雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

経済効果 ・ 小さな小さな物語 ( 549 )

2014-02-24 20:11:05 | 小さな小さな物語 第十部
東京へのオリンピック招致が成功し、至る所で祝賀ムードが紹介されておりました。
そして、例によって、どの程度の「経済効果」があるかということが話題になっています。
大会が開かれるまでの七年間の経済効果は、主催者に近い辺りでは3兆円弱、一般的な報道機関などの見出しも「期待される経済効果は3兆円」といったあたりが相場のようです。しかし、中には、とてもとてもそんなものではなく、150兆円程度は期待できるはずだという勇ましい意見もあるようです。
3兆円と150兆円となりますと、なんだか言った者勝ちの感もありますが、その風潮に乗っかって、「経済効果とは何ぞや」と私も考えてみたいと思います。

「経済効果」とは、ある行動やイベントなどによって、どの程度のお金が動くかということです。
今回の場合でいえば、オリンピックが行われるまでに建設や補修される施設や道路などの費用や、大会の入場料や放映料などを中心に、波及する経済活動を積み上げたものです。招致委員会あたりから出されている3兆円弱という金額は、相当緻密な計算がなされたものでしょうから、ある程度根拠のある数字といえるのではないのでしょうか。
それでは150兆円となりますと、残りの147兆円はどこから来るのかということになります。
まず第一には、設備や道路などの建設に投下される資金ですが、オリンピックが行われるということによって前倒しされたり、拡張されるものを加えるとすれば、これだけでも相当の金額が上乗せされます。すでに話題になっていますように、例えばリニアモーターカーの新線を、たとえ甲府辺りまででも営業運転が出来るとすれば、その前倒し費用は莫大なものですし、それに伴う周辺開発、あるいは新たな観光誘致などが期待されます。

但し、「経済効果」とは、動くお金のことを言っているのであって、利益を得ることが出来るわけではありません。3兆円の経済効果だといっても、それらの事業全体で赤字が出るかもしれません。大会本体は別に赤字になってもいいのですが、事業全体としては相応の利益を生み出さないことには「経済効果」といってもあだ花になりかねないわけです。
それともう一つ、現在のわが国のGDP(国内総生産)の金額は、2012年の名目では475兆円です。七年で3兆円の経済効果とは一年あたり5千億円にも満たない金額なのです。一部の企業や人には大きな利益をもたらすのでしょうが、国家全体とすれば誤差の範囲程度なのです。経済効果、経済効果と大騒ぎするのであれば、150兆円程度は工夫と努力で積み上げないことには、国家全体には効果は行き渡らないと思うのです。

オリンピック誘致による経済効果の一つとして、私は大きな期待をもっているものがあります。
招致運動における最終プレゼンテーションは実にすばらしいものでした。招致成功には、そこに至るまでの多くの人の努力によって積み上げられたものに起因しているのでしょうが、首相の最終プレゼンテーションにおける発言も一つのポイントであったと思うのです。
発言内容には、一部悪意か未熟か知りませんが、少々間違った和訳がされているようですが、それはともかく、「福島に関して大見得を切った」ことは確かです。幸い、久しぶりに実現させてくれそうな内閣だと期待したいのです。
つまり、この政権は、東北を完全復興させ、福島の原発を完全コントロールし、周辺を新しい施設で世界の注目を集めるような場所にしてくれることでしょう。東京オリンピックは、その期限を明確にしてくれたのです。
国立競技場はすばらしいものに建て替わるそうです。選手村一帯は大きく変貌を遂げることでしょう。リニアモーターカーは一部営業運転を実現させるかもしれません。しかし、東京オリンピックが大成功と大見えを切ることが出来るのは、東北と福島原発の見事な再生なくしては意味がありません。
それこそが、世界の人たちに発信すべの最大のメッセージであり、わが国の「経済効果」にもインパクトを与えるはずなのです。

( 2013.09.13 )
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オリンピックとGDP ・ 小さな小さな物語 ( 550 )

2014-02-24 20:09:25 | 小さな小さな物語 第十部
前回に引き続きオリンピックが及ぼす経済効果ついて考えてみました。
GDP(国内総生産)とは、国内で生み出された付加価値の総額のことを指します。そして、この伸び率が経済成長率ということになります。この付加価値には、家事労働による付加価値やボランティア活動などの貢献は加味されていません。
もっとも、私はこれらのことに関して生噛りの知識しか有しておりませんので、大まかな考え方としてお読みください。

さて、前回も書かせていただきましたが、オリンピック招致による経済効果は七年間で3兆円などと皮算用されていることを紹介させていただきましたが、同時に一年あたり5千億円に満たない経済効果などわが国のGDPの規模からすれば誤差の範囲だということも述べさせていただきました。
しかし、世間一般的には、すでに恩恵を受けているかのような大騒ぎになっている地域や企業もあるそうです。年間5千億円の経済効果というのは相当のインパクトなのか、あるいは、もしかするとオリンピック招致による経済効果は150兆円に及ぶかもしれないのか、よく考えてみる必要があるかもしれません。

わが国の名目GDPは、1997年の521兆円をピークとして若干の凹凸はあるものの減少を続け、2012年度は475兆円まで落ちています。
1990年度からの二十年間の平均名目成長率は、-0.7%で、この間の実質経済成長率は、+0.6%だそうですから、この間の平均インフレ率は、-1.3%で、つまりデフレが続いてきたわけです。
生活しうる収入が約束されている人にとっては、デフレはそれほど怖いものではなく、これほど縮小を続ける経済の中であっても、大半の人は平穏に生活できてきたわけです。
しかし、その間に、多くの企業は縮小均衡で生き残りを図り、経営立て直しとは人件費を削ることだとしか考えない経営者を数多く育ててしまったわけです。それが、主として新規就職者の門を狭くし、多くの若者の生活をゆがめてしまう原因の一つになっているのです。
つまり、わが国全体が元気であるためには、名目GDPを成長させないことには、雇用も個人所得も改善しないのです。

また、国家経済は、生産→分配→支出と動き、それらのボリュームは同一になります。
つまり、生産された物(国民総生産)は、必ずどこかに分配されます。給料や個人経営者や企業の留保に回るものも含めて、あるいは焼失したり盗まれてしまうものも含めて、いずれかに分配されます。分配された物は、必ず支出されます。生活費や遊興費や公課として、あるいは投資や貯蓄として、タンス預金や壺に入れて地中に埋める物も含めて、全ての物は支出されます。
問題は、支出された物が、次の生産に寄与する力が前年以下になってしまっていることなのです。貯金がいくら多くても、銀行などを通して再生産に寄与する資金になればいいのですが、また、企業の利益留保はいくら大きくてもいいのですが、次の生産に役立つかどうかということなのです。
個人の貯蓄や企業の利益保留金は、それが次の生産には役立たず、主として国債購入に回っているのです。国債を発行した政府がその資金を使って支出の不足分を埋めてきましたので、わが国の経済は何とか回ってきたのでしょう。しかし、すでに、新たに発行する国債の多くは国債の返還に充てなくてはならなくなっているわけですから、国家支出による生産の増加という魔法の杖は神通力を失いつつあるわけです。
さて、そこでオリンピックです。
オリンピック開催による直接的な経済効果など微々たるものです。しかし、その明るい希望に国全体が懸けて、貯蓄や利益留保金や新たな借入金で積極的に生産に繋がる行動を取れば、経済効果は150兆円というのも夢でないはずなのです。年間20兆円という経済効果は、少々インパクトがあるはずです。
これからの七年間のわが国の変貌に期待したい気持ちでいっぱいです。

( 2013.09.16 )
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強靭な国土 ・ 小さな小さな物語 ( 551 )

2014-02-24 20:08:14 | 小さな小さな物語 第十部
台風十八号は各地に大きな被害を与えました。突風や大雨による被害は、広い範囲に深刻な爪痕を残したようです。
被災された方々にお見舞い申し上げます。
この度は、関西各地の被害も少なくなく、特に京都を代表するような観光地である嵐山渡月橋の様子や桂川の氾濫は、テレビ画面を通してではありますが、衝撃を受けました。

私たちの国土は、東西に長く、小さな島まで加えると南北にも長く、領海も含めた国土は広大であります。地域差はあるとしても、四季があり、豊かな農産物や海洋資源にも恵まれた、すばらしい立地にあります。
しかし同時に、多くの火山があり、巨大プレートの交わる立地から起こる地震は数も多く巨大なものも少なくありません。豊かな自然を育む立地は、同時に台風の通り道でもあります。
世界中の国家の自然状況を承知しているわけではありませんが、国土の大半が砂漠という国家もありますし、極寒の地にも人々は国家を形成しています。そう考えれば、わが国が位置する自然環境は、相当恵まれている気がします。
それでも、毎年のことではありますが、台風の被害を受ける度に、まるで台風がわが国土目指してやってくるような気がしてしまいます。

やはり、私たちは、私たちの国土をもっともっと強靭なものにする必要があるように思われます。
自民党からは、「国土強靭化計画」なる構想が発表されています。野党時代に発表されたもので、当然現政権も政策の骨子の一つとされているはずですが、今一つ人気がないような感じを受けています。
その理由の最たるものは、かつての大盤振舞いを続けた公共事業を連想してしまうからだと思われます。大盤振舞いされた道路にしろ、港湾にしろ、さまざまな建築物にしろ、まったく無用というものなどないはずです。その地域にとっては、それなりの意味はあったはずです。ただ、経済性が低いため、後々の運用が困難であったり、メンテナンスに手が回らなかったりで、経済成長の鈍化と共に滅茶苦茶な利益誘導型の公共投資が罪悪視されたのです。そして、「人から物へ」などと、わが国土を強靭化させることが無用かのような風潮を生み出してしまったのです。

現政権には、強靭化の内容を、もっともっと懇切に説明して欲しいと思います。
その手始めは、「強靭」という言葉の意味を正しく理解することだと思うのです。
辞書によれば、「強靭」とは「強くてねばりのあること。しなやかで強いこと」とあります。つまり、あらゆるものを鉄骨やコンクリートで固めるというイメージではなく、もっとしなやかで、粘り強いものをイメージさせる努力が必要だと思うのです。
津波が恐いからといって、国土全体を何十メートルもの壁で囲うことなど出来ません。台風が恐いからといって、国土全体をドーム球場のようにすることなど出来ません。
しかし、前回の東京オリンピック前後に作られた道路・橋梁・上下水道など、老朽化してきているインフラのメンテナンスは喫緊の課題です。東日本大地震の復興予算をつまみ食いするような姑息な方法ではなく、堂々と「国土強靭化計画」なるものを推進して欲しいものです。
そしてもう一つ、国土をより強靭化させる要因の一つには、私たち国民一人一人の自然災害に対する意識革命も必要だということも考えていきたいと思います。

( 2013.09.19 )
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有資格者 ・ 小さな小さな物語 ( 552 )

2014-02-24 20:06:57 | 小さな小さな物語 第十部
資格が必要な仕事というものは、結構あるものです。
代表的なものでいえば、弁護士や税理士などはある分野の業務については、これらの資格がなければ携わってはいけないことになっています。他にも、不動産鑑定士や、危険物取り扱いに関するものや、介護に関するもの、医師免許などもそうですし、自動車や特殊な車両の運転なども、その分野についての有資格者でなくては業務に就くことが出来ないわけです。
これらの資格は、国家など公的機関で定められているもののほかにも、私的に定められている資格もあって、その種類は大変な数になりそうです。
もっとも、私的な資格については、その資格を得ていなくても業務に就くことに法的な制限はないはずです。

よく、「何々の資格を取ろう」といったキャッチコピーを目にすることがあります。何々の資格を手にすれば、就職にいかに有利か、まるで人生が変わるような説明を見ることもありますが、さて、どうなのでしょうか。
かつて、私はある先輩から、「資格では食っていけない」という話を聞いたことがあります。ある種の仕事に就くためには、定められた資格を取る必要があります。また、ある資格を取ることが必要な条件でなくても、身につけておれば仕事をやって行く上で有利に働くことも少なくないでしょう。しかし、どんな仕事であっても、それがプロといわれるほどのレベルで仕事をするためには、資格云々より遥かに高度な知識や経験が必要なことは絶対に間違いのない事実です。

さて、そこで、有資格者というものには、二つの難しい点があります。
まず一つは、ある資格なり免許を得ていなければ従事することの出来ない仕事の場合、有資格者だというだけで、およそプロとは縁遠い低レベルで永年にわたって業務を行っている人が少なくないということです。残念なことに、そのような資格や免許を必要とする職種は、大勢の人に影響を与えるのがほとんどですから、社会に多大な迷惑と損失を与え続けている例が沢山あるのです。たとえばどんな職種かと例に挙げるのは控えさせていただきますが、ほぼすべてといっても過言ではないでしょう。
もう一つは、その反対です。つまり、例えばスポーツの指導者などは、絶対にある種の資格を必要とするようにして欲しいと思うのです。その資格取得には、現役時代の経験を重視するものではなく、科学的、教育的な面のごくごく基本的な知識はぜひ必須として欲しいものです。

またまた学校のスポーツで暴力沙汰が表面化しました。
練習試合後に、指導者らしい人物が生徒を何度も何度も殴っているのです。その映像が第三者の手で動画サイトに流されて表面化したようなのですが、あの動画がなければ、ごく日常のこととして終わっていたのでしょうか。
テレビの報道番組で流されている物だけを見ての判断なのですが、あれほど大勢の前で暴力沙汰が行われているということは、この程度のことはどうってないということなのでしょうか。あの暴行指導者は、直ちに逮捕しなければならないのではないのでしょうか。画面には、審判の姿も明確に映っていました。あの場面を黙認してしまうような人にスポーツの審判などさせて良いのでしょうか。
あらゆるスポーツというのは言い過ぎかもしれませんが、多くのスポーツ現場では暴力沙汰やセクハラ行為が少なくないのではないでしょうか。
もしそうであるとすれば、私たちの国は、オリンピックを開催する資格を有しているのでしょうか。
オリンピックの開催のための資格は、IOCの投票だけで完成するものなのでしょうか。
オリンピック招致委員会の方々は、本当にわが国がオリンピックを開くことが出来る有資格者なのか、今一度真剣に自己評価していただきたいと思います。資格がないのであれば、早急に辞退しなければなりせんし、辞退しないのであれば、有資格者にふさわしいかどうか総点検する必要があるように思うのです。

( 2013.09.22 )
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点検管理 ・ 小さな小さな物語 ( 553 )

2014-02-24 20:05:50 | 小さな小さな物語 第十部
JR北海道において、線路の保守点検がないがしろにされていたことが問題になっています。
しかもそれが、貨物列車とはいえ脱線事故に至ったわけですから、ことは深刻です。同社は、たまたまなのか、当然の結果なのかは分かりませんが、このところ事故が多発しているようで、抜本的な管理体制の見直しが必要でしょうし、もしかすると、経営体質に問題があるのかもしれません。

それにしても、事故の原因が線路の幅が規定以上に広がっていたためだというのですから、素人の私としましては唖然としてしまいます。
再点検の結果は、97か所で問題個所が見つかり、しかもそれらは点検されていて異常状態であることは承知していたというのですから、何とも理解に苦しむところです。
問題が発見された部分の多くは一部の部署に偏っているらしいのですが、それが問題の重大さを軽減出来る理由にはならないと思うのです。例えば、100kmの路線のうち異常個所は10mだけだったので、危険性は僅かに1万分の1だったというわけにいかないはずです。

私のような素人が考えますと、線路の幅というのは、列車の安全運行上のもっとも基本的な部分だと思うのです。それだけに日々点検がなされ、安全のための基準が定められているはずです。その許容されている幅が19mmだとすれば、安全上はおそらく30mm広がっていても問題ないように定められているでしょうし、今回の脱線現場の数値も経験的にはそうそう事故など起こらない幅だったのではないでしょうか。
現場を預かっている人の多くはそのことを知っていて、明日、明後日、そのうちにと放置されていて、まさか事故が起きてからとまでは思わなかったでしょうが、失念状態になっていたような気がします。つまり、「点検管理」というものの意味がよく分かっていない人が何人もおり、指導もされていなかったということではないでしょうか。
これは、あらゆる業務に共通していることで、JR各社に限らず、鉄道運営会社が指差し確認をしているのはそのためなのです。見方によれば、馬鹿げているかに見える指差し確認は、日常繰り返される業務ほど、うっかりしたり手抜きしたりすることが多いことを経験から学んでいるからなのです。

あらゆる職種において、その業務が専門性を必要とすればするほど、慣れからくるミスは重大事故に繋がります。
手術を担当する外科医は、素人から見れば足がすくむほどの緊張を強いられているはずです。しかし、大事に至らないまでも、慣れからきたと思われるうっかりミスも少なくないそうです。
社会正義の最後の一線を守ってくれているはずの警察官にも、誰が捕まえればよいのかというような犯罪を犯す人がいます。教育者といわれる人のセクハラやパワハラも後を絶ちません。
もしかすると私たちは、私たちが日常生活においてなすべき「点検管理」を怠っているのかもしれません。
ごくごく普通の人間として問題がないのか、一つの行動にあたって私たちは自己を点検しているはずなのです。しかし残念ながら、その反省ともいうべき管理がなされていないため、実につまらない、そして恥ずかしい犯罪を犯してしまうような気がしてならないのです。
「点検」というものは、その後の「管理」がなされてこそ初めて意味があることを考え直してみたいものです。

( 2013.09.25 )
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スポーツを学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 554 )

2014-02-24 20:04:31 | 小さな小さな物語 第十部
大阪市の高校で発生した体罰問題に関して、傷害と暴行の罪に問われた当時の運動クラブの顧問に対する裁判において、大阪地裁は懲役一年・執行猶予三年の判決を言い渡しました。
この判決結果が重いか軽いかについてはともかく、体罰が犯罪であり、今回の場合はそれにより生徒が自殺するという痛ましい事件にまで至っていますが、その原因の一つとなっているとも明言されていることは大きな意味をもっています。

スポーツに限らず、体罰は犯罪であることが、この裁判をきっかけとして私たちの社会に広く定着させていきたいものです。事件の被害者や関係者の方には申し訳ないのですが、この裁判は、体罰などというあいまいな言葉を無くしていくきっかけとなるべきだと思うのです。
指導者など優位にあるものが暴力を振るうことを体罰などという実に都合のよい言葉を考え出したのが誰かは知りませんが、現在の日本では、刑法上の有罪者に対しても体罰など許されていないはずです。
いわんや、一介の教師やスポーツ指導者などに、暴行をもって指導のまねごとのようなことをすることは許されていないはずです。
今回の裁判は体罰が焦点となっていたようですが、言葉の暴力も全く同様です。高校のスポーツでも、テレビで実況されるほどの有力校においても、聞くだけでも恥ずかしく腹立たしい言葉で選手を叱りつけている指導者をたまに見ます。あれも間違いなく暴力行為です。当事者の問題ですが、あのような犯罪もどきの試合を放映することは今後は控えるべきではないでしょうか。
要は、指導というまるで正義かのような理由のもとで行われる暴力行為は、言葉の暴力も含めて明らかな犯罪なのです。被害を受けたり目撃した場合には、学校が駄目なら、直ちに警察に連絡すべきなのです。

テレビなどの報道を通してですが、今回被告となった当事者は、指導としての行為だったとまだ確信しているようです。今回の場合も、若干の行き過ぎはあったと考えているらしく、暴行による指導が、良い選手を育てるのに役立つこともあると思っているのです。
とんでもないことです。暴力によって伸びる選手などはごく一部で、その行為によって才能を委縮させていることの方が遥かに多く、スポーツを嫌いになってしまった子供がどれほどいるのか、考えてみたこともないようなのです。
これもテレビの報道番組の中での視聴者アンケートですが、「体罰は絶対にダメ」というより、「時と場合によっては容認できる」という意見を支持する人の方が多いのです。残念ながら、私たちの社会は、暴力や暴言による指導をある程度容認している人が多い社会なのです。

東京オリンピック開催が決まり、大騒ぎしたのはつい先日のことです。
関係者の方々はすでに七年後に向かって準備をスタートさせているのでしょう。どのようにすればすばらしい「お・も・て・な・し」が出来るのか、どのようにすれば数多くのメダルを取ることが出来るのか、様々な工夫がなされることでしょう。
しかし、その前に、私たちの国は、スポーツが暴力や暴言により指導されることがごく普通に行われている国なのです。このような状態で、何個メダルを取ろうと、「おもてなし」らしい振る舞いをしようとも、スポーツをスポーツとして楽しめていない状況を覆い隠していたのでは、意味がないのではないでしょうか。
「スポーツ庁」のようなものが出来るともいわれていますが、実現した場合には、その部署の最優先使命にスポーツ教育をおいて欲しいのです。
私たちは、スポーツ教育といえば実技を学ぶことを連想してきましたが、そうではなくて、スポーツとはどういうものなのか、スポーツの指導者にはどのような資質や経験や知識が必要なのか、などを学ぶ教育を全国民に実施して欲しいのです。
今回の裁判の被告に限りませんが、暴力や暴言を振るう指導者は、正しい指導の仕方を教えられていないのですから、弱者を押さえつけるのにもっとも簡単な方法しか知らなかったのですから、ある意味ではかわいそうなものです。
ぜひ、国民全員に、スポーツの楽しさを正しい指導方法のもとに身につける教育の実施を願っています。

( 2013.09.28 )
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目立ちたがり屋 ・ 小さな小さな物語 ( 555 )

2014-02-24 20:02:45 | 小さな小さな物語 第十部
『 広い宇宙のどこかには、知的な生命、つまり宇宙人が存在する可能性が十分考えられます。中には自己顕示欲が旺盛な宇宙人がいて、地球などに向けて電波などでメッセージを送っているかもしれません。しかし、いくら電波を送信していても、よその星の住人が無関心ならメッセージを受け取ってもらえません。地球人が注目してくれるような何かいい方法はないでしょうか? 』
以上は、9月26日付毎日新聞朝刊の「県立大西はりま天文台からの便り」の冒頭部分を使わせていただきました。
記事をお書きになられている、天文科学専門員・鳴沢真也氏は、世界合同観測プロジェクト「ドロシー計画」のリーダーをなさっておられるそうです。

幾つもの観測所などと協力して、宇宙のかなたから送られてくる電波などの様々な情報を受信し解析されているのでしょうが、何とも壮大なお話です。
目立ちたがり屋の宇宙人だけを追っかけているわけではないのでしょうが、私などの日常を考えますと、スケールの違いに唖然としてしまいます。

この記事の中でも触れられていますが、私たち人間の中でも、目立ちたがり屋は結構いるものです。
テレビカメラなどにVサインをして見せるのは子供に限りませんし、少しは年を考えればよいのにと思うような大人が、草野球で張り切り過ぎて足を痛めたり翌日腰が立たないなどというのも、目立ちたがり屋の本能に原因しているのかもしれません。
そう考えてみますと、「失敗は成功の母」などという言葉がありますが、もっと根本のところには目立ちたがり屋というとても重要な性質が潜んでいるような気もします。

さらに言えば、鳥や虫には、とても美しい姿をしているものがいます。あるいはとても良い声で鳴くものもいます。これらは、間違いなく他のものより目立つためであって、種を繋いでゆくためには目立ちたがり屋は絶対に必要な才能なのかもしれません。
太古の昔に、この地球上に一つの生命が誕生しました。あるいは殆ど同時にたくさんの生命が誕生したのかもしれませんが、初めての生命が誕生するということは、奇跡を奇跡的な数でかけ合わせた程の偶然があったのではないのでしょうか。
あるいは、それは、生まれるべくして生まれた必然的なものかもしれませんが、その原始の生命体は、厳しい環境の中を、これも奇跡的な数の奇跡に助けられて生き延び、子孫を増やし、進化し、ついには人間にまで辿り着いたのではないでしょうか。
そして、その進化の過程には、多くの偶然や奇跡的な好運に護られてきたのでしょうが、生き抜いてきた生命体には、目立ちたがり屋という進化に絶対必要な類稀なる性質をもっていたような気がするのです。
「ドロシー計画」において、いつの日にか、目立ちたがり屋の宇宙人との交信に成功されることを祈念いたします。

( 2013.10.01 )

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銀河団衝突 ・ 小さな小さな物語 ( 556 )

2014-02-24 20:01:30 | 小さな小さな物語 第十部
わが家のカレンダーの中に、今月の写真として「衝突銀河団 abell520」が登場しています。
2012年3月に公開されたハップル宇宙望遠鏡が捉えた写真だそうですが、見た目にはとても美しい写真なのですが、銀河団内の星やガスやダークマター(暗黒物質)とみられるものなどが映し出されているそうです。
遥か二十五億光年彼方の何とも壮大な写真です。

「銀河団」というのは、多数の銀河が互いの重力でまとまっている大規模な集団のことを言い、その銀河数は数十から数千個にも及ぶそうです。集まっている数が五十以下程度のものは、「銀河群」と言って、銀河団とは区別されています。
わが地球は、太陽系の一惑星として、銀河系銀河(天の川銀河)に属していますが、その銀河系銀河は局部系銀河群と呼ばれる四十余りの銀河と共に銀河群の一員になっています。つまり、銀河団より小さな集団だということになります。
集団にはさらに上があって、銀河団や銀河群や独立した銀河などを包含した「超銀河団」と呼ばれる集まりがあるのです。

一口に「銀河」といっても、一千億個程度の恒星から成っている矮小銀河から、百兆個の恒星をもっている巨大銀河まで、その規模は様々なようです。
観測可能な範囲の宇宙だけでも、一千七百億個以上の銀河があるそうですから、宇宙には、まさに星の数ほど星が存在しているわけです。
その宇宙のどこかで、銀河が数百・数千も集まっている銀河団同士が衝突していて、それを地球上から観測しているというのですから、天文学者といわれるような人の頭の中は、いったいどうなっているのでしょうか。

夜空を眺めながら、この様なことを考えていますと、不思議な気持ちに捕われてしまいます。
無限の広がりをもっていると思われる宇宙においても、銀河団と銀河団が衝突するのですから、この狭い地球上で紛争が絶えないのは当然のような気もしますし、いわんや、狭い家庭の中で次々とトラブルが発生するのは、ごくごく当然のような気もするのです。
銀河団の衝突は、とても美しい光景を生み出しています。
私たちの日常の中の衝突は、火花ではない形で、何か美しいものを生み出したいものてすねぇ。

( 2013.10.04 )

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お家の事情 ・ 小さな小さな物語 ( 557 )

2014-02-24 20:00:05 | 小さな小さな物語 第十部
どこの家にも、いろいろな事情はあるものです。
「隣の芝生は青い」という言葉もありますが、外から見ると幸せを絵に描いたような家庭に見えていても、そこに暮らす人には、他人には分からない重たいものを背負っていることは少なくありません。
貧しければ貧しいなりに、物質的に豊かであればあったで、さまざまな事情があるようです。

それは、個人に限らず、企業や団体にも同じことが言えますし、もっと大きな規模である国家にだって、同じことが言えそうです。
それを如実に示してくれているのが、ここ数日のアメリカです。
世界に冠たる国家であることは、東西冷戦が終止符を打って以降は、軍事面経済面共に突出した国家であることは、好き嫌いは別にして否定する人は少ないことでしょう。
その大アメリカ合衆国が、国家機能の一部が休止する事態に陥っているというのですから驚きです。相当深刻なお家の事情といえます。

ところが、さすがと言う表現が正しいのかどうか分かりませんが、どうやら他所のお家の事情とお手並み拝見しているわけにはいかないようなのです。
外国からの観光客に迷惑をかけているという程度では済まないようで、外国との重要会議が主役不在になってしまったり、延期になってしまったりしているのです。
二大政党体制を誇るアメリカですが、それぞれの党にお家の事情があり、その結果国家のお家の事情を解決できないまま外国にまで迷惑をかけ始めているのですから、ねじれ状態の二大政党体制は困ったものです。

ねじれ体制ということでは、不肖わが日本も散々苦い経験をしてきました。
近代国家というものは、様々な意見の違う人たちが互いの知恵を出し合って運営していくことが基本となっているはずですが、これがなかなか難しいようです。
政党というものをベースに考えて見ますと、似通った規模の政党やグループが乱立するのも困ったもですし、拮抗した二大勢力のねじれ状態も困ったものです。
その点、幸か不幸か、現時点のわが国は、一党独裁と言ってもよい政治体制にあります。さて、この状態がどういう結果を生み出すことになるのか、私たちは実体験できる機会を得ているわけです。

まずその手始めというわけなのでしょうか、消費税の8%への引き上げが決定しました。
首相は大いに苦慮された上での決定だと説明されておりましたが、それによる景気の下振れもずいぶん心配されていたようでした。そのため、あれやこれやの下支えするための対策を打つそうですが、何のために消費税を引き上げたのか、根本的なところを見失わないで欲しいと思うのです。
社会保障費に充てるとか何とかといったきれいごとはともかく、要は今のままではわが国の財政は持たないため、国民負担を引き上げざるを得ないからなのです。経済対策は、わが国の経済に活力を取り戻すために実施するべきものであって、消費税引き上げのショックを和らげるためなどというのは、どうも、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようにしか見えません。
現政権は、一党独裁に近い状態下にあるのです。そのことを肝に命じられて、国家のお家の事情解決のために邁進していただきたく、一部の企業や団体や政党のお家の事情に振り回されることがないことを願うばかりです。
さて、私としましては、消費税引き上げにより新たに発生するわが家の事情の対処方法を、ない知恵を絞って考えるとしますか。

( 2013.10.07 )
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記念日が大好き ・ 小さな小さな物語 ( 558 )

2014-02-24 19:58:55 | 小さな小さな物語 第十部
『記念日が大好き』というわけではないのですが、時々暦などに載っている様々な『記念日』なるものを見ることがあります。
実にいろんな記念日があって、面白いばかりでなく、なぜこのような記念日があるのか、何らかの活動のようなものがされているのか、などと考えてしまうこともあります。
本日「十月十日」も、地域的な記念行事やお祭りまで加えるとすれば、かなりの数が挙げられるのではないでしょうか。
全国的なものとしては、「目の愛護デー」になっていますが、これなどは「10月10日」を目の形に見立てたものでしょうから、実に分かりやすく微笑ましいものです。

ただ、非常に残念に思いますのは、「十月十日」が「東京オリンピックの記念日」とされていないらしいことです。
以前は、「十月十日」が「体育の日」とされていて、その制定の理由は、昭和三十九年(1964)のこの日に、東京オリンピックの開会式が行われたことに因んで制定されたはずです。
それがいつの間にか、「体育の日」も「国民の祝日」もどこかへ行ってしまって、「東京オリンピックの記念日」とさえされていないらしいことは、いったいどういう魂胆からなのでしょうか。
オリンピックなんて、いつでも招致できるのだから、記念日云々と大騒ぎする必要などないとでもいう人が多かったのでしょうか。そのため、「体育の日」まで、適当なところへ持って行ってしまったのでしょうか。
その人たちは、この度の二度目のオリンピック招致決定を見て、「それみろ」とでも言っているのでしょうか。

それはともかく、昭和三十九年、つまり四十九年前の本日、東京オリンピックの開会式が開かれました。
その頃の記録を少し調べてみました。
東海道新幹線が開通し、道路の整備が進められたことなどは、七年後のオリンピックが決定したお陰で、その様子などが何度も報道されました。
その他にも、家庭用VTRが発表されたり、「おばQ」が登場したことなども記録されています。
その前年の昭和三十八年はといいますと、ケネディ米大統領が暗殺されたのが十一月のことです。あれから五十年を経て、令嬢が大使として来日されるそうですから、何とも感動的な出来事になるはずです。
他には、大企業で初の完全週五日制が登場し、大阪駅前に横断歩道橋が登場し、東京の五反田にも少し遅れて作られています。
また、わが国初の「スギ花粉症」が報告されたのもこの年の春のことでした。

古い記録を並べて懐かしんでみても、どうということにもなりません。
しかし、七年後のオリンピック開催に向けて多方面の分野で準備がなされ、開発が進められ、新しい文化の誕生がみられるのでしょうが、半世紀前のオリンピックにおいても、先輩たちは様々な分野で血の滲むような努力とすばらしい実績を残していることを思い返すのも大切なのではないでしょうか。
そのためにも、「十月十日」をもう少し大切に扱って欲しいと思いますし、せめて、何方か、「体育の日」を「十月十日」に取り戻すキャンペーンを展開させてくれないでしょうか。

( 2013.10.10 )
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