桜井市箸中の年中行事は神社行事もあるが、それぞれの地区単位でされる行事もある。
すべての地区がしている地蔵盆の他、地区特有の講行事もある。
中垣内のこんぴら講の行事がそれだ。
また、野神行事のノグチさんもある。
特筆すべき行事をしていると聞いたのは平成29年の4月9日。
車谷垣内の地蔵盆の在り方を調べていた際に伺ったOさんが話してくれたその行事はたぶんにここ車谷垣内でしか見られない特殊な在り方だ、と思ったお盆の習俗である。
箸中は車谷垣内の他に中垣内、南垣内、下垣内があるが、お盆のときに数珠繰りをしていると聞いたのは車谷垣内だけのようだ。
数珠繰りがあるなら、何某かの講中行事が考えられる。
講中が集まる当番の家でしていると思うのが一般的な考え方であるが、車谷垣内では屋内でなく、屋外である。
屋外といえば、例えば地蔵堂の内部、或いは堂前にゴザなどを敷いた場で数珠繰りをするのが一般的な概念。
どこの地区でもそのような形式でされる。
ところが、車谷垣内は街道沿いに建つ集落民家の家の前の道が数珠繰りの場であった。
お家の前で2回ほど繰る数珠繰り。
終えたら隣の家の前に移動してそこでも数珠繰りを2回する。
さらに下った隣の民家の前でも数珠繰りを2回。
これを集落すべてに亘って順番に移動していく数珠繰りというのだから驚愕である。
車谷垣内は、一般的概念を覆す道が数珠繰りの場であった。
しかも特定、固有の場でなくお家の前の道路に、である。
車谷垣内の戸数は40戸。
そのお家、一軒、一軒巡って、道路に立ったままするという数珠繰り。
あり得ない様相に驚いたものだ。
是非とも取材したいと、平成29年7月24日に行われた地蔵盆取材の際に取材願いを申し出た。
取材拒否をされる人は皆無だったが、数珠繰りをする日は曖昧だった。
15日なのか、それとも・・・と思って、8月1日に訪れて尋ねたKさん。
地蔵盆のときは家族揃って参拝していたK家である。
8月14日の夕刻近い時間帯にしているということだった。
お盆の14日であれば、施餓鬼と思われるが、お寺さんは登場しない。
念仏はただただなんまいだーを繰り返す数珠繰りである。
夕刻に打ち鳴らす鉦を合図に始める車谷垣内の数珠繰り。
出発地点は集落端の東の先と聞いていた。
そろそろ集まってくる時間帯が訪れる。
Oさんが云っていた集まり方。
下の組の人たち纒向川下流の方から歩いてくる。
一方、上の組の人は上流の方からになると・・。
数人の婦人たちが寄り添って歩いてきた。
いずれも望遠でとらえた婦人たち。
下の組の婦人はてぶらであるが、上の組の婦人たちは数珠を手にしていた。
この先にあろうと思われる上の家で数珠繰りをしていたのだろうか。
7月の地蔵盆にお会いした婦人たちにこの日の取材に寄せてもらったとお礼を伝えて撮影に入った。
この日の行程、数珠繰りの在り方を初めて拝見する車谷垣内のお盆の数珠繰りにワクワクしながら同行させていただいた。
いきなり始まった道端で作法する数珠繰り。
数珠玉の房が手元にくれば頭を下げて次の人に送る。
数珠繰りに調子をとる鉦の音色がある。
カーン、カーン、カーン・・・・。
数珠の繰り方は早い方だと思える。打つ鉦の音で、念仏を唱えていたかどうか聞きとれない。
鉦を打っていたKさんにお話しを伺った。
Kさんが云うには、かつて車谷垣内に念仏講があった。
講元の女性が亡くなり、最後の年はたったの3人になった。
高齢の女性の先々を考えて講は解散した。
解散はしたが、これまでずっと使っていた鉦と数珠が残された。
鉦と数珠は葬儀のときにも使う。
今後のことを考えて、K家で預かることにした、という。
この日の数珠繰りに鉦を打つのは村の男性。
保管、管理をしているKさんと敬神講十人衆を務めるKさんの二人が交替しながら集落を下る。
そのときに拝見した鉦に刻印記銘があったので記録しておく。
刻印は「念仏講中 箸中村 室町住出羽大掾宗味作」である。
これまでの取材した先々で、数々の「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦を拝見した。
中でも特筆すべきなのは大和郡山市白土町の念仏講が所有する鉦である。
「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」とあった。
貞享五年は西暦年でいえば1688年。数えること330年前の鉦である。
奈良市今市町・小念仏講、奈良市南田原町・公民館、大和郡山市杉町・会所、大和郡山市井戸野町・常福寺、大和郡山市石川町・観音講、大和郡山市南郡山町・仲仙寺、大和郡山市額田部南町・K家、桜井市小夫・秀円寺(旧念仏衆)、宇陀市榛原戒場・戒長寺、宇陀市榛原篠楽・上垣内薬師堂、宇陀市榛原萩原小鹿野・地蔵寺、平群町福貴畑・S家にもあった「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦であるが、いずれも年代は見られない。
白土町の鉦を基準にするのも難しいが、風合いなどを拝見した状態から判断して、同年代であろう。
鉦とともに下った次の家の前で数珠繰りが始まった。
一軒、一軒と下っては数珠を繰る。
その度にカーン、カーン、カーン・・・・の音色が街道筋に聞こえてくる。
杖をついてやってきた下の組の婦人も合流する数珠繰り。
みなの笑顔が広がっていた。
7月24日に取材した車谷垣内の地蔵盆。
会食を摂った会所にモノクロ写真を掲示していた。
時代はいつのころかわからないが、当時の数珠繰りの様相である。
掲示写真はカラー写真撮りもあった。
髪型、服装から同時代の写真ではなさそうだ。
モノクロ判は19人。
カラー判は25人の人たちで数珠を繰っていた。
9割方がご婦人たち。
その場に子どもは数人。
大人の男性は1人だった。
いずれにしても貴重な写真である。
車谷垣内の戸数は40戸。
この時点でまだ半分も満たない。
一軒、一軒と下って家の前にくれば数珠を繰る。
輪の広がりは数珠の長さもあるから限定される。
およそ20人を超えたあたりから窮屈さを感じるようになる。
大人の背丈で数珠を繰るから子供にとっては背伸びするしかない。
それでも届かないから繰る腕は上方にある。
地蔵盆のときも家族総出で加わっていたが、数珠を繰る人数は制限されるから脇で拝見するしかない。
建て直した家もあるし、昔の風情をみせる旧家もある車谷垣内の佇まいに見惚れることなく数珠を繰る。
この地で生活をされている村の人たち。
普段の服装でしている姿が美しく見える。
街道の勾配はどれぐらいだろうか。
少し歩いては立ち止まって数珠を繰る。
さらに下って地蔵尊・庚申石仏がある処まできた。
杖をついて数珠を繰る婦人はもう一方の手で繰っているが、まったく苦になっていないようだ。
とにかく皆が愉しんでしているように思えた数珠繰りはおよそ40人に膨れ上がった。
疲れたら交替してもらう。
大人数であるからこそ交替してもらえる数珠繰り。
40戸の家前でそれぞれ繰る回数は2回。
終えたときには80回になる計算だ。
さらに下って三叉路に着く。
その角で子どもさんも混じって数珠を繰る。
三叉路の北筋に行けば穴師に巻野向に繋がる本道になる。
車谷垣内の東の端の小字は古屋敷・屋敷。
上流の笠の地に繋がる旧街道を下れば、小字平田、カハラケ、白、白原草、大手、平田、車谷、青谷、西脇、平山、北垣、三分、観音田、桶水、大報田、畦クラ、赤井、観音講田などだ。
小字三分が三叉路。
南の里道は観音田、大報田、赤井に繋がる。
三叉路下ともなればそれこそ旧道。
いわゆる村の里道である。
纒向川に沿って下った集落。
ここもまた一軒、一軒に立ち止まって数珠を繰る。
下れば下るほど視界が広がる。
半分の戸数は済んだように思えるが、先はまだまだである。
ここら辺りの景観、佇まいがとても気に入った。
天候が良ろしければもっといいと思うが・・。
この日はお盆。
照りはなくとも暑さは厳しい。
婦人たちは汗を拭いつつも数珠を繰る。
輪から離れた人もタオルで汗を拭い、団扇で煽いでいた。
三叉路での数珠繰りを済ました人。
およそ1/3の人たちは解散して家に戻っていった。
たぶんに上の組の人たちだろう。
下の組の人たちは「送ったってんのに、帰らはったようです」と云っていたから違いないだろう。
それでも大方20人以上も居る。
里道になれば道幅が狭くなる。
数は少ないが車の往来もある。
その都度に数珠繰りを止めて道端に寄り添って退避していた。
鉦の音はカーン、カーン、カーン・・・・。
ときおりツクツクボウシの鳴く音も聞こえる。
お盆辺りから泣き始めるツクツクボウシの声を耳にする度に、大阪・南河内郡の母屋で夏休みを過ごした子どものころを思い出す。
背景に笠山が見える地まで下ってきた。
道歩きのときも鉦を打つ。
すくすく育った稲田が広がる田園地の景観にほっこりする。
数珠繰りの回数は1軒辺りに2回であるが、不幸ごとがあった家の場合は3回になるという。
40年以上も前に車谷垣内に嫁入りした婦人。
そのときからずっと参加して繰っているという。
解散した念仏講の営みは、昔も今も村全戸の行事として継承してきた。
戸数が40戸の車谷垣内。かつてはもっともっと、子どもが大勢居たと話していた。
ところで数珠繰りの回数はどうやって数えているのだろうか。
一般的に座して行う数珠繰り。
数取りの道具はさまざまである。
木札、算盤のような珠。
葉っぱ、マッチ棒などなど実に多彩であるが、立ったままでされる車谷垣内では繰る房の回数を数えているという。
頭を下げるのが2回。
単純な数取りであった。
さらに纒向川沿いの道を下っていく。
道幅はさらに狭くなる。
ここも三叉路であるが、西方の葛城山系の北。
二上山の重なりが見えてきたが、距離は見えるほど近くない。
ずっと下って出合辺りにある橋近くに建つ家も数珠を繰る。
その一軒に懐かしい一品、ならぬ三品を収納していた。
形、機能から見て暖房用具のアンカである。
明治、大正から昭和の時代までを系譜するアンカは瓦土製。
内部に土製の火入れを置いて布団で覆う。
燃料は炭団とか木炭。
子どものころの我が家でも使っていたアンカ。
現在の観念では危険極まりないが・・。
この形式、アンカではなく置炬燵を格子状の木枠で囲む櫓炬燵の部類ではないだろうか。
広い道に出たその場でも数珠を繰る。
いよいよあと数軒になった車谷垣内の数珠繰り。
今年は曇り空で良かったと口にでる。
昨年はカンカン照りに夕立も発生したから難義したというが、今日もまた額から流れ落ちる汗の量はかわらない。
さて、一番西の端になるお家の前の数珠繰りである。
最後にした数珠繰り回数は3回。
これで村から悪霊を追い出したという。
そういえば、今月2日に立ち寄った際に話してくれた中垣内のK婦人。
車谷垣内の人たちは数珠繰りするときには玄関の扉を開けて悪霊を家から払いだしていると云っていたのを思い出した。
各家におった悪霊は数珠にのって垣内外れの西に追い出した、という、つまりは悪霊祓いの数珠送り行為であった。
東の端から西の端までずっとしていた婦人は汗だく。
住む上の組の家に戻るのもまた汗が出る。
戻って双子の孫さんを抱っこする娘さんとともに地蔵さん、庚申さん、大神宮さんに手を合わせていた。
悪霊を追い出して、村中安全、家内安全に感謝して村の守り神に拝んでいたのだろう。
この区間を移動した万歩計は4472歩。
距離に換算してきれば2.9kmだった。
(H29. 8.14 EOS40D撮影)
すべての地区がしている地蔵盆の他、地区特有の講行事もある。
中垣内のこんぴら講の行事がそれだ。
また、野神行事のノグチさんもある。
特筆すべき行事をしていると聞いたのは平成29年の4月9日。
車谷垣内の地蔵盆の在り方を調べていた際に伺ったOさんが話してくれたその行事はたぶんにここ車谷垣内でしか見られない特殊な在り方だ、と思ったお盆の習俗である。
箸中は車谷垣内の他に中垣内、南垣内、下垣内があるが、お盆のときに数珠繰りをしていると聞いたのは車谷垣内だけのようだ。
数珠繰りがあるなら、何某かの講中行事が考えられる。
講中が集まる当番の家でしていると思うのが一般的な考え方であるが、車谷垣内では屋内でなく、屋外である。
屋外といえば、例えば地蔵堂の内部、或いは堂前にゴザなどを敷いた場で数珠繰りをするのが一般的な概念。
どこの地区でもそのような形式でされる。
ところが、車谷垣内は街道沿いに建つ集落民家の家の前の道が数珠繰りの場であった。
お家の前で2回ほど繰る数珠繰り。
終えたら隣の家の前に移動してそこでも数珠繰りを2回する。
さらに下った隣の民家の前でも数珠繰りを2回。
これを集落すべてに亘って順番に移動していく数珠繰りというのだから驚愕である。
車谷垣内は、一般的概念を覆す道が数珠繰りの場であった。
しかも特定、固有の場でなくお家の前の道路に、である。
車谷垣内の戸数は40戸。
そのお家、一軒、一軒巡って、道路に立ったままするという数珠繰り。
あり得ない様相に驚いたものだ。
是非とも取材したいと、平成29年7月24日に行われた地蔵盆取材の際に取材願いを申し出た。
取材拒否をされる人は皆無だったが、数珠繰りをする日は曖昧だった。
15日なのか、それとも・・・と思って、8月1日に訪れて尋ねたKさん。
地蔵盆のときは家族揃って参拝していたK家である。
8月14日の夕刻近い時間帯にしているということだった。
お盆の14日であれば、施餓鬼と思われるが、お寺さんは登場しない。
念仏はただただなんまいだーを繰り返す数珠繰りである。
夕刻に打ち鳴らす鉦を合図に始める車谷垣内の数珠繰り。
出発地点は集落端の東の先と聞いていた。
そろそろ集まってくる時間帯が訪れる。
Oさんが云っていた集まり方。
下の組の人たち纒向川下流の方から歩いてくる。
一方、上の組の人は上流の方からになると・・。
数人の婦人たちが寄り添って歩いてきた。
いずれも望遠でとらえた婦人たち。
下の組の婦人はてぶらであるが、上の組の婦人たちは数珠を手にしていた。
この先にあろうと思われる上の家で数珠繰りをしていたのだろうか。
7月の地蔵盆にお会いした婦人たちにこの日の取材に寄せてもらったとお礼を伝えて撮影に入った。
この日の行程、数珠繰りの在り方を初めて拝見する車谷垣内のお盆の数珠繰りにワクワクしながら同行させていただいた。
いきなり始まった道端で作法する数珠繰り。
数珠玉の房が手元にくれば頭を下げて次の人に送る。
数珠繰りに調子をとる鉦の音色がある。
カーン、カーン、カーン・・・・。
数珠の繰り方は早い方だと思える。打つ鉦の音で、念仏を唱えていたかどうか聞きとれない。
鉦を打っていたKさんにお話しを伺った。
Kさんが云うには、かつて車谷垣内に念仏講があった。
講元の女性が亡くなり、最後の年はたったの3人になった。
高齢の女性の先々を考えて講は解散した。
解散はしたが、これまでずっと使っていた鉦と数珠が残された。
鉦と数珠は葬儀のときにも使う。
今後のことを考えて、K家で預かることにした、という。
この日の数珠繰りに鉦を打つのは村の男性。
保管、管理をしているKさんと敬神講十人衆を務めるKさんの二人が交替しながら集落を下る。
そのときに拝見した鉦に刻印記銘があったので記録しておく。
刻印は「念仏講中 箸中村 室町住出羽大掾宗味作」である。
これまでの取材した先々で、数々の「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦を拝見した。
中でも特筆すべきなのは大和郡山市白土町の念仏講が所有する鉦である。
「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」とあった。
貞享五年は西暦年でいえば1688年。数えること330年前の鉦である。
奈良市今市町・小念仏講、奈良市南田原町・公民館、大和郡山市杉町・会所、大和郡山市井戸野町・常福寺、大和郡山市石川町・観音講、大和郡山市南郡山町・仲仙寺、大和郡山市額田部南町・K家、桜井市小夫・秀円寺(旧念仏衆)、宇陀市榛原戒場・戒長寺、宇陀市榛原篠楽・上垣内薬師堂、宇陀市榛原萩原小鹿野・地蔵寺、平群町福貴畑・S家にもあった「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦であるが、いずれも年代は見られない。
白土町の鉦を基準にするのも難しいが、風合いなどを拝見した状態から判断して、同年代であろう。
鉦とともに下った次の家の前で数珠繰りが始まった。
一軒、一軒と下っては数珠を繰る。
その度にカーン、カーン、カーン・・・・の音色が街道筋に聞こえてくる。
杖をついてやってきた下の組の婦人も合流する数珠繰り。
みなの笑顔が広がっていた。
7月24日に取材した車谷垣内の地蔵盆。
会食を摂った会所にモノクロ写真を掲示していた。
時代はいつのころかわからないが、当時の数珠繰りの様相である。
掲示写真はカラー写真撮りもあった。
髪型、服装から同時代の写真ではなさそうだ。
モノクロ判は19人。
カラー判は25人の人たちで数珠を繰っていた。
9割方がご婦人たち。
その場に子どもは数人。
大人の男性は1人だった。
いずれにしても貴重な写真である。
車谷垣内の戸数は40戸。
この時点でまだ半分も満たない。
一軒、一軒と下って家の前にくれば数珠を繰る。
輪の広がりは数珠の長さもあるから限定される。
およそ20人を超えたあたりから窮屈さを感じるようになる。
大人の背丈で数珠を繰るから子供にとっては背伸びするしかない。
それでも届かないから繰る腕は上方にある。
地蔵盆のときも家族総出で加わっていたが、数珠を繰る人数は制限されるから脇で拝見するしかない。
建て直した家もあるし、昔の風情をみせる旧家もある車谷垣内の佇まいに見惚れることなく数珠を繰る。
この地で生活をされている村の人たち。
普段の服装でしている姿が美しく見える。
街道の勾配はどれぐらいだろうか。
少し歩いては立ち止まって数珠を繰る。
さらに下って地蔵尊・庚申石仏がある処まできた。
杖をついて数珠を繰る婦人はもう一方の手で繰っているが、まったく苦になっていないようだ。
とにかく皆が愉しんでしているように思えた数珠繰りはおよそ40人に膨れ上がった。
疲れたら交替してもらう。
大人数であるからこそ交替してもらえる数珠繰り。
40戸の家前でそれぞれ繰る回数は2回。
終えたときには80回になる計算だ。
さらに下って三叉路に着く。
その角で子どもさんも混じって数珠を繰る。
三叉路の北筋に行けば穴師に巻野向に繋がる本道になる。
車谷垣内の東の端の小字は古屋敷・屋敷。
上流の笠の地に繋がる旧街道を下れば、小字平田、カハラケ、白、白原草、大手、平田、車谷、青谷、西脇、平山、北垣、三分、観音田、桶水、大報田、畦クラ、赤井、観音講田などだ。
小字三分が三叉路。
南の里道は観音田、大報田、赤井に繋がる。
三叉路下ともなればそれこそ旧道。
いわゆる村の里道である。
纒向川に沿って下った集落。
ここもまた一軒、一軒に立ち止まって数珠を繰る。
下れば下るほど視界が広がる。
半分の戸数は済んだように思えるが、先はまだまだである。
ここら辺りの景観、佇まいがとても気に入った。
天候が良ろしければもっといいと思うが・・。
この日はお盆。
照りはなくとも暑さは厳しい。
婦人たちは汗を拭いつつも数珠を繰る。
輪から離れた人もタオルで汗を拭い、団扇で煽いでいた。
三叉路での数珠繰りを済ました人。
およそ1/3の人たちは解散して家に戻っていった。
たぶんに上の組の人たちだろう。
下の組の人たちは「送ったってんのに、帰らはったようです」と云っていたから違いないだろう。
それでも大方20人以上も居る。
里道になれば道幅が狭くなる。
数は少ないが車の往来もある。
その都度に数珠繰りを止めて道端に寄り添って退避していた。
鉦の音はカーン、カーン、カーン・・・・。
ときおりツクツクボウシの鳴く音も聞こえる。
お盆辺りから泣き始めるツクツクボウシの声を耳にする度に、大阪・南河内郡の母屋で夏休みを過ごした子どものころを思い出す。
背景に笠山が見える地まで下ってきた。
道歩きのときも鉦を打つ。
すくすく育った稲田が広がる田園地の景観にほっこりする。
数珠繰りの回数は1軒辺りに2回であるが、不幸ごとがあった家の場合は3回になるという。
40年以上も前に車谷垣内に嫁入りした婦人。
そのときからずっと参加して繰っているという。
解散した念仏講の営みは、昔も今も村全戸の行事として継承してきた。
戸数が40戸の車谷垣内。かつてはもっともっと、子どもが大勢居たと話していた。
ところで数珠繰りの回数はどうやって数えているのだろうか。
一般的に座して行う数珠繰り。
数取りの道具はさまざまである。
木札、算盤のような珠。
葉っぱ、マッチ棒などなど実に多彩であるが、立ったままでされる車谷垣内では繰る房の回数を数えているという。
頭を下げるのが2回。
単純な数取りであった。
さらに纒向川沿いの道を下っていく。
道幅はさらに狭くなる。
ここも三叉路であるが、西方の葛城山系の北。
二上山の重なりが見えてきたが、距離は見えるほど近くない。
ずっと下って出合辺りにある橋近くに建つ家も数珠を繰る。
その一軒に懐かしい一品、ならぬ三品を収納していた。
形、機能から見て暖房用具のアンカである。
明治、大正から昭和の時代までを系譜するアンカは瓦土製。
内部に土製の火入れを置いて布団で覆う。
燃料は炭団とか木炭。
子どものころの我が家でも使っていたアンカ。
現在の観念では危険極まりないが・・。
この形式、アンカではなく置炬燵を格子状の木枠で囲む櫓炬燵の部類ではないだろうか。
広い道に出たその場でも数珠を繰る。
いよいよあと数軒になった車谷垣内の数珠繰り。
今年は曇り空で良かったと口にでる。
昨年はカンカン照りに夕立も発生したから難義したというが、今日もまた額から流れ落ちる汗の量はかわらない。
さて、一番西の端になるお家の前の数珠繰りである。
最後にした数珠繰り回数は3回。
これで村から悪霊を追い出したという。
そういえば、今月2日に立ち寄った際に話してくれた中垣内のK婦人。
車谷垣内の人たちは数珠繰りするときには玄関の扉を開けて悪霊を家から払いだしていると云っていたのを思い出した。
各家におった悪霊は数珠にのって垣内外れの西に追い出した、という、つまりは悪霊祓いの数珠送り行為であった。
東の端から西の端までずっとしていた婦人は汗だく。
住む上の組の家に戻るのもまた汗が出る。
戻って双子の孫さんを抱っこする娘さんとともに地蔵さん、庚申さん、大神宮さんに手を合わせていた。
悪霊を追い出して、村中安全、家内安全に感謝して村の守り神に拝んでいたのだろう。
この区間を移動した万歩計は4472歩。
距離に換算してきれば2.9kmだった。
(H29. 8.14 EOS40D撮影)