蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

わたしにはわたしの幸せがある

2024-05-20 | 日々のこと
いつも訪れるブログがある。
わたしより一回り以上歳上の女性。
ご主人に先立たれ、今は1人住まいではあるものの、美しい花、美しい調度品、優秀なご家族に囲まれ、いかにも幸せを絵に描いたような暮らし。
わたしが独身の頃、実家の母が購読していた婦人月刊誌、家庭画報の世界。
そのブロガーさんは、母より歳下、わたしより歳上、ちょうど母とわたしの真ん中ぐらいの世代か。
お子さん、お孫さんも、やはり一回りちょっとプラスアルファ、年齢が上。
彼女は家庭外で一度も就労したことがないだろうと推測するが、非常に興味深く拝読している。
まさに主婦の鑑である。
優秀なご主人(故人)、経済的に恵まれ、ハイスペックなご家族にも恵まれた、誰が見てもお手本に近いものがある。
ご高齢にも関わらず、自分以外は誰も家には居ないのに家を美しく整え、毎日、せっせせっせとブログを更新、、、文章も写真も落ち度はない。

わたしは、はぁ〜っとため息をついて眺めているか、というと、ため息はため息なのであるが、少しため息の種類が違う。
毎日のようにブログ更新は似たようなものだが、ブログ記事の内容、テイストが違う。
あたりまえ、人それぞれ、100人100色。
(※ここで「十人十色じゃないですか?」と、ツッコミを入れる人もいるんだろうなあ、、、)

ただ、その中身について、感じるものがある。
理想の主婦生活を実践され、夫や家族、家庭を支え創り上げるのだろうけれど、なにしろ世代が違うと、考え方も時代背景の影響を受ける。
とは言え、明治時代でも時代を飛び抜けた個性的な女性もいる。
なので、個性の違いではあるのだろうけれど。
わたしは、美しい絵物語として拝読している。
美しく保つには日々の努力、鍛錬が不可欠。
それを生き甲斐に頑張っておられる姿が垣間見える。
何ごとも一生懸命、手を抜かない様子は、緊張感が伝わる。

ところで、昨夜、わたしはハンバーグと八宝菜を作ったが、一口もわたしの口に入らず、夫、娘一家に売れに売れて、あっという間に完売してしまった。
特に2番目孫(小4男子)はハンバーグを立て続けにお代わりして、父親(娘婿)に「他の人のことも考えろ」と言われていた。
個数制限、パパにたしなめられないよう、もっとたくさん作ろうと思った。
2倍量のミンチ肉が必要だ。

わたしは最大の喜びだと実感。
今に「ばあちゃんの手料理なんか食べられないわ」という日が必ずや訪れるだけに。
しかし、一個ぐらい食べたかった。わたしも好きなのに。
だが、食べていたら足りなくなっていた。


それはそうと、、、
わたしは、人様に見せられるようなものは何もないが、秘密主義である。
その割には、こころの奥底まで曝け出しても平気だったり、じつは、こころの奥底ではない可能性がある。
わたしは、省エネをモットーとするため、全てを出さない。
全力は出さない。
小学校高学年〜中学校3年の間に、一生分、全力を出してしまった。
今はその残火で生きている。
目指す目標、持続可能の現代のキャッチフレーズ「SDGs」は、わたしのスタンスに、ぴったり一致して喜ばしい。

ちなみに、話はころっと変わる。
お掃除代行スタッフさんに、先週、掃除してもらった。
スタッフさんたちとは長いお付き合いだが、久しぶりだった。
ヘアサロンに行って髪をキレイにしてもらったような、美容エステを受けたような、そんな爽やかな気持ちよさを感じた。
「自分で毎日掃除しろよ」という声が聞こえそうだが、耳が遠くなって聞こえない。
勢い付いて、植木屋さんにも来てもらう段取りをした。
重い重い重い腰をやっとあげた。

ところで、話がまたまた全く変わるが、、、
(今日は、ころころデー)
「ザセカンド」というお笑いグランプリがある。
一昨日、土曜日はファイナルの生放送を齧り付いて見た。
芸歴何十年もの、元若手が対象。
今年でまだ2年目。
今年、優勝した「ガクテンソク」のネタがすごく面白かった。
夜遅くなのに、1人、わっはっはゲラゲラと笑っていた、わたし。
そもそも、お笑いは大好きなのだ。
特に、しゃべくり漫才。
身体を張って動き回るパターンよりも、口、オンリー。
ネタも練習も、かなり積まれていると感じた。
その場の予期できないアドリブも刺激があるが、やはり、練られたネタが要、ベース。

TVネタついでに、昨夜のTV番組、「アンチヒーロー」を見てから、次、「初耳学」、ゲストは草なぎ剛。
なかなか深かった。
わたしは、何を隠そう(隠す必要はまったくないが)草なぎ剛が好きなのだ。
山﨑賢人も好きだけど。
TVはわたしの、仲良しお友達。

本日の蝶ブログは、行ったり来たり、バラバラ。思いつくまま、統一感もなく。
ねえねえ聞いて、と、アタマに浮かぶことを次々しゃべくる幼児のごとく。
たんなる書き散らしになった。(いつもだけれど)
読んで損した皆さんへ。
すみません。

事実を追求し、辛辣は人を傷つける

2024-05-18 | 老い
さきほど、蝶ブログ記事に、ある人に対するマイナスの評価を書き連ねた。
だが、わたしが憂さ晴らしできたかというと、全然そんなことはなく、むしろ逆で、嫌な気持ちになった。
それで、ボツ、非公開にした。
人の欠点を追求しても自分は救われないということ。
人の性格の弱さを糾弾したところで、糾弾している自分自身に自己嫌悪を感じる。
自分だって欠点があり、克服できないくせに、人の欠点をどうこう言える資格はない。
人の欠点をスルーできない自分、気になる自分は、それだけ器が小さいのだろう。
器の小ささを感じて、自己嫌悪を感じるのかも知れない。
ではあるものの、わたしがこれだけ自省し、そして努力している事柄に対して、当の本人は微塵も何も感じていない。
じつに幸せだ。
人の幸せを壊す権利はわたしにはない。
なので、見て見ぬフリをする。
単なる価値観の相違だろう。
自分で気づいて改善しようとするものなら、とっくに努力するだろうけれど、もう諦め、自分の欠点は見捨てたに違いない。
なので、その欠点を突くと、おそらく本人は著しく不愉快になるだろう。
プライドを揺るがし人格まで壊しかねない。
ほっといてくれ、と。
なので、ほっている。
が、いつも痛いものは痛く感じ、いっこうにわたしの感覚は麻痺しない。
痛みの神経を抜くわけにはいかない。
痛みを部分的、短時間、やわらげることはできても、根本的には不可能。
足を切断した人が、その切断した足の指が痒い、と感じるような、原因は脳や神経にある場合がある。

ずっと前、今より若かった頃の蝶ブログは、毒だらけで、毒吐きしまくっていた。
わたしには毒がいっぱい詰まっていた。
その毒こそが原動力だったかも知れない。
それがかえって読む側にはアクのある悪の気持ち良さを感じたり、自分にもある深層心理を表面に表され、同じ病状に悩む人のような、共犯者のような、そんな共感を生んだかも知れない。
蝶ブログは毒の代弁者。
今は、自分に若さがなくなった分、落ち着いたからか、人の欠点をほじくり出すような内容のブログ記事は、自分を救えない。
人の内面を突き詰めて非難するなんて、良くない。
人は人。
スルーするか、そっと見守るぐらいのこころの広さが欲しい。
暖かく容認、受容するには、まだ修行が足りないが、悟りまであと少しのような気もする。
だが、それが長く困難。
「気にならない」ぐらいがちょうどいい。
改善させなければいけない、、、なんていうのは超お節介だ。
人の内面の深いところに首を突っ込むのは、うるさく、あつくるしい。

自分のどうしようもない欠点を改善する方だけに集中すべき。
だが、最近わたしは、自分の欠点は認め、ジタバタしないようになった。
諦観。
それと同時に、人の欠点も許せる傾向。
そういう時期に移っている。

ただ、許せるのだが、事実がしっかり明確に見え、原因や現状、分析が出来るので、気づいていない本人を見ると、いらっとすることもある。
と同時に、気づかない幸せってあるんだなあと思う。
何でも見え過ぎるのは良くない。
傷つく。
敏感に感じ過ぎないよう、目、耳、口、頭、何か薄いもので覆ったほうが良い。
だが、本人の意識とはまた別に、神様は見えなくしてくれる能力を一定年齢以上の人にプレゼントしてくれるから、ありがたい。
シニアワールドは誰でも入れる。
入りたくない人も。


※写真は、シンガポール・チャンギ国際空港。


ひとは怠惰に流れる

2024-05-17 | 日々のこと
母の日は、お菓子長者になってしまった。
長女、長女の夫、次女、長男、と、合計四つ。
毎日、有り難くいただいている。もぐもぐ。ぱくぱく。
写真をアップしたいところだが、自慢たらしく見られるのは避けたい。
誰も自慢だなんて捉えないと思うが、逆自意識過剰。
過度の防御。
素直ではない、嫌なやつ、わたし。

その代わり、といってはなんだが、家族メンバー、ファミリーLINEには、みんなからもらったスィーツの数々の写真を送った。
母(わたし)は「イヤミったらしい」か「嬉しがり」とは思われても、彼らはプレゼントを競いあうようなことはしない(はず)。
※イヤミついでに、ちなみに、(長女が言うには)「銀座千疋屋」って、お高いらしい。

もし、意図せず競い合うことになったとしたら、逆効果になるので控えてほしい、と説明したい。
3人とも、距離感は同じぐらいの、クールな関係なので、あつくるしいことにはならないと思う。
暮らしも、それぞれが選んだスタンスに基づいているため、上下、優劣はない。
それに、ほぼほぼ、みんな似通っている。
もっとユニークな発展があってもよいと思うが、皆んな手堅い。
冒険はしない。
ではあるが、現代の価値観、風潮を知るには、若い世代の考えに触れるのが1番ダイレクトだ。

さて。
話は変わる。
有酸素運動と趣味嗜好と暇つぶしを同時に満たすため、最寄りの映画館に歩いて行こうと考えた。(徒歩で半時間ちょっと)
映画館は大型スーパーや飲食店、物販店も集まっている商業施設内なので、上映までの時間調整も出来るし、終わって食材を買って帰ると、ハウスワーク実務が加わり、一石四鳥。
シネマ会員になると6回鑑賞すると1回無料になるようだが、入会金と更新料が必要で、さらに無料鑑賞有効期限が短いため、入会は見送った。
つい最近、別のショップで入会して後悔したため。
1年しか有効期限がないのに1500円の会費を払ってしまった。
1年間、おちおち期限が来るのが気になって落ち着かないし、期限切れ目前には欲しくもないのに無理やり1500円分を使おうとして、余計なものを買いそうだ。
高い授業料を払い勉強した。
得をしようとして損をする、いつもの欲張りパターン。
なので、しばらく様子をみてヘビーユーザーにならない限り、会員にはならない。
というか、囲い込まれるのは嫌なので、会員にはなりたくない。

と、映画の予約直前に、宅急便が届いた。
息子からのケーキだった。
LINEで送信されたプレゼント・ケーキを、わたしが手続きしたもの。
冷凍だったので、カットして冷凍し直したり、写真を撮ったり、LINEで写真を家族メンバーに送ったりしていると、出かける時間が後になった。
予約する直前だったため、出かける気満々だったところが、なし崩し的に、ズルズル時間から解放されてしまった。
今からでもまだ遅くない、、、が、たぶん、行かないような予感。
緊張感は一度緩むと、元に戻りにくい。


やったほうがよいことは、すぐ出来るよう準備にかかる時間を5分少なめに時間設定する。
逆に、やめたいことは、やるには手間がかかるよう取り掛かれるまで5分多めに時間を設定すると、良いそうだ。
これは、長女からのLINE。
専門家による、子供の教育指導の悩み&回答を送ってくれた。
「子供のスマホやタブレット長時間利用をやめさせたいが、どうすればよいか?」というものだった。
しかし、やめたくても、どんなに手間暇かかっても、やめられないことは多い。
逆に、したほうがよくても、かんたんに手がかからず、やれても、したくないものはやはりしたくない。
そんなものだ。

わたしの今回の、ウォーキング&映画は、息子からのプレゼントを言い訳に、なんだか行きたくなくなってきている。
行くならすぐ行けるのに。
やはり、アタマで考え、理想を描いて無理をして頑張っているのだろう。
やりたくない自分に鞭打っている。
ケーキひとつで、すぐに決心が鈍る。
怠惰なほうに流れるのは早い。

とは言え、一日の残り時間、陽が陰るまで、出かけるまで、時間は少しある。
さあ、どうなるか??



霧が晴れた森の中で

2024-05-16 | 趣味
ミニ鬱が続いている。
正確には、「続いていた」。
何もする気が起きないのに、強い外圧(長きに渡りプッシュされること)により決断、実行の期日を迎え、無理やり渋々、嫌々、行った。
また別件で長い期間、返事を求められているものもあり、本当に嫌で気が進まないのに、決行した。

どうにか動いたことにより、苦痛が和らいだ。
出口が塞がれているのに、後ろから突き上げられる苦しみから、一時的に解放された。
だが、解決したわけではない。
動かなかったものが、ようやく動き出しただけだ。

渋っていた、避けたかった事柄を無理やり行ったところ、肩の荷が降りた気楽さのせいか、その大嫌いなことをキッカケとして派生する別の事柄に、興味を抱いた。
本筋ではなく、枝葉のほうに、光を見た。
だが、これは、動かなければ見えないものだ。

自分と向き合い、悩みを解決するため、ヒントを得るために、訪れていた他のブログがあったが、もう卒業かも知れない。
停滞を切り抜けて、次の段階に移り始めている。
机上の幸福論を煮詰めていたが、具体的な内容を見つけ始めた。

大袈裟に書いた。
早い話、林住期をどう過ごそうか、暇に任せ退屈を通り過ぎて虚無感に襲われていたが、やりたいことが見え始めた。
それだけだ。

精神論はもういい。実践へ。
実際に行った人々の行動を参考にして、自分の計画を立てたい。
まだ立案とまではいかない。
もやもやした霧が少し晴れた森の中にいるよう。

その一つに、旅がある。
バックパッカーのご夫婦のブログが連日、ブログ村エッセイにランクインされていて、楽しみにしている。
このバックパッカーの旅とは真逆の、まさに対極にある、豪華客船の長旅をする人がいる。
対比すると、興味深い。
自分は何を求めているか、潜在意識を探る参考になる。

まだわたしには、体力と気力がある。
だから、枯れるには生乾き。
想いと現実がうまくマッチせず、軋んでいたかも知れない。
やる気をチャージするのに、わたしは人の何倍も時間がかかる。
ガソリンがどこかから漏れているのに、頑張ってエンジンを蒸していた。
どこから漏れているのか探すのに時間がかかる。
漏れが発見できたなら、漏れている箇所を修復しなければならない。
今はまだ、そんな段階だ。

好奇心を満たしつつ、運動を兼ね、緊張もして、一期一会を愉しみたい、、、そういう目標が出来た。
その場限りの偶然を楽しみたい。
(偶然と言いつつ、じつは偶然ではなく、それまでの長い道のりがある)
そういうアンテナを張って情報を集め、準備していきたい。
時刻表や設計図だけで楽しめるオタクになるかも知れないけれど、まあそれもよい。
楽しみの方向性が絞れたということは、それだけでも、わたしには嬉しいことだ。

次々、細胞が動き始める。
さらに不思議なことに、新しい未知のものが向こうからやって来ることもあり、それに乗っかる勢いが大事だが、乗り間違えないように注意しなければならない。


また、やってしまった

2024-05-15 | 日々のこと
やってしまった。
またもや。
いつも、とても、重々、気をつけているのだが、、、。
電車の改札機で、はたと、パスケースからパスカードを出そうとすると、、、ない。
ない、ない、ない。
よく見かけるシーン、改札機の前で、切符かなにかを見失い、カバンの中見、全てを必死で探している、気の毒な(アルアルである)高齢の人になっている。
が、、、ないものは、ない。
体温が、ツツツーと下がる。
顔半分にザザザと数本の縦線。
しかたない、別の交通カードを使う。
失くしたパスカード分の交通費を余計に支払わなければならなく高くつくが、当たり前。
仕方ない。

なぜ、ない?
最後に使ったのは、いつだ?
土曜日、3日前。
白洲次郎や九鬼家のお墓の写真を撮って体調が一気に悪くなった、あのウォーキングの帰り。
よくよく、考えてみる。うーーーん、、、
精算機を使って現金を足して精算したまま、パスカードを精算機から抜かなかった疑いが発生。
それに違いない。

出かける行きに、紛失が発覚したため(電車で使えなかった)、憂鬱な気持ちになった。
が、行き先では、すっかり忘れものをしたことを忘れ、楽しく過ごした。
スイッチは即座に切り替わる。
でも、帰りに、またパスカードのことを思い出した。
そして、下車、降りぎわに、失くしたと思われる、自宅からの最寄り駅(A駅)の窓口で問い合わせたところ、預かってくれているとのことで、ほっとした。
精算機に放置されていたパスカードを届けてくれた人に大感謝。
駅員さんのこれまた丁寧で親切で優しく礼儀正しいこと。
感激した。
よっぽど、わたしが困り果てて弱々しかったのだろうか。
憔悴しきっていた風情だったのだろうか。
保管されているのは、問い合わせたA駅から、その線の終着駅B駅に既に移されていた。
で、すたこらA駅からB駅まで、4駅乗って終着駅B駅で、連絡が届き待ち構えている駅員さんからパスカードを受け取った。
B駅の、落とし物担当係のその駅員さんがまた優しい人。
本当に「人当たりの良い人」に当たる日だ。
やっぱり、人は、こころに与える大きな影響力がある。
B駅からUターンし、ほっこりあたたかい気持ち、良かったね、と、安堵と労い、ご褒美気分で、最近は滅多に買わないベーカリーショップで、パンを買って帰った。
単純明快な明暗はっきり。



白洲次郎の前後左右、斜め

2024-05-14 | 読む人々には興味ない話
白洲次郎のルーツを辿るウォーキング。
身体はいきなり体調が悪化して、日曜日、母の日で娘たちが来てくれるというのに、ぎりぎり直前まで寝込んでいた。

身体は悲鳴をあげたが、白洲次郎への興味はムクムク。
Googleで調べ始めると止まらない。
インターネットでは不十分だし、ところどころ間違いがある。
参考図書、資料書籍を購入しようかと本気で考える。
それは、なにも白洲次郎本人だけへの興味ではない。
今はまだ白洲次郎は、1番最後にさらっと目を通す段階。
過去(わかっているのは14世紀ぐらい?諸説あり)から白洲次郎に行く着くまで、さらに、それ以後、令和にはどうなっているのか、そして、枝分かれした人々はどうなったのか?
それを調べたら、全然調べ尽くせない。
当たり前だけど。
肝心の白洲次郎への関心が1番低かったことに、今回、驚いた。
漫画の主人公みたいにカッコイイ人、と、上べだけをさらっと見ていた。

だが、彼は明治生まれのオボッチャマなので、時代が違う。
それを言うなら、彼の先祖はもっと時代が違う。
明治で社会構造、産業基盤、階級が、ころっと激変した。
継続しているのは、廃業しても引き続きやっていけている、ごく一部の元武士ぐらい。
(呉服屋さんや、酒・醤油蔵元なども創業は江戸時代というところもある)
それと、農民。(海、山の第一次産業従事者も)

わたしは、小学校から今まで社会科歴史は成績はボロボロ。
ろくすっぽ、わかっていない。本も読まない。
知識も見識もない。
そのレベルでの感想。

日本人は農耕民族で、(平安時代はお公家さんが上のようだが)やがて、僧侶が勢力を増したり、江戸時代にはピラミッドの頂点に武士がいて、その近くあたりに皇族がいるのか、と、今更ながら感じた。
明治以降は権力者が権力構造を入れ替えたり、成功を掴むのは、時代が変わる時のドサクサもある。
元武士は、頭が良く、勉強家で決断力があるのだなあ、、、と、またまた今更ながら思った。
男性の面々、特に老齢の男性が、明治維新や戦国時代〜江戸の始まりあたりの日本史が大好きなのが、よくわかる。
「大化の改新」とかは、遠すぎてピンと来ない。マニア向け?
近代史に比べると、史実を現す物証も、少ないだろうし。
時代は、「どうして」「どうやって変わって行ったのか」に興味がある。
歴史を学ぶと面白いことが詰まっている。
そんなのは大嫌いな人にとっては、大嫌いだろう。
林住期を過ぎ、遊行期に向かうと、過去の流れを知ることにより、自分が生きて来た足跡、時代が浮き彫りになる。
わたしは、オタクで引きこもりなので、調べたりして自分だけ楽しむのが好きだ。

ちなみに、白洲次郎、正子夫妻も、派手なパーティは苦手だったらしい。
唯一、ここだけは、わたしとの共通点。

三田藩主、九鬼家について、ウォーキングで一緒になった人と、隣で、おにぎりを食べながら聞いた話がある。
職場に九鬼という苗字の人がいて、出身は三田ではなかったが、その人の周りは苗字は九鬼だらけだったらしい。
実際の親戚も多いだろうけれど、名字帯刀が許された後も、こぞって九鬼と名乗ったのかも知れないと推測されていた。
藩主となった九鬼さん、その地から綾部と三田に分かれ、何もない山の中の僻地に飛ばされたようだ。
(鳥羽から移封された)
日本は狭い。日本中に、いろんな人が散らばっている。

九鬼家代々、歴代三田藩主たちが眠る寺。
墓がある寺の写真は撮らなかった。



体調悪化は、なぜ?

2024-05-12 | お出かけ
さて。
今日は疲れた。
毎日、そう言っている。
疲れた、と言わない日は、何もすることがなく退屈だった、と嘆く。
悪い状態だ。
やはり、ミニ鬱?
かなり体調が悪い。
医療機関に出向き、受診しようかと思うぐらい。

お墓の写真をバシバシ撮ったから罰が当たった?
12キロ、ウォーキング、白洲次郎のご先祖様を巡る。参加者は90人?
お墓のあたりから急に体調が悪化した。
「お墓の写真は撮ったらだめ、って言われてますね」と、参加者の女性の言葉が妙に引っかかる。
宗教分野、スピリチュアル分野は、ひとそれぞれ好みがあるから、何も感じていない人にとっては、鬱陶しいことこの上ない。

かつて、姑Aの「占い」に家族中、いや、親戚中が、振り回された。
わたしは、たまたま強いメンタル(無神経、鈍感)だったため、(それと打算=言うことさえ従っていたら、あとは全くなんのクレームももたれない)姑Aの占い内容に従った。
姉にも言うと、姉は、姑Aの占い内容を一切姉には知らせるな、とわたしに釘を刺した。
気が悪いからだ。
人の運命や行く道を、いちいち占いで指示されるなんて、鬱陶しい人にとっては鬱陶しいだろう。
指示に従わなかった人の運命の下降線を確かめて、生きた見本、材料にするあたり、本当に気が滅入る。
ほらほら、やっぱり事故、病気、不幸はあのせいだ、なんて、タチの悪い新興宗教のようだ。
あまりにも姑Aが熱心(うるさい)ので、皆んな、渋々従っていた。
やがて晩年、姑Aは自分の健康だけで精一杯、人のことに口を出すほどの余力がなくなって、占いどころではなくなったようだ。
家族のことを思う気持ちはよくわかるが、迷惑以外の何ものでもなかった。
家族の安全や無事を祈るのはお百度でも踏んで自分の行動で完結してくれるならよいが、「◯年◯月に、◯◯に移動しろ」などと、いちいち人の行動を指図されるのは有り難くもなんともない。
姑A自身の安心を得るため、不安を払拭するために家族は振り回されていた。
人には、なくて七癖とはよく言ったものだ。

断れば済むこと、拒絶すれば良いことなのだが、姉のような強い心を持っていないわたしは、姑Aが何も指示しなくなるのを待つだけだった。

舅も夫も姑Aの言いなりになっていた。
姑Aは真面目で良妻賢母で優れた良い人なので、ひとつぐらい意思を通す機会があってもよい、と考えた?(わたしも、そう考えたうちの一人)
それで、あとは丸く収まるなら。

大きな目で見ると、ささいなことかも知れない。
だが、ことあるごとに嫌な気持ちを思い出す。
やはり、不満、鬱憤、怨みを抱えたまま解決せず、後々、その後世まで持ち越されるのは良くない。
一代限りなら、当人が亡くなると鬱憤も消える。
けれど、人には良い面も嫌な面もあるのは、皆、同じ。
断り、拒否できなかった自分にも原因はある。
人間は弱いものだ。
ストレスの99%は、対人関係かららしい。

※写真は、昨日撮影、日本初の民間博物館。今は石碑のみで現存していない。








目と足、無くてはどうしようもない

2024-05-10 | わたし
スマホ中毒から逃れられそうだ。
だがしかし、代償がある。
目と引き換えに。
早い話、目の調子が悪い。
スマホと遊ぶ時間が制限される。
目の神様からの、キツ〜い、警告。
素敵なプレゼントではなく、爆弾。
目は命。

度を越すと膝が痛くなるため、歩数が制限されるようになった。
痛くなるちょっと前に、歩き終えなければならない。
さじ加減が難しい。
目、足、使える制約があると、好き放題できない。
歩数、時間、帰りの分を保存しなくてはならない。
哀しいけれど、思いついたら、なんでもかんでも手当たり次第ではなく、本当にしたいことを厳選するようになる。
かえって、満足度が増すかも?
いや、気分屋のわたしにはツライ。

※写真。街(ウブド)の、この電線、スゴイと感心した。

こうなるとは、わかっていたけれど

2024-05-09 | 時事&世の中
毎日、ニュースをいやというほど見る。
ドラマよりリアリティがある。(当たり前か)

人口ボリュームの多い団塊の世代が揃って歳を重ねるピーク時、
2040年には、(65歳以上の)認知症患者の人々は584万人に推計される。
(※厚生労働省、5月8日、公表)
認知症予備軍とされる軽度認知障害(MCI)患者は、613万人だとか。
MCIは、65歳以上は7人に1人。
それでも、前回の予想(802万人)よりは、認知症の人数が減っている予想となっている。
人々の健康志向が高まり、予防的ライフスタイルを実践しているからのようだ。


7人に1人って、すごい。
あなたも、あなたも、あなたも。
ちょっと持病があります、
最近、目が見えにくくなりました、
耳が聴こえにくくなりました、
白内障の日帰り手術受けました、
のイメージか。
ましてや、軽度認知障害となると、普通にそこらあたりにゴロゴロいる。

ひょっとして「認知症」?と可能性を疑うと、烈火のごとく怒る人がいる。
絶対に自分は片足も突っ込んでいない、と断言する。
認知症気味、認知症傾向、と、言葉を濁しても、烈火の高い温度は下がらず。
自分にはあり得ない、と強い拒絶反応を示す方々。
アレがない、コレがない、と、周りを探し回っている人、認知症ではなく、日常の単なる老化だとしても、、、
それが益々深刻になったとしても、
病名が付いてよかったね、である。

自分はよくても、周りはよくない。
が、「皆んなそうよ、それがなにか? どうかした?」と大多数になると、自分も周りも、意識は変わってくることだろう。

わたしの身内親戚も、高齢認知症がいっぱい。
晩年、最後は認知症になった人と、認知症にならなかったが高齢病没の人は、ほぼ同数か?
認知症であり、なお、最後は臓器がもたない場合もある。
身内では高齢ガン率が高い。
高齢になると、似たような経路をたどる。
皆んな、高齢まで生きてきたという長寿の幸せを全うしている。
天使になってあの世に旅立つ高齢の皆さんはいない。
高齢のまま。
何人も何人も、身内や親戚を見送ると、人は必ず死ぬということが、今更ながらわかる。
そのオマケとして、認知症が付随する。
武士が切腹する時に介助役がいるような、そんなわけにはいかない。
生活の介助はいるが。

いずれ来る道、いずれ行く道。 
避けられない。

ただ、非婚、お一人様、独居が増えているため、社会制度上の対策が必要。
これが喫緊の課題である。

子供は生まれない、高齢認知症は増える、、、少子高齢化社会だと随分前から言われていたのに、実際に到来の波を肌で感じるまでは、他人事。
空き家だの、消滅可能性自治体だの、目の前に実態が晒されると、準備も整備も出来ていない。

暗い話題に、明るい〆はないか?
、、、今日を精一杯生きよう。
行政は、要。
そのためには、選挙の投票は真剣にしよう。

※写真は4日前、ウブドの街歩きショッピング中、お店の横あたり





行って帰って、ワープ完了

2024-05-06 | 
今朝、帰国。
ああ疲れた。
もう遠くには行きたくない。
飛行機に乗りたくない。
帰りは着陸前に、けっこう揺れたし。

しかしながら、さてブログ記事でも書こう、、、と、旅を振り返ると、また現場にいる時とは違う感覚が生まれた。

東南アジア、最後の楽園。
愛知県ぐらいの面積の島。
さて、どこでしょう。
20年ぶりに訪れた、ウブドは、がらりと変わっていた。
車の渋滞、人混み、ごった返し。
西洋人観光客が多かった。
彼女たちは、ほぼ水着みたいな、太陽の光をさんさんと取り込む意欲満々、貪欲スタンスのファッション。
インド系、アラブ系、アジアの国々近隣からの観光客はあまり見かけなかった(ように思った)。
白い身体のあちこちにタトゥーだらけ、ガタイの大きな西洋人たちが、ここかしこに目についた。
たまたまか?
わたしが、顔を見分けられないだけか?
かろうじてわかるのは、肌の色。
老いも若きも露出度MAXで、陽射しを存分に浴びる。
日焼けしないように気をつけなくっちゃ、、、なんて人はゼロ。
日傘を差すと明らかに浮く。
日焼け予防手袋など、皆無。
日焼けしたくない心理は、概念として全く理解されないだろう。
「日焼けしたくなければ、来るな」の、ノリ。
白人ではないのに白くなりたい??
黄色人種の美白願望?
わたしの場合、たんに、シミ、そばかす、シワの原因増加を少しでも回避したいだけだ。
意味もなく、「日焼け」にこだわる説明が長くなった、、、)


ちなみに。
歴史的建造物を「外からばかりではなく、中も見たい」とわたしがガイドさんに言うと、、、
とある国の観光客のマナーが悪すぎて、建物内部を見学できなくなったらしい。
じつに残念である。
だが、マナーが悪いとは、ご本人たちは思っていない。
「マナー」という概念がないのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
なぜ、列に並ぶ順番を守らなければならない?
横から入るのがなぜ悪い?
説明するのはかなり大変だが、根気よく教えていっているとか?
躾か?
「前よりは少し改善されました」とガイドさんは言っていた。
グローバル・スタンダードを学んだ?

お国柄?
文化的特徴?気質?
いろんな文化がある。
日本の重要な古来の建造物に、平気で自分の名前を彫ったりする観光客もいる。
文化的価値や意義は全く理解しないのだろう。
「価値観や文化の違いだ」と片付けられない、納得できない哀しい気持ちになる。

旅が終わって自宅に帰るとホッとする。
ひょっとしてその安堵を得たいために旅をするのだろうか。
人は未知のものや、刺激を求める?
わたしは、早く家に帰りたかった。
観光地は人が多すぎる。
時が止まったような所に、大量の観光客、、、。
時は止まるどころか、喧騒の中。
あんなうるさい場所に行きたかったわけではない。
(若い人には活気的に感じることでも、わたしの年齢では、やかましく感じる)

が、、、時代は変わる。
地元のガイドさんがため息をついていた。

とは言え、場違いな場所にいる(年齢、風貌、嗜好など)場違いなわたしだったが、今、帰って来て感じたことは、、、
その場に居て見聞きした瞬間は、まるで自分は居ないかのような、なんの接点もない、ミスマッチで無感覚な、こころがついて行かない形だけのものだったが、その場を離れると、またザワザワ音や色が付き始めた。
自分が住む世界とは、まるで関係ない、かけ離れた世界があるが、現実としては繋がっている。

※昨日、撮った街のワンカット。
写真に著作権©️をつけてみた。(実際には見えないが)