雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

大谷サーン 投打で規定達成

2022-10-06 19:23:31 | 日々これ好日

     『 大谷サーン 投打で規定達成 』

    エンゼルスの大谷選手 投手として規定投球回を達成
    すでに 打者としての規定打席数は達成していたので
    規定投球回と規定打席数の 両方達成となった
    長い歴史を持つ米大リーグで 初の記録である
    米大リーグには 様々な記録があるが
    おそらく 大谷選手以外に この記録に並ぶ選手は
    当分 出てこないだろう  拍手 拍手 拍手

                   ☆☆☆

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春の初花

2022-10-06 08:03:46 | 古今和歌集の歌人たち

      『 春の初花 』

 谷風に とくる氷の ひまごとに
        打ちいづる波や 春の初花

                  作者  源 当純

( 巻第一 春歌上  NO.12 )
    たにかぜに とくるこほりの ひまごとに
             うちいづるなみや はるのはつはな


* 歌意は、「 早春の谷風に 溶け始めた氷の 隙間ごとに 吹き出すように流れ出てくる波が 春の初花なのか 」といった、比較的分かりやすく、優しい情景が思い浮かびます。

* 作者 源当純(ミナモトノマサズミ)は、平安時代初期の貴族です。
生没年は不詳ですが、官暦は詳しく伝えられていますので、活躍期の推定は可能です。
894 年に太皇太后少進に付いたのが最初です。おそらく、十五歳から二十歳までの事と推定されます。
896 年に従五位下を叙爵し、順調に昇進していますが、その後は、903 年の少納言が最高位のようです。
907 年に従五位上に昇っていますが、従五位下を受けてから十一年を要しています。
そして、909 年 3 月に法会に出席しているのが、生存を確認できる最後の情報です。

* 以上の官暦や、勅撰和歌集に収録されている歌が掲題の一首だけであること、あるいは生没年が伝えられていないことなどを考えますと、作者の源当純は、ごくふつうの下級貴族のように見えてしまいます。
しかし、当純は、天皇の孫という血統の持ち主なのです。

* 当純は、第五十五代文徳天皇の皇子である源能有(ヨシアリ・ 845 - 897 )の五男として誕生しました。
文徳天皇自身も、伯父にあたる藤原良房の後見を得て即位できた経緯があるなど、藤原氏の台頭と皇位をめぐる政争が激しさを増している時代でした。そうした中で、能有の場合は、生母の身分が低い(生母は伴氏)ため、早くから皇嗣争いからは外れていたようです。
事実、文徳天皇の皇太子に就いたのは、能有より五歳ほど年少の惟仁親王で、まだ生後八ヶ月ほどでした。惟仁親王は文徳天皇の崩御に伴い清和天皇として皇位に就きますが、文徳天皇の死因については、暗殺説もあったらしいのです。

* 853 年、能有は、数人の皇子と共に臣籍降下し、源姓を賜りました。
862 年に従四位上に直叙され、その後、加賀守、大蔵卿を経て、872 年に二十八歳で参議に就いています。
もちろん、臣籍降下したとはいえ天皇の御子であることが考慮されてのことと思われますが、政務面の能力を高く評価されていたようで、藤原氏の関係もよく、清和、陽成朝の官邸で重きを成したようです。
最終官位は、右大臣正三位左近衛大将軍兼東宮傅という要職を務め、五十三歳で死去しています。

* このように、作者の父の能有は、皇族の身を離れたとはいえ、上流の貴族としてそれなりの人生であったと推定されます。
しかし、作者 源当純の伝えられている情報を見る限りでは、天皇の孫としての恩恵はほとんど感じられません。ただ、それを冷遇と考えるか、それだからこそ、下級の貴族なりの存分の生き方が出来たと考えるか、微妙なところだと思われます。
母の名前も、生没年も伝えられていませんが、千余
年を経た現在、むしろ特別なことでも何でもなく、むしろ、作者は束縛の少ない人生を送ったのかも知れない、と思うのです。

     ☆   ☆   ☆

 

 

     

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