一週間前に作った野神祭りの役道具。
ムギワラ製の牛、馬、ムカデや竹製のカラスキにマンガンだ。
ムギワラは昨年作ったときに残しておいたものを混ぜて作られたから色艶ぐあいが異なる。
ムギワラは「はかま」を取って綺麗にした。
牛を引く棒やカラスキの代掻き棒はヤナギの木。
皮を剥がしやすいから使っているそうだ。
例年通りに頭屋の家の前に集まってきた役員たち。
大和神社の宮司を先頭に氏神さんの素盞鳴神社を目指して出幸した。
今年で頭屋の子どもは役目を終える最後の野神祭り。
中学生になれば主役の座を明け渡す。
来年は一人になった子ども。
牛耕するにはもう一人が要る。
来年のことはさておき主役の子どもたちは頭屋の家の座敷にあがった。
これから始まるのは宮司とともによばれる会食だ。
「ごちそう」と呼ばれているお膳の前に座った。
大きなタケノコは丸太から炊きあげた。
その大きな椀にはトロロコンブがある。
よろこぶの意味があるそうだ。
ニヌキ(ミヌキともいう)タマゴにコーヤドーフとフキの煮物が添えてある。
しょうゆとミリンで味付けているそうだ。
小さな椀はチシャとタケノコを木の芽とゴマを味噌で和えたもの。
皿にはカツオのナマブシ(ナワブシともいう)。
膳には載らないが巻きずしがある。
コーヤドーフ、カンピョウにミツバを巻いたシンプルな巻き方だ。
数は7切れと決まっている。
セキハン(赤飯)や7個のモチもある。
これらは昔から決まっている献立だ。
全般的にお味は薄めだが。
木の芽和えは酒の肴に最適な味。
「これらは大人の味だ」と頭屋の主人にお酒を注がれる宮司が仰る。
子どもだけの座に大人の味の料理をだす。
さすがに子どもの口には合わなくて途中で座を離れてしまった。
こうして一歩、一歩と大人への道を歩むのであろうか。
子どもの頭屋はい(入)り頭屋とひき頭屋の二組がある。
入り頭屋はよちよち歩きの子ども。
さすがに生まれたての子どもは入り頭屋にならない。
幼稚園に入るころだ。
ひき頭屋は小学校最終学年生。
今回が最後に野神祭りを卒業していった。
野神祭りは元々5月5日に行われていた。
それが市の行事を重なったことから3日になった。
頭屋のご主人が子どものころに変わったそうだ。
そのころは子どもが12人もいた。
牛耕の役は取り合いになったという。
そのころはコメを3合、うるちコメのモチゴメは2合。
タケノコやコーヤドーフに100円をよせて(持って来るという意味の大和言葉)いた。
それを使って頭屋の家で「ごちそう」をこしらえていたそうだ。
※辻ごとに竹を挿してお酒を注ぐ。酒を注ぐのは氏神さんのスサノオがお酒を好きだからだといい、参道となる農道は神社への道しるべだろうと宮司が仰る。頭屋の永尾さんはその竹を「ゴンゴウ」と呼んでいるが、資料では「竹のゴウ」になっていた。
※昭和52年の書き留めたメモでは「頭屋」が「頭家」と書かれていた。
(H22. 5. 3 EOS40D撮影)
ムギワラ製の牛、馬、ムカデや竹製のカラスキにマンガンだ。
ムギワラは昨年作ったときに残しておいたものを混ぜて作られたから色艶ぐあいが異なる。
ムギワラは「はかま」を取って綺麗にした。
牛を引く棒やカラスキの代掻き棒はヤナギの木。
皮を剥がしやすいから使っているそうだ。
例年通りに頭屋の家の前に集まってきた役員たち。
大和神社の宮司を先頭に氏神さんの素盞鳴神社を目指して出幸した。
今年で頭屋の子どもは役目を終える最後の野神祭り。
中学生になれば主役の座を明け渡す。
来年は一人になった子ども。
牛耕するにはもう一人が要る。
来年のことはさておき主役の子どもたちは頭屋の家の座敷にあがった。
これから始まるのは宮司とともによばれる会食だ。
「ごちそう」と呼ばれているお膳の前に座った。
大きなタケノコは丸太から炊きあげた。
その大きな椀にはトロロコンブがある。
よろこぶの意味があるそうだ。
ニヌキ(ミヌキともいう)タマゴにコーヤドーフとフキの煮物が添えてある。
しょうゆとミリンで味付けているそうだ。
小さな椀はチシャとタケノコを木の芽とゴマを味噌で和えたもの。
皿にはカツオのナマブシ(ナワブシともいう)。
膳には載らないが巻きずしがある。
コーヤドーフ、カンピョウにミツバを巻いたシンプルな巻き方だ。
数は7切れと決まっている。
セキハン(赤飯)や7個のモチもある。
これらは昔から決まっている献立だ。
全般的にお味は薄めだが。
木の芽和えは酒の肴に最適な味。
「これらは大人の味だ」と頭屋の主人にお酒を注がれる宮司が仰る。
子どもだけの座に大人の味の料理をだす。
さすがに子どもの口には合わなくて途中で座を離れてしまった。
こうして一歩、一歩と大人への道を歩むのであろうか。
子どもの頭屋はい(入)り頭屋とひき頭屋の二組がある。
入り頭屋はよちよち歩きの子ども。
さすがに生まれたての子どもは入り頭屋にならない。
幼稚園に入るころだ。
ひき頭屋は小学校最終学年生。
今回が最後に野神祭りを卒業していった。
野神祭りは元々5月5日に行われていた。
それが市の行事を重なったことから3日になった。
頭屋のご主人が子どものころに変わったそうだ。
そのころは子どもが12人もいた。
牛耕の役は取り合いになったという。
そのころはコメを3合、うるちコメのモチゴメは2合。
タケノコやコーヤドーフに100円をよせて(持って来るという意味の大和言葉)いた。
それを使って頭屋の家で「ごちそう」をこしらえていたそうだ。
※辻ごとに竹を挿してお酒を注ぐ。酒を注ぐのは氏神さんのスサノオがお酒を好きだからだといい、参道となる農道は神社への道しるべだろうと宮司が仰る。頭屋の永尾さんはその竹を「ゴンゴウ」と呼んでいるが、資料では「竹のゴウ」になっていた。
※昭和52年の書き留めたメモでは「頭屋」が「頭家」と書かれていた。
(H22. 5. 3 EOS40D撮影)