『 我ならなくに 』
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れむと思ふ 我ならなくに
作者 河原左大臣
( 巻第十四 恋歌四 NO.724 )
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに
みだれむとおもふ われならなくに
* 歌意は、「 陸奥の しのぶもじずりの模様のように心が乱れるのは 誰のためでもありません あなた以外に心を乱すことがある 私ではありませんよ 」といった恋歌で、小倉百人一首に入っていますので、よく知られている和歌です。
なお、「しのぶもじずり」には、様々な解釈がされています。「しのぶ」は、地名とも染料として植物の名ともいわれていますが、ここでは、「忍ぶ恋」を連想させるのが狙いでしょう。「もじすり」は、「乱れたように摺った模様」らしいのですが、具体的にはよく分りません。
* 作者の河原左大臣というのは、この時代の有力政治家の一人である源融(ミナモトノトオル・822 - 895 )のことです。
融は、嵯峨天皇の第十二皇子として誕生しました。母は、大原全子です。後宮での地位は「宮人」で、父は従五位上に上っていますが、もともとは貴族に至らない家系だったようです。
814 年、嵯峨天皇は、4人の皇子と4人の皇女に源朝臣の姓を与えて臣籍降下させました。源氏は、多くの天皇が臣籍降下に当たって用いられ、源氏二十一流と呼ばれるように武家や公家華族として繁栄しましたが、これが源氏誕生の最初に当たります。
嵯峨天皇には、23人の皇子がいたとされ、皇女も同じくらいはいたと思われますが、このうちの皇子17人・皇女15人を源朝臣として臣籍降下させています。
* 融は、この時にはまだ誕生していませんが、まだ幼いうちに源朝臣を賜ったものと思われます。もちろん、親王宣下を受けることはありませんでした。
838 年、十七歳の融は、元服とともに正四位下を直叙されました。皇子である事による厚遇です。
翌年には、侍従となり、その後、相模守、近江守、美作守などを歴任していますが、融自身が現地に赴くことはなかったでしょう。
* 850 年、従三位に上り、二十九歳にして公卿に列します。先に臣籍降下した義兄たちも高位に上っており、その流れの恩恵も受けたのでしょうが、行政能力も高かったと推定されます。
872 年、太政大臣であった藤原良房が死去すると、左大臣に上り太政官の首班となります。
しかし、876 年に陽成天皇が即位すると、良房の後継者である藤原基経が、融より格下の右大臣であり、年も15歳ほど若いのにかかわらず、天皇の外戚であることから摂政となり首班の地位が逆転しました。このため、融は自宅に籠もってしまいました。
自らの地位を投げ出してしまったことになりますが、884 年に陽成天皇の譲位に伴う後継争いでは、融が「自分にもその資格がある」と主張したのに対して、「臣籍降下した者が皇位に就いた例はない」と基経に反対された、とも伝えられています。ことの真否は分りませんが、887 年には、光孝天皇の後継者として、臣籍降下していた源定省を皇族に復帰させて宇多天皇として即位させた中心人物が基経ですから、政権の座を争う二人の関係を物語っているような逸話ではあります。
* 891 年、摂政・関白・太政大臣と天下を牛耳っていた藤原基経が死去します。行年五十六歳でした。
これによって、左大臣であった融は再び太政官の頂点に立ちました。そして、895 年に波乱の生涯を閉じました。行年七十四歳でした。
* 河原の左大臣源融が生きた平安時代の前期も、皇位をめぐる争い・政権首班をめぐる争いの激しい時代でした。
その中で、源融は一方の旗頭として藤原氏と互角に対峙しました。その源融の死去により時代は、藤原氏全盛の時代へと動いていきます。
嵯峨天皇の皇子として生れながら親王宣下を受けることもなかった融ですが、太政官として存分の働きをした生涯だったのではないでしょうか。
その一端が、「今昔物語」「伊勢物語」「大鏡」「能の『融』」などで伝えられています。そして、あの「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人とされていることからも、単に波瀾万丈だけの生涯ではなかったと推察されるのです。
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