マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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萱森高おかみ神社の御田植祭

2013年06月03日 07時40分35秒 | 桜井市へ
春の訪れを感じる日々。

積もった雪はまだ解けない。

神社に向かう田畑で飛び交う野鳥を見た。

オレンジ色に黄色が混じる鳥が木々の枝に留まった。

視線をその木に向けた瞬間に飛びたった。

ソウシチョウ、それともイスカ、オオマシコ、アトリなのか。

イスカはほぼ全身が朱や茜色。

オオマシコであれば薄い紫色。

どっちかといえばアトリに近い色合いだが首下回りだけだ。

美しさでいえば断然にソウシチョウを挙げるがさてさて・・・。



桜井市の山間は上之郷村。

式上郡の大字は萱森、中谷、白木、芹井、小夫嵩方、三谷、小夫、滝倉、笠、和田で、山辺郡大字の修理枝を含めた山間村落である。

宮垣内、中垣内、下垣内、口之倉の4垣内が点在する大字萱森がある。

明治末期までは寝磨垣内、隠地垣内、出垣内の集落もあったが大正末期に転出された。

村落の標高は480mの中垣内、450mの宮垣内、400mの下垣内で、一番下が口之倉の330mである。

2月24日は大字萱森の氏神社の高龗(おかみ)神社の御田植祭。

かつては2月12日に祈年祭、その後の24日が御田植祭の祭典であった。

年明けに豊作を願う行事の主旨は重複するという意見が出て昭和50年代に御田植祭に一本化された。

太夫と呼ばれる一老から十老までの宮本十人衆(十人座とも)が社務所に参集する。

御田植祭における御供は施主となる二人の頭屋が供える。

兄頭人(トーニン)は麻、ジャコ(雑魚)の煮しめ、半紙一帖。

弟頭人は稲の穂を添えた芽吹きのネコヤナギの木に弓と矢。

弓はドモカンサが原材料だという木で作った。

粘りがあって柔らかいドモカンサの正式名は何であろうか。

大工道具のゲンノウと同じだと云う。

漢字を充てれば玄翁。

それと同じだという木材の葉は対生だというから(シラ)カシと思われたがそうではなく、ニシキギの木とも呼ぶマユミ(檀)の木であった。



羽根を取り付けた矢は七本。

竹で編んだ鬼の的。

これを鬼の籠と呼ぶ。

他に半紙一帖と五合の籾種を揃える。

弓矢、鬼の籠、ネコヤナギ、麻などは頭人が予め作っておき、この日の朝に拝殿廊下に置いていた。



参集された頭人および十人衆たちはお札作りに取りかかる。

今年の兄頭人は太夫こと一老、弟頭人は六老でもある。

戸数が少なくなった萱森の現状でもある。

予め頭人が半紙に墨書していた「牛玉 高龗(おかみ)神 寶印」の書。

それに朱を塗りつけて寶印を押すのは頭人の役目だ。

朱印しようとしたときに五老から意見がでた。

お札の文字は「牛玉」ではなく「牛王」が正しいというのだ。

いまさら書き直すのは時間がない。

この年は仕方なく「牛玉」の書で進められた。



寶印押しを終えれば半紙を一枚重ねて洗い米を包みこむ。

洗い米は前年の頭屋家が献じた御供である。

包んでオヒネリの形にした。

こうして出来あがったごーさんのお札は15枚。

萱森の戸数は全戸で24戸であるが、口之倉垣内(9戸)は分社されて祭祀には参加されない。

50年以上も前に分かれたと話す。

平成5年4月に地域史として発刊された『萱森風土記』によれば明治時代に口之倉地内出垣内全戸が転出されたとある。

残った家は9戸となった。

口之倉はかつて入田(しほた)村と呼ばれていた。

かつてあった萱森の高塚(鷹束)城のための馬の藁沓を入れた倉があった地。

「馬のくつくら」が訛って「口之倉」と呼ぶようになったと記す。

第六十代醍醐天皇の御宇昌泰元年(898)に藤原家が賢高塚(鷹束)城を構築したと伝わる。

その後の永禄七年(1564)六月松永弾正久秀の攻撃によって落城した。

天正時代(1573~)からは伊賀上野藩主の藤堂高虎に属して明治維新まで続いたとされる。

高塚(鷹束)城が没落後に観世音菩薩像を託された萩原氏の末裔が居住する東側の山林の堂宇があったと伝わる。

代々の萩原家が置いたと思われる位牌は薬師堂にある。

「寛文元辛丑(1661)天八月廿八日 寛文九己酉(1669)天六月九日 萩原氏造立」が記された位牌である。

歴史はともかく押印されたごーさんは現在の萱森集落戸数の枚数であるが少々多めに作っておく。

その数はネコヤナギの木と麻も同じ本数である。

麻と呼ばれている木はヤマウルシの木。

細い木の根元の先を三つに割いている。



拝殿内に並べられた御田植祭の諸道具がある。

一木造りの牛頭の面、スキ、二種のヒラグワ、カラスキ、マングワを斎壇に乗せる。

そこには先ほど作られたごーさんのお札も置く。

床に置いているのは稲の穂を添えた芽吹きのネコヤナギの木、麻と呼ばれるヤマウルシのごー杖、弓、矢に鬼の籠だ。

氏子総代と一般参賀に分かれて席に着く。

御田植祭に先だって行われる神事は祈年祭。

トシゴエの祭りと称される年の初めに豊作を祈願する村の行事である。

神職を勤めるのは瀧倉の宮司。

先代のⅠ氏から引き継いだ娘さんである。

この日は積もった雪が溶けない寒い日。

拝殿の扉を閉め、据えたストーブで暖をとって斎行される。

社殿も雪に埋もれる斎行では登ることも難しい。

祓えの儀、御扉開け、オオーと神さんを呼び起こす。

神饌を献じて祝詞を奏上する。

玉串を奉奠されて神事を終えた次が御田植祭となる。

祭りごとの主役となる道具類は本殿から見える位置に移動する。

奏上する祝詞は御田植祭の詞である。

氏子たちが作ったスキ、クワ、クマデ、カマ、カラスキ、マングワなどの道具類も奏上する。

お社の庭にてお田植えを行うという詞も述べられる。

祝詞に奏上された道具にクマデとカマがあったことに気がついた座中たち。

「そういえばこのごろは見たことがないな」と道具類を納めていた収蔵庫を探してみるが見当たらない。

社務所に御田植祭の模様を記録された昭和55年2月24日斎行の写真が掲げられている。

その映像にはクマデとカマが写っていない。

地域史の『萱森風土記』にも掲載していなかったクマデとカマは祝詞に登場したのである。

このごろどころかクマデとカマが登場していたのは35年以上も前のことのようだ。

豊作を祈願する祝詞を奏上し終えたあとは田植えの所作に移る。

今では寒いからと云って斎場は拝殿内での所作であるが、かつては前庭であった。

その様相は『萱森風土記』に記された絵図がある。

四方に青竹を立てて注連縄を張っていた。

いわゆる神田に見立てたお田植えの場であるが、実際は「これに近い形式だった」と話す座中。



始めに登場したのはスキ。

畦を切っていくが狭い拝殿ではあっという間に終える。

後ろについて所作していたクワ打ちは二人。

ほとんど同時に行われるから数秒で終わる作法は時計回りに一周だ。

一周といっても距離にすれば3mほど。

極めて短時間の所作である。

次に登場するのが牛である。

始めにカラスキを曳いて田を起こす。

「ちゃいちゃい」と云って綱を引けば「モー、モー」と鳴く牛役。



反時計回りに一周するが牛役は牛面を手で抱えたままである。

一木彫りの牛面の内部は空洞になっていない。

しかも重たいのである。

それゆえ抱える牛面であった。

カラスキからマングワに替えて再び登場する牛。

おまけかどうか判らないが二周した。

「代掻きもしなければ」と云ってヒラグワで水田を均す。



「最後は田植えだ」と云って供えた稲穂を添えた二股の芽吹きネコヤナギを植え付ける。

これを「ナエ」と呼んでいる。

まさに田植えの苗を現している「ナエ」である。

これで豊作になるだろうと云って終わった。

萱森の御田植祭は和気あいあい。

まるでお田植えを楽しんでいるかのようだ。

村人たちのにこやかな笑顔で作法されたのである。

50年も前は藁製の笠を被って蓑笠(みのかさ)を着けていたそうだ。

牛の鞍もあったと云うから丁寧な作法で行われていたと推測されるのである。

御田植祭の所作は最後に弓を射る。

天、地、東、西、南、北に向けて矢を射るのは宮司である。

とどめは鬼の的。



拝殿の隅に置かれた鬼の籠を目がけて真正面から射抜く。

かつては鬼打ちも前庭で行われていた。

鬼の籠は立て木に括りつけていた。

村から悪霊を追い出す鬼打ちの儀式である。

伝わる話によれば1月12日だったようだ。

鬼打ち、牛王寶印、三つに割いたごー杖などの存在から萱森の御田植祭は一連のオコナイ作法であったと思われる。

(H25. 2.24 EOS40D撮影)


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