2月3日は節分の日。
県内行事に鬼が出没する節分行事がある。
村では昔ながらの風習に節分の日は豆を氏神さんやお寺の本堂に供える地域がある。
先に参っていた人が供えた豆をかわりにもらって帰る風習だ。
大晦日の数日前。斑鳩町目安に鎮座する春日神社の正月飾りをしていた宮守さんが話していた目安に「トシコシ」の豆御供がある。
これまで大和郡山市新木町・額田部北町や奈良市佐紀町の在り方を拝見してきた。
他にも大和郡山市田中町、奈良市山陵町、天理市藤井町・長滝町・南六条町、山添村切幡などで行われているやに聞く。
立春が一年の始まりの新年とすれば、前日の節分は大晦日にあたる。
平安時代の宮中では旧年の厄や災いを祓う追儺行事が行われていた。
室町時代より発展したとされる豆撒きは邪鬼を追い出す行事であるが県内各地の豆交換の在り方を調べている。
目安の宮守さんは3人が交替して勤めている。
今年の当番の宮守さんは朝8時前にやってきてオヒネリに包んだ豆を本殿、末社などすべてに供えていた。
いずれ参拝者が訪れるであろうと判断されて供えた豆を下げる。
拝殿には何も供えなかった三方は七つ。
七社の数だが、白いカワラケを裏向けに置く。
これをどうするのか、と思っていたら、そのまま蔵に仕舞われた。
これを「ゴゼン(御膳)」と呼んでいる。
節分には何もなかったが、マツリのときには洗い米、ケンサキスルメ、イワシ(アユの時代もあった)を供えるゴゼンである。
供えたオヒネリの豆はすべての扉を閉めて拝殿前にプラスチック製コジュウタに置いておく。
参拝者は我が家の豆を持ってきて、これと交換して持ち帰るというのだ。
かつては三方に盛っていた。
いつしか増えていった御供で零れそうになった。
それから木のコジュウタにした。
宮守さんはずっとこの場に立ち会わない。
盗まれては困るからと考えられてプラツチック製にしたという。
晩の10時ころともなれば引き上げる節分の御供豆。
宮守さんが栽培した大豆である。
豆を干してから棒などで叩いてマメオトシをした。
豆は一般的な大豆よりもやや小ぶり。
フライパンで煎った豆を供えたと云う。
下げた豆を帰宅してからよばれた。
堅さはあるが香ばしくて美味かった大豆の品種は聞きそびれた。
5月5日は目安の五月節句。
アズキアンを入れた七つのカシワモチ御供を供える。
七つは七社の数だが、御供はチマキもある。
モチワラを湿らして括っていたチマキは五本束ね。
家で作っていた。
法隆寺付近の池に出かけた。
採取したカヤは水に浸けて綺麗に洗う。
米粉で溶いて作ったダンゴをカヤで包む。
一つ、一つのチマキをモチワラで括った。
米粉はカラウスで搗いていた。
アズキのコシアンはスリコギで潰していた。
10年前まではそうして作った御供を供えていたチマキ。
下げて5軒の宮守さんに5本づつ配っていたが、今はすることがないという。
10月のマツリに御供がある。
洗い米、ケンサキスルメ、イワシだ。
過去にはアユもあったそうだが、供えている時間が長くて魚は臭くなる、後始末の管理がかなわんという意見が出て取りやめたようだ。
御膳には五品のオカズがある。
コーヤドーフ、乾物シイタケ、ニンジン、サトイモ、インゲンマメなどだ。
マツリは10月25日だった。
作付米が晩生だったから収穫にあわせた行事日だった。
いつしか十日早めた15日になったが、現在は第一日曜日に行っているという。
(H27. 2. 3 EOS40D撮影)
県内行事に鬼が出没する節分行事がある。
村では昔ながらの風習に節分の日は豆を氏神さんやお寺の本堂に供える地域がある。
先に参っていた人が供えた豆をかわりにもらって帰る風習だ。
大晦日の数日前。斑鳩町目安に鎮座する春日神社の正月飾りをしていた宮守さんが話していた目安に「トシコシ」の豆御供がある。
これまで大和郡山市新木町・額田部北町や奈良市佐紀町の在り方を拝見してきた。
他にも大和郡山市田中町、奈良市山陵町、天理市藤井町・長滝町・南六条町、山添村切幡などで行われているやに聞く。
立春が一年の始まりの新年とすれば、前日の節分は大晦日にあたる。
平安時代の宮中では旧年の厄や災いを祓う追儺行事が行われていた。
室町時代より発展したとされる豆撒きは邪鬼を追い出す行事であるが県内各地の豆交換の在り方を調べている。
目安の宮守さんは3人が交替して勤めている。
今年の当番の宮守さんは朝8時前にやってきてオヒネリに包んだ豆を本殿、末社などすべてに供えていた。
いずれ参拝者が訪れるであろうと判断されて供えた豆を下げる。
拝殿には何も供えなかった三方は七つ。
七社の数だが、白いカワラケを裏向けに置く。
これをどうするのか、と思っていたら、そのまま蔵に仕舞われた。
これを「ゴゼン(御膳)」と呼んでいる。
節分には何もなかったが、マツリのときには洗い米、ケンサキスルメ、イワシ(アユの時代もあった)を供えるゴゼンである。
供えたオヒネリの豆はすべての扉を閉めて拝殿前にプラスチック製コジュウタに置いておく。
参拝者は我が家の豆を持ってきて、これと交換して持ち帰るというのだ。
かつては三方に盛っていた。
いつしか増えていった御供で零れそうになった。
それから木のコジュウタにした。
宮守さんはずっとこの場に立ち会わない。
盗まれては困るからと考えられてプラツチック製にしたという。
晩の10時ころともなれば引き上げる節分の御供豆。
宮守さんが栽培した大豆である。
豆を干してから棒などで叩いてマメオトシをした。
豆は一般的な大豆よりもやや小ぶり。
フライパンで煎った豆を供えたと云う。
下げた豆を帰宅してからよばれた。
堅さはあるが香ばしくて美味かった大豆の品種は聞きそびれた。
5月5日は目安の五月節句。
アズキアンを入れた七つのカシワモチ御供を供える。
七つは七社の数だが、御供はチマキもある。
モチワラを湿らして括っていたチマキは五本束ね。
家で作っていた。
法隆寺付近の池に出かけた。
採取したカヤは水に浸けて綺麗に洗う。
米粉で溶いて作ったダンゴをカヤで包む。
一つ、一つのチマキをモチワラで括った。
米粉はカラウスで搗いていた。
アズキのコシアンはスリコギで潰していた。
10年前まではそうして作った御供を供えていたチマキ。
下げて5軒の宮守さんに5本づつ配っていたが、今はすることがないという。
10月のマツリに御供がある。
洗い米、ケンサキスルメ、イワシだ。
過去にはアユもあったそうだが、供えている時間が長くて魚は臭くなる、後始末の管理がかなわんという意見が出て取りやめたようだ。
御膳には五品のオカズがある。
コーヤドーフ、乾物シイタケ、ニンジン、サトイモ、インゲンマメなどだ。
マツリは10月25日だった。
作付米が晩生だったから収穫にあわせた行事日だった。
いつしか十日早めた15日になったが、現在は第一日曜日に行っているという。
(H27. 2. 3 EOS40D撮影)