
真夜中の野神神事である。
場は京都府久世郡久御山町佐古内屋敷にある石塔群を祭っていた場で行われる。
すぐ傍に佐古の若宮八幡宮が鎮座するが、野神並びに石塔群の関係性は見えない。
大小さまざまな大きさの石塔群。
五輪塔もあるから元々は寺院であったろう。
その石塔群についてはある人がブログで紹介していた。
その記事によれば、石塔群は寄せられたものと書いてあった。
『久御山町史第二巻』に「野神は元々久御山高校の東側に祭っていた。だが、昭和15年に始まった京都飛行場の建設工事に出土したという石塔も集めて、現在地に移した」と、ブロガーさんがコメントを入れていた。
野神神事については久御山町のHPに紹介されているが、神事写真はご法度につき非公開である。
尤も写してはならない神事ごとは記録も否定されている。
朝早くに集まって作業をしている人たちは8人。
4人の宮総代に自治会から役員2人と農家組合から2人である。
ご代表に取材を申し出て承諾される。
奈良からの取材に喜んでくださったのが嬉しい。
代表は宮総代の一人であるYさん。
この日の行事は「野神の神事」。
由緒書があるからと提示された。
久御山町のHP紹介文と重複する部分もあるが、ほぼ全文を写しておく。
「灯りを消した暗闇の中で、音をたてず、声も出してはいけないという神事で、暗闇の奇祭と呼ばれています。野神は佐古の若宮八幡宮の西側、30坪ほどの境内に古い石塔を集めて祀られています。この神事は巨椋(おぐら)池周辺にマラリヤが流行した際に、佐古の人々が野神を祀って無病息災、1年の平穏無事を祈って行われました。神前に供えられる神饌は、真菰で巻いた粽37本(※従来の大きさは3本、残る34本はひとまとめにしたもの)、淡竹(はちく)の筍は3本、ヘクソカズラ、塩、洗い米、赤味噌、干しカマス、枇杷の葉、桑の木の箸です。6月5日の午前0時、宮司を先頭に宮総代たちが供物を捧げて野神に社参します。宮司は声を出さずに、祝詞を奏上します。柏手も音を立ててはいけないので、両手が合うところで止めます。暗闇の中で行われる神事は30分ほどで終わり、参列者の宮総代、自治会役員、農家組合役員は、奉った粽を荷って引き揚げます。この粽は佐古自治会の全戸の数に切って、夜明けまでに各戸の入口に配られます。この場合も、声を出せず、人に出会っても挨拶を交わすこともできない、習わしになっています。この素朴な神事は近年真菰が少なった今も、地元の人々の情熱によって受け継がれています。」とあった。
大川(※地区東に流れる小字八幡講にあるふる川。正式名は名木“なぎ”川)に出かけて刈り取ってきた真菰を軽トラの荷台に載せて運んだ。
かつては太い粽を37本も作っていたから軽トラ3台分にもなったという。
自然に生えている真菰はやがて護岸工事などで生息域が狭められ収穫量は少なくなった。
尤も作り込み作業の負担軽減もあるが、先に挙げたように34本はひとまとめ方法。
真菰の量もぐんと減らしたこれまでとは打って変わった仕方で作っている。
真菰を乾かすには1週間ほどの日にちがかかるから、今年は前月の5月26日に収穫したそうだ。
刈り取った真菰は陰干しで一週間。

公民館の座敷に広げた真菰でわかるように薄緑の色が綺麗に残っている。
由緒書きにあるように、近年は真菰が少なくなっている現状。
今後はどうなるやらと危惧する役員たちである。
自然に生えていた真菰は近年において生息域が狭まれてきた。
奈良県内の事例になるが、数例紹介する。
一つは奈良市芝辻町で行われている野神講の行事である。
ここでは真菰でなく水辺に生える葦であった。
平成16年5月30日に取材した折に聞いた葦である。
かつては葦がたくさん生えていた土地があった。
住宅開発によってその地は消えた。
生息地が消えたから自ずと葦も消えた。
平成7年、御供はやむなく餅に切り替えたという事例である。
もう一つの事例は大和郡山市椎木町で行われている春日大社若宮のおん祭に献上される薦あげ、並びにその薦編み作業である。
薦の量は相当な本数になる。
椎木町の薦あげ献上に関する最古の記録は、室町時代初期である。
応永十四年(1407)の『春日社下遷宮記』に、その記録があるというから、それ以前から行われていると推定される。
現代まで611年も延々と継承されてきた重要な献上ごとに欠かせない真菰である。
大昔は自然に生えている真菰刈りがあったと想定されるが、現在は町内に薦田を設けて、そこで栽培している。
神さんに捧げる献上物を育てる田はいわば神田である。
重要な薦あげは絶やすことなく地元民が守ってきた神田にある。
綺麗な状態にしごいた真菰は何十本も集めて一束にする。
太く作る粽用に束ねる本数はとても多い。
ざっと数えたら50本どころか100本以上にもなる真菰の本数。

一握り以上の太さに束ねた真菰は解けないように市販品のイグサで括る。
一括りの巻き数は決まっていない。
決まっているのはイグサで縛った箇所が7カ所になることだ。

ところで大きな粽に昔はアレを入れていると広げてくれたが・・・見えない。
太い粽は3本作る。

慣れている宮総代らがその役目にあるようだ。
粽の製作中に御供を調えた。

長机に置いていた葉物は蔓性植物のヘクソカズラに枇杷の葉。
奈良県内の事例に枇杷の葉が登場する習俗がある。
小正月に炊いた小豆粥を供える皿代わりに用いる枇杷の葉である。
反り返っている部分の裏面に小豆粥をのせて供える習俗であるが、ここ佐古でも神饌御供の受皿に用いられる。
野神の神事に供える神饌は洗い米や塩は必須。
米に塩は白いカワラケに盛る。
その下に敷くのが枇杷の葉である。
青竹を伐った器はそれらの土台にする。
その土台に4枚の枇杷の葉。
十字の形になるよう重ねてカワラケで抑える。
枇杷の葉は照りのある面を表にして半折り。
右手のカワラケは赤味噌盛り。
市販品の赤味噌はパックに入っている。

汚れないようにスプーンで掬ってカワラケに盛りたいが、なかなか落ちてくれない。
盛りは難しいと云いながらもなんとかできた。
向こう側に見えるのが淡竹の筍。
我が家では煮物に最適な筍料理にワカメも一緒に炊く。
旬の味はとても美味しい。
それはさておきその向こうにある緑色の枝木は桑の枝の箸である。
神さんに食べてもらうに必要な箸である。
桑の枝の箸は長寿の箸。
通販でも売られている長寿に繋がる箸であるが、そのままの形でなく綺麗に加工された商品もあれば素材を活かした作りもある。

もう一つはヘクソカズラである。
つる性植物のヘクソカズラは葉も茎も臭いと云われてきた植物。
ところがよくよく嗅いでみれば、云うほどの臭さはない。
逆にヘクソカズラは香水作りの原料にもなる植物。
臭い名を付けた人はどなたか存知しないが、
可哀そうな名前のヘクソカズラも佐古にとっては神饌の一つである。
ヘクソカズラは巻きがあるような形にして竹筒に収める。
中央に紅白水引で括った3本の淡竹を置いて箸を添える。

こうして出来上がった神饌は深夜の0時に行われる野神の神事に供えられる。
太い粽に神饌を調えたら、小の粽を作る。
コウジブタに詰めた長い餅がある。

20年ほど前までは家で搗いていた餅である。
その餅は「ハンヅキのモチ」。
漢字を充てたら「半搗きの餅」である。
今では手間を省いて餅屋さんの光栄堂で作ってもらっている。
長さは14cmぐらいで径は3cmのハンヅキのモチ。
半分搗いた餅という方がわかりやすい。
つまりは餅になるまでの手前で搗きをやめた半分搗き。
糯米にまだつぶつぶ食感がある餅とか、粳米を半分混ぜて搗いた餅をこう呼んでいる餅搗きは奈良県内でときおり耳にする。
一例に、高取町丹生谷で行なわれたアコウさんの祭りのときの「半殺し」を思い出す。
さて、小の粽作りは新しく作ったコウジブタに作り込む。
まずはイグサを7本並べる。
数本ずつのイグサを7カ所に亘って並べる。
外れてしまわないようにセロファンテープで止めている。

その上に真菰を並べる。
真菰はコウジブタの底に並べるように敷く。
そして竹の皮で包んだハンヅキのモチを置いていく。

一つずつ、一つずつ丁寧に竹の皮で包んだハンヅキのモチである。
このモチは夜中の神事を終えてから各戸に配られる。
丸々一本のハンヅキのモチでなく小分けにする。
佐古は106戸もある大集落。
小分けしたハンヅキのモチは半紙に包んで配っていると話していた。
ハンヅキのモチは本数が多いからコウジブタから毀れそうになるくらいの山盛り状態。
すべてを詰め終わったら綺麗な真菰を被せる。
まるで屋根を葺くような感じに被せたら、予めセットしていたイグサで縛る。

崩れて落ちないようにイグサで括って準備は調ったが、作業はまだあった。
神事を終えた宮司に手渡す大きな御供粽である。

中には餅を入れたというから、大の粽はすべてに餅を入れていたようだ。
こうしてすべての調製ごとが終ればみな引きあげる。
再び集まる時間帯は午後7時。
かつては野神の神事を終えた後の直会であったが、現在は先にしている。
直会を終えたら一旦は自宅に戻って入浴する。
身体を洗って清める行為である。
正装姿で再び集まる公民館。
午後10時半に宮司を迎えて厳かに神事が執り行われると話していた。
(H29. 6. 4 EOS40D撮影)
場は京都府久世郡久御山町佐古内屋敷にある石塔群を祭っていた場で行われる。
すぐ傍に佐古の若宮八幡宮が鎮座するが、野神並びに石塔群の関係性は見えない。
大小さまざまな大きさの石塔群。
五輪塔もあるから元々は寺院であったろう。
その石塔群についてはある人がブログで紹介していた。
その記事によれば、石塔群は寄せられたものと書いてあった。
『久御山町史第二巻』に「野神は元々久御山高校の東側に祭っていた。だが、昭和15年に始まった京都飛行場の建設工事に出土したという石塔も集めて、現在地に移した」と、ブロガーさんがコメントを入れていた。
野神神事については久御山町のHPに紹介されているが、神事写真はご法度につき非公開である。
尤も写してはならない神事ごとは記録も否定されている。
朝早くに集まって作業をしている人たちは8人。
4人の宮総代に自治会から役員2人と農家組合から2人である。
ご代表に取材を申し出て承諾される。
奈良からの取材に喜んでくださったのが嬉しい。
代表は宮総代の一人であるYさん。
この日の行事は「野神の神事」。
由緒書があるからと提示された。
久御山町のHP紹介文と重複する部分もあるが、ほぼ全文を写しておく。
「灯りを消した暗闇の中で、音をたてず、声も出してはいけないという神事で、暗闇の奇祭と呼ばれています。野神は佐古の若宮八幡宮の西側、30坪ほどの境内に古い石塔を集めて祀られています。この神事は巨椋(おぐら)池周辺にマラリヤが流行した際に、佐古の人々が野神を祀って無病息災、1年の平穏無事を祈って行われました。神前に供えられる神饌は、真菰で巻いた粽37本(※従来の大きさは3本、残る34本はひとまとめにしたもの)、淡竹(はちく)の筍は3本、ヘクソカズラ、塩、洗い米、赤味噌、干しカマス、枇杷の葉、桑の木の箸です。6月5日の午前0時、宮司を先頭に宮総代たちが供物を捧げて野神に社参します。宮司は声を出さずに、祝詞を奏上します。柏手も音を立ててはいけないので、両手が合うところで止めます。暗闇の中で行われる神事は30分ほどで終わり、参列者の宮総代、自治会役員、農家組合役員は、奉った粽を荷って引き揚げます。この粽は佐古自治会の全戸の数に切って、夜明けまでに各戸の入口に配られます。この場合も、声を出せず、人に出会っても挨拶を交わすこともできない、習わしになっています。この素朴な神事は近年真菰が少なった今も、地元の人々の情熱によって受け継がれています。」とあった。
大川(※地区東に流れる小字八幡講にあるふる川。正式名は名木“なぎ”川)に出かけて刈り取ってきた真菰を軽トラの荷台に載せて運んだ。
かつては太い粽を37本も作っていたから軽トラ3台分にもなったという。
自然に生えている真菰はやがて護岸工事などで生息域が狭められ収穫量は少なくなった。
尤も作り込み作業の負担軽減もあるが、先に挙げたように34本はひとまとめ方法。
真菰の量もぐんと減らしたこれまでとは打って変わった仕方で作っている。
真菰を乾かすには1週間ほどの日にちがかかるから、今年は前月の5月26日に収穫したそうだ。
刈り取った真菰は陰干しで一週間。

公民館の座敷に広げた真菰でわかるように薄緑の色が綺麗に残っている。
由緒書きにあるように、近年は真菰が少なくなっている現状。
今後はどうなるやらと危惧する役員たちである。
自然に生えていた真菰は近年において生息域が狭まれてきた。
奈良県内の事例になるが、数例紹介する。
一つは奈良市芝辻町で行われている野神講の行事である。
ここでは真菰でなく水辺に生える葦であった。
平成16年5月30日に取材した折に聞いた葦である。
かつては葦がたくさん生えていた土地があった。
住宅開発によってその地は消えた。
生息地が消えたから自ずと葦も消えた。
平成7年、御供はやむなく餅に切り替えたという事例である。
もう一つの事例は大和郡山市椎木町で行われている春日大社若宮のおん祭に献上される薦あげ、並びにその薦編み作業である。
薦の量は相当な本数になる。
椎木町の薦あげ献上に関する最古の記録は、室町時代初期である。
応永十四年(1407)の『春日社下遷宮記』に、その記録があるというから、それ以前から行われていると推定される。
現代まで611年も延々と継承されてきた重要な献上ごとに欠かせない真菰である。
大昔は自然に生えている真菰刈りがあったと想定されるが、現在は町内に薦田を設けて、そこで栽培している。
神さんに捧げる献上物を育てる田はいわば神田である。
重要な薦あげは絶やすことなく地元民が守ってきた神田にある。
綺麗な状態にしごいた真菰は何十本も集めて一束にする。
太く作る粽用に束ねる本数はとても多い。
ざっと数えたら50本どころか100本以上にもなる真菰の本数。

一握り以上の太さに束ねた真菰は解けないように市販品のイグサで括る。
一括りの巻き数は決まっていない。
決まっているのはイグサで縛った箇所が7カ所になることだ。

ところで大きな粽に昔はアレを入れていると広げてくれたが・・・見えない。
太い粽は3本作る。

慣れている宮総代らがその役目にあるようだ。
粽の製作中に御供を調えた。

長机に置いていた葉物は蔓性植物のヘクソカズラに枇杷の葉。
奈良県内の事例に枇杷の葉が登場する習俗がある。
小正月に炊いた小豆粥を供える皿代わりに用いる枇杷の葉である。
反り返っている部分の裏面に小豆粥をのせて供える習俗であるが、ここ佐古でも神饌御供の受皿に用いられる。
野神の神事に供える神饌は洗い米や塩は必須。
米に塩は白いカワラケに盛る。
その下に敷くのが枇杷の葉である。
青竹を伐った器はそれらの土台にする。
その土台に4枚の枇杷の葉。
十字の形になるよう重ねてカワラケで抑える。
枇杷の葉は照りのある面を表にして半折り。
右手のカワラケは赤味噌盛り。
市販品の赤味噌はパックに入っている。

汚れないようにスプーンで掬ってカワラケに盛りたいが、なかなか落ちてくれない。
盛りは難しいと云いながらもなんとかできた。
向こう側に見えるのが淡竹の筍。
我が家では煮物に最適な筍料理にワカメも一緒に炊く。
旬の味はとても美味しい。
それはさておきその向こうにある緑色の枝木は桑の枝の箸である。
神さんに食べてもらうに必要な箸である。
桑の枝の箸は長寿の箸。
通販でも売られている長寿に繋がる箸であるが、そのままの形でなく綺麗に加工された商品もあれば素材を活かした作りもある。

もう一つはヘクソカズラである。
つる性植物のヘクソカズラは葉も茎も臭いと云われてきた植物。
ところがよくよく嗅いでみれば、云うほどの臭さはない。
逆にヘクソカズラは香水作りの原料にもなる植物。
臭い名を付けた人はどなたか存知しないが、
可哀そうな名前のヘクソカズラも佐古にとっては神饌の一つである。
ヘクソカズラは巻きがあるような形にして竹筒に収める。
中央に紅白水引で括った3本の淡竹を置いて箸を添える。

こうして出来上がった神饌は深夜の0時に行われる野神の神事に供えられる。
太い粽に神饌を調えたら、小の粽を作る。
コウジブタに詰めた長い餅がある。

20年ほど前までは家で搗いていた餅である。
その餅は「ハンヅキのモチ」。
漢字を充てたら「半搗きの餅」である。
今では手間を省いて餅屋さんの光栄堂で作ってもらっている。
長さは14cmぐらいで径は3cmのハンヅキのモチ。
半分搗いた餅という方がわかりやすい。
つまりは餅になるまでの手前で搗きをやめた半分搗き。
糯米にまだつぶつぶ食感がある餅とか、粳米を半分混ぜて搗いた餅をこう呼んでいる餅搗きは奈良県内でときおり耳にする。
一例に、高取町丹生谷で行なわれたアコウさんの祭りのときの「半殺し」を思い出す。
さて、小の粽作りは新しく作ったコウジブタに作り込む。
まずはイグサを7本並べる。
数本ずつのイグサを7カ所に亘って並べる。
外れてしまわないようにセロファンテープで止めている。

その上に真菰を並べる。
真菰はコウジブタの底に並べるように敷く。
そして竹の皮で包んだハンヅキのモチを置いていく。

一つずつ、一つずつ丁寧に竹の皮で包んだハンヅキのモチである。
このモチは夜中の神事を終えてから各戸に配られる。
丸々一本のハンヅキのモチでなく小分けにする。
佐古は106戸もある大集落。
小分けしたハンヅキのモチは半紙に包んで配っていると話していた。
ハンヅキのモチは本数が多いからコウジブタから毀れそうになるくらいの山盛り状態。
すべてを詰め終わったら綺麗な真菰を被せる。
まるで屋根を葺くような感じに被せたら、予めセットしていたイグサで縛る。

崩れて落ちないようにイグサで括って準備は調ったが、作業はまだあった。
神事を終えた宮司に手渡す大きな御供粽である。

中には餅を入れたというから、大の粽はすべてに餅を入れていたようだ。
こうしてすべての調製ごとが終ればみな引きあげる。
再び集まる時間帯は午後7時。
かつては野神の神事を終えた後の直会であったが、現在は先にしている。
直会を終えたら一旦は自宅に戻って入浴する。
身体を洗って清める行為である。
正装姿で再び集まる公民館。
午後10時半に宮司を迎えて厳かに神事が執り行われると話していた。
(H29. 6. 4 EOS40D撮影)