サイパンで三浦和義の逮捕を聞いて多くの人が、えっ! と驚いたことだろう。ところがわたしは驚かなかった。アメリカの捜査当局は、当然のことをしたと思った。
まだ、全容が不明だが、ミステリー小説の世界で仕入れた拙(つたな)い知識によって、重罪に相当する犯罪には時効がないことを知っていたからだ。
それにしてもこの件を知った日本の元捜査幹部が「まだ、米国は捜査を捨てていなかったのか」と驚いたという。新聞でそれを読んだわたしは、別の意味で驚いた。それは、アメリカの法体系を知らなかったのかということと、事件の被害者をおろそかにしているなということだ。
実は、いま偶然にマイクル・コナリーの「終決者たち」の42頁まで読んだところであるが、この小説は、ロサンジェルス市警が舞台でボッシュ刑事が復職して未解決事件を追うという話のようだ。
この中で市警本部長は言う。「忘れられた声が奏でるコーラス。未解決事件のことを思うと、いつもそのことを考えるのだ。まさに恐怖の館だ。
わが市警最大の恥だ。未解決事件すべてが、被害者の声すべてが、どの事件も湖に投じられた一個の石のようなものだ。あの石で起こった波紋は、時間と人々の間を通り抜けていく。家族や友人や隣人たちのあいだを。
あまたの波紋が起こり、当市警に忘れ去られた声があまたあるならば、われわれは自らを市の警察と堂々といえるだろうか?」と重大な決意とともにボッシュたちに問いかける。
この被害者の声が日本の捜査当局には、届いていない気がする。アメリカの捜査機関が科学捜査の進展とともに、未解決事件の解明に、被害者の視点を重く見て取り組んでいるであろうということは推察できる。そして三浦和義の逮捕は、つじつまが合う。事件の行方を注目するとともに、時効という概念を再検討されるときがくるかもしれない。
2月26日のニュースによれば、1988年5月5日の逮捕状の執行だという。二十年前の逮捕状を使っていることは、新証拠はないと思われる。とにかく逮捕してロサンジェルスに身柄を移したあと、陪審裁判で有罪に持ち込もうという魂胆ではないだろうか。
素人のわたしにはこの程度の推測しか出来ない。いずれにしても執念深く小説中の本部長のように、未解決事件一掃が行われているのだろう。
まだ、全容が不明だが、ミステリー小説の世界で仕入れた拙(つたな)い知識によって、重罪に相当する犯罪には時効がないことを知っていたからだ。
それにしてもこの件を知った日本の元捜査幹部が「まだ、米国は捜査を捨てていなかったのか」と驚いたという。新聞でそれを読んだわたしは、別の意味で驚いた。それは、アメリカの法体系を知らなかったのかということと、事件の被害者をおろそかにしているなということだ。
実は、いま偶然にマイクル・コナリーの「終決者たち」の42頁まで読んだところであるが、この小説は、ロサンジェルス市警が舞台でボッシュ刑事が復職して未解決事件を追うという話のようだ。
この中で市警本部長は言う。「忘れられた声が奏でるコーラス。未解決事件のことを思うと、いつもそのことを考えるのだ。まさに恐怖の館だ。
わが市警最大の恥だ。未解決事件すべてが、被害者の声すべてが、どの事件も湖に投じられた一個の石のようなものだ。あの石で起こった波紋は、時間と人々の間を通り抜けていく。家族や友人や隣人たちのあいだを。
あまたの波紋が起こり、当市警に忘れ去られた声があまたあるならば、われわれは自らを市の警察と堂々といえるだろうか?」と重大な決意とともにボッシュたちに問いかける。
この被害者の声が日本の捜査当局には、届いていない気がする。アメリカの捜査機関が科学捜査の進展とともに、未解決事件の解明に、被害者の視点を重く見て取り組んでいるであろうということは推察できる。そして三浦和義の逮捕は、つじつまが合う。事件の行方を注目するとともに、時効という概念を再検討されるときがくるかもしれない。
2月26日のニュースによれば、1988年5月5日の逮捕状の執行だという。二十年前の逮捕状を使っていることは、新証拠はないと思われる。とにかく逮捕してロサンジェルスに身柄を移したあと、陪審裁判で有罪に持ち込もうという魂胆ではないだろうか。
素人のわたしにはこの程度の推測しか出来ない。いずれにしても執念深く小説中の本部長のように、未解決事件一掃が行われているのだろう。