蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幸せ探し旅、行き先は?

2016-10-02 | 人生
最近、自分は、生きているのか死んでいるのか、わからないようなかんじだ。

プチ鬱、
老年の入り口で立ち止まっている。

入りたくないけど、年齢、順番が来ていて、背後から押され、前からは、こっちだと手を差し伸べられ。
行きたくない、でも、行かねば。
姥捨山、前日の老婆の気分か。

かくしゃくとしている間に、あえて老人ホームに入る人は、潔い。
実母の入っている施設への専用マイクロバスでいつもお会いしている、入居者の皆々様方は、頭もしっかり、カラダもしっかり。
話し方や、会話内容で、前職、キャリアが想像できる。

家を売却しての、片道キップ。
後戻りはできない。
施設選びは、残された人生への賭けである。
結婚みたいなもの?
結婚には、夢や希望、未来がある。
しかし、老人ホームには?
あえて自分でその入所先を決めるなんてことは、そうとうの精神力、意思がいることだ。

息子に、「将来のビジョンは?」と問われ、「80歳までに、自分の入る施設を決める」と豪語したものの、
「80歳はあくまでも、目安であって、延長は考えられる」と、逃げ道を確保した。

老いた母たちを見ていると、自分の若さも同時に、目に見えない暗黒の穴に得体の知れない力で吸引され落ちていくような気になる。
自分もああなるのか。ああなりたくない。
でも、いずれああなる。ぜったいに。

長生きするのが、未来への、ひとつのぼんやりした、幸せ、希望かと思っていた。
しかし、そうではない現実を目の当たりにすると、自分の幸せ探しは、キ、キーっと軋む音を立て、急停車する。

残された稼動時期、心身が健康なうちに、いろいろやりたい、と意欲的だった。
その考え、思いは、今も変わらない。
が、理想の思いとは別に、全く動かない、動こうとしない自分がいる。

「やる気も、能力もない」そういう状態。
これが、今のわたしである。
(これ、先日、息子が帰省した時に言われたのだか、グサッと突き刺さって失血状態)

息子は、とりあえず、自立し飛び立ち、元の巣をチェックし、やはり新しい自分の棲家が自分の理想だと確認したようだ。
親としては、寂しさもあるが、親とは異なる自分独自の夢を求められる間は、好きなようにすればよいと感じる。


さて、わたし。
人に寄りかからず、足を引っ張らず、重荷にならず、
でも、自分の負担が過ぎない程度に尽力して、自分以外の人の役に立ったり喜んでもらったりしたい。
この、絶妙な自己チューバランスは、自己チューすぎて、難易度が高くて、なかなか保てない。
どこかが、過ぎたり足りなかったり、過不足が生じる。
自分の思い通りにはならないのが、常、当たり前。

親もいろいろ複数、子もいろいろ複数、孫も複数、多彩な複線列車。
同時進行の旅。