二日前の3日に立ち寄った季節販売の採れたて苺を売っているお店である。
奈良の特産苺の一つであるあ・す・か・ル・ビ・ーを販売しているお店である。
毎週の通院に必ず通る街道沿いにある、そのお店が気になって、窓越しに店外に並べる苺パックの値段を見ていた。
今年こそは、と思って狭い停車地に車を停めて品定め。
どれもこれも美味しそうな苺。
我が家で食べる量を考えて1パック250円の苺を買った。
売り子は高齢婦人。
奥の部屋でパック詰めなどをしていた婦人に苺栽培の難しさなどを聞いていた。
話せば住まいは天理市の別所町。
苺ハウスがある地も別所町。
婦人が云うには、苺は季節もん。筍も掘る時季母とにかく忙しいが、稲作栽培もしているという。
もしや、と思って尋ねてみたら、水口まつりをしているという。
築400年の家。かつてはみしろ(※筵)百枚も敷いていたと話す。
敷いた場は、おそらくカド。
収穫した玄米を筵に広げて干していた。
場がカドであるから、これをカド干しと呼んでいた。
旧村農家の人たちは、どこでもそう呼んでいた場である。
かつては“なえまっつあん”を苗代に立てていた。
“なえまっつあん”とは言い得て妙な名前である。
稔った稲が穂をつける姿に見立てて松葉を束ねて作った“苗松”さんを“なえまっつあん”と呼んでいた。
今でもその名残もあって、石上神宮が祭祀されるでんでん祭のお田植祭の松苗も“なえまっつあん”と呼んでいた。
時期は聞かずじまいだったが、家にある荒神さんに“なえまっつあん”を奉っていたらしい。
正月飾りの注連縄を燃やすとんど焼き。
焼いた灰を畑に蒔いたら豊作になるという習俗も話してくださった。
今年の5月5日は孫とともに苗代作りの作業をするという。
二日前に教えてもらった苗代田に行ってみた。
風除け、日除けの幌も被せていた。
この状況では、苗代作業のすべてが終わっている証拠。
どなたもおられない苗代田に呆然と立っていた。
朝早いと云っていた時間帯は6時。
作業をはじめだした2、3時間が作業の終わりぐらいであろう、と思ってやってきた午前9時。
使用していた農具はそのままの状態で残っている。
がらんとした雰囲気を拝見して、田主さんらはどこかに行かれたような状態にあった。
待っている間には、どなたかが戻って来られるだろうと思って、作業を終えた苗代田の情景を撮っていた。
その場にあった不思議なもの。
これってなぁに、と思った不思議である。
これまで県内各地でさまざまな苗代田を拝見してきたが、見たことのない不思議な様相。
私がこれまで見た限り、前例のない在り方。
これはいったいなんであろうか。
幌を被せた水苗代の四方に4カ所。
それぞれの場所に不特定な葉付きの枝木を挿していた。
葉は萎れているから、挿した間際でない。
時間はどれくらい経過しているのだろうか。
葉が萎れている状態から判断する。
摘んで、挿して、それから今に至る経過時間は30分。
いや、そうでもなくて1時間・・・。
いくら待っていても時間が経過するばかり。
田主さんが不在であれば、婦人が居られる苺売り場に行くしかない。
行って、こういう状態だったと伝えたい。
いや、それは文句ではなく、田主さんの所在を尋ねることである。
まさか、今、私が見ている苗代田は苺売り婦人の所ではないかもしれない。
そんなことはないと思うが念のため、苺売り場に移動する。
そこには婦人も居られたが、軽トラに乗ったまま休んでいた旦那さんもいた。
話しを聞けば苺農家の朝は早い。
真夜中の1時に起きて苺を収穫している。
息子さんもおられるがたいへんな作業。
朝方までかかって収穫した苺は息子さんが奈良県中央卸売市場に出荷する。
苺の収穫作業を終えた親父さんは朝の6時から娘たちの力を借りて苗代作りをした。
作業は7時に終わって、ようやく一段落。
車内で身体を休めていたという。
私を待っていたかどうかは別にして、ついてこいという。
先を走る軽トラに離されないように、かつ慎重な運転でついていく。
狭い道をあちこち曲がって線路も渡る。
ここら辺りの旧道は天理街道だったと思う。
随分前に通ったことがあるから、どことなくわかる旧道。
線路を渡った西。
そこは苺ハウスでもなくいろんな作物を栽培している畑だった。
おもむろに動いた親父さんは咲いていたお花の摘み取り、と思ったが、そうではなかった。
先にし出した作業は栽培する苺苗の水やりだ。
この日はカンカン照り。
暑くなった日には幌を捲って風を通す日課作業である。
ハサミを持った田主は奥にある花畑に。
黄色い花に花しょうぶも摘み取る。
何本かを摘んで軽トラに乗った。
すぐに向かうと思ったが、そうではなかった。
車を停めた場所で立ち話である。
40年前のこと。
当時の苗代田に“ナエノマツ”の名で呼んでいた松葉を束ねた模擬苗を立てていた。
模擬苗は別所町の氏神さんである山邉御縣座神社(やまのべみあがたにいますじんじゃ)行事に奉っていた。
おそらく祈年祭であろう。
その模擬苗をたばって苗代田に立てていた、と話す。
山邉御縣座神社は別所町の他に天理市西井戸堂の地にもあるが、正式神社名は山邉御縣坐神社である。
別所町の山邉御縣座神社の本殿は明治期まで建築されることなく、背後の尾崎山をご神体に岩座跡の石組遺構が。
その場を玉垣宮と称した斎宮であったようだ。
例祭は10月1日。
今では村行事のお渡りがあるようだが、かつては神社付近の御一統(※宮座組織であろう)で神社を護っていた。
一統は10軒であったが、一統を抜けるとか、病に伏して引退するなど、徐々に縮退し、昨年にはたったの3軒になったという。
当時のお渡りにトーヤが就く白装束姿だった。
一老、二老は終身制。亡くなるか、引退しなかぎり一統中を務めていた。
一統入りを認めてもらう「イリク」祝いの行事もあったという村座である。
明治21年、赤と白の二分に分かれたときは40人。
歴史ある神社行事は廃れる部分もあるが、今でも装束を着てお渡りをしているようだ。
その様相を詳しく知りたくなった山邉御縣座神社は、一度伺いたいと思った。
イロバナを摘み取った田主のNさんは、乗っていた軽トラのエンジンを始動した。
こからから苗代田に戻ってハナを立てるというから、再び、遅れないように後ろにくっついて走る。
戻ったところで聞いてみた苗代田に挿してある枝木の目的。
それは並べる苗箱の端を示す位置にある。
東の苗代に2カ所。
北と南の端にそれぞれ1本ずつ。
そこらに生えていたなんでもない枝木を折って挿した。
一方、西側にも同じように北と南の端に挿した。
それらは苗箱を並べるときにズレはないように挿した印であった。
距離を測るために挿したという。
なるほど、である。
つまりはチョナワを張らなくとも、その枝木の印をもって距離をとるということは、幌被せをしてもわかるということになる。
並べた苗箱は205枚。
すべてが熊本産のヒノヒカリだという苗代田。
育った1カ月後の6月10日ころに田植えをするという。
昭和11年生まれのNさん御歳81歳。
水口辺りの場に立ったままの姿で花を立てる。
普通であれば、膝を曲げて屈んでするが、膝は伸ばしたままである。
水口を挟んだ両端にそれぞれイロバナを立てた。
なかなか見事な立ちっぷりである。
Nさんが云うには、たばってきた石上神宮の苗ノ松を立てる場合もあるらしいから、再訪してみなければならない。
使ったか、使わなかったのか聞かずじまいのチョナワや櫛歯のレーキなどを片づけ始めたNさん。
今年は遅霜だった。
キュウリやスイカ畑にキャップはなかなか外せなかった、といいつつ畑に出かけた。
(H29. 5. 3 SB932SH撮影)
(H29. 5. 5 EOS40D撮影)
奈良の特産苺の一つであるあ・す・か・ル・ビ・ーを販売しているお店である。
毎週の通院に必ず通る街道沿いにある、そのお店が気になって、窓越しに店外に並べる苺パックの値段を見ていた。
今年こそは、と思って狭い停車地に車を停めて品定め。
どれもこれも美味しそうな苺。
我が家で食べる量を考えて1パック250円の苺を買った。
売り子は高齢婦人。
奥の部屋でパック詰めなどをしていた婦人に苺栽培の難しさなどを聞いていた。
話せば住まいは天理市の別所町。
苺ハウスがある地も別所町。
婦人が云うには、苺は季節もん。筍も掘る時季母とにかく忙しいが、稲作栽培もしているという。
もしや、と思って尋ねてみたら、水口まつりをしているという。
築400年の家。かつてはみしろ(※筵)百枚も敷いていたと話す。
敷いた場は、おそらくカド。
収穫した玄米を筵に広げて干していた。
場がカドであるから、これをカド干しと呼んでいた。
旧村農家の人たちは、どこでもそう呼んでいた場である。
かつては“なえまっつあん”を苗代に立てていた。
“なえまっつあん”とは言い得て妙な名前である。
稔った稲が穂をつける姿に見立てて松葉を束ねて作った“苗松”さんを“なえまっつあん”と呼んでいた。
今でもその名残もあって、石上神宮が祭祀されるでんでん祭のお田植祭の松苗も“なえまっつあん”と呼んでいた。
時期は聞かずじまいだったが、家にある荒神さんに“なえまっつあん”を奉っていたらしい。
正月飾りの注連縄を燃やすとんど焼き。
焼いた灰を畑に蒔いたら豊作になるという習俗も話してくださった。
今年の5月5日は孫とともに苗代作りの作業をするという。
二日前に教えてもらった苗代田に行ってみた。
風除け、日除けの幌も被せていた。
この状況では、苗代作業のすべてが終わっている証拠。
どなたもおられない苗代田に呆然と立っていた。
朝早いと云っていた時間帯は6時。
作業をはじめだした2、3時間が作業の終わりぐらいであろう、と思ってやってきた午前9時。
使用していた農具はそのままの状態で残っている。
がらんとした雰囲気を拝見して、田主さんらはどこかに行かれたような状態にあった。
待っている間には、どなたかが戻って来られるだろうと思って、作業を終えた苗代田の情景を撮っていた。
その場にあった不思議なもの。
これってなぁに、と思った不思議である。
これまで県内各地でさまざまな苗代田を拝見してきたが、見たことのない不思議な様相。
私がこれまで見た限り、前例のない在り方。
これはいったいなんであろうか。
幌を被せた水苗代の四方に4カ所。
それぞれの場所に不特定な葉付きの枝木を挿していた。
葉は萎れているから、挿した間際でない。
時間はどれくらい経過しているのだろうか。
葉が萎れている状態から判断する。
摘んで、挿して、それから今に至る経過時間は30分。
いや、そうでもなくて1時間・・・。
いくら待っていても時間が経過するばかり。
田主さんが不在であれば、婦人が居られる苺売り場に行くしかない。
行って、こういう状態だったと伝えたい。
いや、それは文句ではなく、田主さんの所在を尋ねることである。
まさか、今、私が見ている苗代田は苺売り婦人の所ではないかもしれない。
そんなことはないと思うが念のため、苺売り場に移動する。
そこには婦人も居られたが、軽トラに乗ったまま休んでいた旦那さんもいた。
話しを聞けば苺農家の朝は早い。
真夜中の1時に起きて苺を収穫している。
息子さんもおられるがたいへんな作業。
朝方までかかって収穫した苺は息子さんが奈良県中央卸売市場に出荷する。
苺の収穫作業を終えた親父さんは朝の6時から娘たちの力を借りて苗代作りをした。
作業は7時に終わって、ようやく一段落。
車内で身体を休めていたという。
私を待っていたかどうかは別にして、ついてこいという。
先を走る軽トラに離されないように、かつ慎重な運転でついていく。
狭い道をあちこち曲がって線路も渡る。
ここら辺りの旧道は天理街道だったと思う。
随分前に通ったことがあるから、どことなくわかる旧道。
線路を渡った西。
そこは苺ハウスでもなくいろんな作物を栽培している畑だった。
おもむろに動いた親父さんは咲いていたお花の摘み取り、と思ったが、そうではなかった。
先にし出した作業は栽培する苺苗の水やりだ。
この日はカンカン照り。
暑くなった日には幌を捲って風を通す日課作業である。
ハサミを持った田主は奥にある花畑に。
黄色い花に花しょうぶも摘み取る。
何本かを摘んで軽トラに乗った。
すぐに向かうと思ったが、そうではなかった。
車を停めた場所で立ち話である。
40年前のこと。
当時の苗代田に“ナエノマツ”の名で呼んでいた松葉を束ねた模擬苗を立てていた。
模擬苗は別所町の氏神さんである山邉御縣座神社(やまのべみあがたにいますじんじゃ)行事に奉っていた。
おそらく祈年祭であろう。
その模擬苗をたばって苗代田に立てていた、と話す。
山邉御縣座神社は別所町の他に天理市西井戸堂の地にもあるが、正式神社名は山邉御縣坐神社である。
別所町の山邉御縣座神社の本殿は明治期まで建築されることなく、背後の尾崎山をご神体に岩座跡の石組遺構が。
その場を玉垣宮と称した斎宮であったようだ。
例祭は10月1日。
今では村行事のお渡りがあるようだが、かつては神社付近の御一統(※宮座組織であろう)で神社を護っていた。
一統は10軒であったが、一統を抜けるとか、病に伏して引退するなど、徐々に縮退し、昨年にはたったの3軒になったという。
当時のお渡りにトーヤが就く白装束姿だった。
一老、二老は終身制。亡くなるか、引退しなかぎり一統中を務めていた。
一統入りを認めてもらう「イリク」祝いの行事もあったという村座である。
明治21年、赤と白の二分に分かれたときは40人。
歴史ある神社行事は廃れる部分もあるが、今でも装束を着てお渡りをしているようだ。
その様相を詳しく知りたくなった山邉御縣座神社は、一度伺いたいと思った。
イロバナを摘み取った田主のNさんは、乗っていた軽トラのエンジンを始動した。
こからから苗代田に戻ってハナを立てるというから、再び、遅れないように後ろにくっついて走る。
戻ったところで聞いてみた苗代田に挿してある枝木の目的。
それは並べる苗箱の端を示す位置にある。
東の苗代に2カ所。
北と南の端にそれぞれ1本ずつ。
そこらに生えていたなんでもない枝木を折って挿した。
一方、西側にも同じように北と南の端に挿した。
それらは苗箱を並べるときにズレはないように挿した印であった。
距離を測るために挿したという。
なるほど、である。
つまりはチョナワを張らなくとも、その枝木の印をもって距離をとるということは、幌被せをしてもわかるということになる。
並べた苗箱は205枚。
すべてが熊本産のヒノヒカリだという苗代田。
育った1カ月後の6月10日ころに田植えをするという。
昭和11年生まれのNさん御歳81歳。
水口辺りの場に立ったままの姿で花を立てる。
普通であれば、膝を曲げて屈んでするが、膝は伸ばしたままである。
水口を挟んだ両端にそれぞれイロバナを立てた。
なかなか見事な立ちっぷりである。
Nさんが云うには、たばってきた石上神宮の苗ノ松を立てる場合もあるらしいから、再訪してみなければならない。
使ったか、使わなかったのか聞かずじまいのチョナワや櫛歯のレーキなどを片づけ始めたNさん。
今年は遅霜だった。
キュウリやスイカ畑にキャップはなかなか外せなかった、といいつつ畑に出かけた。
(H29. 5. 3 SB932SH撮影)
(H29. 5. 5 EOS40D撮影)