昭和初期までは日照りが長く続くとそれぞれの大字で雨乞いの祈願が行なわれていた。
夕方から鉦や太鼓を叩き、手には松明を持って登る都祁吐山(※)のダケノボリ。
弁当を持っていったとされる雨乞いの行事。
願掛けが実って雨が降ったら雨乞踊りをする。
11月に下部神社の末社である春日神社の秋例祭で行われている吐山の太鼓踊り(※)は、雨乞いや豊年祈願の満願であって、祈願成就されたとして奉納されてきた。
その下部神社の元社は小川口に鎮座する。
かっては4月23日が元社の春祭りだった。
エビスマツリの後宴といって弁当を持ってカネヒラ山(※)にダケノボリをしていたらしい。
現在の下部神社へ遷されたことで祭礼は恵比須神社の春祭りに合祭された。
なおかつ、子どもたちや氏子らが集まりやすい29日の祭日に変った。
址地にはひっそりと佇んでいる鳥居がみられる。
数年前に下部神社の造宮がされた際に新調されたものだ。
ここでは10月9日に旧社地祭礼が行われている。
大字の人が集まるそうだ。
吐山に伝わる正月の子供の唄に「正月どん ござった どこまでござった カネヒラまでござった。」の唄があるそうだ。
カネヒラ山は吐山の岳(ダケ)。
正月さんが村のダケに降臨する。
レンゾの日にはダケノボリをしてツヅジの花を折っていた。
それを苗代の水口に立てて水口祭りをしていた。
苗をJAから購入するようになってからはひとつも見んようになったと畑仕事の男性は話される。
2月7日、小川口にある山の神の伝承地に集まっていたという。
今では誰も来ないようになったが正月に注連縄を張っているという。
以下は岩井宏寛氏の執筆による。
※太鼓踊りはもともと雨乞い祈願に踊られた雨乞い踊りであった。そのため神霊を躍動させ勇めるというところから「勇め踊り」と称した。太鼓踊りの源流は、田楽が風流化して京の町衆のあいだで踊られた風流踊りである。それが連歌と同じような道筋で都介野郷に伝わり、さらにここから国中すなわち平坦部の郷村に伝播し、そこで念仏踊りの要素と結びついて、ナモデ踊り(南無天踊り、南無阿弥陀仏踊り)と呼ばれ、雨乞い踊り、雨乞い願満踊りとして定着していったのであった。
※吐山の太鼓踊りは上村(田町、成福寺、長野は金平山へ)、下村(中南は中南岳へ、小川口は小川口岳へ、清水、大夫は清水岳へ)の垣内がダケノボリをして、のちに下部神社と恵比須神社で踊る。
(H22. 4.23 EOS40D撮影)
夕方から鉦や太鼓を叩き、手には松明を持って登る都祁吐山(※)のダケノボリ。
弁当を持っていったとされる雨乞いの行事。
願掛けが実って雨が降ったら雨乞踊りをする。
11月に下部神社の末社である春日神社の秋例祭で行われている吐山の太鼓踊り(※)は、雨乞いや豊年祈願の満願であって、祈願成就されたとして奉納されてきた。
その下部神社の元社は小川口に鎮座する。
かっては4月23日が元社の春祭りだった。
エビスマツリの後宴といって弁当を持ってカネヒラ山(※)にダケノボリをしていたらしい。
現在の下部神社へ遷されたことで祭礼は恵比須神社の春祭りに合祭された。
なおかつ、子どもたちや氏子らが集まりやすい29日の祭日に変った。
址地にはひっそりと佇んでいる鳥居がみられる。
数年前に下部神社の造宮がされた際に新調されたものだ。
ここでは10月9日に旧社地祭礼が行われている。
大字の人が集まるそうだ。
吐山に伝わる正月の子供の唄に「正月どん ござった どこまでござった カネヒラまでござった。」の唄があるそうだ。
カネヒラ山は吐山の岳(ダケ)。
正月さんが村のダケに降臨する。
レンゾの日にはダケノボリをしてツヅジの花を折っていた。
それを苗代の水口に立てて水口祭りをしていた。
苗をJAから購入するようになってからはひとつも見んようになったと畑仕事の男性は話される。
2月7日、小川口にある山の神の伝承地に集まっていたという。
今では誰も来ないようになったが正月に注連縄を張っているという。
以下は岩井宏寛氏の執筆による。
※太鼓踊りはもともと雨乞い祈願に踊られた雨乞い踊りであった。そのため神霊を躍動させ勇めるというところから「勇め踊り」と称した。太鼓踊りの源流は、田楽が風流化して京の町衆のあいだで踊られた風流踊りである。それが連歌と同じような道筋で都介野郷に伝わり、さらにここから国中すなわち平坦部の郷村に伝播し、そこで念仏踊りの要素と結びついて、ナモデ踊り(南無天踊り、南無阿弥陀仏踊り)と呼ばれ、雨乞い踊り、雨乞い願満踊りとして定着していったのであった。
※吐山の太鼓踊りは上村(田町、成福寺、長野は金平山へ)、下村(中南は中南岳へ、小川口は小川口岳へ、清水、大夫は清水岳へ)の垣内がダケノボリをして、のちに下部神社と恵比須神社で踊る。
(H22. 4.23 EOS40D撮影)