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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

鹿路の行事

2015年03月21日 08時12分39秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』に桜井市鹿路の「十八酒」が記載されていた。

数え18歳の男の子は名を替える。

いわゆる元服である。

大字産土神である天一神社の御前にて一人前になったことを奉告するのである。

村の大人の仲間入りとして認める儀式。

かつては各家で行われていた。

村人を招いて、将来を祈念する披露の場に酒盛りがあった。

18歳になった祝いということで「十八酒」の呼び名がある村の行事。

明治維新になって元服の儀式が廃止となったことから、「十八酒」だけをするようになった。

昭和拾年代では別にあった幼名を戸籍上の本名で名乗る「名替え」もあったようだ。

祝いの場の料理は特別なもの。

南京カボチャを煮付けた「突出し」は一皿。

茄子の田楽を盛った二ノ魚も一皿。

「さしみ」と呼ばれた茗荷の塩茹で・凍蒟蒻・十八豆・紅白短冊のところてん・ユリネの塩茹で盛りも一皿。

茄子味噌漬けも一皿である。

料理はそれだけでなく、椎茸・薩摩薯の油揚・末広昆布・梨・高野豆腐を詰めた組重に五升の酒があった。

当人は紋服羽織袴姿になり、家族・親戚縁者の付き添いで天一神社に参拝する。

剃髪の儀を経て荒蓆を敷いた場にご馳走を並べる。

設営が終わるころに村人がやってくる。

招かれた男・女・子供に至るまでの人たちを迎える祝宴である。

別席についていた当人は宴半ばに現れて、下座に着座し披露の挨拶をする。

次に大きな飯椀に注いだ酒杯は区長と取り交すという様相は今でもされていのだろうか。

その状況を知りたくて訪れた天一神社にはどなたもおられなかった。



神社拝殿前にあった真っ赤なウインナーソーセージ、ではなくツチアケビである。

伐り倒した樹木の土台に生えていた。

その傍にも一株あるツチアケビの実に見惚れていた。



神社周辺には数軒の家がある。

付近に住む婦人に行事を尋ねてはみるものの明快な答えはなかった。

知らないようだった。

それなら隣家の男性のほうが詳しいというが、不在であった。



もう1軒も不在であったが、軒先に箕に干した梅を盛っていた。

染めたシソの葉もある梅干しの色合いが美しい「食」の民俗は軒先にあったのだ。



下った地に公民館が建っていた。

もしやと思って訪ねた家は公民館横。

声を掛けた男性は昭和4年生まれの84歳。

神社行事は引退したもののかつての在り方はご存じであった。

「十八酒」は村で生まれた男の子が対象者であるが、養子婿入りで村入りした男性も対象になるという。

実例年齢であるが、38歳の村入り男性も「十八酒」に祝宴をしたという。

羽織袴姿の区長が迎える村入り男性。

蓆を敷いた場にご馳走を広げて「十八酒」の宴。

ご馳走は参拝したすべての村人に配ったという。

数え18歳は高校三年生。

その家の家人がご馳走を作る。

カボチャや田楽味噌を塗ったナスビとかミョウガの「炊いたん」など5品があった。

大きな椀に盛っていたご馳走はすべての村人に配るのでものすごい量を作った。

およそ100人前ぐらいだったと思い出される。

それらを持って天一神社に参る。

神社のご神体は杉の大木だ。

当人も区長も羽織袴姿で参って儀式をしていたそうだ。

盆明けの8月19日。

昼過ぎに青年さんが迎えにきた。

ミシロ(ムシロ)を敷くのも青年さん。

行事を下支えする手伝いをしていたという。

神事を執り行うのは区長の役目。

祝詞を奏上するが、対象者はいない。

今後もそうであろうと思う少子・高齢化時代である。

鹿路は天一神社が鎮座する地区を宮垣内。

公民館がある地区は下垣内。

それより南側が上垣内の3垣内になるという。

かつては20戸近くもあったが、今では12~13戸の集落になったという。

10月の日曜には秋祭りがある。

参道に道標の提灯を掲げてひと晩過ごす。

9月は「カンサイ」と呼ぶ行事がある。

充てる漢字はおそらく「神祭」であろうと話す。

朝早く集まって神社境内を清掃する。

水を汲んだバケツを持ちこんで境内の小石を洗って奇麗にする。

正月四日は綱掛祭

今では四日に近い日曜に移った。

ウルシの弓、ススダケとも呼ぶススンボの竹で矢を作る。

弦は苧である。

弓初めの儀式を終えて北の入口に綱掛けをする。

綱はオーコで担いだ。

「綱をまくったら男になる。豊作やといって川までまくった」と話すYさんは「面白半分にしていた」という。

横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りで営む八講祭。

鹿路は下居・針道とともに八講祭を営む下居組になる一つの大字である。

今では談山神社が祭事の場となっているが、かつては下居の八講堂であった。

歩いて出かけたお堂でひと晩泊った。

ご神影(しんえい)を奉上する際に謳いがある。

今ではカセットテープに替った大字もあるが、鹿路は生唄。

公民館で稽古をする謡曲は観世流の「四海波」、「高砂」、「海人」だそうだ。

息子が稽古しているから生唄である。

下居組が廻りにあたる年は5年後の平成31年。

生唄の謡曲は是非とも拝聴したいと思った。

(H26. 8.19 EOS40D撮影)

花火大会客帰り車の大渋滞

2015年03月20日 07時25分10秒 | メモしとこっ!
取材を終えて22時に簾集落を出た。

住民が云っていた。

丹原辺りではおそらく渋滞になるであろう、である。

そうであれば信号より西に向けて大野町を経て落合部より北上、国道24号線を西に向けて京奈和道の橋本東ICの方が早かろうと云っていた。

野原に着いたのは23時だった。

吉野川花火を見終えた観客の車で大渋滞。

五條病院手前500m辺りからだった。

丹原信号はすっと抜けたものの下田橋を渡ったとたんにストップした。

吉野川に架かる大川橋を渡って本陣信号まで続いていた。

1.5kmぐらいの区間を通過するに40分間。

その間に見た西からぞろぞろ出てくる車の流れ。

五條自動車学校にあった臨時駐車場から出てくるのだ。

ガードマンの誘導に従って駐車場から出てくる車の多いこと。

国道168線を北上する車は一歩も動かない。

そりゃあきまへんである。

それより南側にも臨時駐車場があった健民運動場。

着いた時間帯には一台もなかった。

先に掃きだしていたのだろう。

ノロノロと進む大渋滞は通り抜けたのは23時40分。

歩くほうが早いのである。

本陣信号から東に向かえば大渋滞が続く。

避けるには北上するしかない。

ラクラクスイスイ京奈和道路の五條ICにでるが、そこも避けてさらに北上する。

中之交差点を右折。道なりに走らせば五條博物館前を通る。

このまま行けば帰宅する時間は余裕で着くと思われたが、御所市の西佐味・鴨神を過ぎたところでまたもや大渋滞。

渋滞を逃れようとした車は山麓線を選んでいたのだ。

迂回路はない、というよりも慣れない道は暗がりで迷うだけだと思って渋滞車の列につくだけだ。

右下眼下の24号線が僅かに見える。

車のテールランプが動いている。

どうやら東佐味信号から山麓線に向かった車がそこに溜まっていたのであった。

選択をミスった。

長柄交差点よりは国道24号線。

通過したのは0時25分だった。

結局のところ帰宅時間は1時ジャスト。

吉野川花火大会は今年で43回目。

打ちあげ数は4千発。

およそ5万人もの人が集まってくる。

無料駐車場が500台と案内とあるらしいが、一般通行する身にもなって再考してほしいと思うのだ。

国道24号線にはところどころに通行規制の立て札があった。

18時から22時までの通行規制である。

規制外に発生する大渋滞は迷惑な話である。

この日は旧大塔村の取材であった。

往路も大渋滞だった。

16時半には三室に居た。

ガソリンの補給をしていた。

渋滞の始まりはどこであるか存知しないが、五條市街地を抜けるには国道24号線か山麓線しかしらない。

のろのろと続く大渋滞は花火見物客がほとんでであろう。

丹原まではおよそ12km。

着いた時間は18時半だった。

2時間もかかったのである。

駐車場を求める花火見物客は駐車場の存在すら知らないようだ。

車は奈良県ナンバーが大多数だが、県外ナンバーも見られる。

吉野川花火大会は平成15年に訪れたことがある。

花火と競演するレーザーショー。

正式名称は吉野川祭りである。

フィナーレを飾る大花火を見届けて停めてあった車を出した。

駐車場は難なく脱出できたことを覚えている。

それはともかく、交通規制がある道路は大川橋河川敷の川堤道だけだ。

道路が非常に混雑するため、公共交通機関の利用を勧めるとあるが、効果はまったくないといっていいほどだ。

駐車場はありませんと明示してほしいのである。

駐車場がなければ公共交通機関を利用する。

打ちあげ花火が終わるのはたぶん21時ぐらい。

駐車場も21時半には〆ればいいのにと思った日である。

(H26. 8.15 SB932SH撮影)

旧大塔町簾の盆踊り

2015年03月19日 07時44分39秒 | 五條市へ
前日、Ⅰさんに案内してもらった旧大塔村簾の光圓寺を目指す。

場所は下見をしていたので判っているが、余裕を持って出かけた16時半、御所市の三室・蛇穴辺りで大渋滞に遭遇した。

ノロノロと続く大渋滞は花火見物客の車だ。

五條市の丹原まではおよそ12kmであるが、着いた時間は18時半だった。

喫茶店ミキの駐車場で待ち合わせ・合流した安堵資料館学芸員さんとともに出発する。

ここを出たのは19時過ぎだった。

簾の標高は645m。

天辻を通るころは真っ暗になっていた。

簾の山道は判っているものの恐る恐るの道。

灯りがまったく見られない急カーブ・急坂の山道を登る。

着いた時間は19時45分。

お寺から歌うカラオケのど自慢の音色が聞こえてくる。

まだ盆踊りが始まってなかったのが救いであるが、村人とはお約束をしていない。

代表者の方々に取材主旨を伝えて撮影に臨む。

本堂におられた人のほとんどは里帰りをされた簾の元住民たち。

久しぶりに集う懇親会はカラオケ余興の場で食事をされていた。



料理は手作りのオ-ドブル。

「甘酢漬けのミョウガもあるから食べてや」と云われて席についた、箸をもつ余裕もなく聞取り調査をする。

昭和35年ころの村の戸数は38戸。

「村の昔はこんなんやった」と教えてくださる。

天辻・簾の山尾根は弘法大師が通った道があると云って地図を見せてくださる盆踊り実行委員会の会長・副会長ら。

私たちを待っていたかのように口々に話される。



今年は弘法大師高野山開創1200年。

金峯山寺修厳者・高野山僧侶らは弘法大師が歩んだ道を踏破するプロジェクトがあった。

尾根・乗鞍岳を駆け抜けていたと村自慢のお話しであるが、実際はバス移動であったようだ。

現在の簾在住者は2軒。

「村を代表するのは区長や、挨拶したか」と云われて憩いの場をおろおろする。

挨拶させてもらって平成24年に入った県文化財調査の件を伝える。

私もUさんも勤めていた当時の調査員。

二人とも他所の調査にあたっていただけに天辻・簾とも初取材。

発刊された『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の件を話せば、天辻の区長と同様に簾の区長も県文化財調査の件をたいへん喜んでおられた。

分厚い報告書に村の盆踊りが紹介されたことを誇りに思っておられたのだ。

20時10分より始まった簾の盆踊り。

かつては国王神社の踊り堂で踊っていたそうだが、平成10年の台風7号で損壊したことによって寺境内に移したと話す。

住民が多くおられた時代の簾の盆踊りは青年団が主催であった。

極度に減ったことによって中断の時代が続いていた。

村を盛りあげたいと立ちあがった簾出身者は「一期会」を組織化して平成元年より主催・実施するようになった。

10年間続けてきた「一期会」の役目は一応の区切りをつけた。

2年ほど経過したころである。「盆踊りをして欲しい」という声があがった。

そのような経緯があって現在の簾盆踊り実行委員会に発展したと云う。

実行委員会主催事業は今年で14回目。



「ふるさと おかえり」と書いた看板を立てて里帰りの人たちを迎えていた。

境内周りには多くの提灯を吊るした盆踊りはて里帰り盆踊りなのだ。

桜と思える大樹に吊るした行燈風の提灯。

内部は電灯であるが、行燈は手作りである。

樹の下に太鼓台を設えた。

踊りの場は手作り仕掛けであるが、ミキシングマシンなどもある大掛かりな音響装置を設営していた。

音頭取りは簾出身のHさん。

大阪に住んでいると同級生になる天辻の区長が話していた。



踊り子は浴衣を着た親子の阪本組が2人。

普段着姿の村人は8人ほどで踊る簾の盆踊り。

踊り初めの「開き」はなく、「祭文」を2曲、「さっさよいこえ」、「なんちき」、「大文字屋」などなどだ。

踊り始めのときには子供も踊っていたが、踊りが覚えられないのか、それとも飽きたのか堂内に戻っていった。



そんなこともあって5人になった踊りの輪は途切れた格好。

空間ばかりが広がる。

美的な情景でもないが、村の盆踊り風情も記録である。



踊り演目は天辻地区と同じ。

「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があるが、音頭取り、踊り子の希望リクエストもあって実際踊る曲目は数曲だった。

演目に「天誅踊」があるが、踊りを伝える天誅踊保存会は10年以上も前から活動を休止している。

現在はされていないが、刀を使って踊る。

敵味方に別れて2人で踊るので偶数人を要する。

殺陣(たて)のような振り付けがあるようだ。

かつて簾の盆踊りは旧暦8月18日。その日を大踊りと呼んでいた。

周辺地区から青年らがお互いに呼びかけて天辻、阪本、簾の他、天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)からも行ききしていただけに踊り子たちで踊りの場が広がった。

天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)の三名踊りには江州音頭系の「よいしょ よいやまたどっこいさのさ」の囃しがある「祭文口説(祭文数え歌・祭文踊り)」があった。

平成7年に保存会を立ちあげたものの、高齢化や移住などで過疎になった郷村の踊り。

「祭文口説」は平成7年に立ちあげた保存会によって伝承されていたが、平成24年8月をもって解散されて旧西三名郷の踊りは中断した。

最後の踊りは「はりや」、「祭文踊り」、「やっとんまかせ」などだったそうだ。

阪本の踊り子を迎える簾では提灯を掲げて伊勢音頭で歓迎したと述懐されたのは現区長さん。

戻っていく際にも青年団が伊勢音頭で見送った。

こうした村の盆踊りの在り方は各村とも同じようだったと云う。

今ではそのような様相もなく、村の踊りが始まって50分。



〆に「さっやよいこえ」に「踊ろうや踊ろう」と掛け声がでて7人で踊り明かす。

小雨だった雨もほんぶりになりかけた21時過ぎに終えた。

濡れてはいかんと云って、手際よく太鼓台・行燈を仕舞われる。

踊り終えた簾の会場は本堂に移って抽選会。



子供が籤を引いていく。

引いた子供自身も当たる抽選会にどっと笑いがでる。



こうして里帰りを終えた元住民は帰る人もあれば、滞在する人も。

翌日はあとかたづけをすると云う。

簾の住民たちはこの日だけでなく、新年会など年に3回も集まって盆踊りに興じるそうであるが、冬は積雪で登れない。

仕方なく五條市内のホテルで会合をしていると云う。

取材を終えて落ち着いたひととき。

差し出されたオードブルやミョウガの甘酢漬けをよばれた。

心のこもった料理はあまりにも美味しい。



特に甘酢漬けのミョウガが美味いこと。

絶品である。



「お腹が減っているやろ」とカーレーライスまでいただいた村人のもてなしにまた来たくなる。

五條市の丹原に着いた時間は23時。

またもや大渋滞に巻き込まれて帰宅時間は1時になった。

(H26. 8.15 EOS40D撮影)

旧大塔町天辻の盆踊り

2015年03月18日 07時28分07秒 | 五條市へ
天辻の地蔵堂には二人の男性がおられたが、早めに来たと云う。

村人が集まるのは19時半を過ぎ。

抽選会商品を持ちこんでいた区長に取材の主旨を伝えて取材撮影に臨む。

ストロボ焚いてもいいのかどうか尋ねたところ、「ワシがえーいうたら皆誰も文句は云わんからどうぞ」である。

浴衣を着た子供たち、爺ちゃん婆ちゃんや両親ともどもやってきておよそ50人もなった。

参拝者はそれぞれローソクを灯して地蔵仏に手を合わる。

そして受付に盆踊りの祝儀を納める。



受け付けた祝儀は名前を書いてお堂に貼っていく。

子供たちはお楽しみのアテモンやスーパーボール掬いに熱中する。



盆踊りは20時過ぎころから始まった。

踊り子さんは天辻区以外に阪本からもやってきた。

「踊る」には区長に声を掛けて承諾を得ていたと云う。

踊り始めは「開き」やと云って手舞いの踊り。



ちっちゃな子供はまだ踊ることもできずにアテモンの商品を持って見るだけだ。

太鼓打ち・音頭取りは簾出身のHさん。

母親の出里が天辻。

親戚みたいなものだけに村人同様に接せられる。

踊りはほぼ休むことなく「祭文」、「やっちょんまかせ」、「はりま」、「かわさき踊」など。

「それやっせ それやっせ」、「それどっこい」の囃しについつい身体が動いてしまう。



地蔵堂の周りは村人が座るためのもの。

村の行事に迷惑をかけないように気を配る撮影位置に身体を据えた。



右手に扇をもって踊るのは「大文字屋」。

手にした扇を広げて前に突き出すように踊る。



それを上に揚げる。

文化財調査があった平成24年の踊り子は村の人だけで舞っていた。

普段着姿でたったの4人だったと話す。

「今年は阪本組も来てくれて盛り上がった。えーときに来たな」と区長は喜んでいた。

天辻の盆踊りには特に決まった衣装もない普段着であるが、中断中の天誅踊だけは模擬刀・衣装で踊っていたそうだ。

普段着で舞っていた親子連れは阪本の泉井一族。

たまたまお盆に戻っていた大阪住まいの家族というやに聞く。

「あんた、平成19年に阪本に来てはったでしょ」と声をかけられた。

ずいぶん前のことであるが、よく覚えておられる。

音頭取りのリズム・口調は若干、阪本と違うように聞こえる。

阪本の音頭取りをされているⅠさんは伸びる声。

実に惚れ惚れするお声であったことを覚えている。

Hさんはやや早めだがこれまたえー声である。

Hさんが云うには何年か前に簾、天辻、阪本の音頭取りから習ったそうである。

天辻で披露するのは今年で4年目になるそうだ。



扇を手にした踊りは「なんちき」にも登場した。

「あーなんきち どっこい」の囃しで踊りが判る。

「なんきち」は踊りの途中で向かいあった二人が掛けあいのように踊る。

ときには3人に舞うこともあるが、人数が少ないことから掛けあいは見られなかった。



長丁場の踊りに音頭取りは何度か交替されて進行する。



音頭取りが替って「政吉踊」になった。

「かわさき踊」では扇を広げたままに前へ突き出すようにするが、「政吉踊」は扇をすぼめたままで踊る。

村を救った中村屋政吉は死罪。

弔う踊りの姿である。

「そりゃやっちょんまかせ」の囃しがある「やっちょんまかせ」にぽんぽんと膝を打つ「祭文」やリズムが心地いい「かわさき踊」は一度聴いたら忘れない曲だ。



「なんきち」の掛けあいを娘さんとともに踊る婦人は阪本住民。

親から子へ連綿と受け継いでいる踊りを舞う。

再び音頭取りは本谷さんに替って踊りの〆は「やってきさ」。

「やってきさの踊りはお手々が五つ 五つたたいて尻をふる 恋し恋しと鳴くせみよりも 鳴かぬ蛍が身をこがす 揃たそろたよまわり子がそろた 秋の出穂よりよくそろた 踊り済んで来たにぎりめし出しやれ うまいにしめと冷や酒を 踊り気違い見る奴あほじゃ 音頭取るのはど気違い」の唄が地蔵堂に広がった。



浴衣姿の女児も踊り子の舞う姿を真似て輪のなかに入っていった。

踊り納めの「やってきさ」を踊って、場は村の会食に移った。



太鼓縁台を隅に移してお堂に敷きつめるゴザ。

テープルも並べた。



注文したオードブルや柿の葉寿司に巻きずし。

区長の挨拶・ねぎらい・乾杯でいただく場はお堂いっぱい。

このころの時間は22時だ。

天辻は昭和の初めには80戸もあったそうだ。

今では15戸になっているが、家置を残してお盆に戻ってくる家もあるだけに実際はもっと多くあるようだ。

今では会食料理は注文商品。

元区長の発案でそうしたと云う。

中入りのご馳走はにぎりめしや家で作った料理だったようだ。

そのことを言い現わしているのが「やってきさ」の台詞のように思えた。

会食を済ませたら抽選会が始まる。

5等はオーブントースター、4等は扇風機、3等はテーブルコンロ、2等はマッサージ機、1等が掃除機。

賞品はそれだけでなく、特等はなんと地デジテレビである。



当たった人は手を挙げて雄たけび。

周りの人たちから拍手喝さいを浴びて賞品を手に入れた。



こうして天辻の盆踊りが終わった時間は23時半。

かつてはその後も踊り続けていたようだ。

解散後も男性たちは地蔵堂に居残って酒宴で一晩明かしたかどうか、後日に行った際に聞いてみよう。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)

旧大塔町盆踊りの場

2015年03月17日 08時57分53秒 | 五條市へ
阪本踊りは平成23年より中断しているが、同様の踊りが旧大塔町阪本の天辻地区や隣地区の簾で行われていることを知ったのは昨年の平成23年8月だった。

運営するブログで阪本便りを伝えるⅠさんが書き込みをされていた。

狐のセンギョなども案内してくださるⅠさんの阪本便りはいつも頼りにしている貴重な情報源である。

それより一年前の平成24年。

県文化財課が緊急伝統芸能調査の関係で天辻地区や簾に調査員が入ると聞いていた。

十津川村をはじめとする大踊りの調査に加わってほしいということであったが、私の調査担当は地元である大和郡山市白土町のチャチャンコの調査で精いっぱいだった。

ダブル調査は身体的・時間的にも余裕がなく、負荷もかかることから断っていた。

緊急伝統芸能調査は平成25年度に終えて平成26年6月に発刊された。

その経緯は6月18日に当方のブログで紹介した。

そのような状況を経てようやく落ち着いた今夏のお盆取材。

初めて訪れる両地区の調査取材に至ったが場所も知らない。

早めに出かけて現地入りしたものの村落がどこにあるのやらさっぱり判らない。

天辻峠は毎年通っている道にあるが、村落に入る道が判らないのだ。

予め連絡してⅠさんに教えてもらっていた天辻会場は天誅組本陣遺地だった。

新天辻トンネルを抜けて星の国手前を左折れ。

国道にある天誅組本陣遺地立て看板を目印に登っていく。

急坂のアスファルト舗装路を登っていけば、天辻の集落が現れる。

集落道は登りやすいが、どこまで行けばいいのやら。

行けども、行けども目印が判らない。

たまたま墓参りをされていた二人の婦人に道を尋ねる。

その二人は村を出た人。

この日はお盆で墓参りをされていたが、盆踊りのことは存知していないようだ。

本陣遺地ならあそこの辻を左折れした先にあると伝えられて指をさした方角に向かって登っていく。

それほど遠くない地にあったのが本陣遺地。

数台停められる[P]マークもあった。

ここは標高750m。

涼しい風が通り抜けていく。



踊り場は昭和60年8月に改築されて延命地蔵尊を安置する地蔵堂だ。

この日の13時には地蔵法要が行われたのであるが、到着時間が16時半。

地蔵法要を終えてあとだけにどなたもおられない。

天辻の地蔵尊は2体ある。



一つは石仏で、もう一つは木造の地蔵尊。

天川村山西に伝わる話しによれば「弘法大師が同村庵住の白井谷で阿弥陀如来、不動尊、地蔵尊の三体を造立した。その三体を近くの三本松へ運んで、どこでも好きな処へ行かれたいと云えば、阿弥陀如来は庵住、不動尊は坪内へ。地蔵尊は望んで天辻に行かれた」と書いあった。

木造の地蔵尊は庵住からやってきて天辻に安置されたのであろうか・・・。

天辻の地蔵祭りは1月24日、7月24日、8月24日の3回であったが、現在はお盆に里帰りされるこの日だけになったようだ。

提灯を吊るした堂内中央に平らな縁台を設えて太鼓やバチが置かれていた。

太鼓もバチも昭和51年7月に新調したものだ。

バチには「天誅踊り保存会」と書いてあった。

『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば盆踊りの演目は天辻・簾地区とも同じで、「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があった。

天辻には独自の踊りとして「天誅踊」が伝わっている。

踊りに天誅踊保存会が組織されていたが現在は休止中だ。

もう10年も前かに活動を休止されているようだ。

この「天誅踊」は刀を使って踊るようだ。

敵味方に別れて2人で踊る。

偶数人を要する殺陣(たて)のような振りがあるらしい。

地蔵堂で待っていても仕方がない。

そう思って阪本に下りて、仕事を終えたばかりのⅠ家を訪れた。

もう一つの地区の簾の地を案内してもらうために立ち寄ったⅠさん。

お会いするのは久しぶりだ。

簾へ行くには阪本より天川村塩谷・塩野に向かう道を走る。

ダム湖に架かる簾橋を渡って急こう配の道を登っていく。

とにかく細い道の連続急カーブ。

30度ぐらいと思えるカーブを登るのはとてもじゃないが、危険な道沿いに数軒の家がある。

カーブを曲がろうとした際、上から下ってくる車と遭遇するが、除けるのがとても困難な狭い道。

そろそろと後退してなんとか回避した。

その車は里帰りであったようで、光圓寺にも数台が停まっていた。



駐車場は停めるわけにもいかず、手前にある広い地は車の転回がしやすいと思ってここに停めた。



左上側に建っているのが簾の光圓寺である。

は寺伝・建保二年(1214)創建である。



踊り場はどうやら桜と思われる樹の下のようである。

かつての踊り場は同寺よりさらに登った国王神社の踊り堂であった。

明治22年8月18、19日、大雨風により十津川筋に未曾有の大被害を起こした山崩。

山腹深層崩壊は1080カ所、50数の土砂ダムが発生した。

そのころの簾は62戸。

その後の昭和35年は38戸。

村を出ていく家は増えて現在は2戸になったそうだ。

国王神社の踊り堂を拝見する時間もなく今回は断念した。

翌日に訪れる簾をあとにして山を下った。

しばらくはⅠ家で休憩させてもらった。

そして再び天辻に向かう。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)

東安堵大寶寺六斎講のタカ塚参り

2015年03月16日 07時29分48秒 | 安堵町へ
六斎念仏は空也を始祖として発生したと伝えられ、県内では奈良市八島町と並んで東安堵の2地域が最も伝承・実践されている。

念仏は途絶えたものの収録したカセットテープが唱える念仏に合わせて鉦を打つ地域に奈良市池田町、大和郡山市白土町・大江町、桜井市萱森がある。

講中がお一人になったことからやむなく中断している御所市東佐味もある。

『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば、かつて奈良市には八島町・池田町の他に藤原町、山町、法華寺町、佐紀東町、北椿尾町、大安寺町、富雄中、法蓮町、鹿野園町、横井町、三条町、西大寺、秋篠町、古市町、北之庄町、大池水郷、忍辱山町、西九条町、紀寺町、瓦町、藤之木町が・・・。

大和郡山市では白土町、大江町の他、今国府町、額田部北町、額田部南町、長安寺町、柏木町、上三橋町、横田町、小林町、小泉町。

近年の調査では井戸野町にもあったことが判った。

生駒市は乙田、小瀬、高山。

安堵町は東安堵の他に西安堵、岡崎。

斑鳩町は西里。

川西町は下永。

御所市は東佐味の他、西佐味、高天、伏見。五條市は小和町、久留野町、近内町、出屋敷町、居殿町、住川町、北山町、岡町・・・に講中の存在があった。

いずれも大正時代から昭和戦後まであったと伝えられている。

これら講中があったのは融通念仏宗派の地域だ。

尤も地区全戸が融通念仏宗派でなく、宗派以外の檀家もあるのだがが・・・。

平成18年、19年の取材以来、久しぶりの訪問となった東安堵の大寶寺六斎講。

東安堵の融通念仏宗檀家は103戸。

講員は昔も今も8人であるが、顔ぶれは数人が入れ替っていた。

この日は早朝から100戸余りの檀家参りをしていた。

新仏の家も参る檀家参りは休憩を挟むことなく昼過ぎに高塚にやってくる。

高塚(墳丘)と呼ばれる地は集落の南側。

西名阪国道下の信号付近になる南垣内。

地区が案内する立て看板によれば、塚に大きな栴檀の木があった。

だが、昭和28年の台風で倒れたと伝える。木の根元に大石があり、その下に昔、タカ狩りをした殿さんがタカを埋めたからタカ塚とも、或いは聖徳太子が可愛がったタカを埋めたとか・・・書いていた。

1991年(平成3年)安堵町史編纂委員会発刊『安堵町史 Vol.史料編 下巻』に『明治七年八月 鷹塚並道満墳取調書控』があるようだ。

すべての檀家参りを済ませた黒衣に袈裟姿の講中は高塚にある観音堂の前にゴザを敷いて座る。

例年、14時ぐらいになるそうだ。

予め花を立てていた観音堂。



ローソクと線香に火を点けてから始める六斎念仏。

始めようとすれば風が吹いてローソクの火が消えてしまう。

六斎鉦を叩きながら念仏を唱える。

念仏はシンバンド(新坂東)と融通回向の2曲だ。

1曲目はおよそ7分間のシンバンド(新坂東)。



打つ鉦はすべて新調されているので新しいが、享保十五年(1730)六月九日が刻印された鉦が伝わる。

続けて2曲目の融通回向を唱える。

高塚の前は公道で往来する車も多い。

ときには信号待ちの車もあった。

鉦の音を聞いて車窓から眺める人もいたが「何してんのやろ」というような感じ。

きょとんとした顔で眺めていた。この日の気温は33度。

汗びっしょりになるカンカン照り。

講中はタオルで汗をぬぐいながら念仏を唱えていた。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)

とんかつとんとん1010嘉幡店のロースカツ丼

2015年03月15日 08時56分06秒 | 食事が主な周辺をお散歩
国道を走っていればときおり目にする「1010」の看板。

かつ丼・とんかつ定食をお値打ち価格で提供するとうたっている「とんかつとんとん」だ。

経営はワンカルビや牛たん杜もある㈱ワン・ダイニングだ。

天理市嘉幡町の他、香芝市高にも出店している。

安堵町へ向かう途中にあった「とんかつとんとん1010」の看板に誘われて車を停めた。

肉を専門にしているワン・ダイニングのトンカツはどんな味だろう。

一度は食べてみたいと思って入店した。

駐車場広く、25台ぐらい停められる嘉幡店。

半分ぐらいは停まっていた。

店内はテーブル席とカウンター席。

ほとんどの来店客はテーブル席。

家族連れが多い。

お一人さんはカウンターに案内される。

席につくなり注文したロースカツ丼と云えば、「80gですか、それとも120gですか」と尋ねる。

量によって値段が替るロースカツ丼。

当然ながら選んだ税抜き490円の80gの丼は待つ時間はそれほどでもなく配膳された。

香物の漬物が一品ついていた。

揚げたトンカツは割合でかい。

卵とじに料理されて丼に盛っていた丼は簡単、すばやく料理されたのであろう。

とにかく早いのである。

トンカツにはパラパラと三つ葉を振っているが、香りは感じない。

がっつり一口食べる。

出汁がたっぷり染み込んだご飯を口に放り込む。

美味いと思うが、万人向けの関西風の出汁は薄味だった。

もう少しの濃いめであれば、と思ったが・・・。

トンカツ肉は分厚い。

口の中でとろける脂身。

ロースの旨みが凝縮している。

脂身はトロっ、赤身はザクっという感じだ。

卵でとじているからカツのサクサク感は失われている。

まぁまぁ、そこそこという感じである。

とんかつ「かつや」の定番カツ丼も同じ価格の税抜き490円。

衣がサクサクで出汁はややカラ目。

卵とじの量は少ない。

豚肉も同じの80g。

これも美味いが、キャベツを盛ったソース味はとびきり美味くて軍配をあげたことがある。

税込み529円を支払ったら100円割引券が手渡された。

賞味期限は8月末日。

もう一回来るには早すぎる。

(H26. 8.14 SB932SH撮影)

倉橋のむさいな(回想)

2015年03月14日 08時40分11秒 | 桜井市へ
昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」行事のことが書かれてあった。

旧暦の7月14日に村の11、12歳の男の子や女の子たちが太鼓を打ちながら「むさいな」と囃して金福寺から出屋敷にある行者堂まで巡っていたという記事である。

今でもその行事があるのか、ないのか・・・話しはとにかく聞いてみなければと思って訪れた8月7日。

平成18年に宮講のマツリコ(祭り講)を勤めたお家を訪ねた。

この日は七日盆。

ご主人のNさんはラントバサンと呼ぶ墓地の清掃に出かけていたので不在。

代わりに奥さんが話してくれた。

倉橋にはもう一つの墓があって、そこはカザリバカと呼んでいる。

カザリバカは仏さんを埋めていないからカラバカ。

お骨はありませんと云う。

別にノバカと呼ぶ埋葬墓もあると話す。

ラントバサンはかつて山の上にあったが、行くのも困難な山の上。

仕方なく下に降ろしたと云う。

大字倉橋は浄土宗もあれば平野大念仏宗派もあるが、宗派とは関係なく、13日はオショウライサン迎えをしている。

辻向こうの川に出かけて麦藁で作った松明に火を点けていたが38年前にやめた。

今では線香に火を点けて家に戻るようにした。

その行為を見た子供は「ケムリのタクシーや」と云ったそうだ。

なかなか言い得て妙な表現に納得する。

結局のところ奥さんは「むさいな」のことはご存じでなく「80歳以上の長老なら覚えているかも・・」と云われて平成19年にマツリコを勤めた家に向かった。

現役の井戸があるH家では前庭に新聞紙を広げた箕にカンピョウを干していた。

後日の14日に伺った奥さんの話しによれば今年最後のカンピョウ干しだったそうだ。

皮を剥いたカンピョウは布団干しのような格好で干していた。

藁を撒きつけた竿で干していたと云うのである。

カンピョウの皮剥きは小刀のような小さな道具だと話す。

おそらく同市の大字山田で拝見した道具と同じであろう。

それはともかく数年ぶりにお会いしたHさんは83歳。

大字倉橋は60戸の集落であるが、マツリコを勤める講中家は5軒。

子供のころには12軒もあったようだ。

この日に訪れたのは「むさいな」行事のことである。

Hさんが云うには戦前辺りに途絶えたようだ。

当時は8月14日の新暦にしていた。

金福寺にある太鼓をオーコで担いでいく。

子供は小学生で、上は今の中学二年生にあたる高等科の子供までだった。

子供の大将らは太鼓担ぎ、横から太鼓打ちの3人構成だった。

「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていた。

蒸しあがって喜ぶ表現が「むっさいな」と云う。

Hさんが小学6年生だった戦時中。

男の子の仕事だったので今でもなんとなく体験した記憶があると云う。

「町史」に書かれた「むさいな」行事は、村中巡って行者堂があったとされる出屋敷まで行ったと書かれていた。

だが、体験によればそこまで行かなかったようだ。

稀に小さな子供も太鼓担ぎした「むさいな」行事。

そのころ小さかったHさんは太鼓が打たれる都度、太鼓担ぎが振られたと思いだされた。

大字倉橋にはイノコもあったと云う。

イノコ行事は12月5日だった。

藁束を濡らして各家の門口で叩いていた経験もあると云う。

下(しも)との境界線に出かけてお互いの子供らは石の投げ合いをしていた。

宮さんに行って棒で叩きあい。

それで喧嘩もしていたそうだが、なんで喧嘩なのか思い出せない。

回想はそこまでだが、話しの様相から推定した。

私は未だ拝見していないが、なんとなく吉野町千股で行われている「ささいわ」行事のように悪態をつくような感じに思えたのだ。

石投げは民俗行事の「印地撃ち」と呼ばれる石合戦だ。

二手に分かれた子供が競い合う行事である。

悪態言葉も発したようだが、県内事例では見当たらない。

その日、帰宅してからHさんから電話があった。

「現在はしてないが、記憶がある長老らが思い出話の場を設けるから来てや」と云う申し出に誘われて、この日に再訪問したのである。

思い出話はどこまで発展するか判らないが、なんとなく回想の場になりそうな気配である。

こうして14日に金福寺に集まった長老たちは上から89歳、83歳、81歳の3人。

「もう二人が来るはずだった」と伝えられる生憎の欠席で3人になった。



回想の場が始まる前に拝見した太鼓がある。

かつて宮さんの行事に使われていた大鼓台である。

「むさいな」行事にも打っていた太鼓。

墨書文字は書いていなかったので時代・製作者は判らなかったが、昭和15年、16年のころは太鼓をドン、ドンと打っていたそうだ。

打っていたのは高等科1年・2年の高学年。

年齢は11、12歳になるようだ。

太鼓打ちに着いていった子供は小学1年生以上。

学年によって役割を担っていた昭和30年~40年代の子供は50人にもなると云う。

昭和45年から50年代のころにしなくなった「むさいな」行事。

太鼓打ちはするものの、太鼓担ぎはしなくなっていた。

担ぐことをやめ、借りてきたリヤカーに乗せて運んでいた。

リヤカーに載せた太鼓を横から打っていたそうだ。

力仕事はそのころから変化がみられるが、着いていく子供の姿は同じ様子だったと話す。

金福寺は存在するものの無住寺。

普段は扉も閉めているが集会所として利用している。

現在の出入口は北側に移ったが本堂扉は南に位置する崇峻天皇陵の向かい側にある。

出入りすることもなく扉は閉めたと云う。

89歳のⅠさんが回想した思い出。

「村の東の端まで巡って休憩した。その場で担いできたオーコを外して太鼓を立てた。子供が立てた太鼓の皮の上に扇(扇子とも)を立てた。バチで太鼓を打てば皮が弾んで扇があたり高く飛んだ。飛んだ高さを競い合った」と話す。

83歳のHさんや81歳のMさんは経験がないと云う太鼓の扇遊び。

89歳のⅠさんが続けて話す思い出話し。

「子供のときは浴衣を着てぞろぞろとついていった。子供の半分以上が浴衣姿だった。8月14日やった。10時ころに金福寺前を出発し、午前中いっぱいかけて村を巡っていた」と云う。

「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていたというのは3人とも共通している。

3人は「モチゴメをコシキで蒸しあげるから、むっさいなと云うのだ」と話す。

ドサクサモチと呼んでいたモチは、盆のときにみんなで搗いていたと話したのは81歳のⅠさんだ。

「モチゴメばかりで、盆は花立てしなあかんし、とにかく忙しくザワザワしている間に搗いていたからドサクサモチと呼ぶのだ」と云う。

このころはコムギモチだったというのは83歳のHさん。

コムギとモチゴメで搗いたモチは「サナブリモチ」と呼んでいたそうだ。

「サナブリモチ」は小麦が入っているので香ばしかったと味まで覚えておられる。

なかなか固くならなかった「サナブリモチ」はキナコ(砂糖も入れた)を塗して食べていた。

搗きあがった「サナブリモチ」は丸いコジュウタ(麹蓋)に入れて、熱いうちに手で千切って丸めて食べていたそうだ。

89歳のⅠさんは父親から聞いた話しだと云って口を開いた。

「朝はオカイサンやった。昼に弘法大師さんがきやはって、オニギリをいただきたいといわはった。ご飯は炊いていなかったから待つ時間もなく、次の家に行ったから申しわけないと云って、それでむっさいなと云うのだ」と・・・。

談山には三十六坊もあった多武峯妙楽寺(明治2年神仏分離令により寺僧は還俗・廃仏毀釈によって廃寺)。

「寺僧が布教にこういう伝えを残していったのやと話したのは81歳のMさんだ。

談山神社下にある八井内(やいない)の村には弘法大師が見つけたとする八つの井戸がある。

それで村の名が八つの井戸があるということで八井内。

「伝説やから八つもないが・・・」と続けて話す。

Mさんが云うには、「むさったら握るぞ」というのはオハギかオニギリメシのようだと話す。

出屋敷にあったとされる行者堂は大正時代に寺に返したから今はない。

お堂はないが、その場は「ギョウジャサカ」と呼ばれる急坂。

かつてはその下に集落があったと云う。

その下が「タラタラザカ」と呼ぶ坂道。

村を通り抜けて鹿路に向かう県道である。

昭和16年に里道を広げた新道。大きい車が通れるようになったのは拡幅されてからである。

かつてあった出屋敷の行者堂まで行っていたと話すのは81歳のMさん。

「金福寺の南側の玄関前から寺川沿いに下って、今井谷に向かう道に出る。そこを右に折れて桜井-吉野間の県道に出る。そこから県道沿いに行った。北音羽(下居の東側)の境界線まで行って戻ってきた。戻りは県道から外れた村の里道。みんなが声をあげて囃していた。ドン、ドンと太鼓の音が聞こえてくれば見る村の人もおったが、特に親は心配そうに見ていた」と話す。

境界地に「キノウ」と呼ぶ家がある。

名字は「木野」だ。

休憩する子供たちに冷たい井戸水を汲んで砂糖水を飲ませてくれたのはおばあちゃんだった。

ふるまいの砂糖水はとても美味しかったと思い出された到達点。

やって来た県道を戻っていく。

金福寺横の西の道に入って戻ったと云う。

往復で1kmぐらい、1時間か1時間半もかかった「むさいな」行程。

着いて解散するころは丁度昼どきだったようだ。

上級生は打っていた太鼓はお寺に戻して今と同じように吊るしていた。

昔から寺廊下の隅であったと云う。

この日に欠席された60歳代の男性は「口悪いやつがいて、握ったらくさる」と囃していたとHさんが伝えられた。

80歳代の人たちと60歳代の人たちの囃し方の違い。

20年間に変化したと思われる「むさいな」囃しである。

「“むっさいな”は寺僧の教え。僧を追い掛けて着いていったのでは・・・」と話したのは81歳のMさん。

89歳のⅠさんは「わしらのときは青年団がついて援助していた」と云うのである。

「青年団のような年代は村の仕事に就いていた。山や野の下草刈りに従事していた。仕事を終えて戻ったころは終わったばかりで応援することもなかった」と話したのは81歳のMさん。

年齢差によって「むっさいな」の在り方にずいぶんと変化が見られるのであるが、「むっさいな」は寺僧の教えを村に伝え継承していくための在り方であったろうと思った。

「そういう人が来やはったら、施しにニギリメシを喰わせたのであろう」と3人揃って云う。

「喜捨(きしゃ)」という考え方に深い意味があるとも云う。

「喜捨」とは、寄付はしたいが貧しい、それでも惜しむことなく浄財は喜んで寄付するという意味だと平成25年3月に訪れた天理市三昧田の地蔵講が話していたことを思い出した。

この項、長文になるが、写真ではなく長老らの記憶の記録だ。

我慢しておつきあい願いたい。

倉橋辺り南一帯にある高い山は倉橋山、一角が「語山」だと云う。

倉橋東の下居は下居ガ原と呼ばれていた。

西は武士社家の阿部一族であるが、農民であった倉橋一族が住む地は倉橋之庄と呼んでいたとも・・・。

倉橋のマツリには太鼓台があるが、明治時代に売ったと先代らから聞いているそうだ。

打っていた太鼓は今でも金福寺に吊るしているが、寺行事には使っておらず、「むさいな」行事だけに使っていたと云う。



金福寺本堂には歴年の「八講祭」に出仕されたときの記念写真が掲げられていた。

昭和53年3月11日、昭和61年3月9日、平成6年3月13日、平成14年3月10日、平成22年3月13日であるが、昭和61年までは金福寺。

長老らの若かりし顔が写っていた。

平成6年移降は談山神社に移っていた。

8年ごとに廻りがある横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の順に、今尚村廻りで行われている「八講祭」である。

音羽組は大正9年ころまでは北音羽。

辞退されて多武峰・八井内・飯塚盛の組になったそうだが、何故に百市が入っていないのか判らないと云う。

今年が今井谷の廻りであった。

倉橋は4年後の平成30年。

本日集まっていただいた長老らは「元気でおるか判らんな」と話していた。

8年前に今井谷で拝見した特殊な盛りの御膳は、「私が教えたものだと話す81歳のMさん。

今年はその形式で継ぐことはなかったのだ。

今井谷の祭典で奏でられた謡曲はカセットテープ。

たしか8年前は謡曲の披露もなかったと私の記憶。

ところが倉橋は平成22年まで生唄だったのだ。

いつの時代か判らないが金春流の弟子に教わったと云う。

楽人が奏でるなかで謡って謡曲。

今井谷も金春流であるが、横柿は金剛流。

謡える人がいなくなってカセットテープに移ったようだ。

八講祭に掲げる藤原鎌足父子のご神影と寒山拾得の掛軸の脇立軸は村で一年間も保管して守っていた。

掲げるお軸の長さがかからないように金福寺は天井を高くしていると云う。

3月の八講祭の他、7月には虫干しをしていたと云う。

一日干して下げるお軸はあくる年に下居が迎えにくる。

虫干しの日は夕食に酒を飲んで会食をする。

お軸の番をして夜が明ける朝まで籠っていたと話す。

昭和16年に81歳のMさんが多武峯村史より書き写した「むさいな」史料によれば、「倉橋大字特有の行事として、旧七月十四日午前十一時頃、十一・十二歳の童男童女相集い大きな太鼓一箇を担ぎ、之を打ち鳴らしつつ先頭を歩き群衆を集め乍ら土童子は後ろより「むさいな・むさいな」「むさったら握るぞ」と囃したてて、後を行く。金福寺より出て、元の役の行者堂まで、昭和に入り村の上まで、倉橋村の東の端まで行きて帰る。此の行事に左記の様な伝説があり、「弘法大師の週国巡礼の節当村に来たり、盂蘭盆の休日にて、どの家も仏供養に忙しくとある」。

家の前に立ちて喜捨を乞はれしに家人造花を挿すもの、庭掃除をする者、飯を蒸すもの等皆忙しく且つ蒸し上らざるの理由で之を断る。僧は「尊き世の法師に一食一握の飯を与えざる、この村には終生迄蒸の上らぬ様にしてやろうぞ」と言残して去る。之を聞き傳へた。近隣の人は後日の悪報を恐れて急に其の後を「むさったらにぎろ、むさったらにぎろ」と連呼して追った。この伝説が村の行事として残れりと傳う。亦案ずるに伝説は其の儘として、この行事は旧十四日此の地方の習慣にて、餅を搗き仏に供する例なれば、この糯米を蒸し上るにつき、此の囃言葉が出て其れが童子に戯れ事となりしものならんかと思われる」であった。

「昭和五十年代までつづく」と締められていたMさんの書き写しである。

昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」は、この多武峯村史に書かれた記事を短縮して掲載したものだとMさんが云う。

回想を終えて記念に撮ってほしいと願われた記念写真を添えておく。



調べてみれば、仏道修行の一つに財がなくとも七つの施しをする「無財(むざい)の七施」があった。

一般的なお布施は「財施」、「法施」、「無畏(むい)施」の三つ。

財施は「貪る心とか、欲しいと思う心、恩に着せる心を離れてお金や衣食などを施行する。

「法施」は財物ではなく、教えを説いて聞かせ、法話を通じて聞く人の心に安らぎを与え、精神面につくす。

「無畏施」は恐怖や不安、脅え、慄き(おののき)を取り除いて安心させる、ということである。

「七施」とは、「慈眼施」、「和顔(わがん)悦色施」、「愛語施」、「捨身施」、「心慮施」、「壮座(そうざ)施」、「房舎施」の七つのお布施。

それぞれ、相手を思いやる慈しみの優しい目つき、常に和やかな笑顔、もの優しい言葉遣いや挨拶、我が身の身体で奉仕、自分以外の人に心を配り、どうぞと座を譲り、思いやりの心をもって接することだそうだ。

『桜井町史 続 民俗編』には「この行事がいつ頃より始められているか、また何の為に行われていて今に残っているか知る事が出来ない。大字の古老に聞いても色々な説があるがいずれも明白でない」と書いてあった。

多武峯村史に書かれてあった「喜捨」の考えもあるが、もしかとして、「むっさい」は「無財」で、「な」は「七施」の教えではと思ったのである。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)

北白木の先祖さん迎え

2015年03月13日 19時02分56秒 | 桜井市へ
マツリトーヤを勤められた桜井市北白木の当主家。

門口にあった送り火の痕跡をヨミヤの際に見つけた。

お聞きしたところ8月13日の午後4時ころに迎え火をすると話していた。

その様子を拝見したく伺った当家は不在だった。

1時間ほど待った時間帯。

畑から戻ってきたご主人が帰宅された。

「ようそんなこと覚えているな」と云われた当主。

昨年末のことである。

天理市にあるザ・ビッグエクストラ店で買い物中にばったり出合ったのだ。

そのときにも是非取材させてもらおうとお願いしていたが、すっかり忘れておられたようだ。

栽培しているキュウリ畑に水やりを済ませてからと伝えられてしばらくは待ち状態。

その間は前庭に咲いていたお花や蜜を吸う蝶を撮っていた。

お庭の花を観察していた時間帯。

「そろそろ始めようか」と云われた当主は納屋にあった稲藁を持ってきた。

それを二つ折りにして藁で括る。

先端を斜め切りにしたシンダケに被せるようにして挿した藁束。

藁束を笠のように被せた当家。

「他家では束をぼっと挿すようだ」と云う。

家によってはそれぞれの在り方なのであろう。

迎え火の場には2本の藁束を挿した。

かつては麦藁だったと話す当主。



ライターで火を点けられたが、下の方からだった。

「そのほうが燃えやすい」と云うが、湿り気があることからすぐには火が点かない。

ぱっと燃えないのだ。



燃え上がれば小さな鉦を打つ。

燃え上がっている最中はずっとひも付きの鉦を打ち続ける。

「かえらっしゃい かえらっしゃいと云いますねん」と話していたが、鉦の音で声は聞こえなかった。

どうやら心のなかで唱えていたようだ。

線香もローソク移しもなく、家に戻っていった当主。

「北白木では各家とも同じような仕方で鉦を打っている音が聞こえてくる」と話していた。

しばらくすれば付近の家から鉦を打つ音が聞こえてきた。

それぞれの家がお迎えを始められたのだ。

座敷に位牌を並べた机。

小さなドロイモ(4年前まではハス)の葉に供えたキュウリ・プチトマト・ピーマン・ナスビ。



当主はローソクに火を点ける。

線香にも火を点けてくゆらし、大きな器にお茶をも盛られた。

廊下の下に設えた棚がある。

2本のシンダケを両脇に立てた棚はいわゆるガキンドサンの棚。

一つは花立てで、ヒマワリ・ミソハギ・ヤナギハナガサを飾っていた。

もう一つのシンダケは線香立てだ。

迎え火をされたご主人が線香を灯された。

ガキンドサンの棚のお供えは小さなドロイモの葉に盛ったオクラ・ピーマン・ナスビ・プチトマトだ。

そのころ仕事を終えて戻ってきた奥さん。



前庭にある柿の木の葉を摘み取ってきた。

これはオニギリを供える皿にするのである。



ガキンドサンの棚に数膳の箸を置く。

箸は細く切ったシンダケとミソハギの茎の2本。

それで一膳の箸とする。



先祖さんの御供も同じく一膳の箸だ。

先代から継いできた迎えの在り方は「昔のまんまや」と云うが、なぜにシンダケとミソハギなのかは伝わっていない。

平成23年8月14日に取材した奈良市南田原町の民家の在り方。



ミソハギの花を玄関前に飾っていた。

これもまたガキンドサンであるが、箸はミソハギの軸枝であった。

2本ともミソハギの軸枝なのだ。

北白木当家特有の在り方であろうか。

先祖さん、ガキンドサンともカキの葉を置いて手作りのオニギリを供える。

この年は「オハギを作る時間もなかったから今年はとりやめです」と申しわけなさそうに話す奥さん。

オハギを供える際には「ガキンドサンにおましたお茶を撒いていた」と云う。

廊下の下はコンクリート打ち。

この場にお茶を撒けば、跡方が残ってしまう。

だから、今では撒かなくなった。

土の時代だったころはそうしていたと云うのである。



「先祖さんの棚も撮ってや」と云われて記録させてもらった当家の先祖さん迎え。

松明の火は消えたが煙が立ちのぼっていた。



翌朝の14日はオカユ、昼はソーメン、晩は白ご飯を供える。

昔はスイカやマッカも供えていた。

先祖さんに盛った御供をたばって食べていた。

シンダケとミソハギの茎で作った箸でオニギリも食べたと云うのだ。

15日の昼、供えものは近くの川に流す。

流すといっても放り投げるような感じだと云う。

晩は送り火をする。

夜遅く、寝る前に迎え火と同じように松明に火を点け、鉦を打ちながら先祖さんを送る。

「遅いほうがええんじゃ」と云う送り火の際には「いなっしゃれ いなっしゃれ」と云いながら送るそうだ。

(H26. 8.13 EOS40D撮影)

北白木の花観察

2015年03月12日 19時11分42秒 | 自然観察会(番外編)
奥さんがいろんな花を植え付けている前庭。

ひらひらと飛んできたキアゲハはコオニユリにとまって蜜を吸いだした。



ツマグロヒョウモンの♂が花にとまる。

ツマグロヒョウモンの♀は前羽根端の黒紫が目立つので交尾しているときは色彩が区別しやすく、狙い目。



右触角が欠損したラミーカミキリも飛んできた。

夕方近い時間帯は昆虫たちも夕食どきであろう。



紫色の小さな花が咲いていた。

お盆の時期によく見かける花である。

四角い茎はザラザラ感がある。

ギザギザの対性葉は細いなどの特徴をもつ花はヤナギハナガサだ。

(H26. 8.13 EOS40D撮影)