マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大和な雛まつりの鈴木邸

2012年04月20日 08時06分41秒 | 大和郡山市へ
「大和な雛まつり」のイベントとは関係なくこれまで近くの園児だけに限定公開していた鈴木邸。

3年前に取材させていただいた鈴木邸はその後もなにかにつけて訪問しては当主と談話していた。

昨年に寄ったときは玄関口に居所を示す紙が張ってあった。

とある場所で一時的に避難していたのだった。

お元気であったことは知っていた。

県立民俗博物館でその姿を拝見したのであった。

ボランティアグループ「『やまと郡山かるた』作って遊ぼう会」の催しにあったお顔を見て安心したのだ。

その『やまと郡山かるた』の絵札を描いたのが当主の鈴木さんだった。

現物が博物館で展示されていた。

印刷するには難しいと印刷会社から断れたぐらいの絵札である。

そう、鈴木さんは水墨画の先生なのである。

この日もお家に飾られた江戸・享保時代のお内裏さまとお姫さま。

手尺で測ってみた高さはお内裏さまが35cmでお姫さまは25cm。

幅はといえば30cmに38cm。

実に大きな姿である。



よくよく拝見すれば何かが足りない。

3年前にあった冠がない。

昨年に公開したときのことだ。

園児が冠を引っかけて落とされた。

それを知らずに踏んでしまった冠は壊れてしまった。

たいそうな費用が要るが修理に回した。

ところが一部のパーツは行方不明。

探してみたが見当たらない。

なんとかして補修してもらっているという。

「公開するのはリスクを背負うのは当たり前です」と話す当主の心は大きい。

そういう経緯も知らずに訪れた観光客。

どれほど来るのかいというぐらいに多い。

例年、子供たちを接待している婦人たちも疲れぎみ。

当主は来訪する人が替るたびにお雛さんを解説する。

畳に敷いた毛せんもシワがよる。

そんなことも気にかけずに拝見する人たち。

「雛段は何故ないのですか」と尋ねる。

当主はそんな質問にも「昔から雛段はなかった。商家の家は広かったから座敷に広げて飾ったのです」と丁重に答える。

三人官女、五人囃子は昭和の時代、胡蝶の舞に衛士たち。

怒り衛士、鳴き衛士に笑い上戸衛士たち三人は特徴ある丸顔。

おそらく大正時代。

面長が特徴のお雛さんは享保雛。

それぞれの時代変遷を物語る人形の顔だ。

享保の改革は300年前の1716年だ。

「何かがあれば、県立民俗博物館に寄贈したい」と話す当主。

「大和な雛まつり」ではそれらの姿を一般向けに披露された一日であったが、明日も行うという。

お身体にさし障ってはならない高齢者。

支援している婦人たちともども、午後は解説もおいといてゆっくりしてほしいと伝えて鈴木邸をあとにした。

(H24. 3. 2 EOS40D撮影)

大和な雛まつりの葉本邸

2012年04月19日 06時46分06秒 | 大和郡山市へ
初の大イベントである大和な雛まつりに大勢の観光客が訪れている。

マップ片手に行先は何処へ行く。

3月3日は各地でひな祭りが行われている。

その日であればさらに多くなるであろうと思い、西観音寺町の葉本家を訪ねた。

雨の降る日であるだけに玄関口には数本の傘がある。

当家では既に千客万来。

記名をして内部に入らせてもらった。

ご主人に取材の許可を申し出て室内を案内してもらった。

なんと隣近所の奥さまたちも訪れていたのだ。

明治時代に両替商を営んでいた葉本家は建物の重要性から平成14年に国の登録有形文化財に指定されている。

煙出し付きの瓦屋根をもつ切妻造りの2階建て。

分銅を象った文様を中央に配した細長の虫籠窓が見られる。

登録基準が国土の歴史的景観に寄与しているということだ。

観音寺町を郡山から奈良へと南北に通る街道はバスも走っていた。

かつてのことだが町並みは素敵な景観を醸し出す。

街道の東側は観音寺町。町内には八幡神社があり、その境内に観音堂がある。

古くは平城京右京九条一坊であった観音寺町。

『僧綱補任抄出』の天武二年(674)の条によれば、「唐学生、平城観世音寺此僧正建立」したとある観世音寺。

観世音寺ゆかりのお堂と考えられているのが観音堂である。

それはさておき、西観音寺町の葉本家では明治初期だとされる屋形造りの雛人形が飾られていた。

精巧な御所建物の中には内裏雛などの人形が並び、お雛さんは優しい光りに包まれている。

それは一昨年に蔵を整理中に見つけたそうだ。

大正時代に叔母さんが生まれたときのことだ。

誕生祝いに母親の出里から送られたお雛さん。

一昨年の夏。定年退職後のことだった。

ビジネスマン時代は蔵を整理する余裕もなかった。

退職後はゆったりとした時間ができた。

蔵を整理していたところ、奥の方にあった大きな箱。

なんだろうと明けて見れば玉手箱、ではなくお雛さんだった。

叔母さんが映っていた幼少の頃の白黒写真を手がかりに組み立てた。

長い年月で傷みや損失もあったが、お雛さんの形を整えることができた。

昨年の春には叔母さんを招いて再会したお雛さんは実に70年ぶりだったそうだ。

丁度、そのころに話がもちあがった「大和な雛まつり」の企画話によって一般公開されることになった。

時期が重なったのは「お雛さんが公開してほしいと願われたのでは」と話す当主。

そうして始まった「大和な雛まつり」。

長い間眠っていた人形は一般公開という日の目を見ることになった。

建物と人形が醸し出す様相は実に美しく壮観である。



奥の方にも一体のお雛さんが飾られている。

その前にある丸い石が目に入った。

両サイドに二つ。

形はそれぞれに違う。

右側は豆などを磨り潰す石臼であろう。

気になったのが左側だ。

石臼を回す部分は同じだが、下部には周りに囲いがあるし、漏斗(ろうと若しくはじょうご)のようなくびれもある。

右側の石臼はそれがない。

室生でイノコモチ(※イノコノクルミモチ)の取材をした折りに拝見した石臼はそれだ。

穴に茹でた豆を少しずつ入れて臼を回す。

そうすると二段になっている石臼の間からジワジワと挽かれた豆がでてくる。

それは流れるほどでもないから包丁やスプーンで掬う。

では、左側はどんな用途なのであろうか。

思い浮かべたのは液体だ。

豆ではなく菜種。

種を挽けば液体がでてくる。

それは漏斗から流れてくる。

瓶などに溜めておく。

「熱をださずに菜種油を搾ったのではないでしょうか」と当主に尋ねた。

葉本家はかつて両替商だった。

その後は肥料商を営んでいたという。

当時は田んぼで菜種を栽培していたと思うが断定はできない。

それは農地解放によって消滅したそうだ。



営みは「純正菜種油粕」と表記された看板に残されている。

製造元は堺の吉原製油。葉本肥料店は油を販売していたことを物語る看板だ。

「菜種粕 眞粉粕」の文字がある大阪平野製油会社の特約販売店の看板の看板もある。

肥料には大日本人造肥料株式会社(大正12年)が製造した人造硫曹肥料(硫曹特許過燐酸)販売を示す看板(昭和硫安)も残されている。

神島人造肥料株式会社製造(大正6年)の特約販売店の看板には葉本庄次郎商店とある。

葉本家は代々の当主を庄次郎と名乗っていたと現当主が話す。



その葉本家を示す家紋は中央に一つ巴を配し、周りに五つ木瓜(モッコウ)。

戦国武将では越前の朝倉氏が、のちに織田信長が使ったのが木瓜である。

特に織田氏は五葉の木瓜が特徴。

もしかとすればだが、葉本家は織田氏の系譜では・・・。

郡山城を形成し入封した際の豊臣(羽柴)秀長の家臣だったのでは・・・と思った。

葉本家の五葉木瓜に一つ巴家紋から連想する郡山城下町、豊臣(羽柴)家、織田家との点を繋げば羽柴(織田)秀勝(織田信長の四男で秀吉の養子)の名が挙がる。

その秀勝の家紋も五葉の木瓜のようだ。

豊臣家が破れて郡山城は徳川家家臣の水野勝成、松平忠明、本多政勝時代となるが織田家の存在は見られない。

系譜は判らないが、葉本家には藍染の暖簾(のれん)に織田家との関係を示す五葉木瓜に一つ巴家紋が染められている。



葉本家に残された嫁入りの籠。

天井から吊るされている。

おおばあちゃんが奈良市の柏木町から嫁入りしたときに乗ってきたという。

背もたれのクッションが内部にある籠だ。

タイル張りのオクドさん、手提げのカイロなどなどは葉本家の生活文化の名残だ。



ふと見上げた棚に2枚の「薬師寺金堂牛玉」がある。

先代が貰ってきた薬師寺(法相宗)のお札だという。

薬師寺の牛玉といえば花会式。

同寺で勤行される春の恒例行事である花会式(修二会)において4月1日(※平成26年より3月25日に移った)に練行衆が作る護符の「牛玉札(ごおうふだ)」である。

漢方薬にも使われている牛の胆石やクチナシなどを混ぜた染料で押印する宝印(ほういん)である。

それは寄進者に配られる。

およそ200枚刷られるお札は容易く手に入るものではない。

先代は同寺との関係があったそうで、それが残った。

ちなみに花会式(修二会)は4月5日(※平成26年より3月31日に移った)の夜に結願(けちがん)を迎える。

行に籠った練行衆は最後の祈りを捧げたあとに、証しとして牛玉宝印を額に押してもらう。

ありがたい護符である。

当主の話によれば先代は東大寺(華厳宗)とも関係が深かったようだ。

護符のことを知らずにいた当主。

大切に保管されることだろうと思う。

(H24. 3. 2 EOS40D撮影)

大和な雛まつりにどんだけぇ

2012年04月18日 06時44分31秒 | 大和郡山市へ
先週辺りから大和郡山市内を闊歩する人たちが増えてきた。

雅なお雛さんを飾っているニュースを聞き付けてやってきた人たちだ。

カメラをぶら下げたグループや二人連れなど・・・。

飾られたお雛さんをガラス越しに観ている。

商工会が発行したマップを持参して城下町を巡る観光客。

3月3日は雛祭りだけに当月に入ればどうなのか郡山観光案内所を訪れた。

毎週火曜、木曜、土曜、日曜日には市内の観光案内をされる大和郡山ボランテイアガイドの皆さんが交替で勤めている。

仕事を終えて様子伺いに度々お邪魔するのだ。

先月初めに訪れた際には同所で組みたてられていたお雛さんの段飾りが公開されている。

所内にはガイドの人たちが手作りでこしらえた折紙製のお雛さんも壁一面に飾っている。

そこへやってくる観光客。お雛さんのマップを手渡して道案内。

既にひと周りされてきた観光客も再び訪れる。

雛飾りをされている処は相当数あるだけにすべてを見て回るにはけっこうな時間を要する。

新聞記事を切り取って持参されるグループもある。

チラシを見られて民家で公開されている古いお雛さんを見たいと申し出る人が圧倒的に多い。

次から次へと訪れる観光客に応対がおっつかないので案内を手伝った。

来訪される人たちは大阪、堺、生駒、田原本町などなど。

3月いっぱいお雛さんを謳っている高取町の住民も来たそうだ。

一時間半ほどの間にどれだけのグループが来たのだろうか。

数え切れない応対にてんやわんや。

おそらく賑わいは3日、4日がもっと集中することであろう。

ひとまず安心する「大和な雛まつり」であるが、これを機会に城下町をもっと訪れてほしいものだ。

大和郡山は外堀に囲まれた城下町が現存する。

その内側は城下町を示す町名がずらりと・・・。

城下町の特徴は城を中心に武家の町、周りに町人の町を配するのが一般的だ。

城を中心に武家(士)屋敷、町屋敷、足軽屋敷、職人屋敷に寺屋敷を合わせた城下。

それらの町屋で構成された都市構造が城下町。

戦乱の時代、戦国時代、江戸時代など時代変遷にともなって構造が変化してきた城下町。

当然ながら山城か平城の地理的、物理的によっても構造は大きく異なる。

城下町は一挙に造りあげたものではなく、徐々に町人、商人が増えるにつれ拡大していったことも忘れてはならない。

たいがいは本町が始めにあったものと思っている。

また、各地から町人を寄せてきたからその名を付けたというのもある。

関西に城下町は数々あれど生業を現す町名が残されているのは意外と少ない。

滋賀県彦根にもあったが旧町名は消えた。

城町、本町辺りを中心に魚屋町、桶屋町、紺屋町、大工町、鍛冶屋町、袋町、職人町、油屋、細工、瓦焼きなど職業名がそのまま付けられた町名。

伝馬町、鷹匠町、伊賀町などもあった。

近江八幡、長浜、坂本も城下町だが町名は見られない。

三重県の伊賀上野・・・などなど。

また、奈良県高取や宇陀松山も城下町だが職業を示す町名は見られない。

現在の生業は大きく変容し面影を残すのは町名だけだ。

ここでは詳しくは述べないが、古き町名を思い起こしながら郡山の城下町を巡ってほしいものだ。

(H24. 3. 1 SB932SH撮影)

岩屋興隆寺厄除けの大般若経

2012年04月17日 08時40分38秒 | 山添村へ
朝から住職が勤行してきた大般若経。

六百巻の転読法要のお勤めは一日がかり。

ここは山添村岩屋の興隆寺。

長丁場だけに30分ほどは休憩を挟んだという。

昼も過ぎて2時間余りは「五百三十八巻~ さんぞう~ ほうし~ そわか~・・・」だった。

大般若経の経典は十巻を一棚に納められる。

それを十段で一箱となる。

箱は六つあるから合計で六百巻となる。

この日に集まったのは檀家総代、区長ら11人。

その中には大厄の人もいる。

厄は男性が25歳、42歳、61歳でいずれも数え歳。

42歳は大厄だ。

女性は19歳、33歳、37歳、61歳である。

大厄は33歳となる。

男女とも大厄の前年を前厄、大厄後の歳を後厄と呼ぶ。

該当する村人の大厄は毎年とも何人かはいると話す。

この年は7人だった。

人生の節目における厄年は厄を祓うとしている。

岩屋では大般若経を転読することで厄除けをしている。

また、88歳は重ね厄年とされる長寿の米寿。

合わせて転読法要される年齢で、厄年にあたった人たちの名を詠みあげ祈祷された。

そうして終えた住職は大般若波羅密多経巻の一巻目と六百巻目を取りあげた。



それを持って参拝者一人ずつ前に立つ。

手を合わせて拝む参拝者。

功徳を受けて頭を下げる。

そして「あみだにょらい だいにちにょらい なむだいし-へんじょー・・・」と真言を唱えた。



ご本尊の前には大きな掛け図が掲げられている。

阿弥陀如来と十六善神だ。

赤鬼の教えを請うて帰依していると住職は話す。

その壇下には十数本の御幣が立てられている。

厄払いの御幣だという幣の数は例年なら12本。

閏年ならば13本立てられる。

一年間を無事に過ごせるようにという祓いの本数だ。

それぞれの幣には神名が書かれている。

八王子が8本で九徳九満神、降昇神、大荒神、飢渇中、地主神などの神名が見られた。

八王子は氏神さんの八柱大御神であろう。

厄除け祈祷を終えた人たちは本堂で寺接待。

いつもならドーゲが下支えするがこの日はお寺さん。

とはいっても酒の肴はいつものダシマメだ。



およそ30分の接待を終えれば総代が祈祷された「米尾山 興隆寺 奉転読大般若経」のお札を配る。

こうして村人たちは息災延命、福寿増長を授かって寺をあとにした。

(H24. 2.26 EOS40D撮影)

桐山戸隠神社祈年祭

2012年04月16日 07時46分39秒 | 山添村へ
サカキを奉って豊作を願う祈年祭(としごいのまつり)。

別称におんだ祭と呼んでいる山添村桐山和田に鎮座する戸隠(とがくし)神社で行われる。

神社境内に植生するサカキに稲籾を括りつけるのはオトナ衆の長老4人。

一年交替でサカキ作りの当番にあたる。

「戸隠大神」の版木を刷ってお札を作るのは丹生町の神職だ。

一枚ずつ刷って朱印を押す。

朱印は牛玉宝印ではなく「神代(かみよ)」。

アビル(阿比留)文字ともされる出雲の神代文字。

「漢字ができるまでの時代の文字は津島一族の阿比留文字。水や豊作を印す文字では」と神職は話す。

お札はオヒネリのような結びにして半紙に包んだ稲籾とともにサカキに括っていく。

桐山は18戸。その数を作るという手伝いの二人はドーゲ(堂下)さんだ。

豊作を願ったサカキのお札は苗代に挿す。

育苗に祈るミトマツリであるが、JAで買うようになってからは見かけることが少なくなったという。

祈年祭の神饌はオトナ衆の当番が納める。

ダイコン、ゴボウ、コンブ、リンゴにニミカンは里の恵み。

タイや2尾のサバは海の幸。

2尾あるのは御供番の2軒分だという。

大きな二段の重ねモチはオカガミサンと呼ぶ。

末社に供えられるのは折敷に盛った御供。

同じように二段重ねのオカガミサンがある。

オトナ衆の当番が2升、2臼も搗いたそうだ。

里の幸も同じだが、海の幸が異なる。

サイラと呼ばれているサンマの開きである。

そうして始まった村の豊作祭り。

初めに社務所でお祓いをする。

別室に設けられた祓戸の神さんに向かって拝する。

そこには「奉上延月九頭大明神社頭秘文御重坐所命々等・・・」の墨書文字がある。

戸隠神社はかつて九頭大明神社と呼ばれていた証しである。

戸隠神社の社務所には囲炉裏がある。

そこでは炭火を焼いていた。

その煙が漂う社務所。

神事はここから始まるのだ。

オトナ衆の前には火鉢も置かれて室内は温かい。



祓いの儀を済ませると献饌だ。

本社、末社などへ神饌、御供を供えて拝殿に登る祭りの衆。

霙(みぞれ)混じりの雨が降るなかの神事が始まった。



祝詞を奏上し玉串を奉奠されて豊作を祈った。

神事を終えて御供は社務所に下げられた。



直会を始めるにあたって囲炉裏番をするドーゲたち。

長老オカガミサンを両手切り包丁で切り分ける。

ヒラキのサバはアミに入れて炭火で焼く。

表、裏の両面をこんがりと焼く。

切ったモチも焼いていく。

そうした支度を経て円座になった祭りの衆。

オードブル料理とともに直会が始まった。

サバは焼津産。脂がのっている美味い讃だけにお下がりのお神酒がぐいぐいいくようだ。

(H24. 2.26 EOS40D撮影)

地区に伝わる文化財講演

2012年04月15日 07時56分35秒 | 民俗を聴く
良福寺文殊堂で行われる文殊会に招かれた長田光男先生。

大和郡山市の文化財審議会の会長を務めておられる。

昨年の11月に「大和郡山の歴史と文化」をテーマに話された県立民俗博物館以来だ。

史跡、文化財、考古など、幅広い学識をもつ長田光男先生の話は、地域文化財である文殊菩薩騎獅像を主に話された。

大切な菩薩像がどのようなものなのか詳しく述べられる。

この講演は昨年の11月13日に実施された「わがまち再発見 歴史講演会&ウォーク」がきっかけだ。

大和郡山市まちづくり会議が主催したイベントだった。

長田先生が案内、解説されたコースの一つにあったのが良福寺文殊堂。

そのときにお会いした町の人。

文殊堂や菩薩のことをチラシにしたかった。

詳しいことを教えてもらいたいとお願いされたT自治会長とTさん。

たまたま相談されていた三の丸会館で出会ったのだ。

Tさんは市の施設にいたときから知っていたご仁だ。

当時はここで行われている文殊会を存知していなかったからその話題もでなかった。

一年ぶりにお会いするとは思ってもいなかった。

そのことはともかく始まった講演。

昭和60年(1985)に撮影された文殊菩薩を掲げながら解説される。

県文化財課が解体修理された当時。

元々は彩色されていなかったのが判った。

そういうことで修理後は色を落として元の姿になった菩薩像。

童顔のような文殊さんは知恵の神さんだという。

菩薩は獅子に乗っているから文殊菩薩騎獅像と呼ぶ。

しっとりとした仕上げは同市の洞泉寺(とうせんじ)町にある洞泉寺の阿弥陀三尊像の造りに似ているという。

鎌倉時代の大仏師である快慶の作と伝わるそうだ。

田原本町の八尾にある安養寺に安置されている阿弥陀如来も快慶作とされる。

大和ではこの三尊が快慶作と伝わっている特徴が見られるそうだ。

騎獅像は玉眼(ぎょくがん)に粉溜(ふんだみ)塗工法で造られた。

快慶が好んで用いた手法で、その作風に特徴があるそうだ。

粉溜とは、白土を下地にその上に金の粉を塗ったもの。

漆と混ぜて金ピカに仕上げる。

玉眼は水晶玉。裏側に眼を書き入れているという。

光りが当たれば瞳のように映し出される。

それ以前の平安時代は彫眼。

平安末期から前期鎌倉時代に見られる造りだそうだ。

文殊菩薩の特徴はもう一つある寄木造り。

初めは繰り抜きの一本造り。

それは年々の経過においてひび割れが発生する。

中刳りをしてひび割れを防いでいた。

その後に寄木の技術が開発された。

いくつかの木を合わせて造る。

分業体制で造って組み合わせた寄木。

東大寺の仁王さんが有名。

作風にそれぞれの派風が見られるぜんぱ(善派)、けいは(慶派)、えんぱ(円派)、いんぱ(院派)の四派。

円派、院派は京都を本拠地とする貴族依頼の仏像造り。

奈良を本拠地としたが善派と慶派。

善派は西大寺中興の祖である叡尊と親しい間柄。

慶派は南都復興造仏に活躍した。

文殊菩薩には残される名がなかっただけに断定はできないが、おそらく善派であろうと長田先生は語る。

善円、善慶は同一人物であるかも知れないと但し書き。

おそらく途中で名替えをしたのではと話す。

その息子が善春。

造仏は善春であったろうと・・・。

鎌倉時代に活躍した興正菩薩叡尊。

生まれは同市の白土町だ。

三宅町の屏風に生まれた忍性との関わりがあった。

その忍性の墓塔が西町から東へ数百メートルの鎌倉墓にある。

額田部町だ。

平安時代は仏教が形骸化した。

お釈迦さんの教えが退廃した末法思想の時代。

仏教を再興した叡尊は亡くなられてから興正菩薩の名がついた。

その弟子に忍性がいる。

忍性は文殊菩薩を信仰した。

二人が共にになって文殊菩薩、特に世の中で貧しく心の病いに苦しむ人々を。

宗教を通じて病める人や貧しい人の化身とされた文殊菩薩の信仰を広めた。

解体修理の折りに獅子の胎内から発見された印仏は671枚。

大勢の人たちが銭を出し合ってこしらえた文殊菩薩であった。

名前が書かれ印仏札はコヨリで綴じられていた。

表に「帰命三宝海覚母妙吉祥堅求大善堤広度貧賤類」とあったそうだ。

「覚母」が文殊さんであると語られた。

話題は替ってお堂西側にある地蔵さん。

地蔵さんと思っていた石仏は阿弥陀さんだと先生は云う。

頭に長い髪があったと思われる石仏は鎌倉時代後期の作風。

大昔、墓地から寄せられたときに誤ったのではないかと話す村人。

今夏の地蔵盆には元に戻しておかねばと話す。

もう一つの石の話題。

戎子神社に狛犬がある。

製作者の名は見られないが作風から「佐吉」の作であろうという。

狛犬は奥目で尾がごつい。

頭が平らで流れ毛。

深い刀剣彫りで台座に四方線刻がある。

角は面取りされた縁取り。

断定はできないがその特徴から佐吉の作ではないかと話す。

奈良県下における狛犬を調べた長田先生。

佐吉は大阪住とも言われているが但馬であったろう。

佐吉の師匠が住んでいたのが丹波・但馬は兵庫県。

名高い竹田城の地で生まれたとされる佐吉。

それゆえに丹波佐吉の称される。

江戸時代の最後の天皇から日本一だと認められた石の尺八を製作した佐吉は「照信」。

花押も残されていると語った西町の石の文化財。

ありがたく聴講させていただいた機会に記しておく。

(H24. 2.25 EOS40D撮影)

西町良福寺文殊堂文殊会式

2012年04月14日 08時56分02秒 | 大和郡山市へ
地区の人たちによって良福寺跡地に建立された三間四方の文殊堂がある大和郡山市の西町。

堂内には平成4年に奈良県の文化財に指定された木造文殊菩薩騎獅像が安置されている。

13世紀前半、鎌倉時代に製作された像は寄木造りだそうだ。

解体修理の折りに発見された印仏<いんぶつ>。

裏面には一紙一名ごとに造像にかかわった結縁者<けちえんしゃ>の名前が記されていると話す当屋頭のIさんとT自治会長。

それは671枚にもおよぶ文殊菩薩の刷り仏であった。

大切な文殊菩薩を慕って毎年この日に文殊会を営んでいる。

それぞれの家が供えるゴクモチがある。

緑、黄、赤の色粉で染めたゴクモチ。カラフルで実に美しいモチだ。

コジュウタや丸盆などに納めて祭壇に供える。

誰が供えたものか記名された札も見られる。

もう一つはゴゼン(御膳)とよばれる膳だ。

これには大御膳と小御膳がある。

お椀に盛ったセキハン(赤飯)と土台のダイコンに串で挿したニンジン、コンブ、シイタケ、コーヤなど。

盛る量によって大、小がある御膳はいわゆる生御膳だ。

「仏さんに食べてもらうのだ」と話すTさん夫妻。

供える家は少なくなったが今でもこうしているという。

さて、文殊会に供える大きなモチがある。

大きなモチといってもそれは多数のモチを串にさしたもの。

壺、或いは甕(カメ)のようなもので高さは1mを越える巨大な形だ。

かつては5日間もかけて作ったという。

集会所で2石のモチゴメを洗って搗いた。

数が多いだけに日数がそれほど要ったそうだ。

搗いたモチは丸餅。

ゴクモチと同様に色粉を塗った。

それをワラ束で作った土台に串で挿していた。

手間がかかる作業はたいそうだったという。

若い人が村をでていき地区は高齢化世帯になっていった。

60歳以上の家が4割にも達したという。

続けることが困難になり、毎年同じものを作るのが難しくなったから「いっそのことレプリカでしてはどうか」と10年ほど前にはプラスチック製にしたそうだ。

見かけだけになった御供モチは正面だけ。

裏半分は空洞だが壺首に紅白の太い綱を巻いている。

その美しい姿に感動を覚える。

御供モチを作ることはなくなったが文殊会を務めるのは4人の当屋。

西町は48戸。新興住宅の10軒を除けば38戸。

家の順にある4軒がその年の当屋(当家)を務める。

体力的にも当屋がこなせない年寄りは従事できないが、およそ8年ごとの回りである。

なお、服忌でれば決まっている次年度の当屋に替るそうだ。

当屋は地区の年中行事を担っていることから戎子神社や地蔵尊、お釈迦さんの行事も含まれる。

4人の当屋はそれぞれの行事に当屋頭を交替して務められる旧村の営み。

昨年の大晦日に拝見した神社拝殿前の桶。

大正八年に寄進された桶について尋ねてみた。

それは「お神酒を入れて注いだ」という人もおれば「賽銭入れかもしれん」という人も。

用途は判らないが秋のマツリにも掲げているという。

その様子は実際に拝見しなければならないと思った。

文殊会が営まれるお堂には車輪と思える紋がはいった大きな幕を張る。

菊の文様が描かれた提灯を掲げる。

それを見たとき思った。

幕の文様は白地が反転していたのでそう思ったのだが、まぎれもない菊の文様だった。

本尊の文殊菩薩の前には2基の燭台がある。

円形の燭台の数はいずれも13個だ。

十三仏を現しているのだろうか。



それはともかく、その前の敷物には多数の祝儀袋が寄せられている。

「十二燈」と「宮入料」の文字が見える。

賽銭も撒かれている場だ。

「十二燈」は一年間の月の数。

毎月あげられる燈明代であろうか。

村人に尋ねても明快な答えはないが、おそらくそうであろう。

もう一つの「宮入料」は10月に行われる宮入り料だという。

戎子神社の秋のマツリに際しての祝儀であろうか。

「十二燈」はすべての祝儀袋に書かれているが、稀に「宮入料」の文字も連記している袋もある。

その数はほぼ半数だった。

この件についてもマツリを実見しなければ・・と思った。



文殊会は同町の光専寺を兼任される南井町の順教寺住職が勤められる。

お経が唱えられる文殊会の法要。

お供えといい、まさしく会式である。

お堂に上がることもできなくて、回廊に座らなければならないほどにお堂は狭い。

お経が唱えられる間にローソクを燈す当屋。

これが「十二燈」の一つに数えられるのだろうか。

その様相は荘厳な灯りでお堂を包んでいる。

降っている外の雨がお堂の屋根をしっとりと塗らす。

こうして会式の法要はおよそ30分で終えた。

この後は集会所でミニ講演会が催された。

それを終えたときだ。

次年度の当屋にあたる4人が集まってクジを引いた。

3月のお釈迦さん、7月の地蔵盆、10月の秋のマツリ、2月の文殊会式の4行事にあたる当屋頭を決めるクジである。

4人は西町の年中行事を務める当屋たち。

それぞれの代表者になるわけだが、会計報告を纏めなければならない最終の文殊会式が大役になるという。

そういうわけで当屋が務める期間は2月27日から翌年の2月25日までとなる。

(H24. 2.25 EOS40D撮影)

大君の十九夜講

2012年04月13日 08時04分53秒 | 山添村へ
安政二年(1855)の十九夜念仏の和讃本が伝わっているという山添村桐山の大君(おおきみ)。

戦時中に中断したこともあったが、戦後に復活して今でも継続している大君の十九夜講は同村垣内の和田や大久保では見られない。

また、隣村の室津(薬音寺跡・文化12年)、峯寺(六所神社・文政10年6月)、的野(常照院・享和2年3月)には如意輪観音の石像(十九夜塔)があるものの、これらの地区ではいずれも講の存在がないそうだ。

9軒もあった大君の十九夜講は徐々に離脱され7軒で行われていた。

それも近年になり6軒となった。

現在の大君は9戸だが、その内の6戸によって営まれている。

かつては2月と12月の19日に行われていた十九夜講。

現在は2月の一日だけになった。

安産の神さん、子供を守る神さんだと云って女性たちで営む講は親しみを込めて「十九夜さん」とも呼ぶ。

十九夜さんの夜はヤドにあたった家で営まれる。

イロゴハン、茶がゆにマメやコンニャク、ゼンマイなどを炊いていた。

昭和63年に発刊された『布目ダム水没関係地文化財調査報告書(石造品調査)』によればカヤクゴハン、コンニャクの白和え、ニンジン、ゴボウ、カマボコ煮しめ、豆腐汁だった講の夜食。

料理をこしらえるのはヤドの家であった。

それが講中共同で作るようになった。

それも替っていつしか元に戻ってヤドの家人が作るようになった。

それも束の間、料理を作るのがたいそうになって現在はお茶菓子だけになった。

数年前のことだとNさんは話す。

なにかと忙しい主婦でもある婦人たち。

「寒いのはかなわん、ヤドで勤めるのがたいそうだ」の声も出だした。

「いっそのこと和田垣内の観音寺にしてはどうか」の意見もでた。

桐山の寺檀家とも協議した結果、この年からお勤めの場を観音寺に移された。

同寺は桐山地区の観音講の方たちがお勤めをする寺だ。

毎月18日(今年は服忌で日程を22日に)は観音講の日。

そのお勤めを終えたあとは、大君の十九夜講中が居残って十九夜さんを営む。



堂内の柱に掲げた如意輪観音さんの掛け図。

紐を掛ける位置は高い。

それは涅槃会の際に掛けられる涅槃図の位置。

掲げた掛け図は天井に届くぐらいの位置になった。

如意輪観音の掛け図の一部が剥がれそうだったことから新しく表装(押上町の表具店)し直した。

とはいっても25年ぐらい前のこと。

ローソクに火を灯して十九夜念仏の和讃を唱える。

Nさんが所持している『十九夜念佛同観世音念佛』の和讃本は昭和59年甲子十二月と記されている。

当時は12月も営まれていた証しである。

そのことは一様に「30年ほど前にはしていた」と口々に云った講中の記憶と一致するのであった。

一節ごとに鉦を打って唱えた念仏は、ゆったりとした調子でおよそ12分。

大君の和讃は二つある。

一つは「十九夜念佛」であって、二つ目が「二月観世音十九夜念佛」である。

始まりは調子が合わなかったが、数節を唱えている間に合ってきた。

この日は5人。

年配の婦人も声を合わして同調する。



鉦の音に柔らかな声で唱える婦人たちの和讃は一曲目に続いて二曲目も唱えられた。

大君には「十三佛」念仏もあるが、この日は唱えることなく終えた。

夜間から昼間に移った十九夜講。

十九夜さんの日はヤドにあたった家で料理をこしらえていた。

「じゅうくやをたかしてもらうから」と言って講中に伝えたとNさんは話す。

「たかして」というのは「炊かして」ということであろう。

十九夜さんの和讃を唱えているのは高齢の婦人たちだ。

「嫁いじりで悪口言うて、発散していた」という。

お家のことは家では話せない。

一年に一度の寄り合いでしゃべりまくるそうだが、「実際はお嫁さんの悪口なんぞは話していないんよ」と話す。

<昭和三十五年二月十九日 十九夜念佛>
「きみよう ちよらい 十九やの
 ゆらいを くわしく たづぬれば
 によいりん ぼさつの せいくゎんに
 あめのふるよも ふらぬよも
 いかなる志んの くらきよも
 いとわず たがはず けだいなく
 とらの二月十九日
 十九や ねんぶつ は志゛まりて
 十九や ねんぶつ もうすなら
 ずいぶん あらたに 志ゃう志゛んし
 どう志゛ゃう そうぢの ふだをうけ
 せいして どふ志゛ゃうへ ゆくうちは
 みようほふれんげの はなさいて
 志゛っぽう はる可に 志づまりて
 ふきくるかぜも おだや可に
 てんより によいりんくゎんのんの
 たまの てんがい さし可けて
 八万 よ志゛ゅんの ちのいけも
 かすかないけと みてとふる
 六くゎんのんの そのうちに
 によいりんぼさツの おん志゛ひに
 あまねく 志ゆうしょを すくはんと
 六どふ 志ゅう志やらに おたちあり
 かなしき にょにんの あわれさは
 けさまで すみし かはにごり
 ばんぜがした みいのみヅも
 すゝいで こぼす たつときは
 てんも ぢ志゛んも すいじんも
 ゆるさせたまへや くゎんぜおん
 十九や みどふへ いる人は
 ながき さんづの くをのがれ
 ごくらくじゃうどへ らいすれば
 まんだがいけの どふ志゛ゃうも
 いつか こゝろ可゛ うツりけれ
 わがみは ともあれ かくもあり
 によんのおやたち ありありと
 すくわせたまへや くゎんぜおん
 そくしん志゛ゃうぶつ なむあみだぶつや なむあみだぶつや」

(次に二月観世音十九夜念佛と思われる第二念佛が続く)
「きミやうちうらい くわんぜおん
 いツさいに にょらいの だいじひを
 あつめてひとつに つ可さどり
 ちのいけぢごくに ましまさば
 にょいりんぼさツと なづけたり
 みなこれ にょにんの のがれなき
 月に一どの ふ志゛うすい
 ながすに ぢ志んの とがめあり
 いづくに すつべき とちもなし
 さんあくごう可゛ よすてみれば
 ぼさつに そのみヅ くようして
 けがせる つみとが いかばより
 たまりつもりて いけとなり
 ちごくに なづけて けつほんし
 そのいけ よこたツ そのふ可さ
 おのおの 八万 よぢゆんにて
 あのあのなかに おちいる さいにんな
 志ゃばにて に志きに ツゝまれし
 大じんがうけの きたのかた
 さい志゛ゃうごくしの るひめも
 やまつ とみんの つまこまで
 たがいに みかわす かおとかお
 ち志をの なみだに かきくれて
 かなしや 一どに こへをあげ
 志ゃばの つまこの なをよべば
 こくそつき志゛んの ほ可なれば
 さらに といくる人ぞなき
 ごくそツき志゛んの うつろへに
 ひにくは やふれて ほねくだけ
 なげきかなしむ ありさまは
 めもあてられむ 志だいなり
 そのときたれをか たのむべき
 大じ大ひと とのふれば
 にょいりんぼさつの 志ょうけにて
 ちのいけぢごくの くをのがれ
 はちすの うてなに なにのるぞ
 のるぞ うれしや なむあみだぶつや」

<昭和五十九年甲子十二月 十九夜念佛同観世音念佛>
「帰命頂礼(きみょうちようらい) 十九夜の
 由来(ゆらい)を 詳(くわ)しく 尋(たず)ぬれば
 如意輪菩薩(によいりんぼさつ)の 誓願(せいがん)に
 雨の降る夜も 降らぬ夜も
 いかなる真(しん)の 闇(くら)き夜も
 いとわず違(たが)わず 懈怠(けたい)なく
 十九夜御堂(みどう)へ参るべし
 寅の二月十九日
 十九夜念佛 始まりて
 十九夜念佛 申すなら
 随分(ずいぶん)改(あらた)め 精進(しょうじん)し
 道場(どうじょう) そふじの札を受け
 誓(せい)して浄土へ 往(ゆ)く上は
 妙法蓮華(みょうほうれんげ)の 花咲いて
 十方(じゅっぽう)遥かに 静まりて
 吹きくる風も 穏(おだ)やかに
 天より如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)の
 玉(たま)の 天蓋(てんがい) 差(さ)し掛けて
 八万余旬(よじゅん)の 血の池も
 かすかな 池を見て通る
 六(ろく)観音の そのうちに
 如意輪菩薩(によいりんぼさつ)の おん慈悲(じひ)に
 普(あまね)く 衆生(しゅじょう)を 救(すく)わんと
 六道(ろくどう)衆生に お立ちあり
 悲しき女人の 哀(あわ)れさは
 今朝(けさ)まで 澄(す)みし 河濁(にご)り
 ばんぜが下の 井の水も
 すすいでこぼす 経(た)つ時は
 天も地神(じしん)も 水神(すいじん)も
 許させ給えや 観世音
 十九夜御堂(みどう)へ 入(い)る人は
 長き三途(さんづ)の 苦(く)を逃れ
 極楽浄土へ らい(はい)すれば
 まんだが池の 道場(どうじょう)も
 いつか心が 映(うつ)りけれ
 我が身はともあれ かくもあれ
 二人(ににん)の親たち ありありと
 救わせ給えや 観世音
 即身成佛(そくしんじょうぶつ) 南無阿弥陀
 南無阿弥陀佛や 南無阿弥陀佛や
 如来正涅槃(しょうねはん) よだんおしいしん 即徳無量楽(そくとくむりょうらく)」

<二月観世音十九夜念佛>(第二念佛)
「帰命頂礼 観世音
 一切 如来の 大慈悲を
 集めて ひとつに 司り
 血の池 地獄に ましませ(さ)ば
 如意輪菩薩と 名付けたり
 皆され 女人の 逃れなき
 月に一度の 不浄水
 流すに 地神の 咎めあり
 何処(いずく)に 捨つべき 土地もなし
 三悪業河(ごうが)に 捨てみれば
 菩薩に その水供養(くよう)して
 汚(けが)せる 罪科((つきとが) いかばかり
 溜(たま)り 積(つも)りて 池となり
 地獄に なづけて 血盆(けつぼん)し
 その池 横堅(よこたつ) その深さ
 おのおの八万 余旬(よじゅん)にて
 あの苦中(くなか)に 落ち入る 罪人な
 娑婆(しゃば)で 錦(にしき)に 包まれて(し)
 大臣 高家(こうけ)の 北(きた)の方(かた)
 さいじょごくしの 瑠璃姫(るりひめ)も
 山がつ土民(どみん)の 妻子(つまこ)まで
 互(たが)いに 見交(みかわ)す 顔と顔
 血汐(ちしお)の 涙にかきくれて
 悲しや一同 声をあげ
 娑婆(しゃば)の 妻子(つまこ)の 名を呼べば
 獄卒(ごくそつ)鬼神(きじん)の 外(ほか)なれば
 さらに訪(と)い来(く)る 人ぞなし
 獄卒(ごくそつ)鬼神(きじん)の 打つ杖(つえ)に
 皮肉(ひにく)は破(やぶ)れ 骨(ほね)砕(くだ)け
 歎(なげ)き悲しむ ありさまは
 目も当てられぬ 次第(しだい)なり
 その時 誰(たれ)をか 頼(たの)むべし
 大慈(じ)大悲(ひ)と 唱(とな)ふ(ゆ)れば
 如意輪菩薩の 所行にて 血の池 地獄の 苦(く)を逃(のが)れ
 蓮(はちす)の 台(うてな)に なに乗るぞ
 乗るぞうれしや なむあみだ佛 なむあみだ佛 なむあみだ佛 なむあみだ佛)」

<十三佛>
「南無大聖不動明王 御真言 のうまく さんまんだ ばさら だんかん
南無釈迦牟尼佛  のうまく さんまんだ ぼだ なんばく
南無文殊大菩薩 おんあらはしゃのう
南無普賢大菩薩 おんさんまや ざとばん
南無地蔵大菩薩 おんかかか びさんま えいそわか
南無弥勒大菩薩 おんばいた れいやそわか
南無薬師瑠璃光如来 おんころころ せんだりまとうぎそわか
南無観世音菩薩 おんあろきゃ そわか
南無勢至大菩薩 おんさんさん さくそわか
南無阿弥陀如来 おんあみりたてい せいからうん
南無阿閦如来 おんあきしゅびやうん
南無大日如来 のうまく さんまんだ ばさらだ せんだんまかしゃく だんそわか
南無虚蔵大菩薩 のうぼうあきゃしゃ ざやらばや おんありきや まりぼそわか
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛

日れ(り)ん(輪)様 のうまく さんまんだ ぼだ なんあにちや そわか
月様 のうさん まんだ ぼだ なんせんだらや そわか」

大君には「うるん講」もあるという。

かつては紅白の幕を張ったヤドですき焼きして食べていた。

家で飼っていたニワトリをつぶして食事に出したという。

サバの寿司もあったし、タニシ(田螺)の田楽も食べていたという「うるん講」は子供も一緒で家族総出だったそうだ。

ヤドに負担がかかるようになってからはバス旅行。

30人にもなるからバス一台を貸し切り。

知多半島の日間賀島まで行ったこともあるという。

(H24. 2.22 EOS40D撮影)

桐山の二月観音講

2012年04月12日 06時42分18秒 | 山添村へ
村内に服忌あったことから数日ずらして行われた山添村桐山の観音講。

「4月、5月は春休み。9月は彼岸もあって何かと忙しい」と言って休んでいるが、毎月18日がお勤めの日。

垣内の和田、大君(おおきみ)、大久保から婦人たちが観音寺に集まってくる。

そこには男性が一人。

同寺の檀家総代である。

講中の世話人をしているという。

いつもの通り、境内を清掃してから始まる観音講。

勤行を始めるにあたって新総代からの報告を受ける講中。

今回のお勤めは8人が堂内にあがった。

導師は総代の男性が務める。

本尊に向かって般若心経を唱える。

回りを囲む婦人たち。

新米だからと婦人が助け舟をかってでてバチでキンを叩く。

お勤めの念仏は「三信条」、「仏前勤行次第」、「般若心経」、「十三仏真言」、「光明真言」を経て「回向」で終えた。

お供えを分配してそれぞれが持ち帰る。

翌月の3月末には観音寺で「涅槃講」が営まれる桐山。

「ネハンコンジ アズキナナショウ」と囃して村を巡る子供たち。

お米をもらいに村を回っていく。

年少の子供は5歳ぐらいで、年長は小学6年生までの男の子。

その年長の家が当番にあたっていた。

その家でゲントウ(幻燈)をして、みんなで見ていたと話す。

それは70年も前のこと。

現在は幼稚園や保育所の関係をとりもつことから、寺総代が教育関係者と日程を調整されて実施するという。

(H24. 2.22 EOS40D撮影)

36年目の新のり弁当

2012年04月11日 06時46分21秒 | あれこれテイクアウト
2月期間中いっぱいに「ほっかほっか亭(1978年設立)」で販売されている新のり弁当。

期間限定で290円を割り引いて260円。

36年目というから二十歳代半ばのころだ。

当時の価格は忘れてしまったが持ち帰り弁当の草分けだった「ほっかほっか亭」。

略して「ほか弁」の弁当をしょっちゅう食べていた。

盛ったごはんに2枚の大きな海苔。

これがたまらんかった。

敷き詰められた海苔下には花鰹があったと思う。

それだけでごはんを食べきってしまうのに、白み魚のフライにチクワの磯辺あげもついていた。

シャケ弁当も食べていたが、のり弁をついつい注文していたことを思い出す。

いつしかのり弁は買わなくなったのはスペシャル版とか惣菜がにぎやかに盛りつけされて価格帯が移っていったからだ。

手軽に買える、食べる。

それが始まりだったと思うのだが、この日に買っていくお客さんはスペシャルが多い。

そういや「本家かまどや(1980年設立)」ののり弁は300円とくる。

1990年代からコンビニに始まりスーパーでも売られている弁当は電子レンジでチン。

ほか弁は温かごはんに出来立て惣菜。

だんぜんに美味さが違う。

久しぶりの味に堪能した。

花かつおに特製だし醤油ごはん、有明海苔、ちくわ天を盛りつけしたのり弁の創業価格祭は美味か弁当だった。



(H24. 2.22 SB932SH撮影)

その味が忘れられなくて、一週間後にまたもや買ったのり弁。

注文したわけでもないのに出てきたのは海苔無しのり弁。

交換するのも面倒なのでそのままいただいた。

これも美味い。

おそらく出汁が利いているのだろう。

海苔がなくてものり弁当は例えようがないほどに美味い。



ちなみにのり弁当にある魚フライ。

なんの魚なんでしょうか。

判らないが単品なら90円だ。

ちなみにキンピラゴゴボウは50円で販売されている。

(H24. 2.29 SB932SH撮影)