安政二年(1855)の十九夜念仏の和讃本が伝わっているという山添村桐山の大君(おおきみ)。
戦時中に中断したこともあったが、戦後に復活して今でも継続している大君の十九夜講は同村垣内の和田や大久保では見られない。
また、隣村の室津(薬音寺跡・文化12年)、峯寺(六所神社・文政10年6月)、的野(常照院・享和2年3月)には如意輪観音の石像(十九夜塔)があるものの、これらの地区ではいずれも講の存在がないそうだ。
9軒もあった大君の十九夜講は徐々に離脱され7軒で行われていた。
それも近年になり6軒となった。
現在の大君は9戸だが、その内の6戸によって営まれている。
かつては2月と12月の19日に行われていた十九夜講。
現在は2月の一日だけになった。
安産の神さん、子供を守る神さんだと云って女性たちで営む講は親しみを込めて「十九夜さん」とも呼ぶ。
十九夜さんの夜はヤドにあたった家で営まれる。
イロゴハン、茶がゆにマメやコンニャク、ゼンマイなどを炊いていた。
昭和63年に発刊された『布目ダム水没関係地文化財調査報告書(石造品調査)』によればカヤクゴハン、コンニャクの白和え、ニンジン、ゴボウ、カマボコ煮しめ、豆腐汁だった講の夜食。
料理をこしらえるのはヤドの家であった。
それが講中共同で作るようになった。
それも替っていつしか元に戻ってヤドの家人が作るようになった。
それも束の間、料理を作るのがたいそうになって現在はお茶菓子だけになった。
数年前のことだとNさんは話す。
なにかと忙しい主婦でもある婦人たち。
「寒いのはかなわん、ヤドで勤めるのがたいそうだ」の声も出だした。
「いっそのこと和田垣内の観音寺にしてはどうか」の意見もでた。
桐山の寺檀家とも協議した結果、この年からお勤めの場を観音寺に移された。
同寺は桐山地区の観音講の方たちがお勤めをする寺だ。
毎月18日(今年は服忌で日程を22日に)は観音講の日。
そのお勤めを終えたあとは、大君の十九夜講中が居残って十九夜さんを営む。
堂内の柱に掲げた如意輪観音さんの掛け図。
紐を掛ける位置は高い。
それは涅槃会の際に掛けられる涅槃図の位置。
掲げた掛け図は天井に届くぐらいの位置になった。
如意輪観音の掛け図の一部が剥がれそうだったことから新しく表装(押上町の表具店)し直した。
とはいっても25年ぐらい前のこと。
ローソクに火を灯して十九夜念仏の和讃を唱える。
Nさんが所持している『十九夜念佛同観世音念佛』の和讃本は昭和59年甲子十二月と記されている。
当時は12月も営まれていた証しである。
そのことは一様に「30年ほど前にはしていた」と口々に云った講中の記憶と一致するのであった。
一節ごとに鉦を打って唱えた念仏は、ゆったりとした調子でおよそ12分。
大君の和讃は二つある。
一つは「十九夜念佛」であって、二つ目が「二月観世音十九夜念佛」である。
始まりは調子が合わなかったが、数節を唱えている間に合ってきた。
この日は5人。
年配の婦人も声を合わして同調する。
鉦の音に柔らかな声で唱える婦人たちの和讃は一曲目に続いて二曲目も唱えられた。
大君には「十三佛」念仏もあるが、この日は唱えることなく終えた。
夜間から昼間に移った十九夜講。
十九夜さんの日はヤドにあたった家で料理をこしらえていた。
「じゅうくやをたかしてもらうから」と言って講中に伝えたとNさんは話す。
「たかして」というのは「炊かして」ということであろう。
十九夜さんの和讃を唱えているのは高齢の婦人たちだ。
「嫁いじりで悪口言うて、発散していた」という。
お家のことは家では話せない。
一年に一度の寄り合いでしゃべりまくるそうだが、「実際はお嫁さんの悪口なんぞは話していないんよ」と話す。
<昭和三十五年二月十九日 十九夜念佛>
「きみよう ちよらい 十九やの
ゆらいを くわしく たづぬれば
によいりん ぼさつの せいくゎんに
あめのふるよも ふらぬよも
いかなる志んの くらきよも
いとわず たがはず けだいなく
とらの二月十九日
十九や ねんぶつ は志゛まりて
十九や ねんぶつ もうすなら
ずいぶん あらたに 志ゃう志゛んし
どう志゛ゃう そうぢの ふだをうけ
せいして どふ志゛ゃうへ ゆくうちは
みようほふれんげの はなさいて
志゛っぽう はる可に 志づまりて
ふきくるかぜも おだや可に
てんより によいりんくゎんのんの
たまの てんがい さし可けて
八万 よ志゛ゅんの ちのいけも
かすかないけと みてとふる
六くゎんのんの そのうちに
によいりんぼさツの おん志゛ひに
あまねく 志ゆうしょを すくはんと
六どふ 志ゅう志やらに おたちあり
かなしき にょにんの あわれさは
けさまで すみし かはにごり
ばんぜがした みいのみヅも
すゝいで こぼす たつときは
てんも ぢ志゛んも すいじんも
ゆるさせたまへや くゎんぜおん
十九や みどふへ いる人は
ながき さんづの くをのがれ
ごくらくじゃうどへ らいすれば
まんだがいけの どふ志゛ゃうも
いつか こゝろ可゛ うツりけれ
わがみは ともあれ かくもあり
によんのおやたち ありありと
すくわせたまへや くゎんぜおん
そくしん志゛ゃうぶつ なむあみだぶつや なむあみだぶつや」
(次に二月観世音十九夜念佛と思われる第二念佛が続く)
「きミやうちうらい くわんぜおん
いツさいに にょらいの だいじひを
あつめてひとつに つ可さどり
ちのいけぢごくに ましまさば
にょいりんぼさツと なづけたり
みなこれ にょにんの のがれなき
月に一どの ふ志゛うすい
ながすに ぢ志んの とがめあり
いづくに すつべき とちもなし
さんあくごう可゛ よすてみれば
ぼさつに そのみヅ くようして
けがせる つみとが いかばより
たまりつもりて いけとなり
ちごくに なづけて けつほんし
そのいけ よこたツ そのふ可さ
おのおの 八万 よぢゆんにて
あのあのなかに おちいる さいにんな
志ゃばにて に志きに ツゝまれし
大じんがうけの きたのかた
さい志゛ゃうごくしの るひめも
やまつ とみんの つまこまで
たがいに みかわす かおとかお
ち志をの なみだに かきくれて
かなしや 一どに こへをあげ
志ゃばの つまこの なをよべば
こくそつき志゛んの ほ可なれば
さらに といくる人ぞなき
ごくそツき志゛んの うつろへに
ひにくは やふれて ほねくだけ
なげきかなしむ ありさまは
めもあてられむ 志だいなり
そのときたれをか たのむべき
大じ大ひと とのふれば
にょいりんぼさつの 志ょうけにて
ちのいけぢごくの くをのがれ
はちすの うてなに なにのるぞ
のるぞ うれしや なむあみだぶつや」
<昭和五十九年甲子十二月 十九夜念佛同観世音念佛>
「帰命頂礼(きみょうちようらい) 十九夜の
由来(ゆらい)を 詳(くわ)しく 尋(たず)ぬれば
如意輪菩薩(によいりんぼさつ)の 誓願(せいがん)に
雨の降る夜も 降らぬ夜も
いかなる真(しん)の 闇(くら)き夜も
いとわず違(たが)わず 懈怠(けたい)なく
十九夜御堂(みどう)へ参るべし
寅の二月十九日
十九夜念佛 始まりて
十九夜念佛 申すなら
随分(ずいぶん)改(あらた)め 精進(しょうじん)し
道場(どうじょう) そふじの札を受け
誓(せい)して浄土へ 往(ゆ)く上は
妙法蓮華(みょうほうれんげ)の 花咲いて
十方(じゅっぽう)遥かに 静まりて
吹きくる風も 穏(おだ)やかに
天より如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)の
玉(たま)の 天蓋(てんがい) 差(さ)し掛けて
八万余旬(よじゅん)の 血の池も
かすかな 池を見て通る
六(ろく)観音の そのうちに
如意輪菩薩(によいりんぼさつ)の おん慈悲(じひ)に
普(あまね)く 衆生(しゅじょう)を 救(すく)わんと
六道(ろくどう)衆生に お立ちあり
悲しき女人の 哀(あわ)れさは
今朝(けさ)まで 澄(す)みし 河濁(にご)り
ばんぜが下の 井の水も
すすいでこぼす 経(た)つ時は
天も地神(じしん)も 水神(すいじん)も
許させ給えや 観世音
十九夜御堂(みどう)へ 入(い)る人は
長き三途(さんづ)の 苦(く)を逃れ
極楽浄土へ らい(はい)すれば
まんだが池の 道場(どうじょう)も
いつか心が 映(うつ)りけれ
我が身はともあれ かくもあれ
二人(ににん)の親たち ありありと
救わせ給えや 観世音
即身成佛(そくしんじょうぶつ) 南無阿弥陀
南無阿弥陀佛や 南無阿弥陀佛や
如来正涅槃(しょうねはん) よだんおしいしん 即徳無量楽(そくとくむりょうらく)」
<二月観世音十九夜念佛>(第二念佛)
「帰命頂礼 観世音
一切 如来の 大慈悲を
集めて ひとつに 司り
血の池 地獄に ましませ(さ)ば
如意輪菩薩と 名付けたり
皆され 女人の 逃れなき
月に一度の 不浄水
流すに 地神の 咎めあり
何処(いずく)に 捨つべき 土地もなし
三悪業河(ごうが)に 捨てみれば
菩薩に その水供養(くよう)して
汚(けが)せる 罪科((つきとが) いかばかり
溜(たま)り 積(つも)りて 池となり
地獄に なづけて 血盆(けつぼん)し
その池 横堅(よこたつ) その深さ
おのおの八万 余旬(よじゅん)にて
あの苦中(くなか)に 落ち入る 罪人な
娑婆(しゃば)で 錦(にしき)に 包まれて(し)
大臣 高家(こうけ)の 北(きた)の方(かた)
さいじょごくしの 瑠璃姫(るりひめ)も
山がつ土民(どみん)の 妻子(つまこ)まで
互(たが)いに 見交(みかわ)す 顔と顔
血汐(ちしお)の 涙にかきくれて
悲しや一同 声をあげ
娑婆(しゃば)の 妻子(つまこ)の 名を呼べば
獄卒(ごくそつ)鬼神(きじん)の 外(ほか)なれば
さらに訪(と)い来(く)る 人ぞなし
獄卒(ごくそつ)鬼神(きじん)の 打つ杖(つえ)に
皮肉(ひにく)は破(やぶ)れ 骨(ほね)砕(くだ)け
歎(なげ)き悲しむ ありさまは
目も当てられぬ 次第(しだい)なり
その時 誰(たれ)をか 頼(たの)むべし
大慈(じ)大悲(ひ)と 唱(とな)ふ(ゆ)れば
如意輪菩薩の 所行にて 血の池 地獄の 苦(く)を逃(のが)れ
蓮(はちす)の 台(うてな)に なに乗るぞ
乗るぞうれしや なむあみだ佛 なむあみだ佛 なむあみだ佛 なむあみだ佛)」
<十三佛>
「南無大聖不動明王 御真言 のうまく さんまんだ ばさら だんかん
南無釈迦牟尼佛 のうまく さんまんだ ぼだ なんばく
南無文殊大菩薩 おんあらはしゃのう
南無普賢大菩薩 おんさんまや ざとばん
南無地蔵大菩薩 おんかかか びさんま えいそわか
南無弥勒大菩薩 おんばいた れいやそわか
南無薬師瑠璃光如来 おんころころ せんだりまとうぎそわか
南無観世音菩薩 おんあろきゃ そわか
南無勢至大菩薩 おんさんさん さくそわか
南無阿弥陀如来 おんあみりたてい せいからうん
南無阿閦如来 おんあきしゅびやうん
南無大日如来 のうまく さんまんだ ばさらだ せんだんまかしゃく だんそわか
南無虚蔵大菩薩 のうぼうあきゃしゃ ざやらばや おんありきや まりぼそわか
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
日れ(り)ん(輪)様 のうまく さんまんだ ぼだ なんあにちや そわか
月様 のうさん まんだ ぼだ なんせんだらや そわか」
大君には「うるん講」もあるという。
かつては紅白の幕を張ったヤドですき焼きして食べていた。
家で飼っていたニワトリをつぶして食事に出したという。
サバの寿司もあったし、タニシ(田螺)の田楽も食べていたという「うるん講」は子供も一緒で家族総出だったそうだ。
ヤドに負担がかかるようになってからはバス旅行。
30人にもなるからバス一台を貸し切り。
知多半島の日間賀島まで行ったこともあるという。
(H24. 2.22 EOS40D撮影)