平成27年の旧暦八月十五日は新暦でいえば9月27日。
いわゆる旧暦十五夜であるが、満月ではない。
満月は十五夜の日から多少前後する。
この年の満月は一夜後の翌日。
旧暦十六夜(いざよい)の呼び名がある日だ。
この年より4カ年~2カ年前に満月は同一日の旧暦十五日だった。
前年、今年は一夜後の翌日。
この年より2年間は二夜後の翌々日になる。
で、中秋の名月と呼ぶ日は満月の夜ではなく十五夜。
満月でなくとも、名月を愛でるに相応しい呼び名が十五夜だ。
雲に覆われることなく一点の曇りがない十五夜。
「うーさぎ うさぎ なにみてはねる じゅうごやおーつきさん みてはーあーねる・・」の唄が思わず口に出てハミングする名月夜になった。
それにしても昨今は十五夜、十六夜の満月をいつから「スーパームーン」と呼ぶようになったことが気がかりだ。
平成21年(2009)までは一言もなかった「スーパームーン」は翌年の平成22年(2010)になれば数件、さらに1年後の平成23年(2011)では一挙に膨れ上がったようだ。
新聞やテレビが名月を報道する名称の「スーパームーン」に違和感を持つ。
それよりも、十五夜、十六夜と呼ぶ方が季節を感じる歳時記だと思うだが・・・。
十五夜の晩に収穫を祝ってお月さんを愛でる風習がある。
県内各地の民家で度々耳にするススキとハギの花を飾って皮を剥いたサトイモを供える風習だが、各家によって在り方がまちまちだと聞いている。
聞いているだけでは実態は掴めない。
今でもしていると、お家の方が話してくださっても取材は簡単にできるものではない。
家の在り方だけに内部事情を見られたくない、撮らせてもらっても公開することはできないのが一般的だ。
そういう状況であるが、ごく一部に親しくさせてもらっているお家がある。
地域の祭りや行事を取材して親しくなった人もおれば、仕事柄親しくなった人もいる。
いずれも高齢者に比較的近い人たちだ。
この年に訪れた地域は大和郡山市の丹後庄町。
「うちとこのもう一軒ぐらいしかしてないと」話していたご婦人は昭和2年生まれの高齢者。
送迎仕事の際に話してくれたイモ名月。
カドにススキとハギにドロイモを供えると話していた。
足が不自由な婦人はいつしか送迎することもなくなった。
2年間も離れていた。
お元気であるのか、それとも・・・。おそるおそるの訪問にインターフォン越しに婦人の声が聞こえた。
懐かしいお顔を拝見するなり、「今夜はイモ名月なので、今からドロイモの皮を剥こうとしてましてん」という。
水洗いしたドロイモを手にして包丁で皮を剥く。
白い素肌を見せるドロイモを鍋に入れる。
イモ名月に供えるドロイモはすべてではなく数個。
数に決まりはないが、伸びた芽があるイモだけを供える。
「神さんに供えるもんやから芽が出ているイモでないと・・」と云いながら皮を剥いていく。
昔はメリケン粉の5分の米粉を混ぜて作ったダンゴを供えていたというMさん。
嫁入り前に住んでいた実家では「十三ひとつの十四を供える」と聞いていた。
「懐かしい言葉や」と思いだされた出里は斑鳩龍田神社近く。
嫁入りした丹後庄町では聞き及ばないようだ。
「うちにダンゴはないけど、近所のY家はダンゴを供えているから行って来たら」と云われてマツリ取材でお世話になったY家を訪ねる。
この日は育てたモチゴメの収穫日。
孫まで手伝って家族総出の稲刈りをしていたそうだ。
終わって帰ってきたばかりの時間帯。
身体を休めてから供えると云っていた。
「間をおいてまた来ます」と云って再びM家を訪ねる。
お供えの塩、洗い米を準備していた。
お供えが調ったところで台はどこに。
納屋にあるから出してくれと頼まれていつもの場所に置く。
隣家のY家からもらったススキとハギは年代ものの古い金製バケツに浸けていた。
ハギの花は水に浸けていても乾きがあって萎れる。
十五夜の夕方近くの時間帯。
旧村の田園を走行していたらススキやハギを刈り取る人と遭遇する。
夕方であれば時間の経過が少ないから萎れ方はまだましなのだ。
塩、洗い米をおまして古い金製バケツに浸けていたススキとハギを一輪挿しの花瓶に入れた。
お供えを乗せる台が納屋にあるから出して並べてと云われて立てた。
バックのお花と混在するので位置を替える。
お月さんがよく見えるように「カド(屋内の庭)」内であれば適当な処に移してくれていいよと云われて移動する。
足が不自由な婦人は88歳。
自宅内であっても老人用乳母車は必需品。
ガタゴト押して移動する。
お月さんがよく見えるように「カド(屋内の庭)」内であれば適当な処に移してくれていいよと、さらに云われて移動する。
奥に居られる婦人ともう一つの納屋に黄色くなりかけた家の柿の木を背景に撮らせてもらった。
イモ名月の写真は県立民俗博物館で紹介するかもしれない。
それが婦人の条件である。
数年前にMさんが話していた名月。
豆名月の旧暦九月十三夜にも供えていたようだ。
丹後庄町ではもう一軒がイモ名月をしている。
M家のイモ名月を拝見して近所に住む友達家のY家を再訪する。
門屋はすでに閉まっていた。
呼び鈴を押して門扉を開けてもらう。
カド奥の玄関口にイモ名月を供えたタナがあった。
M家と同様に塩、洗い米に突きだす若芽のドロイモを供えていた。
イモの数に決まりはないが神さんに供えるものだから奇数の3、5・・という。
そこに供えた月見ダンゴは和菓子屋さんで買ったものだ。
御供したM家の婦人の出里は斑鳩龍田神社近く。
メリケン粉に5分の米粉を混ぜて作ったダンゴを供えていたという。
婦人が二十歳の頃とすれば68年前。
母親から伝えられた言葉に「十三ひとつの十四を供える」があった。
何を意味するのか記憶にないという。
「あんたが来るのを待っていた」と云いながらローソクを家から持ちだした。
ローソク立ては風が吹いても消えないような器型に立てようとするが、僅かな風に吹かれて消える。
一瞬の灯に照らされたイモ名月を撮らせてもらう。
そうこうしているうちに日が暮れてきた。
東の空に昇ったお月さんが塀向こうに現れた。
お月さんが出てくる方角にイモ名月を供えた家人たち。
東方に輝きだしたお月さんを愛でていた。
(H27. 9.27 EOS40D撮影)
いわゆる旧暦十五夜であるが、満月ではない。
満月は十五夜の日から多少前後する。
この年の満月は一夜後の翌日。
旧暦十六夜(いざよい)の呼び名がある日だ。
この年より4カ年~2カ年前に満月は同一日の旧暦十五日だった。
前年、今年は一夜後の翌日。
この年より2年間は二夜後の翌々日になる。
で、中秋の名月と呼ぶ日は満月の夜ではなく十五夜。
満月でなくとも、名月を愛でるに相応しい呼び名が十五夜だ。
雲に覆われることなく一点の曇りがない十五夜。
「うーさぎ うさぎ なにみてはねる じゅうごやおーつきさん みてはーあーねる・・」の唄が思わず口に出てハミングする名月夜になった。
それにしても昨今は十五夜、十六夜の満月をいつから「スーパームーン」と呼ぶようになったことが気がかりだ。
平成21年(2009)までは一言もなかった「スーパームーン」は翌年の平成22年(2010)になれば数件、さらに1年後の平成23年(2011)では一挙に膨れ上がったようだ。
新聞やテレビが名月を報道する名称の「スーパームーン」に違和感を持つ。
それよりも、十五夜、十六夜と呼ぶ方が季節を感じる歳時記だと思うだが・・・。
十五夜の晩に収穫を祝ってお月さんを愛でる風習がある。
県内各地の民家で度々耳にするススキとハギの花を飾って皮を剥いたサトイモを供える風習だが、各家によって在り方がまちまちだと聞いている。
聞いているだけでは実態は掴めない。
今でもしていると、お家の方が話してくださっても取材は簡単にできるものではない。
家の在り方だけに内部事情を見られたくない、撮らせてもらっても公開することはできないのが一般的だ。
そういう状況であるが、ごく一部に親しくさせてもらっているお家がある。
地域の祭りや行事を取材して親しくなった人もおれば、仕事柄親しくなった人もいる。
いずれも高齢者に比較的近い人たちだ。
この年に訪れた地域は大和郡山市の丹後庄町。
「うちとこのもう一軒ぐらいしかしてないと」話していたご婦人は昭和2年生まれの高齢者。
送迎仕事の際に話してくれたイモ名月。
カドにススキとハギにドロイモを供えると話していた。
足が不自由な婦人はいつしか送迎することもなくなった。
2年間も離れていた。
お元気であるのか、それとも・・・。おそるおそるの訪問にインターフォン越しに婦人の声が聞こえた。
懐かしいお顔を拝見するなり、「今夜はイモ名月なので、今からドロイモの皮を剥こうとしてましてん」という。
水洗いしたドロイモを手にして包丁で皮を剥く。
白い素肌を見せるドロイモを鍋に入れる。
イモ名月に供えるドロイモはすべてではなく数個。
数に決まりはないが、伸びた芽があるイモだけを供える。
「神さんに供えるもんやから芽が出ているイモでないと・・」と云いながら皮を剥いていく。
昔はメリケン粉の5分の米粉を混ぜて作ったダンゴを供えていたというMさん。
嫁入り前に住んでいた実家では「十三ひとつの十四を供える」と聞いていた。
「懐かしい言葉や」と思いだされた出里は斑鳩龍田神社近く。
嫁入りした丹後庄町では聞き及ばないようだ。
「うちにダンゴはないけど、近所のY家はダンゴを供えているから行って来たら」と云われてマツリ取材でお世話になったY家を訪ねる。
この日は育てたモチゴメの収穫日。
孫まで手伝って家族総出の稲刈りをしていたそうだ。
終わって帰ってきたばかりの時間帯。
身体を休めてから供えると云っていた。
「間をおいてまた来ます」と云って再びM家を訪ねる。
お供えの塩、洗い米を準備していた。
お供えが調ったところで台はどこに。
納屋にあるから出してくれと頼まれていつもの場所に置く。
隣家のY家からもらったススキとハギは年代ものの古い金製バケツに浸けていた。
ハギの花は水に浸けていても乾きがあって萎れる。
十五夜の夕方近くの時間帯。
旧村の田園を走行していたらススキやハギを刈り取る人と遭遇する。
夕方であれば時間の経過が少ないから萎れ方はまだましなのだ。
塩、洗い米をおまして古い金製バケツに浸けていたススキとハギを一輪挿しの花瓶に入れた。
お供えを乗せる台が納屋にあるから出して並べてと云われて立てた。
バックのお花と混在するので位置を替える。
お月さんがよく見えるように「カド(屋内の庭)」内であれば適当な処に移してくれていいよと云われて移動する。
足が不自由な婦人は88歳。
自宅内であっても老人用乳母車は必需品。
ガタゴト押して移動する。
お月さんがよく見えるように「カド(屋内の庭)」内であれば適当な処に移してくれていいよと、さらに云われて移動する。
奥に居られる婦人ともう一つの納屋に黄色くなりかけた家の柿の木を背景に撮らせてもらった。
イモ名月の写真は県立民俗博物館で紹介するかもしれない。
それが婦人の条件である。
数年前にMさんが話していた名月。
豆名月の旧暦九月十三夜にも供えていたようだ。
丹後庄町ではもう一軒がイモ名月をしている。
M家のイモ名月を拝見して近所に住む友達家のY家を再訪する。
門屋はすでに閉まっていた。
呼び鈴を押して門扉を開けてもらう。
カド奥の玄関口にイモ名月を供えたタナがあった。
M家と同様に塩、洗い米に突きだす若芽のドロイモを供えていた。
イモの数に決まりはないが神さんに供えるものだから奇数の3、5・・という。
そこに供えた月見ダンゴは和菓子屋さんで買ったものだ。
御供したM家の婦人の出里は斑鳩龍田神社近く。
メリケン粉に5分の米粉を混ぜて作ったダンゴを供えていたという。
婦人が二十歳の頃とすれば68年前。
母親から伝えられた言葉に「十三ひとつの十四を供える」があった。
何を意味するのか記憶にないという。
「あんたが来るのを待っていた」と云いながらローソクを家から持ちだした。
ローソク立ては風が吹いても消えないような器型に立てようとするが、僅かな風に吹かれて消える。
一瞬の灯に照らされたイモ名月を撮らせてもらう。
そうこうしているうちに日が暮れてきた。
東の空に昇ったお月さんが塀向こうに現れた。
お月さんが出てくる方角にイモ名月を供えた家人たち。
東方に輝きだしたお月さんを愛でていた。
(H27. 9.27 EOS40D撮影)