知人のFさんが、運営しているFBに公開された記事に目が開いた。
発信日は、前年の令和3年1月27日。
初めて訪れた田原本町富本・冨都(※ふつ)神社のレポートである。
実際の参拝日は、記されていないから、その日がいつだったか、わからないFBの記事。
ただ、数枚あるうちの一枚に、また大きく目が開いた。
まさに、その様相は、小正月行事のひとコマ。
県内各地、多く聞きおよんでいる小正月行事の在り方。
そのことは、ともかく、Fさんがアップされた記事の主体は、神々である。
富都(ふつ)神社の「御祭神は、登美屋彦命(トミヤヒコ)しかし式内社調査報告(1982)によれば武雷神(タケイカヅチ)・登美屋彦命・登美屋比売命とあり、他にも富都大神・建布都神(タケフツ)とも、言われている」、と報せていた。
また、明細帳では、「登美屋彦・登美屋比売は一対の神と思われており・・・」、
「大日本神名辞書(1972)に、“登美屋毘売、登美は地名、大和国城上郡に在り。夜の義明かならず。登美屋彦の御妹にして、邇藝速日命(ニギハヤヒ)に嫁して宇麻志摩遅命(ウマシマヂ)を生み給う。御別名御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)という”」
さらに、「登美屋比売は饒速日命の妃、御炊屋姫の別名で、この両神は兄妹という(※式内社調査報告)」
と、いうことは、もしかとすれば、神社名『富都』から本当の御祭神は石上神宮と同じ“布都御霊”だったのかもしれません」、と解いていた。
「神話には、天の磐舟で斑鳩の峰、白庭山に降臨した饒速日命を迎え入れた族長・登美長髄彦(※登美屋彦)は、自らの妹三炊屋媛(※登美夜毘売)を饒速日命の妻とし、仕えるようになります」
「その後、神武天皇の大和入りで抵抗した長髄彦は、饒速日命に殺されてしまう、という哀しい運命を辿る事になった」
「それ以前、平和にこの地を治めていたその一場面が、この神社に表現されているような気がしました(※要約しました)」と、伝えていた。
神話の話ではなく、参拝された田原本町富本・冨都(※ふつ)神社に見つけられた御供である。
搭載された中の一枚の映像。
場所は、神社拝殿の扉前。
敷居下に置いていたソレは、どことなくわかる小豆粥のような・・・
その付近に賽銭が4枚。
一人で奉った4枚の賽銭か、若しくは、4人が参拝され、それぞれが一枚ずつ奉った賽銭か。
不明であるが、小豆粥らしい御供をおましていた木の葉っぱである。
葉っぱの曼陀羅模様から、推定した木は、アオキ。
お供えに、このような事例は、初見である。
後述に紹介するが、さまざまな代用の葉にする事例は、ままある、とわかった。
まさか、と思うが、枇杷の葉っぱが近くになく、代用に使用した小豆粥を盛る皿の葉っぱはアオキ。
私は、これまでさまざまな小正月事例を拝見、取材してきた。
小正月、といえば1月15日。
その前夜に行われるとんど焼き。
火が消えそうなころに、持ち帰るとんどの火種。
その火種は、今にも消えてしまいそうな炭。
炭化まではしていない、いわば炭火である。
持ち帰る方法は、さまざま。
昔によく使われた火のし。
或いは燃えない金属製のバケツやスコップ。
提灯や行灯などに火種を移したローソクで持ち帰る人たちもおられる。
その火種は、お家の竈に移す火。
竈にいれておいたシバ(※芝とか雑木、或いはパチパチ燃える豆木)に種火を移す。
その火で炊いたのが、小豆粥である。
炊いた小豆粥は、朝いちばんにいただき、口にする。
それだけでなく、小豆粥を食べる箸を自然に生えているカヤススキ。
朝食に食べる小豆粥を、一口、二口・・・
穂付きのカヤススキで食べたら、カヤススキの茎を折って捨てる、という民俗事例もある。
一方、県内事例に多くみられるのが、とんどの火種で炊いた小豆粥を、屋外に供えるあり方。
その小豆粥を供える平皿が要るのだが、その平皿は、どこの地域に聞いても、みなは枇杷の葉っぱだ、という。
陶器の平皿でなく、枇杷の葉を裏向けにした、その凹みに小豆粥をのせるのだ。
神社やお堂などの施設、それぞれに供える田原本町・蔵堂に鎮座する村屋坐冨都比売神社(※むらやにますみふつひめじんじゃ)の事例。
奇遇なことに、田原本町富本の冨都神社も(※ふつじんじゃ)。
一方、小豆粥を枇杷の葉にのせて供えるのは、神社に限っているわけではなく、民家の習俗として、今もされている事例もある。
明日香村の上(※かむら)の地に住むF家は、神棚・家の入口・離れ・庭の神さん・床の間の神さん・(田んぼ)・庚申さん・神社・地蔵、新墓・(古い墓)など云十カ所(ビワの葉は50枚ほどにもなる、と案内してくれた。
下見に話してくれた「枇杷の葉」がないとき。
その場合は、柿の葉を代用するそうだ。
また、同村の上居(※じょうご)に住む前総代のFさんもしていたが、枇杷の葉にのせる御供は、小豆粥に、カイバシラと呼ぶキリコモチ。
供える場は、玄関、納屋、車庫から直撒きの苗代や田んぼ・草むら、さらには杉山の頂上にも・・。
それだけでなく、おじいさんが建之した三体の地蔵さんにもおましていた。
さらに、話してくれたFさん。
かつて小豆粥は、供える前に食べていた。粥を口に持っていくのは、スジノコと呼ぶカヤススキの茎を用いた箸であった。
それぞれ、供え方は区々であったが、小豆粥に枇杷の葉は、どこもそうしていたのである。
同じく明日香村の八釣(※やつり)の小正月の小豆粥御供は、氏神社の弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社から庚申石・地蔵立像、妙法寺、稲荷社、弁天さん。
以前は、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇にも供えていたそうだ。
こうした事例は、なにも明日香村に限った民俗ではなく県内の何か所かで行われていた。
大和郡山市の南部。
2月1日にとんど行事をしている柏木町にも小豆粥事例がある。
とんど行事に参集されていた役員のO氏。
実は、とんどに行く前に、既にしていた、という。
その件に急ぎの拝見。
先に、カラスや猫などのエサになっているかも・・・そう、思った小走り。
枇杷の葉に小豆粥を供えていた場は、お家の門屋前。
千切ったモチも一緒に供えた。
枇杷の葉は、薬になるから皿代わりに盛った。
その年の穢れを祓う意味がある小豆粥御供。
「町内では何軒かがしてはった」と話してくれた。
また、五條市の上之町金光寺の檀家総代家もビワの葉にアズキガユを供える、と話していた。
天理市豊井町も小正月に小豆粥。
しかも、供えるその場は苗代の田。
荒起こしをしたばかりの苗代の田である。
尤も、苗代つくりは、先の先になる5月はじめになるが・・・
小正月に五穀豊穣を願う農耕の予祝行事。
O家では小正月の15日の朝食に小豆粥を炊き、苗代の田に出かけ、正月のモチと小豆粥に煎った米も供える。
半紙に包んで供える御供に、正月のモチと同様にツルシガキ、トコロイモ、ミカンにモチも供えるO家の事例。
供えた場に立てていた穂付きのカヤススキ。
実物を拝見したのは、ここ豊井が初見だった。
15日の朝食後に供えたと田んぼの主が話す小正月の風習話題。
極めて珍しい貴重な暮らしの民俗にわくわくするほど感動したものだ。
他の地域でもされていた小正月のとんどの火で翌朝に小豆粥を炊いて食べる風習。
明日香の越(こし)や高取の佐田でも聞いたことがある。
その佐田ではツバキの葉。
越ではカシの葉を皿替わりに盛ると話していた事例もある。
いずれも実態を見たことがなかっただけに、それぞれの地域、民家に拝見した枇杷の葉のせ小豆粥には感動したものだ。
小正月の枇杷の葉のせ小豆粥の在り方をつらつら書いてきたが、長くなってしまった。
さて、富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の民俗調査である。
たまたまであるが、神社の所在地は、存じていた。
遡ること9年前の平成26年9月14日。
田原本町・佐味の八王子講の聞き取り調査。
お昼に摂った食事処は、西竹田の地にある台湾食堂・美食城。
食後に、ふらりと立ち寄った田原本町・富本(とんもと)に鎮座する冨都(※ふつ)神社。
集落までは行けなかったが、村の風景、佇まいにどこか感じるものがあった。
1月13日に立ち寄り、富本(とんもと)の集落景観や雰囲気を感じておこう。
ぶらりと散歩する気分に、車が停められる場も探しておこう。
着いた時間は、午前11時過ぎ。
1時間ほどの散策に、結局はどなたとも遭遇しなかった。
神社や、寺院、石仏など、気になる場にお供えはあるのか。
正月明けの13日に、暮らしの民俗を探してみる。
まずは、冨都(※ふつ)神社。
鳥居の傍に建てた神社の由来などを解説した田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」・・(平成21年度 No4 田観)を頭に入れ、それから参拝する。
境内入口辺りに建てていた常夜燈。
氏子中が寄進、「明和六己丑(1769)年九月吉日」に建之した塔に「牛頭天皇」と、ある。
歴史から見れば、ここは神社であるから「牛頭天皇」ではなく「牛頭天王」が相応しい。
本殿前の拝殿。
その前に阿吽の獅子像がある。
台座に「願主 少庄抄(※若しくは小ノ庄村とも読める) 庄兵衛 天井村 庄吉」、「天保十二辛丑□年吉日 」の刻印が見える。
気になる「天井村」。
大和郡山市内に天井町の地名がある。
もしか・・“天井村“の”庄吉が” 小ノ庄村(※十市郡の下ノ庄村が考えられる)の“庄兵衛”の二人が、寄進した願主ではないだろうか。
あらためて拝見した手水鉢の蛇口。
取材当時は、龍の口では、と思っていたが、よくよく見れば、まるでシンガポールにある「マーライオン」に、さも似たり。
そう、見えただけだが、獅子の顔に見えるこのような意匠ははじめて、だ。
田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」には、この件に関して記載がないから、文字数の関係から触れないことにしたのだろう。
神社から離れて西の集落をめぐる。
西へ直進したそこは集会所。
すぐ横に整備された場に、2体の石仏地蔵尊。
地蔵堂に安置していた。
左にあるのは庚申塔。
石仏地蔵にはしめ縄は見られないが、庚申塔にはある。
おそらく庚申講の存在が考えられよう。
大字富本の集落については、地元富本自治会が記載、大和磯城ライオンズクラブが、寄贈した「町・村の歴」・・(平成23年度 )LNo.37を参照、としよう。
さらに、奥へ奥へとめぐったが、それらしきものはなく、ここにも地蔵石仏が見つかったが、ここにもしめ縄は見られない。
この向こうは、集落の端。
多分に考えられる環濠集落ではないだろうか。
帰宅して、ネットをぐぐったら、やはり、であった。
戻りに拝見した民家それぞれが飾ったしめ縄のカタチ。
市販製品も見られたが、少なくとも旧家は、新米で結った稲藁。
これこそ、日本の文化歴史を感じる暮らしの民俗。
中央にウラジロ、ユズリハ。
みかんをあしらったしめ縄。
きちん、と七・五・三の房を垂らした手つくり感がいい。
一部しか、調査ができなかったが、全戸調査するには、もっと多くの時間、体力を要する。
午前11時からの下見は、集落の人たちとお会いできなかったが、有意義だった。
もう少し時間がある。
見ておきたい富本の田園。
割合、川幅が広い水路(※かんでん川と呼ばれているようだ)は、田園を潤す栽培の命水。
向こう岸に見えた藁積み。
この時期にも使いたい農の道具。
野菜畑に敷く藁もあれば、支柱に茎とか蔓を結わえ固定する道具でもある。
昨今は、地産地消の店とか道の駅に売っている。
家庭菜園をされている方たちのお買い物。
その藁積みは、もう一か所見つかった。
岸の向こう集落地の東側の藁積みは細かい状態を見たいが、橋に戻る距離が遠い。
諦めて歩きだした水路の東。数軒並びの民家の東側にあった藁積みの形状。
私は、この形状を探していた。
やや崩れてはいるが、屋根付きの家型藁積み。
大和郡山市の小南町に住む元一老のUさんが、いうには「ちょっぽ」。
親父さんからは「ちょっぽせぇー」と、云われて、藁を積んでいたそうだ。
もっと、もっと歩いてみたいが、時間帯は正午。
それほど遠くないが、丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・
(R4. 1.13 SB805SH 撮影)
発信日は、前年の令和3年1月27日。
初めて訪れた田原本町富本・冨都(※ふつ)神社のレポートである。
実際の参拝日は、記されていないから、その日がいつだったか、わからないFBの記事。
ただ、数枚あるうちの一枚に、また大きく目が開いた。
まさに、その様相は、小正月行事のひとコマ。
県内各地、多く聞きおよんでいる小正月行事の在り方。
そのことは、ともかく、Fさんがアップされた記事の主体は、神々である。
富都(ふつ)神社の「御祭神は、登美屋彦命(トミヤヒコ)しかし式内社調査報告(1982)によれば武雷神(タケイカヅチ)・登美屋彦命・登美屋比売命とあり、他にも富都大神・建布都神(タケフツ)とも、言われている」、と報せていた。
また、明細帳では、「登美屋彦・登美屋比売は一対の神と思われており・・・」、
「大日本神名辞書(1972)に、“登美屋毘売、登美は地名、大和国城上郡に在り。夜の義明かならず。登美屋彦の御妹にして、邇藝速日命(ニギハヤヒ)に嫁して宇麻志摩遅命(ウマシマヂ)を生み給う。御別名御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)という”」
さらに、「登美屋比売は饒速日命の妃、御炊屋姫の別名で、この両神は兄妹という(※式内社調査報告)」
と、いうことは、もしかとすれば、神社名『富都』から本当の御祭神は石上神宮と同じ“布都御霊”だったのかもしれません」、と解いていた。
「神話には、天の磐舟で斑鳩の峰、白庭山に降臨した饒速日命を迎え入れた族長・登美長髄彦(※登美屋彦)は、自らの妹三炊屋媛(※登美夜毘売)を饒速日命の妻とし、仕えるようになります」
「その後、神武天皇の大和入りで抵抗した長髄彦は、饒速日命に殺されてしまう、という哀しい運命を辿る事になった」
「それ以前、平和にこの地を治めていたその一場面が、この神社に表現されているような気がしました(※要約しました)」と、伝えていた。
神話の話ではなく、参拝された田原本町富本・冨都(※ふつ)神社に見つけられた御供である。
搭載された中の一枚の映像。
場所は、神社拝殿の扉前。
敷居下に置いていたソレは、どことなくわかる小豆粥のような・・・
その付近に賽銭が4枚。
一人で奉った4枚の賽銭か、若しくは、4人が参拝され、それぞれが一枚ずつ奉った賽銭か。
不明であるが、小豆粥らしい御供をおましていた木の葉っぱである。
葉っぱの曼陀羅模様から、推定した木は、アオキ。
お供えに、このような事例は、初見である。
後述に紹介するが、さまざまな代用の葉にする事例は、ままある、とわかった。
まさか、と思うが、枇杷の葉っぱが近くになく、代用に使用した小豆粥を盛る皿の葉っぱはアオキ。
私は、これまでさまざまな小正月事例を拝見、取材してきた。
小正月、といえば1月15日。
その前夜に行われるとんど焼き。
火が消えそうなころに、持ち帰るとんどの火種。
その火種は、今にも消えてしまいそうな炭。
炭化まではしていない、いわば炭火である。
持ち帰る方法は、さまざま。
昔によく使われた火のし。
或いは燃えない金属製のバケツやスコップ。
提灯や行灯などに火種を移したローソクで持ち帰る人たちもおられる。
その火種は、お家の竈に移す火。
竈にいれておいたシバ(※芝とか雑木、或いはパチパチ燃える豆木)に種火を移す。
その火で炊いたのが、小豆粥である。
炊いた小豆粥は、朝いちばんにいただき、口にする。
それだけでなく、小豆粥を食べる箸を自然に生えているカヤススキ。
朝食に食べる小豆粥を、一口、二口・・・
穂付きのカヤススキで食べたら、カヤススキの茎を折って捨てる、という民俗事例もある。
一方、県内事例に多くみられるのが、とんどの火種で炊いた小豆粥を、屋外に供えるあり方。
その小豆粥を供える平皿が要るのだが、その平皿は、どこの地域に聞いても、みなは枇杷の葉っぱだ、という。
陶器の平皿でなく、枇杷の葉を裏向けにした、その凹みに小豆粥をのせるのだ。
神社やお堂などの施設、それぞれに供える田原本町・蔵堂に鎮座する村屋坐冨都比売神社(※むらやにますみふつひめじんじゃ)の事例。
奇遇なことに、田原本町富本の冨都神社も(※ふつじんじゃ)。
一方、小豆粥を枇杷の葉にのせて供えるのは、神社に限っているわけではなく、民家の習俗として、今もされている事例もある。
明日香村の上(※かむら)の地に住むF家は、神棚・家の入口・離れ・庭の神さん・床の間の神さん・(田んぼ)・庚申さん・神社・地蔵、新墓・(古い墓)など云十カ所(ビワの葉は50枚ほどにもなる、と案内してくれた。
下見に話してくれた「枇杷の葉」がないとき。
その場合は、柿の葉を代用するそうだ。
また、同村の上居(※じょうご)に住む前総代のFさんもしていたが、枇杷の葉にのせる御供は、小豆粥に、カイバシラと呼ぶキリコモチ。
供える場は、玄関、納屋、車庫から直撒きの苗代や田んぼ・草むら、さらには杉山の頂上にも・・。
それだけでなく、おじいさんが建之した三体の地蔵さんにもおましていた。
さらに、話してくれたFさん。
かつて小豆粥は、供える前に食べていた。粥を口に持っていくのは、スジノコと呼ぶカヤススキの茎を用いた箸であった。
それぞれ、供え方は区々であったが、小豆粥に枇杷の葉は、どこもそうしていたのである。
同じく明日香村の八釣(※やつり)の小正月の小豆粥御供は、氏神社の弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社から庚申石・地蔵立像、妙法寺、稲荷社、弁天さん。
以前は、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇にも供えていたそうだ。
こうした事例は、なにも明日香村に限った民俗ではなく県内の何か所かで行われていた。
大和郡山市の南部。
2月1日にとんど行事をしている柏木町にも小豆粥事例がある。
とんど行事に参集されていた役員のO氏。
実は、とんどに行く前に、既にしていた、という。
その件に急ぎの拝見。
先に、カラスや猫などのエサになっているかも・・・そう、思った小走り。
枇杷の葉に小豆粥を供えていた場は、お家の門屋前。
千切ったモチも一緒に供えた。
枇杷の葉は、薬になるから皿代わりに盛った。
その年の穢れを祓う意味がある小豆粥御供。
「町内では何軒かがしてはった」と話してくれた。
また、五條市の上之町金光寺の檀家総代家もビワの葉にアズキガユを供える、と話していた。
天理市豊井町も小正月に小豆粥。
しかも、供えるその場は苗代の田。
荒起こしをしたばかりの苗代の田である。
尤も、苗代つくりは、先の先になる5月はじめになるが・・・
小正月に五穀豊穣を願う農耕の予祝行事。
O家では小正月の15日の朝食に小豆粥を炊き、苗代の田に出かけ、正月のモチと小豆粥に煎った米も供える。
半紙に包んで供える御供に、正月のモチと同様にツルシガキ、トコロイモ、ミカンにモチも供えるO家の事例。
供えた場に立てていた穂付きのカヤススキ。
実物を拝見したのは、ここ豊井が初見だった。
15日の朝食後に供えたと田んぼの主が話す小正月の風習話題。
極めて珍しい貴重な暮らしの民俗にわくわくするほど感動したものだ。
他の地域でもされていた小正月のとんどの火で翌朝に小豆粥を炊いて食べる風習。
明日香の越(こし)や高取の佐田でも聞いたことがある。
その佐田ではツバキの葉。
越ではカシの葉を皿替わりに盛ると話していた事例もある。
いずれも実態を見たことがなかっただけに、それぞれの地域、民家に拝見した枇杷の葉のせ小豆粥には感動したものだ。
小正月の枇杷の葉のせ小豆粥の在り方をつらつら書いてきたが、長くなってしまった。
さて、富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の民俗調査である。
たまたまであるが、神社の所在地は、存じていた。
遡ること9年前の平成26年9月14日。
田原本町・佐味の八王子講の聞き取り調査。
お昼に摂った食事処は、西竹田の地にある台湾食堂・美食城。
食後に、ふらりと立ち寄った田原本町・富本(とんもと)に鎮座する冨都(※ふつ)神社。
集落までは行けなかったが、村の風景、佇まいにどこか感じるものがあった。
1月13日に立ち寄り、富本(とんもと)の集落景観や雰囲気を感じておこう。
ぶらりと散歩する気分に、車が停められる場も探しておこう。
着いた時間は、午前11時過ぎ。
1時間ほどの散策に、結局はどなたとも遭遇しなかった。
神社や、寺院、石仏など、気になる場にお供えはあるのか。
正月明けの13日に、暮らしの民俗を探してみる。
まずは、冨都(※ふつ)神社。
鳥居の傍に建てた神社の由来などを解説した田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」・・(平成21年度 No4 田観)を頭に入れ、それから参拝する。
境内入口辺りに建てていた常夜燈。
氏子中が寄進、「明和六己丑(1769)年九月吉日」に建之した塔に「牛頭天皇」と、ある。
歴史から見れば、ここは神社であるから「牛頭天皇」ではなく「牛頭天王」が相応しい。
本殿前の拝殿。
その前に阿吽の獅子像がある。
台座に「願主 少庄抄(※若しくは小ノ庄村とも読める) 庄兵衛 天井村 庄吉」、「天保十二辛丑□年吉日 」の刻印が見える。
気になる「天井村」。
大和郡山市内に天井町の地名がある。
もしか・・“天井村“の”庄吉が” 小ノ庄村(※十市郡の下ノ庄村が考えられる)の“庄兵衛”の二人が、寄進した願主ではないだろうか。
あらためて拝見した手水鉢の蛇口。
取材当時は、龍の口では、と思っていたが、よくよく見れば、まるでシンガポールにある「マーライオン」に、さも似たり。
そう、見えただけだが、獅子の顔に見えるこのような意匠ははじめて、だ。
田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」には、この件に関して記載がないから、文字数の関係から触れないことにしたのだろう。
神社から離れて西の集落をめぐる。
西へ直進したそこは集会所。
すぐ横に整備された場に、2体の石仏地蔵尊。
地蔵堂に安置していた。
左にあるのは庚申塔。
石仏地蔵にはしめ縄は見られないが、庚申塔にはある。
おそらく庚申講の存在が考えられよう。
大字富本の集落については、地元富本自治会が記載、大和磯城ライオンズクラブが、寄贈した「町・村の歴」・・(平成23年度 )LNo.37を参照、としよう。
さらに、奥へ奥へとめぐったが、それらしきものはなく、ここにも地蔵石仏が見つかったが、ここにもしめ縄は見られない。
この向こうは、集落の端。
多分に考えられる環濠集落ではないだろうか。
帰宅して、ネットをぐぐったら、やはり、であった。
戻りに拝見した民家それぞれが飾ったしめ縄のカタチ。
市販製品も見られたが、少なくとも旧家は、新米で結った稲藁。
これこそ、日本の文化歴史を感じる暮らしの民俗。
中央にウラジロ、ユズリハ。
みかんをあしらったしめ縄。
きちん、と七・五・三の房を垂らした手つくり感がいい。
一部しか、調査ができなかったが、全戸調査するには、もっと多くの時間、体力を要する。
午前11時からの下見は、集落の人たちとお会いできなかったが、有意義だった。
もう少し時間がある。
見ておきたい富本の田園。
割合、川幅が広い水路(※かんでん川と呼ばれているようだ)は、田園を潤す栽培の命水。
向こう岸に見えた藁積み。
この時期にも使いたい農の道具。
野菜畑に敷く藁もあれば、支柱に茎とか蔓を結わえ固定する道具でもある。
昨今は、地産地消の店とか道の駅に売っている。
家庭菜園をされている方たちのお買い物。
その藁積みは、もう一か所見つかった。
岸の向こう集落地の東側の藁積みは細かい状態を見たいが、橋に戻る距離が遠い。
諦めて歩きだした水路の東。数軒並びの民家の東側にあった藁積みの形状。
私は、この形状を探していた。
やや崩れてはいるが、屋根付きの家型藁積み。
大和郡山市の小南町に住む元一老のUさんが、いうには「ちょっぽ」。
親父さんからは「ちょっぽせぇー」と、云われて、藁を積んでいたそうだ。
もっと、もっと歩いてみたいが、時間帯は正午。
それほど遠くないが、丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・
(R4. 1.13 SB805SH 撮影)