杵築神社拝殿横に佇む平群町福貴畑の観音堂。
史料によれば、かつて西庄にあった薬師院の別院であったそうだ。
安置する本尊は平群町の文化財に指定されている聖観音座像。
檜の寄木造で高さは87cmにもなる。
像内部にあった墨書銘は「天文十七年(1548)八月十八日 空阿 宿院仏師源次」であったそうだ。
8月17日は福貴畑の観音さんの日。
観音堂内で行われる観音祭には神社役員に三郷町の巫女さんが参列される。
祭りをされる最中に聞こえてきたセミの声はツクツクボウシ。
大凡、お盆のころに聞こえてくるようだ。
一般的に行われる観音さんの日の営みは、在村の婦人らが勤める西国三十三番のご詠歌であるが、福貴畑では珍しく、巫女さんが導師を勤められる。
狭い堂内には8人も入れば満席になる。
始めに堂内で焚きあげる護摩焚き。
護摩木に火を点けて燃え上がる。
その場で立ちあがって神楽を舞う巫女さん。
県内各地の行事取材でたいへんお世話になっている巫女さんである。
鈴をシャンシャンと鳴らして舞う神楽の次は剣の舞いである。
二つの剣を持って交差するような独特の作法で舞う。
神楽舞を終えれば、鈴と剣を手にして役員たちをお祓いする身体堅固である。
文様などが気になっていた巫女さんの装束。
県内各地に出仕されている巫女さんの装束はそれぞれであることに気がついたからである。
ありがたく、ご享受してくださった白い上着の文様。
「舞衣(呼称はまいぎ若しくはまいぎぬ)」と呼ばれ、赤と緑の文様が特徴である。
舞衣の前に長く垂らした赤と緑を前胸あたりに結んで締めている。
赤と緑の文様は両肘・方袖や背中にもある。
それを「五紋」と呼んでいる。
「赤と緑の色は五色の垂れをつけた鈴から派生したのでは」と、巫女さんが話す。
ちなみに下着は前襦袢で、その上から白衣を身につける。
下半身に着用する袴は緋袴(ひばかま)で、白足袋を履く。
参考であるが、若槻の巫女さんの上着は「若松鶴柄」であるが、小泉の巫女さんの上着は「鶴」が舞う姿を描いた「千早(ちはや)」の舞衣である。
また、法貴寺の女児巫女が着用していたのは「菊柄」であった。
三郷町の巫女さんの舞衣は、独特の文様であったことにあらためて認識させていただいた。
この場を借りて感謝申し上げる次第である。
さて、観音祭の主となる営みは西国三十三番のご詠歌である。
五紋の上着を脱いで着座する巫女さん。
本尊前に立てたローソクに火を灯す。
席に座って本尊に向かいご詠歌を謡う。
巫女さんが鉦を打って、導師を勤められる。
福貴畑のご詠歌は三十三番までではなく、一番から十番で、一挙に短縮されて三十三番で終える。
かつては福貴畑に住む祖父の妹さんが巫女さんを勤めていた。
引退されたことで、先代から引き継いだご詠歌だと話す。
福貴畑の巫女家は途絶えたが、勧請縄掛けの際にお世話になったSさんが云うには300年間も継承していた巫女家系で、年に30回も龍田大社の巫女神楽に出仕していたそうだ。
生前、身につけていた装束は今でも大切に保管していると話すSさん。
母親が勤めていた福貴畑の観音祭は西国ご詠歌ではなく、神楽舞だけであったようだ。
「それでは寂しいからとご詠歌を始めるようになった」と話していたことを思い出す。
(H25. 8.17 EOS40D撮影)
史料によれば、かつて西庄にあった薬師院の別院であったそうだ。
安置する本尊は平群町の文化財に指定されている聖観音座像。
檜の寄木造で高さは87cmにもなる。
像内部にあった墨書銘は「天文十七年(1548)八月十八日 空阿 宿院仏師源次」であったそうだ。
8月17日は福貴畑の観音さんの日。
観音堂内で行われる観音祭には神社役員に三郷町の巫女さんが参列される。
祭りをされる最中に聞こえてきたセミの声はツクツクボウシ。
大凡、お盆のころに聞こえてくるようだ。
一般的に行われる観音さんの日の営みは、在村の婦人らが勤める西国三十三番のご詠歌であるが、福貴畑では珍しく、巫女さんが導師を勤められる。
狭い堂内には8人も入れば満席になる。
始めに堂内で焚きあげる護摩焚き。
護摩木に火を点けて燃え上がる。
その場で立ちあがって神楽を舞う巫女さん。
県内各地の行事取材でたいへんお世話になっている巫女さんである。
鈴をシャンシャンと鳴らして舞う神楽の次は剣の舞いである。
二つの剣を持って交差するような独特の作法で舞う。
神楽舞を終えれば、鈴と剣を手にして役員たちをお祓いする身体堅固である。
文様などが気になっていた巫女さんの装束。
県内各地に出仕されている巫女さんの装束はそれぞれであることに気がついたからである。
ありがたく、ご享受してくださった白い上着の文様。
「舞衣(呼称はまいぎ若しくはまいぎぬ)」と呼ばれ、赤と緑の文様が特徴である。
舞衣の前に長く垂らした赤と緑を前胸あたりに結んで締めている。
赤と緑の文様は両肘・方袖や背中にもある。
それを「五紋」と呼んでいる。
「赤と緑の色は五色の垂れをつけた鈴から派生したのでは」と、巫女さんが話す。
ちなみに下着は前襦袢で、その上から白衣を身につける。
下半身に着用する袴は緋袴(ひばかま)で、白足袋を履く。
参考であるが、若槻の巫女さんの上着は「若松鶴柄」であるが、小泉の巫女さんの上着は「鶴」が舞う姿を描いた「千早(ちはや)」の舞衣である。
また、法貴寺の女児巫女が着用していたのは「菊柄」であった。
三郷町の巫女さんの舞衣は、独特の文様であったことにあらためて認識させていただいた。
この場を借りて感謝申し上げる次第である。
さて、観音祭の主となる営みは西国三十三番のご詠歌である。
五紋の上着を脱いで着座する巫女さん。
本尊前に立てたローソクに火を灯す。
席に座って本尊に向かいご詠歌を謡う。
巫女さんが鉦を打って、導師を勤められる。
福貴畑のご詠歌は三十三番までではなく、一番から十番で、一挙に短縮されて三十三番で終える。
かつては福貴畑に住む祖父の妹さんが巫女さんを勤めていた。
引退されたことで、先代から引き継いだご詠歌だと話す。
福貴畑の巫女家は途絶えたが、勧請縄掛けの際にお世話になったSさんが云うには300年間も継承していた巫女家系で、年に30回も龍田大社の巫女神楽に出仕していたそうだ。
生前、身につけていた装束は今でも大切に保管していると話すSさん。
母親が勤めていた福貴畑の観音祭は西国ご詠歌ではなく、神楽舞だけであったようだ。
「それでは寂しいからとご詠歌を始めるようになった」と話していたことを思い出す。
(H25. 8.17 EOS40D撮影)