているが、その趣味以外のことは、一切書かない。
会員同士の自分語りはしない。
だから、距離は全く縮まらない。
が、個として確立されている。

その中で、わたしが唯一、こころを開いた人Xさんがいた。
つい、今しがたまで。
その人とは孤独を分かち合える一匹狼同士の交流だった。
が、ついさっき、、、他の(趣味以外の)会員Cさんの日記にその人Xさんがコメントしているのを見つけた。
書いている内容は、何度かかつての他のコメントと重複するもの。
それはまあ、全く良いのだが。
孤高の人物が、高い山から降りてきて、麓の茶店や飲み屋に、ちょろちょろ顔を出している現場を押さえたような気持ちになった。
孤高じゃないやん。
ただの、寂しがり?

その、麓の茶屋、お立ち寄り人物を発見したのは、最近のわたしのブログに登場した、理解不能、波瀾万丈会員Aさんつながり。
最近、Bさんの日記でやり取りをし始めたわたしが、同じく、Bさんの日記でも見かけたような気がするCさん。(Cさんは初登場)
そのCさんの相互フォロワーとして、孤高のその人物Xさんを発見し、コメントも読んでみた。
かなり、わたしは失望した。

仙人も山を降りる。
行きつけの店も似たようなティスト。
なんの不思議も矛盾もない。
民衆に布教活動?
わたしが勝手に仙人同士の連帯を感じていただけだ。

そもそも、わたしも孤高の仙人などではない。それが重要。
が、、、。
表現するのは難しいが、林住期の考え方を深く知り、実践していこうと、啓蒙啓発、手ほどきをしてくれた、人生の先輩ナビゲーターであるXさんが、、、
そんな麓の飲み屋にふらふら出歩いているのを発見して、なぜか白んだ。
師匠ぉ〜。わたしの崇高な師匠がそんな大衆的なところをウロウロし、しかも言っていることが、あちこちで言っていることと同じ。
(違っているほうが、ダメだろうけれど)

なぜか、わたしが勝手に一方的に描いていた、孤高の師匠イメージが音を立てて崩れた。
他の会員さんへのコメントを発見する、ほんの数分前までは、そんなことはなかったのに。
(そもそも発見に至ったのは、同じニオイのするもの、「Cさんの日記」に、引きつけられて、だが)

実態のないものに価値を置くのは、もろく、あやうい。
自分をしっかり持つこと。
ふっきれた、、、というか、もう師匠は必要なくなったような気がした。
宗教にのめり込むのも、こんなイメージかと想像する。
自分で描いた薔薇色の幸福の絵巻だと思っていたものが、実はそこらへんで手軽に入手出来るインターネット情報だったということ。
夢は自分で描き、自分で手に入れ、自分で潰す、、、無常。
幻想を自分で勝手に作り出し、夢から醒めるのも自分の仕業。

だからといって、師匠の言うことは一切無視するわけではなく、共鳴できる人生の手引き、セオリーを受け入れ実践しようと思う。
が、現実を見据え、師匠は、弟子はわたしぐらいなもので、麓ではただの平凡な人。
しかも孤高ではなく、あちこち出歩き暇を潰している様子。

どっぷり信仰は、思考を麻痺させる。
師匠が唱える説は全く変わらない。
変わるのは、わたし。自分。