雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

阿吽の呼吸 ・ 小さな小さな物語 ( 979 )

2017-10-31 14:22:43 | 小さな小さな物語 第十七部
「文書はあったのか?なかったのか?」
「確認できなかった」
「現役の官僚さえ、存在を告発している」
「再調査の結果、一部文書の存在を確認した」 
等々・・・。

何だかよく分からないうちに、どうやら国会は閉会になるようです。
「欧米先進国に比べ、日本は平和だ。問題があるといっても、せいぜい『学園ドラマ』ですから」と、どなたかが発言されていました。
大荒れのようにみえる国会ですが、私たちの国民生活からすれば、「共謀罪」だとか「テロ等準備罪」だとか発言者によって呼び名が違う「改正組織犯罪処罰法」とやらは、相当重要な法律だと思うのですが、「学園ドラマ」と同レベルの問題として扱われているようで、国会の会期を延長することもなく成立してしまいました。
与党の思惑はともかく、野党の追及のあり方も、どうも「学園ドラマ」の方が一般受けが良いと考えているらしい感じが見え、国家の重要性よりも大向こうの受けを優先したのではないかと感じてしまいました。
おまけに、ご苦労なことに徹夜の会議らしいものを経て行われた投票では、例によって牛歩戦術らしい行動に出ていた何人かが投票時間を過ぎたとのことで無効扱いになりました。何とも格好の悪いことですが、どんな手段をとってでもテレビに映りたい一心だったとすれば、戦略は成功したことになります。

ところで、「学園ドラマ」の第二話の方ですが、見方によりいろいろな問題点が浮かび上がってくるのでしょうが、個人的には、省庁間の争い、官邸と官僚の争い、あるいは官僚間の価値観のバラツキと言った部分が見えてきたように思われます。
獣医学科を一つ新設するのがこれほど大変で、多くの利益団体が絡み合っているらしいことは、私などでは全く知らなかったことで、その点では、今回の騒動は、いくつかの闇の部分が浮かび上がってきたのは結構なことだと思われます。

それにしても、「阿吽の呼吸」などという行動は、すでに過去の遺物なのでしょうか。
「阿吽(アウン)」という言葉は、もともと仏教における真言(呪文)の一つで、サンスクリット語からきています。「阿」というのは口を開けて発する最初の音で、「吽」は口を閉じて発する最後の音です。つまり、「阿吽」とは「万物の最初と最後」を表しており、「一切が帰着する知徳」を表しているそうです。
神社の狛犬や仁王が「阿と吽」の形を示しているのは、大宇宙の摂理を示しているのかもしれません。
利害がぎしぎしとぶつかり合う私たちの日常の潤滑油として、「阿吽の呼吸」などという行動が生まれたのだと思うのですが、どうも絶滅危惧種になりつつあるようです。
阿吽の呼吸だと思った会話がメモとなり、しかも、時には流出し一人歩きしてしまったり、忖度(ソンタク)が悪者扱いされてしまったりと、いわゆる大人の知恵がどんどん失われていっているような気がしてならないのです。
どんどん住みにくくなっていく世の中を、ほんの少しでも緩和してくれるような知恵を、私たちは探し出す必要があるように思うのです。

( 2017.06.18 )
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矛盾 ・ 小さな小さな物語 ( 980 )

2017-10-31 14:21:21 | 小さな小さな物語 第十七部
ある人は「こうだ」と言い、別の人は「ああだ」と言う。
こんなことはごくごく当たり前のことで、日常どこにでも見られる風景です。
しかし、同じ人が、ある時は「こうだ」と言い、別の時には「ああだ」と言うとなれば違和感は感じますが、まあ、これもあることでしょう。
ところが、同じ人が、右を向いては「こうだ」と言い、すぐに左を向いては「ああだ」と言っているのを見ますと、さすがにうんざりしてしまいます。

「矛盾」という言葉は、書くにしろ意味を知るにしろ、なかなか難しい言葉だと思われます。
大変よく知られた言葉なので、知っている人にとってはどういうことはないのですが、知らない人が、「ムジュン」という言葉を聞かされて、これを漢字になおすなり、意味を説明するとなれば、これは難しいことです。相当の数をあてずっぽうで挙げていっても、おそらく当たることはないでしょう。
私などが国会での討議などを見ることが出来るのは、テレビ中継か報道番組位なのですが、特に報道番組などで流される場面は、その大半が、議題の核心部分というよりも、何とか回答者から「矛盾」部分を引き出そうとしていることがミエミエであり、質問者の方も、日頃の言動を重ねてみると「矛盾」の本家と言いたいような人であることは決して珍しくありません。

念のために「矛盾」という言葉を辞書などで調べてみました。
この言葉は、わが国ではとてもよく知られた故事から生まれた言葉です。出典は、中国の古典「韓非子」で、「ある男が、『どんな盾でも突き通す矛』と『どんな矛でも防ぐことが出来る盾』を売っていたので、客が『その矛でその盾を突けばどうなるのか」と尋ねたところ答えることが出来なかった」といった話から生まれたもので、「論理のつじつまが合わないこと」を指すようになりました。 
実はこのたとえ話の目的は、韓非子が学問上の敵である儒家(孔子や孟子など)の学説を批判するためのもので、『堯』と『舜』という中国の伝説時代の聖王による政治こそが理想の政治だと唱える儒家は、「『舜』が悪しきを改める立派な政治を行ったので、『堯』は『舜』に譲位した」と教えていたので、「そもそも『堯』が優れた聖王であるならば、『舜』が悪しきを改める必要などなく、もし、悪しきを改める立派な政治を行ったのであれば、『堯』は聖王などではない」と、儒家の教えの「矛盾」をつくために、このたとえ話を展開したそうなのです。

韓非子にせよ孔子にせよ、学者というよりは政治の世界で活躍すべく活動した人物です。つまり、当時からして、政治を目指すからには、「矛盾」に満ちた論戦を勝ち抜く必要があったのかも知れませんねぇ。
因みに、江戸時代初期前後の文献の中には、「矛盾」の意味を「武器を取って戦うこと」と説明しているものがあるようなのです。確かに、こちらの意味なら、この文字を見てあてずっぽうで当てることが出来るかもしれません。
ああ、それで分かったような気がします。つまり、政治を志す人は「矛盾」とお友達である必要があり、しかも本来の意味である「武器を取って戦う」覚悟が必要なのでしょうねえ。
これ、正しい判断でしょうか・・・。

( 2017.06.21 )

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小さな小さな物語  目次

2017-10-31 11:28:19 | 小さな小さな物語 第十七部
          小さな小さな物語  目次

     No.981  どうにもならないこと
        982  立候補資格試験
        983  地方政治の限界
        984  鬼の涙
        985  自然の猛威には勝てないが


        986  伝言ゲーム
        987  『頑張って』と胸を張って
        988  人格の支え
        989  バランスシート
        990  あと一歩


        991  便利な言葉
        992  自由で平和で民主的な国家
        993  猫の目
        994  トンビはタカを生まない
        995  一大事


        996  定められた道
        997  時にはご先祖様と
        998  高みの見物
        999  言いたい放題
       1000  ヤジロベー
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どうにもならないこと ・ 小さな小さな物語 ( 981 )

2017-10-31 11:26:53 | 小さな小さな物語 第十七部
「どうにもならないこと」って、やはり、あるのですねぇ・・・。
まるで万能のようにいわれることがある医学の最先端のすべてをつぎ込んだとしても、懸命の願いがあり、懸命の祈りがあったとしても、失われていく命があり、堪えがたいほどの別離は避けることが出来ないもののようです。
多くの人々の注目を浴び、多くの人々の祈りを受けながらも、一人の女性が旅立っていきました。夫である人の、健気すぎるふるまいは、悲しみをさらに増幅するかに見えます。    合掌。

「何とかなる」「どうにかなる」「やる気さえあれば、成し遂げられないことなどない」等々、考えてみれば、人は実に無責任な言葉を発しています。それも、大部分は、ごくごく軽い気持ちで。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も ・・・ 」という言葉(和歌)もあります。下の句は少し違いますが、上杉鷹山や武田信玄の教えとして知られているようです。現在でも、この言葉を座右の銘として
いるという人に出会うこともあります。
まあ、人を叱咤激励したり、自分自身の気持ちを引き締めるのに役立っているとすれば大変結構な事なのですが、他人に無理強いする時に悪用するような真似は勘弁してほしいものです。
確かに、「為せねば成らぬ」というのは真実でしょうが、「為せば成る」というのは、精神論としては結構ですが、この世の中、そうそう単純ではないみたいな気がするのです。

人の生き死にや、命の行方という事になれば、少々重たすぎますし、個々の考えに委ねる部分も大きいかと思いますので、本稿では避けさせてもらいますが、私たちの日常生活で見聞きする事からも、「どうにもならないこと」を感じることは少なくないようです。
例えば、立派な学歴を積み、エリートと呼ばれるような職業歴を持ち、現在は国権の最高機関を構成する一員である人の、とうてい常識では考えられないような発言と行動が、大々的に報道されてしまいました。テレビを通して聞くだけでも、とても不快なもので、あの報道でわが国の何人の人がどれぐらいの時間不快な思いをしたかと考えますと、恐ろしような気がします。何でも、当人は入院中だとのことですから、治せるものなら治してほしいと思います。
それにしても、学問や社会生活を通していくら学んでも、本質的な下品さは「どうにもならないこと」の一つなのでしょうか。

私ばかりではないと思うのですが、多くの人の日常は、「どうにもならないこと」の林立している林を、何とかかき分けかき分け歩いているみたいなものではないでしょうか。
もう少し力があれば、邪魔になる木を二、三本伐れば歩きやすくなるのでしょうが、残念ながら愚かな私などは、きっと一度でもその便利さを経験すれば、あと二、三本伐ってみよう、いや、この林の木を全部伐ってしまえば思いのままだ・・・、となっていくような気がします。
私たちには、残念ながら、いくら努力をしようが祈ろうが、「どうにもならないこと」があることを知ることも、そして、その事実を受け入れることも、知恵の一つのような気がするのです。

( 2017.06.27 )

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立候補資格試験 ・ 小さな小さな物語 ( 982 )

2017-10-31 11:25:15 | 小さな小さな物語 第十七部
「立候補資格試験」というものがあってもいいんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?
昨今の、国会議員の信じられないような言動が伝えられるにつけ、せめて国会議員選挙に立候補するための資格試験があってもいいのじゃないかと思ってしまうのです。
不祥事のような事が起こると、「選挙で選ばれた国権の最高機関の議員なのだから、自らが判断するでしょう」などといった、寝ぼけたようなご意見がよく聞かれます。確かに、選挙で代議員を選出することは民主主義における最も基本的なルールかもしれません。しかし、一般大衆が、ごく限られた期間、美辞麗句に飾られた選挙戦から、候補者の本質を見抜くなどは不可能といえましょう。さらに、比例代表制による合格者となれば、時には、「聞いてないよ・・・」と言いたいような、詐欺というのは言い過ぎでしょうが、騙されたような人物が紛れ込んでいることは、多々見られるような気がするのです。

テレビで国会議員秘書について説明してくれる番組がありました。
国会議員の秘書には、公設秘書と私設秘書がおり、私設秘書は何人でも雇っていいようですが、公設秘書の場合は、政策担当秘書・公設第一秘書・公設第二秘書の三人とされていて、これらの秘書の給与は国費で支給され、身分は国家公務員特別職だそうです。但し、職務上の指令権限は採用した国会議員にあり、国家や所属議会などにはないそうです。
先日の、何とも情けなく、気分が悪くなるような国会議員とのやり取りを録音していたのは、政策担当秘書のようです。
公設第一秘書と公設第二秘書には特別な資格は必要ないようなのですが、政策担当秘書の場合には資格取得には厳しい審査があるようなのです。全くの白紙の状態から資格を取得しようとすれば、他のかなり難しいとされる国家資格より難しいほどだそうです。もっとも、国会周辺のことですから、「経験何年」などといったかなり低いハードルも設けられているようですが。

さて、相当の難関を越えてなることができる政策担当秘書であっても、雇い主となる国会議員からはあれほどの仕打ちを受けても、多くの場合は情けないような対応しかできないのですから、もう少し身分保障を考えてあげるべきではないでしょうか。テレビで報道された件は、とても普通の人の言動のものとは思えない酷いものですから特殊な例なのでしょうが、ただちに擁護するような発言がチラホラ出てくるところを考えれば、似たり寄ったりのことが日常茶飯事のように起こっているのではないでしょうか。そう考えれば、当選後に資格審査をするとなれば、選挙結果を無視することになりますから、立候補の時点で、せめて一般常識人として通用する人物かどうかぐらいの資格試験を行ってほしいと思うのです。
それほど難しいものではなく、運転免許の更新試験程度でもいいのです。もちろん、認知症試験は必須ですよ。

しかし、そういった資格試験が行われるとなれば、それを簡単にクリアできるノウハウが巷(チマタ)に溢れるのでしょうね。結局、どれほどすばらしい学歴や職歴を積んでいても、どれほど難しい資格を有していても、その表面的なものは分かるとしても、人格の本質を見抜いたり予知したりすることは不可能なのかもしれません。
かつて、ある偉大な経営者が、このような話をされたことがあるそうです。
「自分の会社から犯罪者が出ても、被害者に迷惑をおかけしたとは思うが、恥ずかしいとは思わない。数万人の人に働いてもらっているのだから、何人かの法を破る者が出るのは仕方がないと思う。反対に、大変優れた人ばかりを雇用しているとすれば、それこそ社会の責任の一端を放棄していることになる」と。
私たちの社会は、法律や慣習といったルールに基づいて成り立っています。しかし、そのルールは万全ではないはずですし、守り切れない人が出てくるのも仕方がなく、それも含めてが私たちの社会なのかもれません。
何か起こるたびに騒ぐよりも、国会議員であれ、教師であれ、警官であれ、医師であれ、社会的地位や職業や年齢や性別にかかわりなく、はみ出してしまう人を可能な限り容認して行くことの方が大切なのかもしれません。

( 2017.06.30 )
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地方政治の限界 ・ 小さな小さな物語 ( 983 )

2017-10-31 11:23:57 | 小さな小さな物語 第十七部
昨日は、各地で議会選挙や首長選挙が行われました。
すでに大半の結果が確定していて、本日のテレビの報道番組や情報番組などは、選挙結果について様々な検討や評価が行われることでしょう。
といっても、国政選挙と違って、普通はいくら各地で選挙が行われても、テレビのキー局で大きな話題になることなどほとんどありません。今回は、地方議会といっても、東京都議選は別格ということで、昨夜の全国放送でも大々的な報道体制が取られ、今日も国政選挙後並の報道となることでしょう。

地方議会といっても、東京都はわが国の首都ですから、他の県議会などとは別格ということで、その結果や動向や首長の一挙手一投足が大きな注目を浴びるのは、むしろ当然なのかもしれません。
東京やその周辺に住んでいる人には全く違和感のない現象なのでしょうが、いわゆる地方の国民である私などは、少々ひがみ根性がうごめいてきます。
同時に、昨日は私の住む県でも知事選挙が行われ、私も一票を投じましたが、当地の県知事選の結果よりも東京都議選の結果の方が数倍気になるのですから、私も社会現象の一役を担っているのかもしれません。

ある小さな村の議会が存亡の危機に瀕しているという記事を見た記憶があります。
「市町村」という言葉がありますが、それぞれに議会があり、東京都の区議会も同列だとすれば、一口に地方議会といっても構成している人口にはあまりにも差が大きく、当然予算規模、施策なども比べることさえ無意味な気がします。市町村ばかりでなく、「都道府県」についても、人口比、面積比の差は大き過ぎ、国会議員の定数割り当てなどでも大きな支障が出ています。
何も東京がわが国の文化を代表するわけではなく、地方創成、地方分権、あるいは何かと話題の「特区」など、地方の活性化は重要でありそれなりの施策も実施されているのでしょうが、行政区分の見直しは絶対必要であり、いくら首都とはいえ東京一強状態というのも程度があるように思うのです。

もっとも、東京都がわが国の首都であるとすることについては、そうそう確固たる根拠があることではないようですよ。
東京あるいは東京都がわが国の首都であるということについては、現在のわが国の国民の多くは何の疑いも持っていないと思われますが、法的に確固として明文化されている物はないそうです。かつて存在した「首都建設法」には、東京都を首都と前提とした条文があったようです。現在ある「首都圏整備法」も、東京都とその周辺七県を首都圏としていますから、やはり、東京都が首都というのが法律を作り施行させる人たちにも何の疑いもないのかもしれません。
もしかすると、この阿吽の呼吸のようなものが私たちの文化なのかもしれません。そうだとすれば、自衛隊の何とも座りの悪い状態も、これこそがわが国の文化なのであって、目くじら立てて明文化する必要はないのかもしれませんねぇ。

( 2017.07.03 )
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鬼の涙 ・ 小さな小さな物語 ( 984 )

2017-10-31 11:21:57 | 小さな小さな物語 第十七部
人間の心の中には、仏と鬼が同居していると言いますが、やはり本当のような気がします。
最近のテレビなどの報道を見ていますと、どこまでが事実なのか陥れるための虚偽なのか分からない部分も多いのですが、それらを割り引いても、「そこまでやるか」と言いたくなるような言動が伝えられています。それも、政界、芸能界、一般社会人、いずれも引けを取っていません。

余計なことですが、念のために同居しているとされる「仏と鬼」について少々説明させていただきたいと思います。
この「仏」というのは、わが国の長い文化の流れの中から生まれた存在であって、現代においては、決して宗教的な存在、つまり仏教の仏とは同一ではないと思うのです。仏心(ホトケゴコロ)という言葉もありますが、慈悲深い心のようなものを指すのであって、宗教的な意味は希薄と思われます。
ところが、もう一つの「鬼」となると、これはなかなか説明が難しいのです。単純に、仏心の正反対なもので、慈悲も情けもないもの、と断じてしまえば簡単なのですが、この「鬼」という存在は、私たち人間とのかかわりは深く、おそらく、仏心という表現が存在する遥か昔より、私たちの身近に、時には心中奥深くまで入ってくる存在だったような気がするのです。

「鬼」という言葉を辞書などで調べてみますと、ごく小型の辞書でも、結構難しい説明がされています。もう少し学術的、あるいは趣味的な分野の物まで調べるとなると、私などでは手が出ないほどの説明や研究が展開されているようなのです。
いわゆる生き物としての鬼は、絵本の桃太郎に出てくる悪役や、雷さんのような姿をしているそうで、まあ、妖怪の一種といえるのでしょうが、極めて人間に近い生き物として考えられてきたようです。さらには、不遇の死を遂げた人が鬼になったとか、怨みのあまりの大きさから生きながら鬼になったという話もあるようです。
これがもっと精神的なものになると、「鬼の心」とか「鬼のような顔」とか「鬼ばばあ」といった言葉もあるように、無慈悲とか、残酷とか、恐怖を連想させるものが大半ですが、いずれも人間に極めて近しい立場にあるように思えてならないのです。

私たちには、まあ、聖人君子を絵に描いたような人もいるにはいるのでしょうが、まずほとんどの人の心に「仏と鬼」が入り込んでいるのではないでしょうか。
普段は、本能と若干の学習によって無難な社会生活を送っている私たちは、何かの折には、時には仏の心が顔を出し、時には鬼の心が顔を出してしまうのではないでしょうか。鬼の心というと、まるで悪徳非道なものを連想しがちですが、私たちの心の中にある鬼の心は、有史以前からの長年の付き合いですから、宿っている人間の人格を貶めようなどとは考えていないはずです。悲しいかな私たちは、仏の心は簡単に抑えることは出来ますが、鬼の心は抑えることは出来ず、むしろ増幅してしまうように思われます。
私たちの心の中の鬼は、そのような私たちの姿を見て、きっと涙を流しているように思うのです。そのような時の鬼の泣く姿は、鬼哭啾啾(キコクシュウシュウ・浮かばれぬ霊が恨めしさに泣く声のこと。)と表現されるような凄まじいものではないでしょうか。
慎みたいものです。

( 2017.07.06 )
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自然の猛威には勝てないが ・ 小さな小さな物語 ( 985 )

2017-10-31 11:20:15 | 小さな小さな物語 第十七部
山陰地方に続き九州北部に大雨特別警報が発せられました。
中でも、福岡県・大分県では大変な被害が発生しています。さらに、特別警報が解除されたあとも「警報」は長く続いていて、今日以後もなお予断を許さない気象状況が続いているようです。
甚大な被害を受けた人などのインタビューを見ますと、胸が詰まり、ただただお見舞い申し上げ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。
同時に、なお大雨の懸念が残っており、土砂崩れや二次被害が発生しないように願っております。

過去数十年に経験したことのないような大雨が予想されるとして、「ただちに命を守る行動をとってください」と気象庁は懸命の呼びかけをしました。しかし、それでも甚大な被害を完全に防ぐことは出来ませんでした。もちろん、こうした懸命な呼びかけや、幾つもの自治体では特別警報が発せられる前の警報段階で避難情報などを出して対策を進めたようです。これまでの多くの災害からの学習効果もあってか、かなり適切な対応がなされていたような報道もありました。
しかし、大きな被害が発生してしまいました。

最近のテレビ報道では、国会議員の不適切な、もっと端的に言えば、「いい加減にしろよ」と言いたくなるような報道が多く、将棋の藤井四段の活躍に唯一のなごみを求めるように状況が続いていたので、日本人の本性(ホンセイ)に悲しくなりかけていました。
しかし、大災害という不幸な出来事の中で、救助に当たる警察や消防や自衛隊などの人々の献身的な行動や、支援を受けた大半の人々の感謝の言葉などを聞いていると、やはり、日本人の優しさは健在だと感じさせてくれました。
もちろん、いくら早めの避難といっても、高齢者の多い過疎の家々からすでに大雨となっている中をどう行動すればよいのかとか、せっかく避難した施設が危険となり、さらに避難場所を移れとなって苦情や不満も数多くあったのでしょうが、懸命の市の担当者や警察員などに、彼らの行動を当然の仕事だと思う人は少数ではないでしょうか。

「記録的な大雨」「五十年に一度の大雨」「想定外の雨量」などというニュースなどを見ますと、それを上回る対策はとれないのかと思ってしまいます。かつての著名な戦国武将の多くは、土木工事などにも優れていて、今日までも伝えられている、堤や防風林などもあります。現在の技術をもってすれば、もっと被害を抑えることは出来ないのかと思いますが、どんな対策でも想定以上の発想など出来るわけがないのですから、何十年に一度の大雨には命を守ること以上のことは出来ないのかもしれません。
結論は、私たちはしょせん自然の猛威には勝てないものなのです。
私たちはこの列島に住んでおり、この列島ならではの恵みを多く受けており、その分、火山・地震・梅雨・台風といった辛い部分も背負わされています。そしてそれは、私たちの列島だけではありません。
私たちは、自然の猛威には勝つことなど絶対に出来ません。しかし、自然の猛威と考えているものの中に、人工的なもの、許容を超えた消費などが跳ね返ってきている部分があるのかもしれません。
環境問題といわれてもピンとこないのですが、今少し真剣に考える必要があるのかもしれません。

( 2017.07.09 )
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伝言ゲーム ・ 小さな小さな物語 ( 986 )

2017-10-31 11:18:36 | 小さな小さな物語 第十七部
「伝言ゲーム」などという遊びは、今も健在なのでしょうか。
わざわざ説明するほどの事でもないのですが、念のために簡単に、説明させていただきますと、「チームが一列になって並び、先頭の人に『元となる言葉あるいは文章』を伝えて、チームのメンバーに順に伝えていって、最終の人が伝えられた言葉なり文章を発表して、その正しさを競うゲーム」といったものです。
一つのチーム構成は、二、三人では面白くありませんし、あまり多すぎると厭きてきます。十数人くらいがいいのかもしれません。チームも数組までが良いのでしょうね。
このゲームは、いかに正確に伝言するかということを競うというより、いかに伝達の過程で情報が変化するかという面白さを楽しむゲームといえます。

出題の仕方にもよりますが、まったく正確に伝わることはほとんどなく、正反対の意味になったり、発信者と受信者が入れ替わったり、とんでもない人物が登場してきたり、内容そのものも微妙に変化することが多く、最終者の答えを聞いて笑ってしまうことも少なくありません。
中には、故意にもとの言葉や文章を違えて伝える輩もいますが、それによってゲームが面白くなることもありますが、たいていは白けてしまいます。真剣に伝えていっても、とんでもない誤伝があるということにこそゲームの真骨頂があるのだと思われます。

実際に私が伝言ゲームをしたのがいつのことなのか思い出せないほど遠い昔のことなのですが、テレビで国会質疑の様子を見ていて、この伝言ゲームのことを思い出したのです。まあ、連想ゲームのようなものでしょうか。
それにしても、「言った言わない」「文書があった、なかった」「記録されている、記憶にない」と、なかなか興味深い答えが多く、伝言ゲームらしい面白さが満載されています。
ところが、これだけ面白い答えが続々と登場してきながら少しも楽しくないのは何故なのでしょうか。その原因は簡単です。故意に「偽装」を紛れ込ませている輩がいるため、せっかくの楽しいゲームを台無しにしてしまっているのですよ。

事実は一つであっても、右から見るのと左から見るのでは様子が変わってきます。しかも、それを見たそれぞれの人が情報を伝達していったとすれば、然るべき場所、然るべき人物に伝わる頃には、一つの事実に対していくつかの情報が渦巻くことになるのは、ある意味では自然であり健全であるといえるでしょう。
しかし、何も政界に限ったことではないでしょうが、利権や金権が生まれやすい出来事には、情報が伝達される過程で「故意の虚偽」がつぎ込まれる可能性は高く、最終的な情報を得た人でさえ、自分に都合の良いように解釈を歪めることもあるような気がします。
噂話は楽しいものです。私の大好きな『枕草子』の中にも、人の噂をすることは楽しいことだといった記事がありますから、これは千年の昔からの人間の業(ゴウ)のようなものなのでしょう。しかし、情報の中には、ドロドロしたものが溶け込んでいるものも少なくないことを心する必要があるようです。

( 2017.07.12 )



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『頑張って』と胸を張って ・ 小さな小さな物語 ( 987 )

2017-10-31 11:17:36 | 小さな小さな物語 第十七部
九州北部の豪雨は、甚大な被害となってしまいました。
多くの人が亡くなり、今なお行方不明の人も多数いる状態です。幸い命を守ることが出来た人々にとっても、報道される被害地の様子を見ますと、今後の生活の立て直しを考えますと、茫然となってしまうのではないかと痛ましい限りです。
つつしんでお見舞いを申し上げ、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

被害地の一部には、すでにボランティアの方が支援に入った地域もあるようですが、まだほとんどの地域では、自衛隊員や消防隊員などの専門的な訓練を受けた人でないと危険であり、作業も困難な状態のようです。
しかし、大きな被害を受けた地域の中でも、個人の家の多くは立ち入れるようになっている様子で、親せきや知人、そしてボランティアの人などが作業を手伝っている様子が報道されています。
犠牲者を出してしまった人や、家屋などが大破してしまった人たちに、近しい関係であればあるほど、どのように声をかければよいのか、見舞いに行く方もかける言葉に躊躇してしまいがちです。下手な慰めなど、何の役にも立たないことを経験している人であれば、なおさらのことです。
けれども、そのような時こそ、自らの思いを込めて、『頑張ってください』と胸を張って励ますべきではないでしょうか。

直近の災害の後のお見舞いに関する報道の中で、安易に『頑張って』という言葉を使ってはならない、といったご高説を述べておられる方がおりました。被害の後片付けをしている人の多くは、心身ともに限界に近い状態にあるのに、さらに『頑張って』などというのは酷であり、絶対避けるべき言葉だというのです。
『頑張る』については、ずっと前にも当ブログで取り上げた記憶がありますので、重複する部分も多いと思いますが、何としても『頑張って』という言葉を擁護したくて取り上げました。
一般的な辞書では、『頑張る』の意味としては、「①我意を張り通す。 ②どこまでも忍耐して努力する。 ③ある場所を占めて動かない。」とあります。この三つだけでも相当守備範囲の広い言葉だということが分かりますが、私たちが日常で用いられる場合の意味は、さらに幅広いものです。
確かに、スポーツなどにおいて、「倒れるまでやり抜け」といった意味で使われることもありますが、「ほとんど何の意味もない、挨拶代わりみたいなもの」として使われることも多く、時には、「恋人たちが、恋の成就を誓い合う言葉」としてさえ使われることがあるのです。

かつて、社会的に弱い立場にある人や、厳しい病状と戦っているような人に対して『頑張って』という言葉をかけることは、「これほど努力しているのに、まだ足らないというのか」ということになるので、絶対に避けないといけない言葉だ、という意見を述べられた高名な方がいたようです。それ以来、テレビのコメンテーターの方なども、この意見に賛成したかのように、時々耳にするようになりました。
しかし、言葉というものは、『頑張って』に限ったことではありませんが、発信者と受信者の心のつながり方によって意味が違うことは当然のようにあるものです。被災されて懸命の後片付けをしている人に対して、近しい人が、「倒れるまで作業をするんだよ」といった意味で『頑張って』などと声かけするものでしょうか。また、声をかけられた人が、そのように受け取ることなどあるのでしょうか。
『頑張って』という言葉は、実に多くの意味を秘めているすばらしい言葉なのです。苦しい立場にある人に対して、心を込めて呼びかける『頑張って』という心情を上回る表現方法など、そう簡単には見つからないはずです。
私たちは、もっと自信を持って、『頑張って』と胸を張って語り合おうではありませんか。

( 2017.07.15 )
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