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月曜日、生実は久美子に電話をした。ありきたりの会話が続いたが、久美子の声にいつもと違う不安と苦悩が混じっているように感じられ
「どうかしたの? なんだか元気がなさそうだね」
「そう? ちょっと疲れているかもしれない。仕事が忙しくて、残業が続いているの」
「そうか。決算期はしょうがないのかなー。いずれにしても体には気をつけて。ただ、どうしているのかなと思って。それじゃ、長電話は嫌われるよね。切るよ」
「ありがとう。また会いましょう」生実は、釈然としなかった。久美子に何かある。
月曜日も火曜日も、晴れて気持ちのいい日が続いた。生実は、午前中はジョギングに出掛け、またもやあの「ダスト」を思い出していた。午後は読書や音楽鑑賞で過ごした。
水曜日は雨で、午後ジムに行き、いつものコースで大汗をかいた。女性の姿もよく見られ、生実の肉体をもの欲しそうに眺め回している。それらの女性の目は、スーパーでバーゲン品をあさる目を連想させる。少なくとも、生実にはそう映る。
帰宅してシャワーを浴び、ジュースを飲んでいると電話が鳴った。
「はい」今は名前を名乗らない。詐欺師がどんな手を使ってくるか分からないからだ。不用意なことは避ける主義だ。
「わたし、さやです」
「やあ、調子はどう?」
「絶好調とはいえないわね。うっとうしい雨では気分は欝よ」
「私はジムにいって一汗かいてきたよ。気分は上々だよ。ところで用件に入ったら」
「わかった。金曜日の件は予定通り決行。わたしの車で、甲府昭和警察まで行き、そこで電気工事のトラックに乗り換える。作業服、ヘルメット、靴、連絡用の小型のトランシーバー、襟に留めて会話が出来るヤツ。それに拳銃やナイフも。大型のアルミ製のスーツ・ケース、ブツを入れるの。警察はわたしたちの会話を傍受するわ。何かあったらいつでも飛び出してくるわ」さやは一気にまくし立てた。
「完璧だ。よく警察を抑えたなー」
「そこは、貸し借りの問題よ」
「わかった。何時ごろ来る?」
「今から行くわ」
「えッ、今から? ちょっと早いんじゃ」
「あっそうか。金曜日のことね。金曜日は朝九時ごろ。今日も行くわ。だって生実さんとは、仕事が終われば二度と会えないでしょう。それに紹介したい人がいるのよ。送別会ってとこね」
「会わせたい人って、誰だい?」
「会えばわかるはずよ。それじゃその時に」さやはさっさと電話を切った。生実は生実で、男嫌いの女は余韻がないと嘆いていた。
三十分ほどでやってきたのは、さやと塚田美千代だった。生実が玄関ドアを開けて一瞬息が詰まったのは、あの写真に写っていた女性だったからだ。東の妻? 一時は殺す相手? 複雑な気持ちで見守っていると
「紹介するわ。塚田美千代さん、生実さんがかかわった東の奥さん」と言うさやだったが、生実にしては、殺した男の妻に会うというのは、居心地が悪い。いくら魅力的であっても、塚田美千代が潜入捜査官であっても、子供と写っている写真が脳裏から離れない。さやは何でも訳知り顔で取り仕切る。ちょっと、癇にさわる。
それでも生実は満面に笑みを浮かべ
「はじめまして、生実清です」と言って会釈する。
「こちらこそ。塚田美千代です」と言って深々と頭を下げた。生実はそんなに丁重にされるとどぎまぎする。それを隠すように
「飲み物は何にします? ワイン? ビール? それともスコッチでも」
「わたしは、ワインをいただきたいわ」美千代は妖艶な笑みを浮かべながら言った。覗いた歯は真っ白だった。生実に一瞬ぶるっと震えるような感触が襲った。
今日冷やしてあるのは、カリフォルニア・ワインのシャルドネで、きりっとした味わいは、誰にでも口に合うはずだ。グラスも冷蔵庫で冷やしてあったので、ワインを注ぐとグラスの縁が曇った。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう」一口飲んで
「うわー、おいしいわ。冷たくて、すっきりしていて喉越しが素敵、生き返るようね」無邪気な美千代に、生実もつい釣られて
「ありがとう。でもわたしがワインを作ったわけではないんですが、ただ冷蔵庫で冷やしただけですから。冷やし具合が良かったと言うことですね」
「そう理屈っぽいことをおっしゃらないで」と言いながら美千代は、生実の腕に手を添えてぎゅっと握った。
生実はそれこそワオーと言いたくなったが、さやを振り返ると、さっさとビールを飲んでいた。それからは、近所のピザ屋の出前をとり、政治や経済、国内の犯罪について、ほとんど無責任な意見を交換して笑い、一切悲しむことはなかった。
午後十時を過ぎたころ、さやは用事があるといって帰っていった。帰り際、生実に意味ありげなウィンクをして。