マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

街のみなと食堂の海鮮丼

2012年04月10日 08時08分45秒 | 食事が主な周辺をお散歩
「街のみなと食堂」は大紀水産が経営する食事処。

いつもなら新鮮な鮮魚で作られた寿司盛りパック(500円~550円)を買うのだがこの日は久しぶりの外食となった。

海鮮丼が一杯580円。

寿司はいつも食べているので美味いはずだ。

が、丼となればどうなのか。

値段は割安なので小食のかーさんにも合うだろうと味見がてらに奈良市の柏木店に入った。

一杯の丼には二種類ある。

鮮魚が2種類盛りの580円と780円の4種盛りの二つだ。

それぞれを注文した。

鮮魚はその日によって異なるようだ。

量はどちらも変わらないように見えた。

何枚かの薄く切った鮮魚がごはん盛りに載せられている。

丼には一杯の汁椀がつく。

まぁインスタントではないみたいだけど・・・。

2種盛りはハマチとヒラアジだった。



4種盛りはタイ、イカ、スズキ・・・。

お好みの醤油に山葵を溶かしてぶっかける。

たしかに鮮魚は美味いがなにか物足りない。

醤油が少なすぎたのだろうか。

ペロペロと数口で平らげた。



ついでだからと皿に加えたタコのカラアゲは280円。

満足な結果であるが、次回は大きなエビ天が3尾も載せられる580円の大海老天丼にしてみたい。

その丼は量を減らした中丼もある。

値段は380円でも2尾の海老天がつくようだ。

(H24. 2.21 SB932SH撮影)

着々と、大和な雛まつり

2012年04月09日 07時27分18秒 | 大和郡山市へ
私の後任を勤めたMくんが目出度く合格された。

4月には寮入りして就職先の訓練を受けると聞いて立ち寄った元勤め先の市施設の市民交流館。

そこにはお雛さんが飾られていた。

土人形のお雛さんだと思う姿がとても愛らしい。

ミニなお雛さんであっても立派な段飾りだ。



(H24. 2.16 SB932SH撮影)

ここは観光案内もしている市の施設。

2月11日から始まった「大和な雛まつり」は城下町を中心に商店などが雛飾りを展示している。

観光に訪れる人が日増しに増えているという。

どこをどう行けばお雛さんが拝見できるのか、効率的に巡るにはどうしたらいいのかなど問い合わせも多い。

つい、先日に出来上がったばかりの「大和な雛まつり てくてくマップ」で案内しているという。

そんなことでお雛さんを飾ったというのだ。

このお雛さんは同僚の奥さんが手作りされたもの。

自宅にはいっぱいあるのを拝見したとかーさんが言っていた。

初めての城下町ひな祭りに大勢来てくれるのは望ましいことだ。

そういえば市内を闊歩する人がやたらと増えていることに気付く。

ショーウインドウのガラス越しに覗き込むグループ。

マップ片手に歩き回る二人連れ。

雨そぼろ降る日もそんな様子を多く見るようになった城下町の日々。

あちらこちらで雛姿を観賞する。

ところで我が家もお雛さん。

玄関に飾って置いたお雛さんだけど娘はいない。

雛祭りが終わったら早く方付けないと言われるが、そんなの関係ない家庭である。



何時撤去するのだろうか。

旧暦桃の節句であれば、新暦の4月3日までだが・・・果たして。

(H24. 2.19 SB932SH撮影)

中(ノ)川寺跡五輪塔

2012年04月08日 07時33分37秒 | 奈良市(東部)へ
興福寺領であった奈良市中ノ川。

平安時代末期、中川寺成身院によって戒律復興を唱えていたという所縁の跡地。

県道脇から下っていけば五輪塔がある。

実範上人廟塔と伝承されるそうだ。

周囲は奇麗に清掃されてお供えもあった。

石塔巡りをされている人がときおり訪れるらしい。

五人衆の話ではここを「牛塚」と呼ぶそうだが共同墓地であったかも知れない。

そこにも五輪塔があるという。

(H24. 2.18 EOS40D撮影)

中ノ川町観音寺初祈祷

2012年04月07日 08時07分37秒 | 奈良市(東部)へ
春日山から柳生へ向かう街道。

日本最古の歓喜天(かんぎてん)を祀る興福寺別院(歓禅院)があるそうだ。

そこから北へ直線にして1.5km。

かつては興福寺の末寺として栄えたとされる奈良市中ノ川町の観音寺がある。

当屋の五人衆の話では、子供のときに住職が存在していたがいつしか不在となって無住寺。

そのころに途絶えたかどうか判らないが、同寺では毎年の2月18日に十一面悔過法要のオコナイが行われていた。

享和二年(1802)に記された講式によれば初夜道(導)師作法と後夜道(導)師作法の法要が行われていた。

花持・散華、梵音、咒願、念誦発願、應用念誦、大懺悔の後にある乱聲(声)。

いわゆるランジョーの作法だ。

カワヤナギの枝木で縁叩きをした個所だ。

住職が不在となってからは奈良市鳴川町の徳融寺から住職を迎えて法要がなされる。

「かつて東大寺の長老が、中ノ川のオコナイ(初祈祷)は二月堂の修二会と同じ作法でされていたであろうと話していた」と住職は言う。

今年も一年が無病息災、家内安全、五穀豊穣を願う。

日本国で観音さんが一番多いと云う修正会は村々に下りてオコナイと呼ばれるようになった。

観音さんは三十三の姿になって困っている人に、その人に相応しい姿となって願いを叶える。

三十三は数値ではなく無数だという住職の語り。

あらゆる人の修業を救うという。



ランジョーの声を発することなく立つ住職。

それが合図だといってカワヤナギで板を叩く。

二月堂では履いた下駄で床を打つように足音をたてる。

唐招堤寺の餅談義ではシバで地面を叩く。

いずれも悪魔祓いの作法である。

中ノ川ではカワヤナギ叩きとともに太鼓を打ち鳴らしホラ貝を吹く。

大きな音をたてることで村から悪魔を追い払うのである。

初夜道師、後夜道(導)師作法、神名帳の神名発願、佛名、教化、謹奉厳、佛名・教化、教化、讃歎申、諸人勧仕帳・花餅帳、佛名、教化、頭番千年ヲ畳ミ給、神分、祈願大般若経、九條ノ錫杖、佛名、教化、牛王加持、寶印護持発願、乱聲(声)・・・と長々と続く悔過法要。

享和二年の講式と同じようにオコナイをされたかどうか判らなかったがランジョーの作法は3回行われた。

かつては鼓を持って踊っていた。

弓も引いていたという。

それは子供のころのこと。

カワヤナギの縁叩きも経験していたという。

永らく途絶えていたオコナイは復活されて随分と経つ。

大正時代に途絶えたカンコ踊り(雨乞いの太鼓踊り)も復活も願われたが・・・。

こうして長丁場の悔過法要のオコナイを終えると社務所に吊るされた大太鼓をドン、ドンと打ち鳴らす。



村人への合図である。

それを聞いた人たちが一時間後ぐらいに風呂敷を持ってきた。

ゴクサンを風呂敷に包む座の人。

ご加持された牛王札とともに持ち帰るのだ。



お札は苗代作りの際に立てられる。

ツツジやツバキの花を飾って水口の虫除けに挿すのだというが農業を営む人は少ない。

すべての座中が取りにくるまでは座敷で語らい。

女人の入堂は禁じられている。

(H24. 2.18 EOS40D撮影)

中ノ川町観音寺初祈祷の牛王版木刷り

2012年04月06日 06時47分22秒 | 奈良市(東部)へ
初祈祷(オコナイとも)が営まれる前に集まってきた当屋の五人衆。

そこは奈良市中ノ川町の観音寺。

氏神座流の人たちがあがる三社神社社務所に兼用されている建物である。

古くから使われている版木を取り出した。

墨を塗っては刷る道具は長年の使用に黒光りする。

それには「牛王 ○○ 観音寺」と彫られている。

○○は梵字であるだけに判読できない。

刷毛で墨を塗っていく。

かつては摺った墨であったが現在は墨汁だ。

量が多ければ滲むので余分な墨汁は刷毛で拭いとる。

半紙をそろりと上から下す。

そうすれば牛王の文字が現れていく。



20枚ほど摺ったお札に朱印を押す。

場所は三か所だという。

向きは決まっているので見本通りの方向に押していく。

牛の蹄(ひづめ)だという朱印押し。



一枚、一枚丁寧に押していく。

そのお札は竹に挿す。

ネソジクと呼ばれている細い竹だ。

ジクンボとかシノブダケと呼ぶ人も居たがその名は聞いたことがないと反論する当屋頭。

行事資料にもそれは書かれていないとTさんはいう。

ネソジクの先を三つに割いて挿す。

先を広げなければ挿せないから二人がかりの作業である。

中ノ川は戸数20。

その数の枚数を作るが、余分にということで27枚。

座(数え15歳以上の男性)に入っている数だという。

その座中名が記されている木札。

年齢順かと思えばそうではなく座入りした順だ。

その並びで当屋の五人衆が決まる。

つまり行事ごとに五人ずつ移動していくのだ。

当屋は御田祭(初祈祷のこと)と秋のマツリの2行事。

それぞれに五人衆の組み合わせがあるが、若干のズレがあるために両行事とも当たることがあるといい、何時の年度にどちらの当屋を担うのか柱にその名が記されている。

尤も上から順の五人は長老とも呼ばれている中ノ川の座中である。



五人衆は初祈祷に供えるモチも作る。

各戸から集めたモチゴメ。

二合枡で計量して集める米は座の人数分。

穢れのあった家は集めないが総量6升にもなるという。

前日に当屋頭(五人衆の年長者)の家で搗いたモチは2種類。

一つは丸いモチ。半紙の上にヒノキの葉を置く。

お皿のようである。

モチは6段の重ねモチ。

初祈祷というだけに、おそらく花餅(けひょう)であろうがゴクサン(ゴコクとも)と呼んでいる。

もう一つはコジュウタ(コージブタ;麹蓋)いっぱいに敷き詰められた四角いモチ。

キリモチと呼ぶモチは取り出して包丁で切っていく。

四十等分に切り分けるキリモチは男しか食べることができないという。

それを6段重ねのモチの上に乗せていく。



かつては神社に供えたキリモチ。

時代を経て供え方が変化したようだ。

(H24. 2.18 EOS40D撮影)

楢町カボチャ薬師

2012年04月05日 06時41分15秒 | 天理市へ
楢神社の御田祭り取材を終えて上ツ道を奈良に向けて上がっていった。

同行した写人がなにやら看板を発見した。

それには「かぼちゃ薬師」とある。

集落を抜ける狭い道。

手前には地蔵石仏を並べた延命地蔵尊が祠に安置されている。

そこは薬師さんではない。

もう少し奥に入ったところだ。



そこには何年か前に建て替えられた薬師堂がある。

向いのお寺は融通念仏宗の興願寺だ。

「かぼちゃ薬師」と看板表記があるだけにかぼちゃが供えられるのだろうと思い、崩れかけた土塀が見られる民家を訪ねた。

ご婦人の話によれば冬の寒い時期に近郷農家の人がかぼちゃを供えていたという。

お堂回りの回廊にそれが所狭しに置かれてあった。

そのかぼちゃはたばって帰ることもできるので量はたえず変動するらしい。

それを見かけたのは随分と前のこと。

今ではお供えをする人も少なくなり見かける人も僅かだという。

冬ということであれば冬至のころではないだろうか。

初成りに収穫した南瓜かぼちゃを供えるということは初夏。

南瓜が好物の薬師さんに祈願することで、「しゃく(癪)の病い」と呼ばれる腹痛みが治ると信じられて供えていた。

楢神社の村神主、総代らから贈呈を受けた『楢町史』にはそのことが記載されていた。

本が記すには天保十一(1840)、十二年のこと。

大和郡山の若槻村たばこや嘉兵衛(勘兵衛とも)が十九歳の女(高田町ちゃわんやのなおとふじや里歌秀女)の眼病で、郡山町かせや(鍵屋)忠兵衛は耳病いで祈願した。

目や耳の病気が平癒して、若槻村に西寺に住む光顕上人が之(薬師如来台座)を作り修理したとある。

そのことと、かぼちゃ御供との関係は判らないが、ご婦人は1年に2回あったという。

もしかとすればだが、施餓鬼、十夜会、それとも冬至であるかも知れない。

町史は10年の調査期間を経て昭和63年に発刊された。

当時の聞き取りは丹念にされていたようで年中行事も詳しく載っている。

大切にしたいご本になった。

夏を思い出されたのかご婦人は続けて話されたお盆のときの六斎の鉦の音。

集落の家を回って鉦を叩いていたという。

それは5、60年も前のこと。

子供だった戦前だという。

どうやら六斎念仏を唱える念仏講があったようだ。

そのことも町史に書かれてあった。

興願寺に属していたと思われる六斎念仏講には新旧二組の講中があった。

6、7日は墓参りの日。

20数名の講中が夏の盆行事として8月7日に新仏のある家に出かけて念仏を唱えていた。

14日には講中の家を回って念仏あげた。

新の講は15日に墓参りして六地蔵の前で念仏を唱えた。

いずれも念仏と和讃(融通念仏の影響であろうか)を唱えて六斎鉦を打ち鳴らしたとある。

その叩き鉦は昭和17、8年頃に戦時供出されて講は解散された。

話してくれたご婦人の記憶通りだった六斎念仏講である。



語ってくれた婦人の家前にあった土塀跡。

数年前まで使っていたドテグラ(土手蔵であろうか)だという。

収穫した野菜などはその蔵にしまっておく。

ひんやりとしていつまでも腐らずにあった野菜。

冷蔵庫では水分が凍ってしまいパサパサになる。

ドテグラにあった野菜は新鮮そのものだったという。

「しゃく(癪)の病い」や「耳の病い」に効くとされる。そのことは風習であろう。

(H24. 2.17 SB932SH撮影)

楢神社御田祭り

2012年04月04日 06時45分48秒 | 天理市へ
農家にとっては欠かせない御田祭りの行事が行われている天理市楢町の楢神社。

縁起によれば『神護景雲元年(767)、加賀の国石川郡白山の麓に神現れて、石川比命が天つ真坂樹(榊)に乗り給ひて、石川河上楢郷に着いた』とされる。

同神を後世に鬼子母神に擬して子供の神となったそうだ。

石川の地名は大和郡山市の石川町に残されている。

楢神社が鎮座する楢町から西の方角にある旧村である。

その石川村に属していた楢村であった。

天理市の森本寺山に森本郷墓がある。

その墓は石川町と天理市の楢町、森本町、蔵之庄町、中之庄町の五大字の共同墓地である。

それはさておき同神社には古くから伝わる版木が残されているそうだ。

その版木から摺られた掛軸にはイザナギ、イザナミノミコトを両神に、中央に配したご本尊である鬼子母神。

大きく繁ったザクロの木を持つ姿だ。

そのザクロに実がある。

ザクロは種子が多いことから多産のシンボル。

それゆえ子供の守護神として祀られている。

「和陽楢社」の文字が見られる掛軸にはイザナギ、イザナミノミコト神像の真上に朱印が押されている。

いわゆるごーさん(牛玉宝印)と呼ばれるご朱印である。

その掛け図絵は版木を摺って配ったのではと話される。

ごーさんがあるだけに神宮寺があったのではと思われるがその所在を示す記録は見られない。

境内絵図が残されている。

そこには寺の存在が見られないが、多色摺りだったそうだ。

青色の社殿に朱色の柱。

鮮やかな配色だったそうだ。

もう一つは本殿を囲む樹木だ。

それは茶色だったそうだが、葉はそれほど多く描かれていない。

楢神社の秋祭りには渡御を斎行される。

お渡りが向う先はウエノミヤ(上ノ宮)。

元社であるとされる上ノ宮には神明神社が鎮座する。

楢神社から東方1kmにある宮山だ。

そこは東大寺山とも呼ばれている。

元禄年間(1688~1704)に描かれた櫟本村絵図には宮山が「楢村宮」と記されていることから、当時の鎮守社はウエノミヤであったようだ。

元社の上ノ宮に対して楢神社をシモノミヤ(下ノ宮)と呼んでいる。

秋祭りに際する渡御は御幣持、神饌櫃、御榊持、一老、二老、頭人、供頭、馬口取、馬両脇、警固の順であった。

女中手傳や千秋萬歳楽、當主の名が連なる大正十四年の御神拝目録があるそうだ。

當屋(頭人)を務めた人たちの名が残されている當屋順位文書。

当初は一老、二老、三老の三名があった。

それが昭和27年になれば一老、二老に宮司の名が加わった。

それは昭和37年までで、翌年からは一老、二老の二人になった。

そして、昭和四十年からは一老の名だけになった。

昭和48年からは宮司名が復活し一老を神主と呼ぶようになった。

その後においての神主は3人、或いは4人のときもあったが、現在の村神主はお一人である。

頭人を志す人もいなくなったがお渡りは今も健在だ。

十数年前までは頭人の姿もあった。

その記録写真が拝殿に掲げられている。

その頭人が担いでいたイナニナイ(稲荷い)が社務所に置かれていた。

稲穂にツボをニナイボウで担ぐ。

サカキが見られるのは神遷しされた証しであろう。

楢町の農家は専業に兼業農家を入れてもたかだか7軒。

少なくなったと話される。

その農家にとっては欠かせない行事が御田祭りである。

豊作を祈って春初めに神事を行う。



祭壇に供えられたのはお札を括り付けた松苗だ。

それにはネコヤナギの枝が添えられている。

今年は寒い。

例年なら白淡く芽吹いたネコヤナギであるが今年はそうもいかない。

数も少なくなってきたという。

それには半紙を巻いて水引で括る。

総代の役目だという。

敬神講の法被を着用している氏子たち。拝殿に登った。

その拝殿は能の舞台だったそうだ。

そういえば造りに面影が残っている。

豊作を願う松苗を供えて神事が始まった。

祓えの儀を済ませると神主は境内に下りて摂社の恵比寿神社へ参った。

この日はエビス祭も含んでいるのだ。

豊作の願いは田植えの所作へと移る。

拝殿前の四角い枠。

それが田んぼに見立てた神聖な場所なのだ。

この年はさらに区画を設けたという。

ほんとは氏子戸数を考えて5×6枡にしたかったが、4×6枡の24区画にされたという。

神主は供えた松苗を受け取って区画された田に置いていく。

まさに田植えの所作である。



40個ほどの松苗を植えられた。

昨年と違って籾蒔きが見られなかった。

実は皿に盛ることを失念されていて、お渡りの際に担がれていたイナニナイが社務所に残ったままだったのだ。

それには稲穂があった。

松苗を植えることは気にしていたが稲籾は忘れていたが実施したと笑う神主。

おおらかな楢町の御田植祭であった。

祭典を終えた神主、敬神講の人たちは楢町公民館兼社務所(昭和60年竣工)で寛ぐ。

そこにはかつて社殿前に置かれていた木像の狛犬がある。

弘化三年(1846)に建之されたものだ。

阿吽の狛犬は寄木造り。

彩色されていたが剥落したという。

むしろそれが原形の姿ではないだろうか。

大きな武人の絵馬がある。それは神功皇后が第十五代応神天を竹内宿禰に預けられ、戦に出陣せられる時の絵だそうだ。

大阪長堀の伊丹屋政介が奉納したものと判っているが年代は不明である。

(H24. 2.17 EOS40D撮影)

確定申告

2012年04月03日 06時03分15秒 | メモしとこっ!(確定申告編)
昨年に続いて確定申告に行ってきた。

場所はといえば私にとって初の会場である奈良県立図書情報館だ。

昨年までは西奈良県民センターであったが、申告日程の関係でこちらにした。

いずれもパソコンを利用した申告、相談窓口である。

所得税控除、雑所得や医療費控除など一般の確定申告で相続税や贈与、土地建物の譲渡取得は含まれない。

これらのお知らせは市広報誌に掲載されている。

昨年から年金を受け取ることになった。

それも雑所得になるので確定申告はせざるを得ない。

しかも、昨年3月まで勤めた給与所得(46万円)に同年5月から勤めだした給与所得もある。

雑所得には少額だが原稿料、写真掲載料、講師謝金もある。

僅かな金額だが申告すれば源泉徴収された金額が戻ってくる。

前年は久々に10万円を越えてしまった医療費。

これもまた僅かだが戻ってくると思われ申告する。

勤めているところでは年末調整の際に生命保険料控除等もしていたが返された。

申告にあたらない所得であったからだ。

年金を入れれば可能かもしれないとそれらを纏めて抱き合わせで申告した。

この日のために整理しておいた提出書類を検証してもらった。

その上でパソコンに各々の所得をや控除関係を入力していく。

とは言っても入力者にお願いしてでのことだ。

税務署の方は慣れているから入力画面を見ててきぱきとこなしていく。

漢字変換も実に早い。

パソコン入力は国税庁のホームページから入力できるそうだがお任せする方がもっと早い。

待ち時間を合わせて1時間足らずで終わった。

話によれば午前中はごったがえすほど大勢の申告者が訪れたという。

予め書類を精査されたと思うが入力段階で相続税を入れようとした人が居たそうだ。

会場の案内にも相続税はできない旨表示していたがだ。

相続税など特別な税相談は税務署に行く、しかないのである。

そんな話題も聞かせてもらってすべての検証を終えて帰路についた。

帰宅して還付される税金を確認した。

その額は一昨年、昨年よりも上昇していた。

ありがたいことであるがすべての支払い金額に対する源泉徴収と同額であった。

なんのことはない。

医療費控除も生命保険料控除も対象外であったのだ。

そういえば担当官が任意継続している健康保険料も申告対象になると言っていた。

来年はそうすることにしよう。

(H24. 2.16 SB932SH撮影)

丹後庄松本寺涅槃会

2012年04月02日 07時41分50秒 | 大和郡山市へ
飛鳥寺の副住職を迎えて涅槃会が行われる大和郡山市丹後庄町の松本寺(しょうほんじ)。

旧暦2月15日はお釈迦さんの命日。

満月の日だったそうだ。

その日に涅槃の会式をされている松本寺。

同寺の檀家総代らが集まってくるのは本尊が安置されている公民館だ。

同寺の営みは年に二回。

この日の涅槃会と8月10日に行われる十日盆だけである。

本尊の仏像は宿院仏師の二代目である源次作とされる釈迦如来坐像。

天文九年(1540)十二月の作品で源次が仏師と名乗った最も早い時期に造られたと伝えられている。

その傍らの柱に掲げられた涅槃図。

「大和法隆寺 現身往生 宝塔北正面涅槃像」の墨書字がある。

かつて同寺を守っていた安寿さんが買ってきたという。

法隆寺の涅槃像土を模したのではないだろうかと話す住職。

それを示す年代書もなく真偽は果たして・・・。

掛け図の大きさは縦が70cmで横幅は40cmほど。

実にコンパクトな掛け図である。

ローソクを灯して会式が始まった。

この日に集まったのはごく数人。

「少ないからもっと前に座ってください」と願われて前に座った。



涅槃の由来を述べて声明を唱える。

静か流れる読経が堂内を包み込む。

カチ、カチと打つ音色とともに唱える般若心経。

その間に焼香を済ませていく。

南無大師、金剛明王などの回向文を唱えて法要会式を終えた。

「お釈迦さんが入滅した悲しい日であるが、涅槃寂静は悟りを開き、さらに真の境地を得た。2500年前にインドで生まれたシャカ国の王子。なに不自由なく暮らしてきた。お年寄り、病気、何故に世の中は苦しいことがあるのだ。生きることも、死ぬときも・・・。生老病死・・・四苦の詞がある。四苦八苦の詞はそこから生まれた。四苦八苦から逃れるのが仏教の教え。死の前にお経を説かれた。足るを知る「知足」。幸せで満たされる。物資が溢れる世の中。心は満たされているのか。欲を少なく生きる。この時代に手を合わせることが大切かと思う」と説法された。

(H24. 2.15 EOS40D撮影)

初喰いビッグマック

2012年04月01日 08時52分02秒 | あれこれテイクアウト
テレビで盛んに宣伝しているビッグマック。

期間限定の200円。

一度は食べねばとお店に入った。

とは言ってもドライブスルーだ。

これもまた初めての体験。

どうしたもんかと長年気になっていた次第だ。

注文の仕方、商品の受け取り、支払い。

いずれもどうしたらいいのか不安でしかたがなかった。

期間限定をきっかけに克服しなければ・・・。

「ご注文は」の声が円筒形のものから聞こえてきた。

「へぇー、こんなとこから・・・」と思いつつ「200円のビッグマック一つ」と答えた。

「他にご注文」はと言われても買い物目的はそれだけで十分。

数メートルも行かんうちに「ビッグマック。200円」と店員さんが品物を差し出した。

クレジットも電子マネーも指定された機関だけ。

コンビニでも他社クレジットやクイックペーが使える時代。

最近はどこのファミレス店でも使えますとコマーシャルしているのに・・・。

仕方なくコイン2枚の現金で支払った。



で、肝心かなめのビッグマックのお味はどうか。

一口食べてみた。

これは挽肉ではないか。

それも脂身のない挽肉だ。

パサパサ感が口の中でキャベツと混ざる。

十年ほど前に食べた100円マックよりは味が良くなったと思う。

そのマックの味に愕然としたことを覚えている。

ハンバーグの臭いが鼻についたことだ。

とてもじゃないが2個目はいやいや食べたことを思い出す。

それよりも遥かに美味くなったビッグマック。

改良されたのでしょう。

ですが、脂身のないハンバーグは口に合わない。

ジューシーさをこの価格で求めるのは・・・うーん。

(H24. 2.15 SB932SH撮影)