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再び映画の話

2005-01-15 11:04:20 | 映画
  正月に借りたDVDを返して、また借りてしまった。「リクルート」で注目したコリン・ファレルの「フォーン・ブース(02)」とニコール・キッドマンが主演女優賞を受賞した「めぐりあう時間たち(02)」の二本。
  
  「フォーン・ブース」は、コリン・ファレルが高慢で嘘と見栄に凝り固まったゲスな芸能界の宣伝マンを演じている。出演三本目にあたる。電話ボックスに閉じ込められて、狙撃者に翻弄された挙句、群集の面前で懺悔させられる。途切れることなく緊張感を満たし、コリン・ファレルの懺悔の場面は、それこそまったく自然で演技の範囲を超えている。観る人を感動させた。間違いなくコリン・ファレルは、スーパースターになる素材だ。

  もう一つの「めぐりあう時間たち」は、かなり難解な映画で、一回観ただけでは理解できない。DVDのいいところは、求める場面を瞬時に取り出せることで、何回も観る者には便利この上ない。ニコール・キッドマンのほかにメリル・ストリーブ、ジュリアン・ムーアが出演している。いずれも演技の確かな女優たちだ。1923年(大正12年)、「ダロウェイ夫人」を執筆中のヴァージニア・ウルフを演じるニコール・キッドマンは、精神を病んだ人間を繊細な表現力で描き出す。1951年(昭和26年)の何不自由ない中流家庭主婦で「ダロウェイ夫人」を愛読する孤独で自分の居場所を見失っているローラ・ブラウンをジュリアン・ムーアが控えめな演技を披露する、ウルフとは本が接点となっている。2001年(平成13年)、ひと夏の恋人で、いまはエイズで苦しむリチャードの世話をする編集者のクラリッサ・ヴォーンをメリル・ストリーブが、微妙な心理描写を仕草や表情で観客に訴える。ダロウェイ夫人のフルネームは、クラリッサ・ダロウェイで、ヴァージニア・ウルフとの接点がこの名前とレズ傾向の性癖にある。時空を超えて三人の女性が、それぞれのパーティーの準備をする一日を描く。心に残る作品になっている。

  とりわけ心に残る場面は、駅のプラットフォームでロンドンに帰りたいと夫婦喧嘩をするウルフ夫妻。ニコール・キッドマンが断固として言う。「深い闇の底に沈み、一人でもがいている。でもその感覚は私だけにしかわからないことよ。どんな慎ましい患者にも自分のことを決める権利がある。それが人間性の証よ。」夫のレナードが「それじゃロンドンに帰ろう」としぶしぶ認める。そのときのニコールの控えめな笑顔が印象的だ。病めるウルフに対して助けの手を差し伸べたいと思わせるニコールの演技も秀逸である。

  また、ラストシーンでジュリアン・ムーアとメリル・ストリーブは顔を合わせるが、ジュリアン・ムーアの告白に最初は冷ややかな敵意すらみせていたメリル・ストリーブが、同情と共感に変化する様子が少ないセリフで目の表情や顔のしぐさで観るものを捉えて放さない。それにメリル・ストリーブの娘がジュリアン・ムーアに抱擁する場面は「後悔してどうなるの?」といっていたムーアが見せた今こそ後悔しているという表情は涙で画面が曇ったほどだ。

  女性同士のキス場面が三つある。このキスは性的なもので、レズ傾向を示しているのだろうと思っていたが、監督の解説によると一つ目ジュリアン・ムーアが近所の主婦キティとのキスは、絆を結ぶ欲求の現われ。二番目ヴァージニア・ウルフが姉と交わすキスは、姉の全エネルギーを吸い尽くそうとするもの。三番目メリル・ストリーブがサリーと交わすキスは、明らかにレスビアンのもの。私の感想は二つ外れた。

  エンディングにどの映画監督も悩むそうだが、ニコールの次のようなナレーションとともに、ヴァージニア・ウルフの入水の場面で終わる。「レナード、人生に立ち向かい、いかなる時も人生から逃れようとせず、あるがままを見つめ最後にはあるがままを愛しそして立ち去る。レナード、私たちの間には年月が長い年月が限りない愛と限りない時間が」

  「ダロウェイ夫人」を図書館で借りて読み始めたところだ。ヴァージニア・ウルフ本人の写真が挿入されていて、すらりとした痩せ形の体に、透き通るような日傘に手袋、飾りのついた帽子、足首に届くかと思われる長いコートと膝までの長いマフラーを無造作に首から垂らしている。なかなか優雅で素敵なファッションである。それに美人である。写真のピントが合っていないのでややぼやけているが。それでも大人の女性を感じさせる。このヴァージニア・ウルフも好きになりそうだ。

  ニコール・キッドマンの衣装も長めのワンピースで、ラストシーンのメリル・ストリーブの長めの黒いコートに長めのスカーフそれに長めの褐色のイヤリングは当時のファッションを少し取り入れたのかもしれない。実にいい雰囲気だった。愛、生と死、人生というテーマを時間に絡めて描ききった。

  最後に映画評の一つ「巧妙に構築され、まるでプリズムのような屈折光を通して観ているように、3っつの時代を流れるように前後する」ローラ・クリフォード/リーリング・レビュース誌