マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

福貴畑の観音祭

2013年12月17日 09時16分05秒 | 平群町へ
杵築神社拝殿横に佇む平群町福貴畑の観音堂。

史料によれば、かつて西庄にあった薬師院の別院であったそうだ。

安置する本尊は平群町の文化財に指定されている聖観音座像。

檜の寄木造で高さは87cmにもなる。

像内部にあった墨書銘は「天文十七年(1548)八月十八日 空阿 宿院仏師源次」であったそうだ。

8月17日は福貴畑の観音さんの日。

観音堂内で行われる観音祭には神社役員に三郷町の巫女さんが参列される。

祭りをされる最中に聞こえてきたセミの声はツクツクボウシ。

大凡、お盆のころに聞こえてくるようだ。

一般的に行われる観音さんの日の営みは、在村の婦人らが勤める西国三十三番のご詠歌であるが、福貴畑では珍しく、巫女さんが導師を勤められる。

狭い堂内には8人も入れば満席になる。

始めに堂内で焚きあげる護摩焚き。

護摩木に火を点けて燃え上がる。

その場で立ちあがって神楽を舞う巫女さん。

県内各地の行事取材でたいへんお世話になっている巫女さんである。

鈴をシャンシャンと鳴らして舞う神楽の次は剣の舞いである。

二つの剣を持って交差するような独特の作法で舞う。

神楽舞を終えれば、鈴と剣を手にして役員たちをお祓いする身体堅固である。

文様などが気になっていた巫女さんの装束。

県内各地に出仕されている巫女さんの装束はそれぞれであることに気がついたからである。

ありがたく、ご享受してくださった白い上着の文様。

「舞衣(呼称はまいぎ若しくはまいぎぬ)」と呼ばれ、赤と緑の文様が特徴である。

舞衣の前に長く垂らした赤と緑を前胸あたりに結んで締めている。

赤と緑の文様は両肘・方袖や背中にもある。

それを「五紋」と呼んでいる。

「赤と緑の色は五色の垂れをつけた鈴から派生したのでは」と、巫女さんが話す。

ちなみに下着は前襦袢で、その上から白衣を身につける。

下半身に着用する袴は緋袴(ひばかま)で、白足袋を履く。

参考であるが、若槻の巫女さんの上着は「若松鶴柄」であるが、小泉の巫女さんの上着は「鶴」が舞う姿を描いた「千早(ちはや)」の舞衣である。

また、法貴寺の女児巫女が着用していたのは「菊柄」であった。

三郷町の巫女さんの舞衣は、独特の文様であったことにあらためて認識させていただいた。

この場を借りて感謝申し上げる次第である。

さて、観音祭の主となる営みは西国三十三番のご詠歌である。

五紋の上着を脱いで着座する巫女さん。

本尊前に立てたローソクに火を灯す。

席に座って本尊に向かいご詠歌を謡う。

巫女さんが鉦を打って、導師を勤められる。



福貴畑のご詠歌は三十三番までではなく、一番から十番で、一挙に短縮されて三十三番で終える。

かつては福貴畑に住む祖父の妹さんが巫女さんを勤めていた。

引退されたことで、先代から引き継いだご詠歌だと話す。

福貴畑の巫女家は途絶えたが、勧請縄掛けの際にお世話になったSさんが云うには300年間も継承していた巫女家系で、年に30回も龍田大社の巫女神楽に出仕していたそうだ。

生前、身につけていた装束は今でも大切に保管していると話すSさん。

母親が勤めていた福貴畑の観音祭は西国ご詠歌ではなく、神楽舞だけであったようだ。

「それでは寂しいからとご詠歌を始めるようになった」と話していたことを思い出す。

(H25. 8.17 EOS40D撮影)

福貴畑ジョウサン池の龍神祭

2013年11月03日 09時01分55秒 | 平群町へ
平群町福貴畑の水がめであるジョウサン池。

農業にとって大切な池は地域の貴重な水源地でもある。

村の鎮守社である杵築神社より北西500m先の山の上だ。

大阪県境になる十三峠はそれより向こう側になる。

6月22日に通りがかった十三峠の道筋。

そこでは村の男性たちが集まって道造りをしていた。

村の道にはびこる樹木や草を刈っていた。

いつもこうしていると話すS宮総代。

正月初めに行われた勧請縄掛けでお世話になった。

この日はジョウサン池に鎮座する龍王神社のマツリである。

龍王の名が示すとおりの水の神さんは池の南東畔にある。

この地はかつて雨乞いの場であった。

干ばつともなれば杵築神社にお参りをして松明に火を点けて山道を登っていった。

十三塚を左回りに巡ってから火を点けた松明を池に投げ込んだ。

そうすることで慈雨を乞うたのである。

龍神を怒らせて雨を降らせたという説もある雨乞いの様相はかつてのこと。

ジョウサン池に向かう村の人たちが抱える雨乞い松明の写真がある。

平群町が平成11年9月発行の422号に発行した『ふるさとへぐり再発見』に掲載された写真は奈良県教育委員会提供である。

ありしの姿を復元した松明行列の写真である。

その写真は先日まで県立民俗博物館で開催されていた企画展の「お米作りと神々の祈り」で展示されていた。

龍王神社下の広場に斎場を設けた。

シバを燃やして湯を沸かす御湯釜は他所では見たこともない茶釜であった。

年代を示す刻印もない湯釜。

ぶんぶく茶釜のような突起物は見られないが、御湯をされる三郷町の巫女さんも間違いないと話す。

湯釜の前に置いた蓆に座った巫女さん。

一拝して小幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯の上から撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって幣を振る。

その幣を湯に浸けて掻き混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

福貴畑の龍神さんに神さんを呼び起こして勧請する。



勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。

笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げて、上下に動かす湯に浸けた笹の葉。

もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。

それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。



そうして湯に浸ける笹の葉。

何度も、何度も繰り返す。

まるで湯を焚きあげるような作法である。

そうして四神に向かってそれぞれ「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する神楽を舞う。

そして龍神さんの祠の前に進みでて同じように神楽を舞う。



下って、「水難、盗難、家内安全、もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と参拝した神社役員一人、一人に御湯の笹を鈴で祓い清めるありがたい身体堅固を受ける。



御湯の儀式を終えれば一人ずつ龍神さんに玉串を奉奠する。

御湯に使った笹の葉と幣は祠に残して立ち去る。

龍神祭を終えたジョウサン池は静けさを取り戻す。



ちなみにジョウサン池を充てる漢字は何であろうか。

池の向こうは十三峠。

もしかとすればと思って、宮総代に伺った。

「ジュウサン」が「ジョウサン」に訛ったのでは・・・。

「そうかもしれん」と返答する宮総代であった。

雨乞いの御湯を終えたころにはぽつぽつと雨が降り出した。

雨乞いが叶った祈りの祭典を終えた氏子たちは杵築神社に戻って直会をする。

かつては秋のマツリにおいても御湯をしていた。

境内に設えた御湯の行事は今では見られない。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)
(H25. 7.13 EOS40D撮影)

久安寺の植付け休みの御湯

2013年10月08日 08時56分43秒 | 平群町へ
村の田植えのすべてが終われば植付け休み。

農作を終えて身体を休める日である。

今では植付け休みと云っているがが、本来は「ケツケ」であると総代が話す平群町久安寺の村。

「サナブリだ」と云う人もいるが、隣村の福貴畑の宮総代もそう云う「ケツケ」は、毛を付けて実りの豊作を願う村行事である。

久安寺の地はお寺の名でなく大字の名である。

「慶長郷帳(1596~)」「元和郷帳(1615~)」に記す大字名は「休安寺」であったようだ。

畑仕事の一切をせずに農休み。

そうでなければ村の行事に大勢が集まることは難しいから、第四土曜にしている植付け休みの場は氏神さんを祀る素盞嗚神社である。



本殿前の境内に設えた斎場は注連縄を張って立てた四方竹。

厳かに行われる神事の場である。

中央に設えた古いお釜。

鉄輪(かなわ)の三徳で支えられた湯釜である。

脚にはそれぞれ獣面が彫刻されている鑄物製だ。

10年ほど前までは一本の脚がとれていた。

なんとか支えながら遣ってきた湯釜の脚は修理した。

その際に、取り付けられた輪形で羽釜になった。

その湯釜に刻印が見られる。

「牛頭天王宮元文三戌年(1738)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」である。

およそ270年前の代物を今尚使っている久安寺の祭具に感動を覚える。

刻印された寺院は「長生院」。

かつて薬師堂と呼ばれていた寺院は明治七年に廃寺となった。

境内にひっそりと佇むお堂がそれだという。

「比丘」の名が示すように安寿さんがおられたと伝わる長生院である。

昭和の時代までは久安寺の村に宮座があった。

10軒ぐらいであった宮座は自治会に行事を移管して以来村の行事として運営している。

奈良県庁文書に残されている『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば座は8人であったようである。

小学6年生の女の子は虫類が大好きなようだ。

動かなくなったタマムシを見つけて見せてくれる。

在学している平群西小学校は平成25年度に閉校し、在校生は東小学校に移管されて統合される。

少子化の波はどこもかしこも押し寄せる。

植付け休みの祭典に集まったのは村の人が40人ほど。

この日に行われるのは御湯の神事である。

神職の姿はなく、三郷町の巫女さんが神事を勤められる。



神饌を供えた本殿前で行われる神楽の舞。

始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。

次が剣の舞だ。



神楽を終えて、一人、一人に鈴と剣で祓ってくださる。



「祓いたまえー 清めたまえー」と生後間もない赤ちゃんまでも祓い清めるありがたい作法である。

神事は斎場に移って御湯の神事。

柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。



お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。



御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

2本の笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。

大きな動作でシャバシャバすれば湯が立ちあげる。



東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。

何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の2社である。



シャンシャンと鈴の音がする。

履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。



氏子たち一人ずつ順に祓い清めて神事を終えた。

笹の葉で飛び散らす御湯は清めの湯。

まさにオハライの御湯を受けた村人たちは神社の会所に上がる。

巻き寿司、稲荷寿司にオードブルなどをテーブルに広げて食するひとときの歓談に移った。

オードブル皿にはエビフライ、カラアゲ、タマゴ焼き、ヤキトリ、イカの天ぷら、肉だんごなどを盛っている。

50年も前はコフキマメにカボチャ(煮ものであろう)の手料理だった。

それを貰いにきた子どもたちは会所の縁側で食べていたと話す。

十数年前までは神職が会所に住んでいた。

不在となってからは神社の秋祭りに龍田大社の神職がやってくる。

素盞嗚神社は龍田の末社であると云う。

秋祭りは10月の第三金曜、土曜、日曜日である。

金曜の宵宮は提灯を掲げる。

日も暮れる6時ころのようだ。

翌日は子供御輿を軽トラに乗せて村を巡行する。

太鼓を叩くのは子どもだ。

祭りの翌日は提灯を片付けて終える。

1月8日は薬師堂でオコナイをする。

午後に参集するのは寺役。

奉書に墨汁を付けた版木でする。

村の戸数の50枚のお札を刷って祈祷するのは僧侶。

神職が居られたときは「ゴンボ」と呼ばれる注連縄を用意していたらしい。

刷ったお札は先を割った竹に挿す。

以前はウルシの木であったが、いつしか竹に替ったようだ。

かつてはオコナイの日にカンジョウカケをしていた。

ツナを結って薬師堂で祈祷してからツナを掛けたと云う。

今では、その日でなく年末だ。

カンジョウツナは注連縄になったようで20日辺りにするらしい。

オコナイで祈祷したお札は春の苗代の水口にお花とともに挿していたが、久安寺の村ではたった1軒の稲作農家。

会食に居られた男性の声。

「家人が食べるぐらいの量しか作らない稲作ゆえ、水口に祭ることもないだろうと思う」と話す。

「ケツケ」を終えた後日に雨が降れば「アマヨロコビ」を垣内単位で行っていた。

これも50年前のことだという垣内の風習は南、窪、北(三つの組垣内)の5垣内それぞれである。

かつては滝ノ上垣内もそうだったと思うのであるが、聞きそびれた。

(H25. 6.22 EOS40D撮影)

福貴畑の勧請縄掛け

2013年04月15日 07時50分03秒 | 平群町へ
正月8日は平群町福貴畑(ふきはた)の勧請縄掛け。

早朝に集まった男性たちが藁を結う。

杵築神社の座のトーヤ(当家)である。

福貴畑は80戸の集落で全員が氏子になる。

かつては決まった「講」家が座中であったが戦後に解体して全戸氏子制度の座中となった。

縄結いのトーヤは正月座を営んだ人たち5人。

秋にも座のマツリがあり、そのときも5人のトーヤが存在するが、正月座のトーヤとは別のトーヤに替る。

つまり福貴畑のトーヤは1年を2回に分けたトーヤ制度は一年を通じて合計10名からなるトーヤなのである。

80戸の集落からなる福貴畑のトーヤは8年に一度の廻り。

昔から決まっている順番だ云うトーヤは家の並びでもないそうだ。

万が一、不幸ごとがあった場合は替ってもらう。

5軒のトーヤが5束ずつ持ってきた藁束。

現在は稲作農家が少なくなったことから餅米を専門に作っている農家から提供を受けているそうだ。



勧請縄を結うのはモチワラ。

ヨコツチ(槌)で叩くワラ打ち作業でワラを柔らかくする。

塩水に浸けなくとも結い易いと話す。

太くする勧請縄は数人がかりで作る。

作業の場は杵築神社の座小屋と呼ばれる割拝殿。

前日に正月の座の営みをされた場である。

昭和44年5月8日に上棟式をされた拝殿には色彩が僅かに残る彫り物の絵馬を掲げている。

嘉永四年(1851)八月に奉納された絵馬である。

声を掛けられた宮総代も応援に駆けつけて縄結い作業。

一方、勧請縄に垂らすタグリと呼ぶホソナワも結っていく。

タグリの本数は12本。

閏の年であっても12本だ。

30年ほど前には松葉も縄に取り付けていたと話す。

割拝殿の壁には「奉修本尊護摩密供 悪霊退散 五穀豊穣 村中静謐祈攸 大和国平群郷 長楽寺」の木札があった。

真言宗豊山派の長楽寺は平群町役場前にある古寺。

なぜに杵築神社の拝殿に存在するのか判らない。

「どなたかが持ちこんだのではないだろうか」と話す。

縄結いが進行するにつれて長くなる。

かつては上から吊るして3人が身体全身で捩った。

そのときには伊勢音頭を唄っていた。

唄の調子に合わせて捩っていたと云う。

長くなった縄は拝殿の端から端まで。およそ12mの長さである。

神社から遠く離れたカンジョウの地の樹木に巻きつけるからそれぐらいの長さで丁度良いと云う。

一方、社務所でゼンザイを準備する婦人たちもいる。

トーヤの奥さん方である。



勧請の日は夫婦揃っての行事だ。

ゼンザイと夫婦で夫婦善哉を思い出したが・・・特に関係はなく心の中で呟いた私の独り言である。

正月に供えたカガミモチを割ってゼンザイに入れる。



鏡開きは槌で割ることなく機械の押し切り。

宮総代が力を込めて切り分ける。

昨日は7日。福貴畑では七草粥を作ったと話す。

七草はミズナやマナ、ナズナなどを入れた。

セリはまだまだだと云う。

菜っ葉を入れて炊くのはオカイサンと同じ。

家庭によって異なるが塩味、味噌味などさまざまなようである。



この年の縄結い作業は時間がかかった。

小休止や昼休憩を挟んで午後も続行する。

ようやく出来あがった勧請縄はぐるぐる巻いてトグロ巻き。



神社本社前に置いて一同が拝礼。



出発前にホラ貝を吹くとともに太鼓を打つ。

ドン、ドン、ドンドンドンだ。

向かう先はカンジョウの地。

十三峠に向かう旧道である。

分かれ道からほんの少し下った旧道は薮の谷。

そこがカンジョウの地である。

その地から下っていけば福貴畑の杵築神社に繋がる旧道。

さらに下れば小字宮前になると云う。

軽トラックで行っても7分ほどかかるカンジョウの地は見晴らしのいい高台にある。

縄を担いで峡谷とも思えるカンジョウの地に跨げるように掛ける。

一年前に掛けた勧請縄を外して新しく掛ける。

樹木に巻き付けて固定する。

もう一方の縄端は対面側の樹木に上げる。



そろりそろりと持ちあげて縄を張る。

崖のような場所は作業が手間取る。



タグリを奇麗に下げて終えた。

一同は神社に戻ってゼンザイの直会

大釜で炊いたゼンザイである。

かつては子供たちが大勢やってきて食べていたそうだ。

(H25. 1. 8 EOS40D撮影)

福貴畑杵築神社の行事

2013年03月29日 09時45分07秒 | 平群町へ
1月7日は福貴畑(ふきはた)の座の行事。

座小屋で営む座中の正月の座
のようだ。

8日はカンジョカケが行われる。

杵築神社の座小屋で勧請縄作り。

かつては伊勢音頭を唄いながら縄を結っていたそうだ。

縄ができあがれば神社から南東のカンジョ場に縄を掛ける。

そこへ行くまでの道中では太鼓を打ってホラ貝を吹き鳴らしていたというSさ
ん。

神社には幕はあるもののどなたも居なかった。

集落を抜けて歩いていたときのことだ。

住まいから出てこられた男性にすがるように声を掛けた。

その答えがそれであった。

神社の行事に秋の祭りがある。

座中の籠りだそうだ。

座中の営みは年に2回。

そのひとつが7日であるようだ。

神社営みを司る宮守(総代)さんを紹介したいと案内してくださったが、あいにくの不在。

平群町福貴畑ではかつて雨乞いがあった。

それを示す神社の史料。

わざわざ家の中から探し出してくださった。

その史料に載っている巫女さんの姿はまぎれもない三郷の巫女さんだ。

ジョウサン池と呼ばれる地に龍王神社がある。

そこで行われる祭祀は湯立ての神事


雨乞いの場は今ではしなくなったが慈雨を想定する湯立て神事がある。

後日に宮総代から聞いた行事に観音堂で行われる観音祭がある。

西荘にあった薬師院の別院だったとされる観音堂で唱和されるご詠歌のことだ。

一般的には観音講の婦人たちが唱える西国三十三番のご詠歌であるが福貴畑では御湯を勤める龍田の巫女さんがご詠歌を唱えるという
のだ。

珍しい形式であるが全曲は唱えない。

一番から10番辺りまでだそうだ。

福貴畑ではなにかにつけてモチを搗いていた。

子供ができたらモチを搗く。

男は「大」の文字で女の子なら「小」の文字を書く。

モチは親戚中に配ったそうだ。

4月3日は神武さんのレンゾがあった。

福貴畑には数組の伊勢講があった。

3年に一度はお伊勢さんに参拝していた。

講中は組ごとに寄りあっていた。

当番の家では手料理を作って接待していたという。



なお、神社案内にあった一観音六地蔵石仏は永禄十一年(1568)の作だそうだ。

珍しい形式である。

(H25. 1. 4 SB932SH撮影)

鳴川のカンジョウナワ

2013年03月28日 06時54分50秒 | 平群町へ
磨崖石仏がある平群町鳴川の地。

村人の姿は見られない。

その場にあると大和郡山市矢田町在住のⅠさんに聞いてやってきた。

川に掛けてあると話していたが渓谷に添って道を歩くが見当たらない。

ふと上空を見上げてみればそこにあったカンジョウナワ。

両脇の高い崖から掛けていたのである。

中央には椣原の房を彷彿させるぐらいの太い房。

マラではないだろうかと思っても付近を歩くのはハイカーたち。

知る由もないだろう。

房辺りから垂らした長い綱。

相当な長さである。

それには三つの垂れ。

挿してある樹木は遠目では断定できない。

鳴川が出里のⅠさんの話では大晦日に掛けていると話していた。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)

信貴畑の勧請縄掛け

2013年03月27日 06時55分16秒 | 平群町へ
正月三が日を過ごした村の人たち。

この日は朝早く集まって勧請縄を結う。

かつては1月5日に勧請掛けを行っていたが、集まりやすい4日にすることが多くなったという。

この日を決定するのは信貴畑の評議員。

2時間ほどかけて勧請縄を結っていく。

正月初めの挨拶は「おめでとうございます」からだ。

まずはお神酒を飲んでからだと景気をつける。

持参した縄結い用の藁はモチワラ。

百姓を生業とされている2軒に頼んで分けてもらった。

ワラのシビを取って奇麗にする。

槌で叩いて柔らかくする。

2束の藁を先に捩って間に突っ込む。

重ねるようにして左捩じりに右巻き。

藁束を足たして結っていく。

昔は3人が立って身体ごと捩って結っていた。

10年前に役員を勤めたNさんはそう話す。

太さはこの年よりももっと太かったと云う作業は水平にすれば捩る手の力が決め手。

数人がかりで作っていく。

縄作りは村の役員。

任期は2年だそうだ。

総替えではなく数人が継続する。

そうでなければ縄の作り方が継承できないという。

勧請縄の長さはおよそ6m。

いくらかの間隔をあけて藁の房を取り付ける。

一方、勧請縄にはサカキの房も取り付ける。



サカキは3段或いは5段にして外れないように綱で括る。

特に決まりはないが4段は避けると話すMさん。

タレ(垂れ)とも云うようだがサカキの房は二つ。

勧請縄も2本結った。

サカキの房や縄に紙垂れも取り付ける。

これをアシだと呼ぶ信貴畑の人たち。

勧請縄が出来あがればカンジョ場に出かける。

最初に出向いたのは作業の場からすぐ近くの「勧請の地」。

天文二十一年(1552)作の舟形の十三仏の石板彫りと室町時代前半の作とされる舟形光背の如来座像石仏が安置されている地である。

勧請の地を囲むように樹木が立つ。



その中の2本に渡して掛けた勧請縄。

お神酒などお供えをして手を合わせる。



供えた洗い米と塩を付近に撒いてカンジョ場を祓い清めた。

勧請縄掛けはもう1カ所ある。

作業場から北の方にあるカンジョの場はドンダニ。

漢字で充てれば堂谷と呼ぶ村外れ。

車で向うには周回して丸尾垣内辺りから迂回しなければならない廻り道。

歩いたほうが早いと話す。

辿りついたドンダニは急峻な深い谷。

かつては丸尾垣内へ抜ける里道(りどう)だったそうだ。



30年前まではドンダニに跨げて掛ける道切りだった。

掛ける樹木がなくなり崖面にしているという勧請縄掛けを済まして手を合わせる。



これで総代の役目も終わったとほっとされたMさん。

信貴畑には森、辻、芝、山角(やまかど)など各垣内に地蔵さんがあるという。

村を守っている地蔵さんのマツリは10月18日、20日、23日のそれぞれの垣内の日程だそうだ。

勧請の地の勧請縄もおそらく道切りであったろう。

下から風とともに村に災いが上がってこないように願う平群町信貴畑の勧請縄の道切りは地蔵さんとともに村を守る行事であった。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)

信貴畑のエンマラタタキを尋ねて

2012年11月22日 06時43分17秒 | 平群町へ
撮りためたVHSビデオテープ。その数はなんと、なんと・・数え切れないほどの膨大な量。

室内を圧迫する。

ボチボチとDVD移行を手がけていた。

ダビングは収録した時間そのものを要する。

モニターに映し出された映像を見ながら執筆作業を繰り返す。

全国各地のふるさと映像には民俗行事が多く収録されていた映像は『21世紀に残したい日本の風景総集編の秋』。

平成13年7月18日に放送されたNHKの番組だ。

映像が切り替わった風景は奈良県平群町。

生駒山系の東側にある山間部。

村を歩く姿は急坂を登っている。

この日に行われたのが「十五夜の芋名月のエンマラ叩き」だった。

平群町といえどもどの集落であるのか判らない。

仲秋の名月のころは畑で栽培しているサトイモの収穫期だ。

お月見をしているので各家で作っているという。

十五夜は芋名月とも呼ばれているサトイモの収穫日だそうだ。

栽培は簡単で保存がきく。

それをお月さまに供えて収穫に感謝する。

包丁でサトイモの皮を剥けば白い肌をだす。

月に見立てて丸いイモを供える。

月見だんごの原形はここにあると語る映像。

サトイモだけでなくクリやブドウなど秋の恵みを縁側に供える。

そして、月の神さんが舞い降りる目印にススキを立てる。

月見の日は無病息災に通じるサトイモの茎を藁束の芯にして棒を作る。

それをもった子供たちが集落の各戸を巡って軒先や玄関先の地面を叩く。

「今日は十五夜、エンマラタタキ(叩き)で祝いましょ。もひとつおまけ」と囃しながら叩くエンマラタタキ(叩き)。

月に届くような大きな音で悪霊を退散させ子孫繁栄や五穀豊穣を願う行事だ。

大きな音をたてるほど御利益があるという。

その作法は県内で行われているイノコと同じ様相だ。

高取町の佐田や大淀町の上比曽に明日香村の下平田などで今でも行われているイノコ叩きの行事がある。

イノコは稲の収穫後に行われている行事だが、平群町では月見の晩である。

時期は違っていても収穫の祝いには違いない。

今でもエンマラタタキをしているのだろうか。

平群町であることには違いないと思ってネットで調べてみれば見つかった。

平群町が発行している広報誌の『マイタウン平群』であった。

それは役場に保存されている。

直に尋ねれば判るであろうと思って訪問した町役場。

取材の主旨を総合政策課の窓口に申し出て拝見した『マイタウン平群』。

平成12年11月号(通算436号)に掲載されていた“ふるさとへぐり再発見”。

「エンマラタタキ」と表記されている行事に写真があった。

月見のお供えとエンマラタタキをしている子供たちの姿だ。

誌面によれば、その年の11月20日の「21世紀に残したい日本の風景-実りたわわなに-」のタイトルでNHKBSで放送されるとあった。

私が知ったビデオ映像はこの放送の総集編だったのだ。

取材するなら総代さんの許可を得なければならない。

その方の許可を得てくださいと伝えられて所在地に向かった。

地図を拝見すればときおり通過する新道だ。

6月に取材した隣村の久安寺素盞嗚神社で行われた植付け休みの御湯。

信貴フラワーロード向かう交差点付近である。

映像に映し出されていた月見のお供えをしている家も判った。

一路目指すは信貴畑(しぎはた)の地の小字薬師堂谷付近。

紹介いただいたM家を訪問した。

ご主人は不在であったが主旨を申しでれば「懐かしい」と弾む声。

ひ孫の娘さんが誕生したばかりの赤子を抱き抱えて応対してくれた。

「エンマラタタキに行けばお菓子を貰える。それが楽しくて参加していた。お金を貰うこともあったが、断然にお菓子へ手を伸ばした」と笑う。

子供会での行事であったそうだ。

子供が徐々に少なくなりエンマラタタキをしなくなったと話す。

畑作業を終えて戻ってきた総代の親父さん。

「止めてからは10年にもなる」と話す。

お月見に供えるサトイモのツキミダンゴは盗っても構わないという。

見張っていて盗らせない家もあったがお構いなしに棒で突き刺して盗っていった。

その光景は昨年の9月に取材した生駒市高山の月見どろぼうと同じようだ。

同じように中秋の名月に行われている。

映像だけが残された信貴畑のエンマラタタキであるが、貴重な映像は村の語り部の一つになった。

出演していたS夫妻は健在だという。

案内された住居は相当遠い。

歩いてではとても無理だという。

バス停から急坂を下っていった端にあるという。

呼び鈴を押して訪問したS家。

若婦人が応対してくださった。

同じように主旨を伝えて話せば中断していると返ってくる。

子どもたちがエンマラタタキをしていた様相を語る婦人。

当時にたまたまあたった当番だった。

急な道を汗びっしょりになって取材していたという。

「大きなカメラマンは大きな身体つき。たいへんやったと思う」と話す。

子どもたちが大勢いたころは三つの班に分かれてエンマラタタキをしていたという。

聞き取らせていただいた方の話によればアマチャもあったという。

アマチャは甘茶。

春の花まつりでよばれるお茶だ。

「とても辛かった」と話していた出産直後のひ孫。

お寺の行事はどうやら奥の院でのことだ。

それもしなくなった信貴畑の行事。

神社の行事もあっさりとしているらしい。

付近を散策すれば階段が見える。



その先に安置された2体の石仏が目にはいった。

一つは舟形の十三仏の石板彫り。

天文21年(1552)の作だそうだ。

もう一つは舟形光背の如来座像石仏。

室町時代前半の作だと看板に案内されている。

如来座像は地蔵講によって祀られていた可能性があると書いてある。



ここは勧請の地と呼ばれる。

1月5日に勧請掛けをしているとあるが、総代の話によれば地区の人らが集まりやすい日になったという。

朝から縄を結って勧請縄を作る。

一つはこの勧請の地に掛けて、もう一本はここから北に下った地に取り付けるという。

総代の親父さんの話によれば、かつては道両側に植生する樹木に括りつけたという。

旧道に括りつける勧請掛けは村に災いが入ってこないようにとする道切りのようだ。

信貴畑には二つの講中がある。

8軒で営む伊勢講と13軒の涅槃講だそうだ。

かつては手料理のお供えもしていたが簡略化されてリンゴとミカン。

講中のヤドでの営みは質素になったという。

講中が保有する山がある。

そこには社が祀られていて朝にお参りをするらしい。

(H24. 9.21 SB932SH撮影)
(H24. 9.21 EOS40D撮影)

久安寺素盞嗚神社植付け休みの御湯

2012年08月29日 06時45分48秒 | 平群町へ
村の田植えのすべてが終われば植付け休み。

平群町久安寺の村では「植付け休み」とも云うし、「ケツケ」とも。

或いは「サナブリや」とも云う人もいる。

とはいっても、村で稲作をしているのはたかだか数軒。

ほとんどが菊栽培農家だそうだ。

作物を作っても「イノシシがみんな食うてしまう」という。

美味いイモはイノシシの餌食。

イノシシは可愛いという人もいるので仕留めることもできないという。

最近はアライグマも出没する久安寺の村。

お米の作付は家人が食べるだけの分量をしていると話す。

昨今は平群の菊で知られる久安寺の菊栽培。

付近の信貴畑とともに切花の菊花(小菊)栽培をする畑が広がる。

その地を南北に貫く広域農道は「フラワーロード」と呼ばれている。

町の花にも指定されているのが菊なのだ。

栽培の歴史は、明治時代末期に始まったという。

確か明治32年だったと聞いたような気がする。

昭和50年代後半からの栽培は小菊に移った。

盛んに栽培されるようになったのは30年ぐらい前らしい。

そのような村ではあるが、「ケツケ(毛付け)はしやんとな」といって植付け休みの祭典を素盞嗚神社で行っている。

この日は農休みの日である。

畑仕事の一切をせずに農休み。

そうでなければ村の行事に集まることは難しいと話す総代。

老若男女、大勢の村人たちが素盞嗚神社にやってきた。

神社は広域道路から見えない。

一旦は谷に下って再び急坂を登る。

そこに鎮座するのが素盞嗚神社だ。

本殿前の境内に設えた斎場は注連縄を張った四方の竹で囲っている。

厳かな神事の場である。

中央には古いお釜がある。

珍しい形の三本脚で支えられた湯釜だ。

脚にはそれぞれ獣面が彫刻されている鑄物製。

獣面は獅子或いは人の顔のようにも見える。

10年ほど前までは一本の脚がとれていた。

なんとか支えながら遣ってきた湯釜の脚。

知り合いのとある工業所で修理してもらったそうだ。

湯釜を修理した際に取り付けられた羽。

形は羽釜になった。

その湯釜に刻印が見られる。

「牛頭天王宮元文三戌年(1738)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」の記銘だ。

およそ270年前の代物である。

村人はその刻銘に気がつかずに遣ってきた湯釜に驚く。

刻印された寺院は「長生院」。

境内にひっそりと佇むお堂がそれだという。

「比丘」の名が示すように安寿さんがおられたそうだ。

史料によれば『神社の神宮寺の真言宗摂州東成郡今里村妙法寺末長生院は、かつて薬師堂と呼ばれたが、明治七年に廃寺となった』とある。

また、素盞嗚神社の境内社は春日社(地元民は小宮と呼ぶ)で、文化二年(1805)と天保六年(1835)の記銘が見られる石灯籠があるそうだ。

植付け休みの祭典に集まったのは村人50人。

集落の軒数と同じのようだ。

この日に行われるのは御湯である。

神職の姿はなく、三郷町の巫女さんが神事を勤められる。

村人は拝殿に登るが入りきれない。



外から見守る祭典は神楽の舞。

始めに鈴の舞で、次が剣の舞だ。

神楽を終えれば一人、一人に鈴と剣で祓ってくださる。

「祓いたまえー 清めたまえー」とお祓い清めるありがたい作法だ。

こうして神事は斎場に移って御湯の神事となる。

湯釜は既に沸いていたが、さらに雑木をくべられた。

ポン、ポンと柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。

そして、お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。

御幣と鈴を手にして右や左に舞う。



次に笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。

大きな動作でシャバシャバすれば湯が立ちあげる。

東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼びおこす。

再び笹をシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。

そして同じく、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

鈴を持って再び神楽の舞。

シャンシャンと鈴の音がする。



履物を履いて境内にいる村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。

氏子たち一人ずつ順に祓い清めて神事を終えた。

笹の葉で飛び散らした御湯は清めの湯。まさにオハライの御湯である。

(H24. 6.23 EOS40D撮影)

櫟原のオハキ

2009年10月25日 03時28分33秒 | 平群町へ
73段の急な階段を持つ生駒山口神社。

祭礼に参列される方はここを登っていく。

若いときはなんでもなかったが年がいくと辛いと仰る。

整備された階段で登りやすくなったが、かつては崩れるようなものだったそうだ。

ここを夜中の祭礼で上り下りするときは一歩ずつ確認しながら足を横にして歩いたそうだ。

今日は秋祭宵宮の還幸渡御祭。

祭典の神饌は枝豆、蜜柑、栗に重ね餅で白い色の箸が添えられている。

お渡りの先頭はクワを持っている。

牛の糞掃除だといい、いわゆるつゆはらい。

頭屋の庭に設えるオハキには七色の木を使う。

それらはサルスベリなどで、切っても来年には芽が出るという木としている。

大昔のオハキは竹で編んだだけだったが、見栄えがいいようにと昭和30年代にコモグサを被せるようにしたそうだ。

これより一週間ほど前に行われる禊ぎ。

朝日が昇る前の数時間前に禊ぎ岩で禊ぎをするのだが、これは神事であって、誰にも見られてはならないし、見せてはならないのでこの時間にしている。

もちろん撮影は禁じていると宮司は言及された。

(H21.10.10 SB912SH撮影)