今年こそは失念せずに訪れたいと思っていた山添村大西・稲荷神社の初午行事。
この年の1月7日に立ち寄らせてもらったジンスケ屋敷跡の山の神。
早朝、いやその時間帯よりももっと早く来る人もいるという山の神行事であるが、事情があって訪れたのは遅い時間帯の午前中。
山の神に捧げ供える七つ道具などを拝見していたときである。どなたもおられない時間帯に足音が聞こえた。
やってきたOさん親子。
次いで来られたOさんもまた、遅めの時間帯の山の神参り。
そのときに話してくれた初午行事。
来るか、来るかと待っていたそうだ。
初午はその年初めの「午」の日であるが、稲荷社行事の場合は、2月初めの「午」の日にされる初午と3月初午の二ノ初午にされる地域がある。
大西は二ノ初午であるが、近年は3月の第一日曜日に移行された。
大西の稲荷神社行事を拝見するのは、平成28年12月4日に行われた新嘗祭以来の2回目である。
新嘗祭と同様に参籠所に幕張り。
白地に狐の姿を大きく描いた狐の幕。
よく見れば赤味がかかっている幕は大正四年二月に寄進された。
狐の目の前にあるのは三方に盛った三つの牛玉の寶印。
炎のような線描き。
おそらく手書きしたものであろう。
大西の稲荷神社の狛犬は獅子狛犬でなく、稲荷大明神の使いである眷属の狐である。
大正十四年一月に野村佐次郎十二歳が寄進建之した狛狐の台座にも三つの牛玉の寶印がみられる。
もう一つの印は、2本の幟旗である。
いずれも一反の長さ。
およそ7mの幟旗に圧倒される。
「奉納 稲荷大明神 村内甚七」とある。
もう1本は、風合いが魅力的な薄紺色地に白抜き文字の「稲荷大明神」。
その下にある柄模様に見惚れる。
上から正面に向き合う2匹の狐の姿。
その下に、三方に乗せた神酒口。
扇のように広げた形にコヨリのようなものまである。
また、花瓶のような神酒口には、見たこともない彩色柄がある。
その下にあるのもまた彩色した五つの牛玉の寶印。
こんなに素晴らしい図案の幟旗は今まで見たことがないだけに嬉しさ一頻りだった。
集まった村の人は35人。
一昨年、先代のT神職から引き継がれた柳生・阪原在住のO宮司が祭主を務める。
境内に並んだ役員たちに氏子ら。
祓詞に祓の儀、宮司一拝、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠と続く。
玉串奉奠の順は区長。
氏子たちは区長の動きに合わせて拝礼する。
次は大トウ(大当家)に小トウ(小当家)。
両当家に合わせて関係者も揃って拝礼する。
撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた初午神事。
参籠所に場を移して直会を始める。
稲荷社左側にはずらりと末社が並ぶ。
左側から金毘羅大神、橿原神社遥拝、金峰神社遥拝、大国主大神、大宮姫大神、廣田神社。
右側に保食神社がある。
その前の灯籠に「干時 天保八丁酉年(1837)二月初午」とある。
直会はじめに説明される大西の稲荷神社のこと。
同神社は、元々隣村の菅生(すごう)領であった。
昔は菅生と大西の人たちが祭っていた神社。
いつしか菅生が離れて、大西だけが行事を継承してきた。
昭和27年6月に宗教法人化。
設立時の神社規則によれば在地は波多野村の大字大西である。
ところが規則が変更された昭和31年4月には、大字菅生に移った。
移ったといっても同じ番地だから事実上は移動していない。
なんらかの事情で大字名が菅生になったようだが、正しい在所の大西番地に規則を変更した。
63年を経て正しい地番表記に法務局へ出向き登記変更した、と伝えられた。
上座に並ぶのは宮司に区長に、上の老人と云われる座の一老、二老、三老。
四老は右列の上座側に座る。
大西の歴史変遷がすっきりしたところで始まった乾杯。
初午に供えたお神酒を一杯。
早速、動きだした両当家。
お酒注ぎに動きまわるし、酒の肴のジャコと竹輪もまわす。
ジャコと竹輪は新嘗祭と同じ。
いつも決まった肴であるが、かつてはこれに煮しめもあったそうだ。
直会が始まっておよそ50分後。
当家が動きだした。
実は、神事が終わっても神饌御供は拝殿に置いたままだった。
不在であればエサを求めて飛んでくるカラスの餌食になっては、と当番の人がずっと見張り、現れたら追い返すそうだ。
神饌ものは、お神酒・塩・水の他、洗米、丸太の生鯖、海苔、キャベツにバナナ。
そしてゴクマキに登場する大量の御供餅。
オーコで担いで運んできたと思われる桶の餅が4杯。
お重に盛った餅もまた大量である。
下げた生鯖は早速、調理にかかる。
この年、当家を務めるFさんは、入院中の身であるため与力が代理参列。
また、当家婦人は鯖を切り身に包丁を入れていた。
切り身にした鯖は、炊事場のコンロで焼いて作るが、そのときの道具はアルミホイルを敷いたロースターやフライパンである。
切り身自体の焼き時間はそれほどでもないが、大勢に食べてもらうにはちと時間がかかる。
表を焼いて裏面も焼いてできあがった鯖は熱いうちに配られる。
並行して供えたバナナも配るが、これもまた食べやすいように三つ切り。
盛った皿が廻ってきたらめいめいがとっていただく。
その後もしばらくは団らんの渦。
お酒も入って賑やかに直会時間を過ごした人たちは、場を移した境内でゴクマキに興じる。
当家や役員たちが放り投げる御供餅に歓声が飛び交う。
僅か数分ですべての御供餅を撒き終えた。
初午行事にしか立てない幟旗も撤収。
一年後もまた美しく色彩豊かな牛玉の寶印に狐さんを見せてくれるだろう。
ところで、直会を終えた直後に、上座におられた上の老人に声をかけられた。
実は、上の老人はF当家の与力でもあった。
奉行与力でなく、いわゆる村落における与力制度をここでは詳しく述べないが、与力は本・分家を支援するようだ。
F家の助け人でもある上の老人のお願いは、本日撮らせてもらった写真である。
入院中の身だけに参列できなかったF家に、本日の初午行事はこうして、無事に終えたから安心してほしく、写真で伝えたい、ということである。
後日に整備した初午写真と、前年の1月6日に撮らせてもらったチョウジャドンの膳写真とともに持参した。
不在だったのでポストに投函しておいたら翌日にお礼の電話をもらった。
初午行事の写真はすぐさまお願いされた上の老人の手から入院中のFさんに届けたそうだ。
記録の映像がお役にたった。
写真家冥利に尽きるお礼の電話が嬉しい。
(H30. 3. 4 EOS40D撮影)
この年の1月7日に立ち寄らせてもらったジンスケ屋敷跡の山の神。
早朝、いやその時間帯よりももっと早く来る人もいるという山の神行事であるが、事情があって訪れたのは遅い時間帯の午前中。
山の神に捧げ供える七つ道具などを拝見していたときである。どなたもおられない時間帯に足音が聞こえた。
やってきたOさん親子。
次いで来られたOさんもまた、遅めの時間帯の山の神参り。
そのときに話してくれた初午行事。
来るか、来るかと待っていたそうだ。
初午はその年初めの「午」の日であるが、稲荷社行事の場合は、2月初めの「午」の日にされる初午と3月初午の二ノ初午にされる地域がある。
大西は二ノ初午であるが、近年は3月の第一日曜日に移行された。
大西の稲荷神社行事を拝見するのは、平成28年12月4日に行われた新嘗祭以来の2回目である。
新嘗祭と同様に参籠所に幕張り。
白地に狐の姿を大きく描いた狐の幕。
よく見れば赤味がかかっている幕は大正四年二月に寄進された。
狐の目の前にあるのは三方に盛った三つの牛玉の寶印。
炎のような線描き。
おそらく手書きしたものであろう。
大西の稲荷神社の狛犬は獅子狛犬でなく、稲荷大明神の使いである眷属の狐である。
大正十四年一月に野村佐次郎十二歳が寄進建之した狛狐の台座にも三つの牛玉の寶印がみられる。
もう一つの印は、2本の幟旗である。
いずれも一反の長さ。
およそ7mの幟旗に圧倒される。
「奉納 稲荷大明神 村内甚七」とある。
もう1本は、風合いが魅力的な薄紺色地に白抜き文字の「稲荷大明神」。
その下にある柄模様に見惚れる。
上から正面に向き合う2匹の狐の姿。
その下に、三方に乗せた神酒口。
扇のように広げた形にコヨリのようなものまである。
また、花瓶のような神酒口には、見たこともない彩色柄がある。
その下にあるのもまた彩色した五つの牛玉の寶印。
こんなに素晴らしい図案の幟旗は今まで見たことがないだけに嬉しさ一頻りだった。
集まった村の人は35人。
一昨年、先代のT神職から引き継がれた柳生・阪原在住のO宮司が祭主を務める。
境内に並んだ役員たちに氏子ら。
祓詞に祓の儀、宮司一拝、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠と続く。
玉串奉奠の順は区長。
氏子たちは区長の動きに合わせて拝礼する。
次は大トウ(大当家)に小トウ(小当家)。
両当家に合わせて関係者も揃って拝礼する。
撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた初午神事。
参籠所に場を移して直会を始める。
稲荷社左側にはずらりと末社が並ぶ。
左側から金毘羅大神、橿原神社遥拝、金峰神社遥拝、大国主大神、大宮姫大神、廣田神社。
右側に保食神社がある。
その前の灯籠に「干時 天保八丁酉年(1837)二月初午」とある。
直会はじめに説明される大西の稲荷神社のこと。
同神社は、元々隣村の菅生(すごう)領であった。
昔は菅生と大西の人たちが祭っていた神社。
いつしか菅生が離れて、大西だけが行事を継承してきた。
昭和27年6月に宗教法人化。
設立時の神社規則によれば在地は波多野村の大字大西である。
ところが規則が変更された昭和31年4月には、大字菅生に移った。
移ったといっても同じ番地だから事実上は移動していない。
なんらかの事情で大字名が菅生になったようだが、正しい在所の大西番地に規則を変更した。
63年を経て正しい地番表記に法務局へ出向き登記変更した、と伝えられた。
上座に並ぶのは宮司に区長に、上の老人と云われる座の一老、二老、三老。
四老は右列の上座側に座る。
大西の歴史変遷がすっきりしたところで始まった乾杯。
初午に供えたお神酒を一杯。
早速、動きだした両当家。
お酒注ぎに動きまわるし、酒の肴のジャコと竹輪もまわす。
ジャコと竹輪は新嘗祭と同じ。
いつも決まった肴であるが、かつてはこれに煮しめもあったそうだ。
直会が始まっておよそ50分後。
当家が動きだした。
実は、神事が終わっても神饌御供は拝殿に置いたままだった。
不在であればエサを求めて飛んでくるカラスの餌食になっては、と当番の人がずっと見張り、現れたら追い返すそうだ。
神饌ものは、お神酒・塩・水の他、洗米、丸太の生鯖、海苔、キャベツにバナナ。
そしてゴクマキに登場する大量の御供餅。
オーコで担いで運んできたと思われる桶の餅が4杯。
お重に盛った餅もまた大量である。
下げた生鯖は早速、調理にかかる。
この年、当家を務めるFさんは、入院中の身であるため与力が代理参列。
また、当家婦人は鯖を切り身に包丁を入れていた。
切り身にした鯖は、炊事場のコンロで焼いて作るが、そのときの道具はアルミホイルを敷いたロースターやフライパンである。
切り身自体の焼き時間はそれほどでもないが、大勢に食べてもらうにはちと時間がかかる。
表を焼いて裏面も焼いてできあがった鯖は熱いうちに配られる。
並行して供えたバナナも配るが、これもまた食べやすいように三つ切り。
盛った皿が廻ってきたらめいめいがとっていただく。
その後もしばらくは団らんの渦。
お酒も入って賑やかに直会時間を過ごした人たちは、場を移した境内でゴクマキに興じる。
当家や役員たちが放り投げる御供餅に歓声が飛び交う。
僅か数分ですべての御供餅を撒き終えた。
初午行事にしか立てない幟旗も撤収。
一年後もまた美しく色彩豊かな牛玉の寶印に狐さんを見せてくれるだろう。
ところで、直会を終えた直後に、上座におられた上の老人に声をかけられた。
実は、上の老人はF当家の与力でもあった。
奉行与力でなく、いわゆる村落における与力制度をここでは詳しく述べないが、与力は本・分家を支援するようだ。
F家の助け人でもある上の老人のお願いは、本日撮らせてもらった写真である。
入院中の身だけに参列できなかったF家に、本日の初午行事はこうして、無事に終えたから安心してほしく、写真で伝えたい、ということである。
後日に整備した初午写真と、前年の1月6日に撮らせてもらったチョウジャドンの膳写真とともに持参した。
不在だったのでポストに投函しておいたら翌日にお礼の電話をもらった。
初午行事の写真はすぐさまお願いされた上の老人の手から入院中のFさんに届けたそうだ。
記録の映像がお役にたった。
写真家冥利に尽きるお礼の電話が嬉しい。
(H30. 3. 4 EOS40D撮影)